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元王子と名前

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 俺は薪屋さんではなく、栞屋を営んでいる。客は一人もいないし、客を欲しているわけでもない。生計は狩りと薪割りで立てているが、狩人でも木こりでも薪屋でもない。


「おっちゃん、名前は?」

「人に名前を聞く時は、先に自ら名乗るもんだ」

「俺はリュー」

「俺に名はない」


 父が名付けてくれたエリオットという名前は自ら捨ててしまった。あちこちに俺の手配書は貼ってあったが、父と母の手配書は見たことはなく、恐らく死体が見つかったのだろう。


 俺は自分が愚か者だと気付いた日、父と母にもらったエリオットの名前と王子という身分を捨てて逃げた。王族ならば、もし俺にあの時王族という自覚があったならば、俺は王子として責任を持って処刑されるべきだった。そう思いながら過ごしている。


もう俺に、エリオットを名乗る資格はない。


 国民への被害が小さくて済んだのは、全て聖女の加護のおかげだった。王子であった俺が多くの被害を生み、国民を苦しめ、俺が蔑ろにしていた聖女が手を差し伸べたのだ。王族ではなく聖女が、加護の力だけではなく慈悲の心で国民の生活を救った。それが事実だ。年月が経って、俺は日々それを感じていた。


「なんだよ、そんなのずりーだろ」

「本当に名はないんだ。お前は愛されているから名前をつけてもらえた。リューか。かっこいい名前じゃないか」

「あぁ、そうだろ!俺の名前はかっこいい」

「この大きな街にはな、名前もつけてもらえなかった孤児や、自分の名前を忘れてしまうほどずっと一人でいるやつ、自ら名前を捨てたやつもいる。名前があるのはとても幸せなことなんだ」


 何年も名前がなくても困らない生活をしていた。小僧に聞かれてその事実を認知すると、俺は今まで、誰の世界にも存在していなかったのだと気付いた。俺はあの日からずっと死んでいたのだ。


「うーん…そうか。でも、名前がないとおっちゃんを呼ぶことができない。不便だ」

「おっちゃんでいいじゃないか。おっちゃんはココに一人しかいないんだから」

「!?!おっちゃん天才だな!」


 それからリューはよく森に入ってくるようになった。そして、いつの間にか最初の日にいた弟のショーンも一緒に連れて来るようになり、今では二人はうちの常連客となった。だがもちろん売り上げはない。


「なぁおっちゃん。栞屋っていうのは何屋なんだ?この木の板を売ってのか?」


 小僧達はやっと、この小屋が店だと気付いたらしい。俺は自慢げに栞を持ち上げた。


「お前達は字は読めるか?」

「んー俺はあんまり読めない」

「僕は全く読めないよ」


 ショーンの方は声が小さくてまだ俺が話しかけると少し怯える。リューが言うには、ショーンは人見知りで怖がりらしい。俺のことがまだ怖いのだ。俺の目の前で兄と永遠とでんぐり返ししてる位なのに、子供というのは本当に不思議なものだ。


「栞はな、分厚い本の中のこのページまで読みました!って挟んでおくものだ。次に本を開いた時にすぐに続きから読めるようになって便利なんだぞ」

「ふーん」


 本を読めない大半の平民にとっては必要のないもの。高級品である本は一冊で半年分の給料になる。俺が集めた本も10冊だけだ。それでもこの本が俺の唯一の財産となっている。子供が興味を持たないのも当たり前のことだ。いや、大人の大半は一生使わないものだろう。


「でもこの栞、綺麗だね」


 ショーンは押し花の貼り付けられた木の板を見つめている。必要のないもの『でも』興味はあるようだ。


「お前らに一枚ずつやる。本を読んでやるからこっちにこい」


 俺は難しい歴史書の写字本ではなく、活版印刷の大衆向けの本の一つを本棚から選んで広げた。二人は初めての本の中身が気になってすぐに駆け寄ってきた。


 俺の選んだ『神の教え』はこの国で一番普及している宗教教本だったが、小僧達はやはり難しかったらしく、いつの間にか俺の両脇からは寝息が聞こえていた。小僧達が手に持った栞二枚をそのページに挟み込んで、俺はそっと次のページをめくった。


「おぉー!俺たちここまで本を読んだんだ!」


 栞が差し込まれた本を見て、すぐに寝てしまった小僧達は喜んだ。次の日も寝てしまった小僧達の真ん中で静かに栞を挟む。そんな日が続き、ショーンも俺に怯えることはなくなっていた。


「おぉーい!おっちゃーーん!木の実持ってきたぜー」
「おっちゃーん!早く開けてー!」


 俺が街から帰ると店の前で子供達が待っている。当然のように店の前にはベンチや日除けが増えていった。そして、俺は物語本と呼ばれる御伽噺を集めた本を手に持っている。子供の頃自分が読んでいた本ばかりが本棚に増えていった。


 俺には名前が出来ていた。親がつけてくれた名前ではなかったが、誰かが俺をそう呼べば、それが俺の名前となるのだと知った。俺は今、この世界に確かに存在しているのだ。
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