サフォネリアの咲く頃

水星直己

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第四章

[第59話]窮地

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デュークは再び、館の離れに寝かされた。
激しい頭痛の中でノルシュの死をぼんやりと確認したまま、現状がまだ把握しきれていない。

(…俺が、万全だったら…)

悔しさに顔を歪めると、その額に優しく手が乗せられた。

「……サフォ…」

薄く目を開けた先には、赤い瞳が心配そうに覗き込んでいる。

(…泣いていた…のか…?)

僅かに腫れている目の周りを気にかけ、手を伸ばそうとするが、それは届かなかった。
額から伝わってくる癒しの力に、デュークは眠りに落ちていった。


「ノルシュの遺体は、馬車に安置した。聖殿到着までに、その形が保てる保証は無いが…」

ヤヌの母屋の一部屋を、蒼の騎士団の詰所として借り受けたルシュアの元に、マーツから報告が上がる。
ルシュアは静かに頷いた。
そこへ、表情を曇らせたキシリカがやってきてた。

「離れの方に避難するよう伝えたのですが…。エルジュが、ノルシュの傍に居たい…と」

その言葉に、窓から覗く馬車に視線を向けたルシュアは、小さく息を吐いた。

「今は、そっとしておいてやるのがいいだろう…。その代わり、何か状況が変わる時は、エルジュを引きずり出してでも避難させてほしい。トッティワ、ワグナ、二人に頼む…」

「…解った」

ルシュアの言葉に躊躇しながら返すワグナの傍らで、トッティワは力強く頷いた。

「任せておけ。…まぁ、このまま緑の騎士団の応援が来るまで、『影』の結界薬が保てばいいがな…」

対象物が大きく、充分な結界薬の量に達しなかった為、その壁は通常より薄く張られている。
封じ込められている『影』の様子を度々伺いながら、羽根人たちは獣人族と今後の作戦を練ることにした。

母屋の主賓室にヤヌと村の役人たち、それからトワも集まった。
羽根人からは、騎士団、天使団、術師、治療班の各代表が揃う。
これまでの経緯を改めて説明したルシュアが、今後の話を切り出した。

「…まず、リゾルの村の皆には、即刻この村から避難してもらいたい」

「…村から……」

「緑の騎士団が来てから大掛かりな戦いになった時、この場所は完全に巻き込まれる。今ある結界もこれ以上の継続は難しく、完全な保証が無い…」

予想通り、戸惑う獣人たちに理解してもらえるよう、ルシュアは地図を広げて言葉を続ける。

「ここから北上した連峰の麓に、大闇祓い用の第五待機所がある。そこに我々の仲間が控えている。…まだ、こちらの事情は知らないとは思うが…。そこに数日の間は留まれるだろう」

ルヒトとエンドレの顔を浮かべながら、ルシュアはその場所を指示した。

「村を捨てる?のか…?」

「俺は嫌だ!」

「我々の手で、ここまで開発したこの村を…」

獣人族の役人のひとりが苦々しく口にすると、他の者も嘆きの声を上げる。
それを聞きながら、トワは唇を噛んだ。
ヤヌが皆を黙らせるように片手を挙げる。

「致し方あるまい…。ここに我々が残ったところで、どうにもならん。生き延びて命ある限り、村はまた再建できる…」

ヤヌの言葉を渋々と受け入れるように、皆静かに頷いた。
ルシュアは再び口を開く。

「我々騎士団は、村の住民たち全員の避難を補佐し、それが完了したら、天使たちの安全確保に努める。先ほど、ヤヌ殿に頼んで、荷馬車を二台ほど分けてもらった。我々の馬車と合わせて三台。そこへ天使たちと、動けない騎士を乗せ、『影』からできるだけ遠くへ移送する」

残っていた二台の馬車のうち、ここに到着するまでに一台はもう使い物にならなくなっていた。
術師代表で参加していたゴルディが一歩前に出る。

「ルシュア様、我々術師はどのような配分に…?やはり二名ずつ…」

「いや、術師も癒しの天使もここに残る必要はない。全員避難してくれ」

「え?」

驚くゴルディに、センゲルが苦笑した。

「残られても、我々には護り切る自信が無いんだ。察してくれ…」

「で、でも、それでは…」

癒しの天使を代表して会議に参加していたナルゲールが、戸惑いながら反論する。
騎士には騎士の誇りがある様に、癒しの天使にも誇りはある。
これから危険な闘いに赴く騎士たちが怪我をし、その処置が一刻を争う場合、その場に居合わせられず、癒しの天使と言えようか…。

しかし、先ほど見たあの『影』の攻撃網の中、仲間たちに「自身の身を守りながら、騎士たちを補佐しろ」と言える筈も無かった。
その気持ちを汲み取ったクーガルが、俯き涙ぐむナルゲールの肩を叩いた。

「案ずるな。これ以上、犠牲者は出さない。緑の騎士団から応援が来れば、彼らの備えにも助けられるだろう。計画は以上だ。これより、村の住民たちの避難に取り掛かってくれ」


ルシュアは会議を締めくくると、休む間もなく怪我人たちの様子を見に行った。
離れの奥には、眠り続けるミハナと、それに付き添うようにマヌルカとリンシャナが居た。
その傍にはリカルアも座っていたが、耳が聞こえにくいため周囲の様子が気になるのか、緊張を漂わせ、休もうとする様子は無い。
連峰を脱出する際に気分を悪くしたリアンジュ、スーラウ、ユヒネが、互いに寄りかかるようにして休んでいる。
彼女たちの世話は、癒しの天使と共に、キシリカとトハーチェが担当していた。
キシリカはルシュアに気が付くと「こちらは問題ない」というように頷いて見せた。
ルシュアも頷き返すと、天使たちの向かいに居る騎士たちに視線を移す。

部屋の一角に横たわっているデュークの傍にはサフォーネが付いていた。
その隣にはシャンネラも眠っている。
更にその隣にはトマーク、ミゼラが肩を落として座っており、キューネラは反対側の隅で膝を抱えて蹲っていた。
ルファラの姿が見えなかったが、負傷したのは指だけだ。他の騎士に何かの用事で借り出されているのかもしれない。

話がまともにできるのは、トマークとミゼラくらいだろうか…。
ルシュアが歩み寄り、今後の計画を打ち明けると二人は瞳を見開いた。

「俺も…俺も残ります!怪我をしたのは腕だけです。戦いに参加できなくても、皆の補佐くらいできます!」

「…お、俺は…。いや、俺だって!片足だけで、あとは翼を使えば何とか…」

食らいついてくる二人にルシュアは静かに微笑んだ。
その気持ちは汲んでやりたいが、これ以上犠牲者を出さない為にも、彼らには逃げてもらわねばならない。

「ならばその気持ちで、一緒に避難する仲間を護ってやってくれ。本当なら、馬車を操る騎士を回したいところなのだが…お前たち二人と…あとはルファラに任せたいと思っている」

「!…わ…解りました…」

ルシュアの考えを汲み取ると、トマークは諦めたように俯きながら唇を噛んだ。
ミゼラは込み上げてくる涙を拭いながら静かに頷く。
理解してくれた二人にルシュアは安堵すると、こちらのやり取りを見ていたサフォーネに向き直った。

「サフォーネ、デュークの様子はどうだ?シャンネラも。二人は大丈夫か?」

サフォーネはこくんと頷くと、ルシュアの元に膝を進め、擦り傷だらけの肌に手を翳した。
温かな力が流れ込んでくる。
その力に衰えはないようだが、サフォーネの見た目には疲労が溢れていた。

「…ありがとう。だが、私は大丈夫だ。デュークの様子が落ち着いたのなら、お前も少し眠った方が良い」

ルシュアはサフォーネの手を避けると、その頭を優しく撫で、静かに立ち上がった。
その気配にキューネラの肩がぴくりと動く。
ルシュアが近づいてくるのを察すると、蹲った体を更に縮こませた。

「…キューネラ」

名前を呼ばれたキューネラの体が軽く跳ね上がった。
ルシュアはその傍に膝を付くと、静かに語り掛ける。

「恐怖を感じることは恥ではない。だが、騎士として後悔だけはしないよう、自分のやるべきことを考えてくれ…。お前は皆と一緒に避難し、まともに動けないトマークたちの補佐をしてほしい。頼むぞ?」

それだけ言うとルシュアは立ち上がり、館を出て行った。
キューネラはおずおずと顔を上げてその背中を見送ると、耳に残るルシュアの言葉を噛み締めていた。


離れから出てきたルシュアのもとに、ミガセとムガサが駆け寄ってきた。

「村の住人達の避難準備が整いました」

「彼らの希望で家畜も伴うため、迅速な移動は難しく思われますが…」

「そうか、解った。とにかく、我々から離れられれば、大丈夫だろう…。『影』の一番の狙いは彼らではないからな…」

ルシュアはそう言うとトワを探した。
並ぶ馬車の合間、村にとって重要な穀物の種や、非常用食糧の積荷を点検している姿を見つけて歩み寄る。

「…トワ」

「…!」

今までに見たことのないルシュアの深妙な表情に、トワは思わず目を逸らした。

「何だよ…。別にこうなったのはお前たちのせいじゃないし、詫びなんて必要ないからな。ましてや遺言なら益々受け付けねぇぞ?」

乱暴に放つ言葉に、トワの目にはどれだけ自分が疲弊して見えるのだろうと苦笑する。

「死ぬ気は更々ない。手間を掛けさせるつもりは無いから安心してくれ」

ルシュアはそう言うと、手紙と一本の羽根をトワに差し出した。



「すまないが、第五待機所に着いたら、ルヒトという人物にこれを渡してくれないか」

「……ちっ。…やっぱ遺言の類か…」

「そうではない。…そうではないが…これでは、そうとも言いきれんな…」

ルシュアは力なく笑うと、トワの手を取りそれを握らせた。

「とにかくこの状況と、原因と思われる案件を纏めてある。ルヒトに渡せば何かしか手立てを考えてくれるはずだ」

トワがそれを受け取ると、ルシュアはその肩を強めに叩いた。

「道中気を付けて行ってくれ」

「…おい。あいつには…あの、頭に翼のあるちびには何て言えばいい…」

去ろうとする背中にトワが言葉を投げかけると、ルシュアは振り向いた。

「アリューシャには……いや、必ず帰るんだ。伝えることは無い…」

踵を返すと再びルシュアは歩き出した。
その後ろ姿には憂いなどなく、力が漲っている。
トワは少しほっとすると、手にした手紙と羽根を懐にしまい、馬車に乗り込んだ。

程なくして、リゾルの村の住人たちは村を去っていった。


ルシュアが館の方へ戻ると、続けて天使たちの避難準備が始まっていた。
その中には、怪我人用の馬車に運び込まれるデュークの姿もあった。
よく眠っている様子にルシュアは胸を撫でおろす。
ここで目覚められたら、残ると言い出しかねない。

「皆、前もって決めた通りの馬車に乗り込んでくれ。怪我人と体調を崩している者たちの馬車には、癒しの天使も同乗を頼む」

センゲルの指示に、それぞれ乗り込み始めたところに、ゴルディが慌てて駆け寄ってきた。

「緑の騎士団から連絡が入りました」

その声に騎士たちは一度作業の手を止め、ゴルディの周りに集まった。

『こちら緑の騎士団第一部隊、総団長オズマだ。我々は今、東よりそちらへ向かっている。状況を知らせてほしい』

「こちら蒼の騎士団総隊長、ルシュア。此度は応援感謝する。我々は現在リゾルの村に滞在中。村人は先ほど全員避難させ、現在は天使団の撤退準備中だ。問題の『影』は、今のところまだ結界薬で封じ込めているが、充分な厚さの壁か作れなかった為、どれくらい保てるか…」

『承知した。我々の他に第三部隊も南東方面よりそちらに向かっている。どちらもあと小一時間で着けるだろう』

「それは心強い。では後程に…」

「ルシュア隊長!!!」

ルシュアが通信を切ろうとしたその時、カルニスとニカウが血相を変えて駆け寄ってきた。
『影』の様子は四人組で交替の見張りを立てていた。
現在はメルティオ、ディランガと走ってきた二人が担当していた筈だ。

「まずいです!『影』が結界を…!」

「!!!」

カルニスの叫び声にルシュアは言葉を失くす。
村の外、『影』の方へ視線を飛ばすと、それは自ら結界を破ろうと大きく蠢いていた。

『どうした!?』

「…『影』が、結界を破ろうとしている…すまないが、急いでくれ!」

『!…解った。できるだけ善処しよう』

通信が切れると、騎士たちは直様、天使たちを馬車へ乗せるために奔走した。
サフォーネはデュークが乗っている馬車に飛び込むと、その身体を護るようにしがみついた。
そこへ体調を崩したリアンジュとスーラウが癒しの天使に付き添われて乗り込んできた。

「ユヒネ様は…?見ませんでしたか?」

付き添ってきた癒しの天使が馬車の中を見て顔色を変える。
サフォーネはその言葉に首を横に振った。
癒しの天使は外へ飛び出し、ユヒネを探しに行った。


「…まずい!もう結界が…」

ひとり残って結界を見張っていたディランガが後退る。
『影』が大きく暴れ続けると、結界薬の放つベールが薄くなっていき、一部が剥がれ始めた。

「結界が破られるぞ!皆急げ!!」

ついに、その巨体が結界から現れた。
束縛を解いた『影』は、長い尾を振り回す。
村を護る何層もの結界にその尾が当たると、高い金属音のような響きが辺りに轟いた。

「あの野郎…この結界も破るつもりか…」

「天使たちは全員乗ったか?!」

「まだです!」

「早くしろ!!」

あまりの恐怖に動けなくなった天使たちを必死に促して馬車に乗せる騎士と、戦いに向けて準備をする騎士たちとで村の中は騒然となる。
サフォーネの乗る馬車には、混乱した騎士たちによってトハーチェが乗せられてきた。

「!…サフォーネ!…わたし、恐い…恐いわ…」

馬車の入り口でへたり込み、泣き出すトハーチェに駆け寄ると、サフォーネは外の様子を窺った。
皆が右往左往する中、悲鳴を上げている三人娘たちも居た。
彼女たちはノルシュとエルジュが乗っている馬車に駆け込むのが見えた。
ほっとしながら再び視界を巡らすと、どの馬車に乗る予定だったか、完全に見失っているルゼーヌとクローヌが目の前を通りかかった。

「こっち!」

サフォーネは思わず二人を呼び止めた。
二人はそのままサフォーネの手を取ると、馬車の中へ転がり込む。
クローヌがほっと息をつくと、トハーチェが抱き着いてきて大声で泣き始めた。

「ト、トハーチェ…。だ、大丈夫だから…落ち着いて…」

クローヌが必死に宥める隣で、ルゼーヌはがたがたと震えながら馬車の隅に蹲った。
そこへ、癒しの天使に連れられたユヒネが到着した。
まだ気分が悪そうな顔色で、虚ろな目で周囲を見渡し、自分の手元に視線を落とすとはっという表情になった。

「…無い…無いわ…。私の、腕輪…」

ユヒネは狼狽えるように視線を巡らすと、馬車の外、地面にその腕輪が転がっているのを見つけた。
元々緩い腕輪のため、乗り込むときに落としたのだろう。

ユヒネは身を乗り出して手を伸ばす。
それで届く距離ではないが、その腕輪は宝物だ。
自分が認められた誇りそのもの。

「…っ!!」

伸ばした腕に熱い何かが走った。
一瞬瞳を閉じたユヒネが再び目を開けると、腕輪の遥か向こうに誰かの腕が転がっている。

「ユヒネ様!!!!腕が…!!」

癒しの天使の叫び声に、ユヒネが自分の腕に視線を落とすと、それは肘から下が無くなっていた。

「…ぁあ…あああああああああああああああああっ!!!」

その悲痛な声に騎士たちも驚愕する。
『影』は結界の綻びを見つけると、地面に自らの尾を刺し、そのまま村の敷地内に侵入させたのだ。
尾の先は鋭い針のようになっており、その針によってユヒネの腕は削ぎ落とされた。

「っあーー!…ああああーーっ!」

痛みよりも恐怖に慄き、ユヒネは馬車の中で切断された腕を掲げながら転げ回る。
それを見たルゼーヌは吐き気に襲われ、そのまま失神した。

「あぁ、ユヒネ…なんという事でしょう…」

リアンジュとスーラウは、ただおろおろするしかなかった。
癒しの天使たちはユヒネの傷を癒そうと、その暴れる身体を抑え込むのに必死になる。
皆がこの現実に狼狽えている中、サフォーネは動き出していた。

「サフォーネ!!」

トハーチェとクローヌの声を背に受けたまま馬車から飛び出すと、サフォーネは落ちている腕に向かって行く。
その様子を視界に留めたルシュアが叫んだ。

「な…!サフォーネ!止めろ!」

『影』の尾は、まだ敷地内を探るようにうろうろしている。
その尾がサフォーネを見つけると、向きを変え狙いを定めてきた。

「…!!」

サフォーネはその尾の動きを見極め、地面を転がりながらユヒネの腕を拾い上げる。
さらに襲おうとする尾を、駆け寄った騎士たちが剣で受け止め、サフォーネは難を逃れて再び馬車に駆け込んだ。

「全く…!!無茶なことを…」

ルシュアは冷や汗を拭う。

「尾を削ぎ落とせ!」

ムードラの声に騎士たちが総攻撃を仕掛けると、さすがの『影』も一度尾を引いた。
その隙きに癒しの天使や術師たちが、次々と馬車に乗り込んで行く。

「これで全員乗ったか?!」

ゴルディとキシリカがサフォーネたちの馬車に乗せられると、ミガセがその幌を閉じて返した。

「全員揃いました!!」

「よし!馬車を走らせろ!!騎士は全員、攻撃態勢に入れ!」

その声を合図に、それぞれの御車台に乗っていたトマーク、ミゼラ、ルファラが馬車を始動させる。

馬車を見送った騎士たちはその行く手を守ろうと、武器を手に結界から飛び出していく。

揺れる馬車の中、サフォーネはユヒネの腕を切断された場所に押し当て、出立式で女性から貰った手布を取り出し、ぐるぐる巻きにするとその上から必死に力を送り始めた。

「…嘘…これで、繋がるの…?」

戸惑いながらリアンジュが呟く中、サフォーネは意識を集中させる。
癒しの天使に抱かれて眠りに落ちて行くユヒネの顔色は血の気を失っていた。

「皆!村を抜ける!ここから先は道が荒れる。しっかり掴まっていて!」

御車台からトマークの叫び声が聞こえる。
その隣には片手で手綱を操作するトマークを補うため、キューネラが天馬に鞭を入れた。

がたがたと振動が強くなって行き、空気が変わるような感覚があった。
結界を抜けた瞬間だった。
馬車はそのまま全速力で疾走する。
できるだけ遠くに。
騎士たちの闘いの負担にならない距離まで…。
だが、馬車は急停止した。

「…う、嘘だろ…。どうして…」

トマークは目の前の光景を疑った。
そこには、あの『影』が立ち塞がっている。
天馬がその脅威に大きく仰け反って嘶いた。

(一体この短い間にどうやって…?…まさか、あんなものがもう一つ居るのか?)

そんな筈はない。トマークは頭を振って現実を考えた。
とにかく、逃げなくては…。
振り返ると、斜め後ろで停まったミゼラも、呆然とそれを見上げていた。

「ミゼラ!」

トマークが呼ぶと、ミゼラははっとなり、互いに顔を見合わせて大きく頷くと、力いっぱい手綱を引いた。

「ルファラ!村に引き返す!続け!!」

トマークの声に呆然としていたルファラも、慌てて手綱を大きく引いて、馬の首を反転させた。

遅れたルファラが率いる馬車を、『影』が大股で追いかけ始める。
その黒い腕が伸びると、馬車の天井を引き裂いた。

「きゃぁあああああ!!」

乗っていた天使たちが一斉に悲鳴を上げる。
フィンカナ、カヌシャ、ティファーシャは、天井が無くなり、露になったその光景に絶望感を味わう。

「皆!伏せなさい!」

セオルトが大きな声で指示を出すと、馬車の奥でノルシュの遺体にしがみ付いていたエルジュに覆い被さる様に、皆が抱き合った。

エルジュがしがみ付く外套の包みを見て、ファズリカが眉を顰める。
その形は殆ど残っていない。
外套の中でノルシュの遺体は朽ち果てている。
それでもしがみつくエルジュの様子に、ファズリカは涙を浮かべながらその背中を包んだ。

再び黒い腕が襲ってきたが、天使たちを捉えることはできなかった。
加速する馬車に追い付けず『影』は置き去りにされる。

「助かった…」

誰もがそう思った瞬間、信じられない光景を目の当たりにする。
『影』はその翼をはためかせると、低空飛行で馬車を追い抜き、再びその前に立ち塞がったのだ。
馬車は再び急停止するしかなかった。

「や…奴は…飛べるのか…」

愕然とするトマークたちの前に、騎士たちが駆け付けた。

「トマーク!ミゼラ!ルファラ!そいつは飛べる!!逃走は中止だ!増援が来るまで村の結界に留まるしかない!!」

『影』を追ってきた騎士たちが、リゾルの村を背に立ちはだかり、半数が空へと羽ばたいた。
上空と地上から『影』を包囲した騎士たちがそれぞれ武器を構える。

「攻撃開始!!!」

ルシュアの号令と共に、騎士たちが総動員で魔物に攻撃を仕掛ける。
その攻撃に翻弄される『影』を横目に、馬車は走り出した。
三台の馬車がすり抜けようとした瞬間、『影』の尾が一台の馬車を薙ぎ払う。

「!!」

「トマーク!!…キューネラ!」

トマークたちが率いる馬車だった。
弾き飛ばされ、宙に舞う馬車の残骸の中に、赤い髪が垣間見えた。

「!!!…サフォーネ!!…デューク!!!」

ルシュアの叫び声が西の連峰に吸い込まれて行った。


~つづく~
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