クロッカ・マーガレット・ハイランスの婚約破棄は初恋と共に

佐原香奈

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婚約破棄

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ベイリー•ハワードは、重い腰を上げフェリペ殿下の執務室へと向かった。
アルベルトの名前での面会要求であったが、こちらから行くと伝えて指定されたのが殿下の執務室なのだ。
これはただの現状報告では済まないだろうことは明らかだった。


「ベイリー、お前だけ入れ」

待ちくたびれたかのようにドアの前に立っていたのは護衛だけではなく、フェリペ本人だった。
秘書を帰らせ、挨拶をする間もなくドアを潜ると、誰もいない執務室があった。
その様子に思わず眉を曲げる。


「あぁ、悪い。今日は奥の部屋へ案内する」


不信感を読み取ったように、フェリペはベイリーを振り返った。


「奥、とは…?」


目の前に広がるのは、少しばかり広さのあるごく普通の執務室だ。
窓があり、壁のどこにもドアはない。


「これから目にすることを他者に漏らすことは許されない。いいね」


「は、はい…」


会話の最中にも部屋の奥へと進むフェリペの後ろで戸惑いながらも返事をしたのは、覚悟が出来ていたからではない。
それでも、長く王宮に勤め、王家が信用するに値すると信じているからこそ漏れた返事だった。

フェリペは最初から切れ目が入っていたのだろう毛並みのしっかりとした絨毯に手にかけ、さらになんの変哲もないと思った床板を簡単に取り外し、やっと現れた取手を持ち上げると、灯りが階段を照らす空間が見えた。

「先に行ってくれ」


本棚の下を抜けるように続く階段は、本来の使い方が出来る程高さのある空間にはない。
ベイリーは未知の空間を腹這いになって降りていった。


やっと階段を本来の形で降りられるようになったはいいが、狭い階段はいつまでも続いていた。
それでも誘われるように下へ下へ足が進んでいた。


途中、ドアが一枚あったが、決して開かなかった。
漸くフェリペが追いついてきて、足元を照らされると、壁につけられた灯りだけでは気付けなかった行き止まりの扉が見えた。

何度壁を折り返したか分からないが、その距離からここが地下であることだけは想像がついた。


「ベイリー、そのドアだ」


押し出すように目の前のドアをゆっくりと開けると、淡く照らされていただけの薄暗い空間からは眩しく感じる程の光が漏れた。


「あぁベイリー、すまなかったね」


まず声をかけてきたのはアルベルトだった。
目が慣れてくると、その奥には第一王子であるユーエラン殿下の姿が見えた。
この狭い空間に第一王子と第二王子、そして次期宰相に最も近いと言われているアルベルトが揃うと言うことが、これから明かされる内容に恐怖すら覚える。


「アルベルト、それからユーエラン殿下久方振りにございます」


「ベイリー、挨拶はいい。こちらへ座ってくれ」


「はい」


窓もなく殺風景な煉瓦で覆われただけの空間は少し異様にも思えた。
中央に置かれた大きなテーブルには大陸が描かれた紙が広げられていた。


「フェリペ、お前執務室に戻っていろ」

「やっぱりそうなるか…ここまで降りてきたのに酷い話だ」

「誰もいないことが分かれば困るのはお前だろう」

「はいはい。今は仕方ないね」


ドアの前に立っていたフェリペはすぐに薄暗がりの階段へと向かっていた。


「クロッカ・ハイランスは恐らく殺されていない」


ドアの外のフェリペの足音を聴きながら今最も知りたかった情報が齎されてベイリーは思わずユーエランを見上げた。


「それは本当ですか」

「憶測の域は出ない。しかし、カルビン補佐官の遺体が東のエナ村で見つかった」

「南ではなく東…」

アルベルトが指差すエナ村はとても小さく、名前を聞いたのは初めてだった。



「襲撃されたハフマン伯爵領からマリジェラに最短距離で抜けるには、王都より西側を行くしかない。そして南のカーソン山を超えるのが一番早いはずだ。それでもどんなに急いでも2週間はかかる。今回の犯行声明を届けるのに使われたのは鳥だ。それを考えてもこの道以外にこの短期間で移動できる方法はないだろう」


「目的のクロッカだけ連れて行かれたのでは?」

「もちろんそれも考えられる。しかし、2日前にクロッカをマリジェラに連れ帰ったとは到底思えない。カーソン山はこの1週間、濃霧や雨だ。まともに身動きが取れる状態だったとは考えられない」

「どこからそんな情報を…」


マリジェラから犯行声明の書かれた紙をくくりつけた鳥を放ったのは2日前だろうというのにも納得がいく。
問題はそこではなかった。
詳しい天気を調べるのに人を派遣したとしても到底戻って来られるはずもない。王都からでも1週間はかかる道のりだ。


「私の協力者は各地にいる。たとえばこのカーソン山の麓の村、それから中腹にある山小屋だ。必要な時は情報を得られる」


当たり前のように指差すアルベルトに頭痛すら覚えた。
彼は一体この国に何人の協力者を持っているのかと考えれば恐ろしくなる。


「カルビンは殺されたのか?」

「あぁ。背中を斬られていた」

「そうか…殺されたのはいつ頃だ?」

「3日前と推察される」


少なくとも追手は東に行っていた。
それも国境の近くの村で、王都から大きく離れているわけでもない地だ。


「助けられる命だった…」


「そうだ。しかも一つ疑惑が出てくる」


ユーエラン殿下がエナ村に置かれた手でトントンと音を立てる。


「このエナ村へ行くのに王都の外れを抜けたのではないか…とね」



王都の厳重な警備を抜けて東へ逃げる必要があったと言うならば、それはこの国にまだ大きな膿が残っているということだ。
崩れ落ちた保守派にまだ仲間がいたのか、いや、もっと中枢に力をかけられる人物でないとそれは不可能だ。


「殿下、まさか…」


この部屋へ連れてこられたのは、疑いをかけられたのかと頭を過ったが、すぐに別の考えが浮かんだ。
ここにいる者以外信用するなと言われているのだ。
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