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saint

貴族と平民

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翌朝、ハーベストは着の身着のままという装いでイシュトハン邸を訪ねてきた。
寝癖はついているし、服も簡素なシャツ一枚だった。


「サリー様がいないことに気付いたのが、今朝?おかげで私たち三人で予定外にゆっくりと過ごせました。お礼を言わなければなりませんね」


玄関ホールでそう詰め寄ったのが予想外にもリリィだった。

帰宅すれば気付いて連絡を入れてくるかと思えば、朝まで気付かないとはあまりにもお粗末と私たちは考えている。
もし昨日誘拐されていたら、彼は朝までそれに気付かなかったということだ。
どこまでも遠くへ逃げられる充分な時間だ。


「夜にサリーだけになる家で、強盗が入ったらどうしますか?彼女は男爵令嬢。身代金を考えれば十分に誘拐もあり得る話ではありませんか?ハーベスト様、どう思います?」


これは男爵家に伝えたら破談になる可能性だってある重要なことだ。
昨日は少しだけ新居を見たが、立派な佇まいの邸宅で、法服貴族なんかよりよっぽど大きな屋敷だった。
けして資金がないわけではない。


「それが…今はまだ環境が整っておらず…」

「整っていないって、サリー様の家からの使用人たちは断ったと聞きましたわ。理由をお聞きしても?」


話は進むが、ここはイシュトハン家の玄関ホールである。
執事に侍女、騎士に囲まれたハーベストの顔は青い。


「平民の習慣では、嫁を迎える家が全てを準備します。昔は女性側が全て用意していた時代もありましたが、今は男性側がどれだけの条件を用意できるかによって婚姻が決まる時代です。貴族の面倒を見れる使用人の確保がこれ程難しいとは思っておらず、苦労をかけているのが現状です…」


サリーは最後まで口を挟まないという約束をしてあり、彼を庇う事はない。
サリーに見下ろされ、ハーベストの顔は益々白くなったように感じた。


「貴方はプライドとサリーの安全とどちらが大事なのかしら?」

「もちろん彼女の安全です!」

「なら、どうして家に帰ってすぐにサリー様がいないことに気が付かないのですか!本当に貴方は夜に帰ったのですか!?」


リリィの声が玄関ホールにこだまするようだった。
本当に怒っている貴族女性というのは迫力がある。


「後悔しています…最近は夜遅くに帰ることもあって、顔を見たくても起こしてしまったら悪いと、夜に彼女の部屋を訪れることもありませんでした。今朝、いつものように彼女の部屋を開けて、手紙を見るまで生きた心地がしませんでした…」

「呆れた。後から後悔しても失ったものが戻る事はありませんよ。お帰りください」

「あっ…待って!サリー!」


クロエはハーベストを簡単に追い出すと、サリーを抱きしめた。


「大丈夫。きっとうまくいくわ」


リリィは持っていた扇子が軋むまで強く握っていた。
許せないと思っているのは、クロエだけではなかった。


財産を築き上げたとはいえ、平民に貴族の常識を理解しろというのは難しいのは分かっている。
それでも、まだ彼女は結婚前の男爵令嬢だ。
しかも、男爵と言っても一代限りの名誉貴族、法服貴族ではなく、侯爵家家門の一つで、領地も与えられている世襲貴族。
彼が帰ってくるまで使用人もいない家で一人でいた時間を思うと、こちらが泣けてきそうなほどだ。
彼女は魔法が得意なので最低限の身は守れるとは思うが、絶対ではない。


男爵家も平民に嫁に行かせるのに充分な持参金と、不自由がないように使用人も送ったはずだ。
その意味も理解せずにそれを断っていたなんて思いもしていなかった。
商家の使用人とはレベルも違えば求めているものも違う。
結婚するまではもちろん、結婚してからも彼女が男爵令嬢であるこもはこれからも変わらないのだ。
駆け落ちして平民になったような貴族令嬢と同じ様な扱いが許されるはずもない。


「私も悪かったんです。使用人は私を守る為だと言えば、彼を信頼してないかのように聞こえるかと思って言えずにいたんです。平民に嫁ぐのだし、慣れなければならないと思って…」


不安な夜を思い出したかのように泣くサリーを気遣いながら、私たちは部屋に戻った。


「後は男共が説教してくれるでしょう」


朝日も完全に昇っていない中起こされたフリードは、サリーの話を聞くと信じられないと言ってもう一度初めから話を聞きたいと言った。
ハーベストが訪ねてくるよりも早くイシュトハン邸へ転移してきたマグシスは、よくあるトラブルの一つだと言っていた。だが、決して許してはいけないトラブルだとも考えている様で、一から叩き直してくれるそうだ。


高位貴族から受ける説教は、平民の彼には少し気の毒とも思うが、ハーベストだけではなく、実家の方も考え方を変えることが出来なければ、きっとこの先苦労するのはサリーだけになる。


心を鬼にして簡単にハーベストにサリーを渡す気はなかった。
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