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公爵の結婚
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アイナス帝国では、王族から臣籍降下したローラン公爵の結婚が報じられていた。
お相手は先日亡くなったワイニー伯爵の末娘、ハリエット。
社交界にも顔を知る者はいなかったのだが、ワイニー伯爵が病に臥せっていた10年前から領主代行として腕を振るっていたという記事が掲載された。
北の雪深い領地は農作物は夏の短い間しか育たず、領民は冬の暖を取る薪とわずかな食料を分け合い、長い冬を越えるのがやっとで、税収は少なく伯爵家といっても貧しい暮らしを余儀なくされていた。
ワイニー家の長男と次男は流行病で成人を前に同時に亡くなり、当主も同じ病で床に伏せってからは姿を見せる事はなくなり、ワイニー伯爵家の話題が上がる事は長い間なかった。
また、ローラン公爵の臣籍降下も彼がアカデミーを卒業せず行われ、与えられた領地も、今回の結婚相手であるワイニー伯爵家の隣の地である北方の辺境地であった為に、当時は事実上の廃嫡ではないかとの噂で盛り上がった。
彼の祖父である皇帝陛下は事実上の廃嫡などではなく、領地を発展させる為であると明言していたが、それでも苦しい地に孫を送るという決断は、ローラン公爵への社交会からの追放と同義と捉えられていた。
10年間忘れられていた両家の結婚はロマンチックに報道され、また、二つの領地が安定した税収を獲得している現状も踏まえて報じられると、新婚の2人の元には縁を求めて夜会への招待状が山のように届いた。
「ハリエット、招待状を暖炉に入れるのかい?」
「ええ、ただ捨てるなんてもったいないでしょう?屋敷を暖めて貰おうかと」
まだ秋だというのに小雪の舞いだしたこの地では薄い布地の美しいドレスは不要だった。
ハリエットはコブラン織の上着を羽織り、招待状を読み終わると暖炉へと放り込んだ。
「じゃあこの新聞も放り込もうか」
「ふふっ。雪の中で迎えた春?面白い記者ね」
ハリエットは長いプラチナブロンドの髪を耳にかけると、差し出された新聞を受け取る。
「ローラン公爵が北の地ゴードランへと追いやられ、隣の領地であるワイニー伯爵の代わりにグスチ地区を収めるために奮闘する体の弱いハリエットに心打たれた…あながち間違ってはいないかな?」
「そう?じゃあ私はどうして結婚することにしたのか、次の記事に期待しようかしら」
ハリエットは新聞に目を通すとニッコリと笑ってから暖炉に放り込んだ。
「どう書いてくれるのか楽しみだね」
ローラン公爵はハリエットの頬に口付けるとハリエットの隣へと腰掛けた。
暖炉の前の2人掛けの小さなソファは、2人のお気に入りの場所だ。
「後悔はしてない?」
「後悔?」
腰に手が回されて顔を上げたハリエットの膝の裏に、ローラン公爵がもう片方の手を入れると、ハリエットの体は簡単に宙に浮いた。
咄嗟にハリエットは彼の首に手を回して「もう」と小さく抗議の意を示した。
彼の膝の上に座らされたハリエットは彼の癖のある髪を一撫ですると、再び首に手を回して彼の黒い目を見つめる。
「私と結婚して良かったのかなと…少し不安になったのさ」
「やだわ。あなたこそ、私なんかと結婚して後悔しているんじゃないの?」
「まさか!私は今とても幸せだよ。君がいる限りこれから先もずっと」
「私もよ。ずっとこうしていたいくらい」
ハリエットが彼の首元に顔を埋めると、ローラン公爵もハリエットの腰に回した腕に力を込めた。
「新婚の私たちを邪魔する者はいないさ」
ローラン公爵邸に引っ越した2人の仲の良さは、使用人たちの心を温めていた。
前ワイニー伯爵が亡くなり、喪中であるハリエットの結婚は、彼女が当主になり、領地を盛り上げるため許された結婚だった。
ローラン公爵領であるゴードラン地区とワイニー伯爵領であるグスチ地区はそのまま2人で収めていくことになる。
ハリエットはローラン公爵夫人であると同時にワイニー伯爵でもある。
帝国では相続の形で爵位を受け継ぎ、多い者は5つの爵位を持つ者もいる。その全てに領地も含まれる事は稀であるが、ワイニー伯爵の地位も2人の子供が引き継いでいくことになるだろう。
2人の結婚はそれぞれの領民にとっても喜ばしいことだった。
「きっと領民も君のウェディングドレス姿を見たいだろうね」
「そうね…でも少しだけよ。この髪は目立つから」
結婚式も行わず、教会で2人きりで誓いを交わしただけで、その行き帰りの馬車からほんの少しだけ手を振っただけのお披露目だった。
正式に領民の前に顔を出しておらず、身体が弱いと噂を利用してハリエットは徹底的に身を隠していた。
ウェーブのかかった髪に空気を入れるように手を入れると、ふわりと髪の毛が靡く。
「私はこの髪が好きだよ」
「あら偶然ね。私もこの髪は好きなの」
「じゃあ僕の髪は?」
「あなたの癖っ毛も好きよ」
「なら僕もこの髪が好きかな」
2人はベッドに横になった後もお互いの髪の毛を触り合った。
ローラン公爵が雪の中ハリエットの元へ何度も通い、心を通わせるまでに10年。
初めてワイニー家で対面した時にはハリエットは泣き崩れ、泣く以外の感情を無くし、領地の為だけに生きているようで、その姿に心臓を殴られたような衝撃を受けた。
彼女は1人でも生きていける強さを持っていたが、支える誰かは必要だった。
ローラン公爵は彼女の友人として決して側を離れなかった。
「ねぇ、名前で呼んで」
「ん?アガトン?」
「クロッカ、今夜はそう呼びたい…」
「今夜だけよ」
30歳を超えた身体の弱いハリエット伯爵令嬢が公爵家に見染められた。
2人の結婚はクシュリプト王国へもアイナス帝国のロマンスとして洩れ伝わっていった。
お相手は先日亡くなったワイニー伯爵の末娘、ハリエット。
社交界にも顔を知る者はいなかったのだが、ワイニー伯爵が病に臥せっていた10年前から領主代行として腕を振るっていたという記事が掲載された。
北の雪深い領地は農作物は夏の短い間しか育たず、領民は冬の暖を取る薪とわずかな食料を分け合い、長い冬を越えるのがやっとで、税収は少なく伯爵家といっても貧しい暮らしを余儀なくされていた。
ワイニー家の長男と次男は流行病で成人を前に同時に亡くなり、当主も同じ病で床に伏せってからは姿を見せる事はなくなり、ワイニー伯爵家の話題が上がる事は長い間なかった。
また、ローラン公爵の臣籍降下も彼がアカデミーを卒業せず行われ、与えられた領地も、今回の結婚相手であるワイニー伯爵家の隣の地である北方の辺境地であった為に、当時は事実上の廃嫡ではないかとの噂で盛り上がった。
彼の祖父である皇帝陛下は事実上の廃嫡などではなく、領地を発展させる為であると明言していたが、それでも苦しい地に孫を送るという決断は、ローラン公爵への社交会からの追放と同義と捉えられていた。
10年間忘れられていた両家の結婚はロマンチックに報道され、また、二つの領地が安定した税収を獲得している現状も踏まえて報じられると、新婚の2人の元には縁を求めて夜会への招待状が山のように届いた。
「ハリエット、招待状を暖炉に入れるのかい?」
「ええ、ただ捨てるなんてもったいないでしょう?屋敷を暖めて貰おうかと」
まだ秋だというのに小雪の舞いだしたこの地では薄い布地の美しいドレスは不要だった。
ハリエットはコブラン織の上着を羽織り、招待状を読み終わると暖炉へと放り込んだ。
「じゃあこの新聞も放り込もうか」
「ふふっ。雪の中で迎えた春?面白い記者ね」
ハリエットは長いプラチナブロンドの髪を耳にかけると、差し出された新聞を受け取る。
「ローラン公爵が北の地ゴードランへと追いやられ、隣の領地であるワイニー伯爵の代わりにグスチ地区を収めるために奮闘する体の弱いハリエットに心打たれた…あながち間違ってはいないかな?」
「そう?じゃあ私はどうして結婚することにしたのか、次の記事に期待しようかしら」
ハリエットは新聞に目を通すとニッコリと笑ってから暖炉に放り込んだ。
「どう書いてくれるのか楽しみだね」
ローラン公爵はハリエットの頬に口付けるとハリエットの隣へと腰掛けた。
暖炉の前の2人掛けの小さなソファは、2人のお気に入りの場所だ。
「後悔はしてない?」
「後悔?」
腰に手が回されて顔を上げたハリエットの膝の裏に、ローラン公爵がもう片方の手を入れると、ハリエットの体は簡単に宙に浮いた。
咄嗟にハリエットは彼の首に手を回して「もう」と小さく抗議の意を示した。
彼の膝の上に座らされたハリエットは彼の癖のある髪を一撫ですると、再び首に手を回して彼の黒い目を見つめる。
「私と結婚して良かったのかなと…少し不安になったのさ」
「やだわ。あなたこそ、私なんかと結婚して後悔しているんじゃないの?」
「まさか!私は今とても幸せだよ。君がいる限りこれから先もずっと」
「私もよ。ずっとこうしていたいくらい」
ハリエットが彼の首元に顔を埋めると、ローラン公爵もハリエットの腰に回した腕に力を込めた。
「新婚の私たちを邪魔する者はいないさ」
ローラン公爵邸に引っ越した2人の仲の良さは、使用人たちの心を温めていた。
前ワイニー伯爵が亡くなり、喪中であるハリエットの結婚は、彼女が当主になり、領地を盛り上げるため許された結婚だった。
ローラン公爵領であるゴードラン地区とワイニー伯爵領であるグスチ地区はそのまま2人で収めていくことになる。
ハリエットはローラン公爵夫人であると同時にワイニー伯爵でもある。
帝国では相続の形で爵位を受け継ぎ、多い者は5つの爵位を持つ者もいる。その全てに領地も含まれる事は稀であるが、ワイニー伯爵の地位も2人の子供が引き継いでいくことになるだろう。
2人の結婚はそれぞれの領民にとっても喜ばしいことだった。
「きっと領民も君のウェディングドレス姿を見たいだろうね」
「そうね…でも少しだけよ。この髪は目立つから」
結婚式も行わず、教会で2人きりで誓いを交わしただけで、その行き帰りの馬車からほんの少しだけ手を振っただけのお披露目だった。
正式に領民の前に顔を出しておらず、身体が弱いと噂を利用してハリエットは徹底的に身を隠していた。
ウェーブのかかった髪に空気を入れるように手を入れると、ふわりと髪の毛が靡く。
「私はこの髪が好きだよ」
「あら偶然ね。私もこの髪は好きなの」
「じゃあ僕の髪は?」
「あなたの癖っ毛も好きよ」
「なら僕もこの髪が好きかな」
2人はベッドに横になった後もお互いの髪の毛を触り合った。
ローラン公爵が雪の中ハリエットの元へ何度も通い、心を通わせるまでに10年。
初めてワイニー家で対面した時にはハリエットは泣き崩れ、泣く以外の感情を無くし、領地の為だけに生きているようで、その姿に心臓を殴られたような衝撃を受けた。
彼女は1人でも生きていける強さを持っていたが、支える誰かは必要だった。
ローラン公爵は彼女の友人として決して側を離れなかった。
「ねぇ、名前で呼んで」
「ん?アガトン?」
「クロッカ、今夜はそう呼びたい…」
「今夜だけよ」
30歳を超えた身体の弱いハリエット伯爵令嬢が公爵家に見染められた。
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