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第四章
[第58話]死
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負傷した仲間や天使たちを、リゾルの村に送り届けた騎士たちが数人戻ってきた。
そのお陰で、攻撃隊の数は増えたが、巨大な『影』の削ぎ落しには戦力がまだ足りなかった。
さらに、囮をかっているジャンシェンとリュシムだけでは『影』の動きを封じ込めるのが厳しくなってきた。
徐々に二人の速度も落ち始めた時、周囲に凛としたエルーレの号令が響く。
「弓部隊!撃て!」
弓部隊は、負傷したトマークとルファラを除き、四名になっていた。
厳しい戦況の中、更なる囮要因として『影』の背後で準備を整えていた彼らは、リケルオが第一投を放つと、ボルザーク、セディムが後を追うように矢を放つ。
矢は『影』の首部分を捉え、狙撃された魔物は後ろを振り返った。
すかさずエルーレが矢を番え放つと、その瞳の場所らしきところへ命中する。
『影』は痛みでも感じるのか、その衝撃に不快感を表すように身を捩らせた。
「尾の動きに気を付けろ!」
連動するように波打つ尾の動きを見て、ルシュアが声を上げると、攻撃部隊は間一髪で避けた。
続けて矢が放たれる。
『影』は完全に向きを変えた。
「…よし!少しでも村から離れるよう引き付ける!こっちだ!」
エルーレが誘導し、弓部隊がその場を離れて移動する。
『影』の注意が弓部隊に移ったのを見て、ジャンシェンとリュシムは一度地上に降り立った。
「やるわね、エルーレ…助かったわ…。でも、注意を引きつけるのも限界がある…」
「ああ…弓部隊で引きつけられないようなら…また、俺たちが行くしかないな…」
ジャンシェンとリュシムは、互いの疲弊している顔を見合わせると、口の端を上げて力無く笑った。
一方、攻撃隊にも明らかな疲労が見え始めてきた。
敵の動きを交わすうちに騎士たちが陣形を崩して寄せ集まった所に、尾が振り降ろされる。
「避けろ!」
誰かが叫ぶ声に、皆散り散りにその場から飛び去った。
「…くっ!皆、大丈夫か!」
ヴィーガルが隣り合う仲間に呼びかけ、再び立ち上がろうとした時、その肩を掴む手があった。
「待たせた!お前たちは少し休め!」
駆けつけてきたのはワグナ、マーツ、ジュフェル、カリュオ、イルギアだった。
五人は素早く攻撃隊の位置に加わり、それまで頑張っていた若手の騎士たちを後退させる。
「ルシュア、ムードラ!ここは俺が指揮を取る!」
カリュオはそう叫ぶと、ルシュアたちの前に飛び込んできた。
総隊長の座を意識しているカリュオの発言に、ムードラは軽く肩を聳やかしながらもその場を退いたのは、さらに駆けつけてきたディランガとノルシュに村の状況を聞きたいためだった。
ルシュアも同様か、その場をカリュオとイルギアに任せると、『影』の攻撃範囲から脱した。
「村の方は大丈夫か?結界はどうなっている」
駆け寄ってくる二人にムードラが問いかけると、ノルシュが息を整えながら答える。
「怪我人として退避させたのは…トマーク、シャンネラ、ルファラ…あとは…キューネラが精神的に無理なようです…。それから、デュークが目覚めたようでしたが…恐らくまだ動けないかと…」
続いて、ディランガも口を開いた。
「…今、術師が三人体制で、何層にも結界を張り巡らせているので、恐らくこれで応援が来るまで凌げるはずです。ただ、通信が滞っているようで…」
「村の警護にセンゲル副隊長とシズラカ、ソシュレイとディーアに残ってもらうことにしました。あとの騎士たちは追々こちらに来るはずです」
二人からの報告を耳にしたルシュアは、大きく頷いた。
「解った。二人は早速、攻撃隊に入ってくれ…私たちは少し休んだら加勢する…」
ルシュアの言葉に敬礼すると、ディランガとノルシュは『影』に向かっていった。
「あとは通信か…頼む…」
ルシュアは祈るように天を仰いだ。
「…アリューシャ?…今…精霊石が何か反応を示さなかったか?」
ソムルカが、アリューシャが下げている革袋から洩れる僅かな光に気が付いた。
言われるまま精霊石を取り出すと、確かに反応を示している。
アリューシャはその場で跪き、水晶玉に祈りを捧げた。
『……リュ……ま……こえ……か?』
「!…ゴルディ?…なに?よく、聞こえないわ」
それは明らかに何かの力が妨害している様子だった。
アリューシャは更に精霊たちに祈りを捧げ、水晶玉に集中する。
その様子に、ババ様もふたりの長老も、何が起きたのかと覗き込んだ。
「何があったのでしょう…。皆、既にもう山を下りる頃だけど…」
ババ様の言葉に、ふたりの長老は顔を見合わせて驚いた。
「ど、どういうことですか?山を下りる…?」
「まだ大闇祓いの途中ではありませぬか。…まさか…何かあったのですか」
「あぁ…お二人にはまだ話していませんでしたね…」
長の容体の変化で、重要な報告を忘れていたことに気が付いたババ様は、申し訳なさそうに言うと、一部始終を説明した。
「大穴の影響…ですか…やはり、かの場所には何かあるのでしょうか…」
「長なら、何か知っているやもしれませんが…これでは…」
魘される長の様子を垣間見た三人だったが、水晶玉からまばゆい光が放たれて、そちらに意識を戻された。
やっと映像が映り、アリューシャはほっとするとともに、真剣な顔で向こう側に居るゴルディに問いかけた。
「何かあったの?ルシュアは?みんなは…?」
『…おぉ…アリューシャ様…やっと繋がった…。実は急ぎ伝えねばならないことが…』
再び映像が乱れ、声も聞き取りにくくなる。
これは長く持たないかもしれない。
アリューシャは「解ったわ」と大きく頷いて答えた。
『連峰…に、森…を越える程……大……な魔物の『影』が現れま…した』
「…え…?」
『…騎士…の、負傷……数…名…。リゾル…の…滞在、中…。緑…の聖…殿に、至急、増…援を…』
ゴルディの聞き取りにくい報告の内容は充分に伝わってきた。
そこには、村らしき場所に近づく、巨大な『影』が映し出されている。
アリューシャは驚愕の表情のまま固まり、ババ様とふたりの長老たちも息を呑んで顔を強張らせた。
『…いかん!もう、そこまで来ている!』
遠く聞こえてきた声は、その場所を護衛している騎士の誰かだろう。
切羽詰まった叫び声と共に、水晶玉の映像が乱れ始める。
『!…アリュ……ま!…急ぎ……応援を…』
「わ、解ったわ!!すぐに緑の聖殿のヨヌシア様に連絡を取るから…何とか持ち堪えて!!」
アリューシャは一度、ゴルディとの連絡を断つと、早くなる鼓動と混乱する頭を何とか冷静に保つよう、深く呼吸をしながら再び祈りを捧げ始めた。
「…い、今のは…まさか…」
先程の映像を見て、ババ様はあまりの衝撃にその場に倒れそうになるのを、ふたりの長老が慌てて支えた。
「し、信じられん…。あれは、バーズでは無いか…?」
「あ、あり得ん!あれは伝説の魔物…100年に一度現れるかどうか…と言われながらも、この大陸史上、存在しないものだ…」
三人の声を耳にしながらも、アリューシャは集中する。
(あぁ…どうか、皆無事で…。お願い…神様…!)
「…駄目だっ!ルシュア…これ以上奴を引きつけられない…!」
弓部隊と上空からの囮部隊で足止めをしていたが、『影』は徐々に村の方へ進行している。
そこには魔烟を引きつける天使たちが数十名居る。
間違いなく、そこへ向かっているのだろう。
後ろ脚と尾を中心に影を削ぎ落す騎士たちも、既に限界を越えている。
囮として後衛で構えていた弓部隊の騎士たちも、剣に持ち替えて攻撃部隊に転じるが、『影』の足取りを食い止めるのは叶わない。
「おいおい!もうここまで来てるのか…。だが、こっから先へは行かせんぞ!」
村を背に戦う騎士たちに、メルティオの声が届いた。
「近くで見ると…なかなかだな」
「…まぁ、何であれ、祓うだけだ」
共に駆けつけたシャウザとルーゼルも剣を構える。
メルティオは剣を抜くと、猛ダッシュで『影』に向かって突き進みながら空へと羽ばたいた。
『影』がそれを追うように顔をもたげると、追走してきたシャウザとルーゼルも飛び上がり、その首元に向かって剣を突き立てた。
そのまま影を削ぐように、外側へ切り裂くと、まるで血しぶきのように影が飛散する。
「ルシュア!これで、ほぼ全員集合だ!」
メルティオはそう叫ぶと宙で一回転し、『影』の頭に着地して、眉間に剣を突き立てる。
『影』がそれを嫌うように首を大きく振ると、メルティオは投げ出されたが、空中でうまく体制を戻した。
「よし!皆もう少し踏ん張ってくれ!」
体調が万全とは言えない三人の活躍に、他の騎士たちも再び闘志が沸く。
しかし、蒼の騎士たちが精一杯善戦するも、『影』と村の距離は縮まって行った。
『こちら、緑の聖殿、ヨヌシア…。アリューシャ?久しいですね、どうしたのですか?』
ヨヌシアは、アリューシャが緑の聖殿で修行中の時に師事した、精霊の巫女である。
御年80歳を迎え、蒼の聖殿のババ様と昔馴染みでもあった。
「ヨヌシア様…!突然ごめんなさい…。これから伝えること、信じられないかもしれませんが…まずはこれを見てもらえますか?」
アリュ―シュアは先ほど見た『影』の映像を、水晶玉の中で再現した。
それを見たヨヌシアは言葉を失い、固まっている。
だが、すぐに受け入れてもらう必要がある。アリューシャは少し乱暴に思いながらも、用件を伝えた。
「連峰の麓、第5待機所よりやや南下した場所に、獣人族だけのリゾルの村があります。現在、蒼の騎士団は、その周辺で今見た『影』と闘っているの。負傷者も数名…。場所がより近いのは緑の聖殿です。至急応援をお願いできますか!」
アリューシャの懸命な訴えに、ヨヌシアもすぐに我に返った。
『承知しました。すぐに緑の騎士団長に伝えましょう。到着時間が解り次第、また連絡します』
ヨヌシアは手短に通信を切ると、控えていた術師たちに呼びかけ、出陣中の緑の騎士団への連絡に尽力し始めた。
「…まずい…結界に辿り着く…」
『影』の爪を剣で受けながら、背後を確認したノルシュが呟く。
『影』は既に村の中に突入し、村人の住居を破壊しながら、少しずつ侵攻していく。
薄くベールが張られた結界の向こうは、獣人族の長、ヤヌの館の敷地だ。
その離れの館から飛び出して来る騎士の姿があった。ディーアだった。
「皆さん!緑の騎士団と連絡が取れました!夕刻にはこちらに来られると…」
ディーアの言葉は希望と共に絶望も加わっていた。
夕刻まで…?
あと半日もこのままの状態を保つのは現実的では無かった。
ルシュアは思考を巡らせる。
(一時的にでも良い、『影』の動きを止めるには…)
その時、遥か頭上から声が降ってきた。
「皆、結界に入れ!」
見上げるとそこにはセンゲル、シズラカ、トッティワ、ソシュレイ、デュークがボウガンを構え、滞空している。
更に五人の腰には聖水弾と結界薬が備えられているのを見て、ルシュアは目を見開いた。
恐らく、武器の手入れが得意なトッティワとソシュレイが、遠方にも届くよう細工を施したのだろう。
「戦闘中止!直ちに村に退け!」
ルシュアが声を上げると、全員が『影』から退き、その場を離れた。
それを見計らい、上空の五人が聖水弾を魔物目掛けて撃ち放つと、『影』はその衝撃に大きく後退する。
「…っく…」
まだ万全ではないデュークの手元が震える。
額に汗を滲ませながらも狙いを定め、『影』の頭、足元を的確に捉えていく。
各手持ちは四発ずつ。
それぞれが、聖水弾を命中させていくと、15発ほど喰らった辺りで『影』は苦しみながら背中から倒れて行った。
「よし!今のうちだ!結界を張るぞ!!…って、おい!デューク…?!」
降下したセンゲルが指示を出した時、デュークの手から結界薬の入った瓶が零れ落ち、羽ばたきを無くしたまま落下していくのが見えた。
「デューク!!」
「隊長!!!」
ルシュアとカルニスが咄嗟に飛び立ちデュークを受け止めると、その取りこぼした瓶は、同じように駆け付けたノルシュが受け取った。
「その体で無茶なことを…俺が行こう」
朦朧とするデュークが返事をする間もなく、ノルシュは結界薬を手に、聖水の効果に藻掻く『影』の方へ飛び立った。
「すまない、ノルシュ!頼んだぞ!」
ルシュアが叫ぶ声を遠くに聞きながら、デュークは再び意識を無くした。
センゲル、シズラカ、トッティワ、ソシュレイ、ノルシュは、聖水にもがく『影』の周囲を封じ込めるため、結界薬を仕掛けに行った。
五人で間隔を取りながら、結界薬で『影』を囲む。
『影』はまだ苦しんでいるようで、時折その尾で羽根人たちを威嚇しようとしたが、五人は難なく囲むことに成功した。
「…よし、火をつける。これで半日もつといいが…」
センゲルが火を起こそうとしたが、なかなか付かない。
先程の聖水弾発砲の際に液体が零れ、火打石が湿ったようだった。
それを見たノルシュが、自分が持っている火打石を取り出し、結界薬に火をつけようとした瞬間。
「避けろ!ノルシュ!!」
誰かの叫び声が耳に届いたと同時に、ノルシュは背中に衝撃を受けた。
加えて、込み上げてくる吐き気に襲われる。
堪えきれず、その場で吐き出したのは真っ赤な血だった。
「…嘘…だろ…」
自分の胸元に視線を落とすと、鋭い爪が鳩尾から突き出ている。
背中から貫通されたその爪は、半分実体化していた。
『影』が爪を抜くと、ノルシュはそのまま前のめりに倒れた。
センゲル、トッティワ、シズラカが駆け寄り、ノルシュを保護すると、ソシュレイが素早くその火打石を使い、結界薬に火をつけた。
たちまち火が回り込み、敵は薄いベールの中に包まれる。
事態を把握し、中で暴れる『影』を尻目に、四人はノルシュを抱えて結界内に飛び込んだ。
「ノルシュ!!!」
騒ぎを聞きつけたエルジュが、避難していた建物から飛び出してきた。
その場で外套を敷物にし、仰向けに寝かされたノルシュは大きく息をついた。
ノルシュの傷を塞ぐために、騎士たちが止血をする傍らで、エルジュが跪きノルシュの手を取った。
「…ェル…ジュ…」
「喋ってはいけません!今、手当てを…あぁ、誰か…」
そこへ癒しの天使たちと、シャンネラの治療を終えたサフォーネが駆けつけてきた。
癒しの天使たちは、止血する騎士たちの手元を見ると顔を凍らせる。
ノルシュの身体を見事に貫通した爪は、心臓を貫いていたのだ。
ノルシュは急激に寒くなるのを感じた。
エルジュが握ってくれている手の感覚も無くなって行く。
急ぎ、エルジュに言葉を伝えたくても、喉は痺れて声が出ない。
サフォーネは動けずにいる癒しの天使たちの横をすり抜け、エルジュの反対側に跪くと、ノルシュの傷を見る。
「……ぁ…」
遠巻きから見守る騎士や天使たちにも、「それはもう助からないのだ」と解る程、サフォーネの顔は蒼白になっていた。
だが、サフォーネは両手をノルシュの胸に翳し、気を送った。送り続けた。
(たすけたい…たすけたい……でも…たすけられない…)
北の荒れ地で芽吹いた命…それを救えず萎れて行く様を見守ることしかできなかった事が、サフォーネの脳裏に蘇る。
知らずに涙が溢れてきた。
それでも、傍で泣くエルジュの為に、愛する人を置いて行くことになるノルシュの為に、サフォーネは力を尽くした。
その様子を見ていたキシリカは、サフォーネの肩を優しく抱いて、その場から引き離した。
「もう…良いでしょう…」
ノルシュの瞳は輝きを失っていた。
別れの言葉も告げられないまま、エルジュに手を取られたまま、ノルシュは旅立ってしまった。
「…あぁ…ノルシュ……ノルシュ……ノルシューーー……!」
エルジュは恥を捨て、大声を上げて泣いた。
その声に気を失っていたデュークが目を覚まし、ノルシュの最期を知る。
ルシュアはその状況を確認すると、悲しみに暮れる仲間たちに、ノルシュの遺体安置を頼み、その場から離れた。
羽根人は、様々な人種の中で、一番祖人に近い容姿をしているが、その人体を構成する組織は全く違うもので、死ねば脆く崩れやすい。
センゲルとマーツは敷物にしていた外套で、ノルシュの遺体を丁寧に包み込んだ。
ルシュアは館の裏に来ると、どこにぶつけていいか分からない苛立ちに、拳を地面に叩きつけた。
初めて仲間を失った。
ノルシュは貴族出身でありながらも気さくで、控えめに皆を支えてくれる、頼りになる仲間だった。
エルジュという婚約者を得て、幸せそうに報告してきた顔を今も思い出す。
「私は…私は…っ!」
何度も地面に叩きつけるその拳を、そっと包む手があった。
「セルティア…」
セルティアはその手に自分の額を押し当てながら、震える唇で言葉を紡いだ。
「戦いの中で仲間が命を落とす…これは、歴代の総隊長なら、誰もが味わってきた悲しみです。誰のせいでもない。なのに、皆自分を責めます…。でも、今は心を乱してはなりません。貴方を頼る仲間のためにも…」
ルシュアはその言葉に耳を傾けながら、力の限り共に戦ってきた仲間の顔をひとりひとり想い出す。
闘いはまだ終わった訳ではない。
彼らを導き、護るのが総隊長の務め。
今ここで挫ける訳には行かない。
ルシュアは、セルティアの手に自分の手を重ねた。
「…すまない…。君に心配を掛けさせてしまうことが、私にとっては、何より赦せないことだ…。ありがとう…」
ルシュアは歯を食いしばると立ち上がり、頬を伝う涙を乱暴に拭った。
皆の所へ戻ると、外套に包まれたノルシュの遺体を囲み、祈りを捧げているところだった。
エルジュだけは気が抜けたように、館の縁側で呆然と空を見上げていた。
その傍にはニハルノとリルシェザが付き添い、静かに涙を流している。
三人が腰掛けている縁側の母屋から、獣人族のヤヌが出てきたのが見えて、ルシュアは駆け寄った。
「ご挨拶が遅れました。突然、こんなことになってしまい…村人たちは皆無事ですか?…真に申し訳ありませんが、しばし、我々に仲間との別れの時間をください…」
目の前に傅き、頭を下げる羽根人の総隊長は、以前あった時とは随分違っていた。
金の長い髪は乱れ、纏っている甲冑は至る所が汚れ、剥き出しになる肌の部分には数か所傷もある。
目の下には隈があり、青白い顔に脂汗を浮かべ、とても普通ではない状態なのに、毅然と振舞い、村人たちの安寧にも気を配ってくれている。
ヤヌはそれだけで十分だった。
「顔を上げなさい。こうなったのは、何も其方たちの所為ではない。むしろ、其方たちが食い止めてくれたからこそ、ここまでで済んで居る。…我らは全員無事だ。…まぁ何人かは逃げる時に軽い怪我を負ったようだが…命を賭して闘っている其方たちに比べれば…」
ヤヌの声を背中に聞きながら、エルジュは再び溢れる涙を抑えられずに嗚咽した。
ヤヌはその横をすり抜け、縁側を降りると、ルシュアに立つように促した。
ルシュアは高齢のヤヌの足取りを心配するように見守りながら、その視線の先を追った。
村の結界の外、薄く張られたベールの向こうに、さらに薄いベールに囲まれて、自由を失っている巨大な『影』がある。
ヤヌは眉を潜めた。
「何故、あのような物が…神は我々にどんな試練を与えようというのか…。闇の声が聞こえし者が居れば、それも解るだろうにのう…」
~つづく~
そのお陰で、攻撃隊の数は増えたが、巨大な『影』の削ぎ落しには戦力がまだ足りなかった。
さらに、囮をかっているジャンシェンとリュシムだけでは『影』の動きを封じ込めるのが厳しくなってきた。
徐々に二人の速度も落ち始めた時、周囲に凛としたエルーレの号令が響く。
「弓部隊!撃て!」
弓部隊は、負傷したトマークとルファラを除き、四名になっていた。
厳しい戦況の中、更なる囮要因として『影』の背後で準備を整えていた彼らは、リケルオが第一投を放つと、ボルザーク、セディムが後を追うように矢を放つ。
矢は『影』の首部分を捉え、狙撃された魔物は後ろを振り返った。
すかさずエルーレが矢を番え放つと、その瞳の場所らしきところへ命中する。
『影』は痛みでも感じるのか、その衝撃に不快感を表すように身を捩らせた。
「尾の動きに気を付けろ!」
連動するように波打つ尾の動きを見て、ルシュアが声を上げると、攻撃部隊は間一髪で避けた。
続けて矢が放たれる。
『影』は完全に向きを変えた。
「…よし!少しでも村から離れるよう引き付ける!こっちだ!」
エルーレが誘導し、弓部隊がその場を離れて移動する。
『影』の注意が弓部隊に移ったのを見て、ジャンシェンとリュシムは一度地上に降り立った。
「やるわね、エルーレ…助かったわ…。でも、注意を引きつけるのも限界がある…」
「ああ…弓部隊で引きつけられないようなら…また、俺たちが行くしかないな…」
ジャンシェンとリュシムは、互いの疲弊している顔を見合わせると、口の端を上げて力無く笑った。
一方、攻撃隊にも明らかな疲労が見え始めてきた。
敵の動きを交わすうちに騎士たちが陣形を崩して寄せ集まった所に、尾が振り降ろされる。
「避けろ!」
誰かが叫ぶ声に、皆散り散りにその場から飛び去った。
「…くっ!皆、大丈夫か!」
ヴィーガルが隣り合う仲間に呼びかけ、再び立ち上がろうとした時、その肩を掴む手があった。
「待たせた!お前たちは少し休め!」
駆けつけてきたのはワグナ、マーツ、ジュフェル、カリュオ、イルギアだった。
五人は素早く攻撃隊の位置に加わり、それまで頑張っていた若手の騎士たちを後退させる。
「ルシュア、ムードラ!ここは俺が指揮を取る!」
カリュオはそう叫ぶと、ルシュアたちの前に飛び込んできた。
総隊長の座を意識しているカリュオの発言に、ムードラは軽く肩を聳やかしながらもその場を退いたのは、さらに駆けつけてきたディランガとノルシュに村の状況を聞きたいためだった。
ルシュアも同様か、その場をカリュオとイルギアに任せると、『影』の攻撃範囲から脱した。
「村の方は大丈夫か?結界はどうなっている」
駆け寄ってくる二人にムードラが問いかけると、ノルシュが息を整えながら答える。
「怪我人として退避させたのは…トマーク、シャンネラ、ルファラ…あとは…キューネラが精神的に無理なようです…。それから、デュークが目覚めたようでしたが…恐らくまだ動けないかと…」
続いて、ディランガも口を開いた。
「…今、術師が三人体制で、何層にも結界を張り巡らせているので、恐らくこれで応援が来るまで凌げるはずです。ただ、通信が滞っているようで…」
「村の警護にセンゲル副隊長とシズラカ、ソシュレイとディーアに残ってもらうことにしました。あとの騎士たちは追々こちらに来るはずです」
二人からの報告を耳にしたルシュアは、大きく頷いた。
「解った。二人は早速、攻撃隊に入ってくれ…私たちは少し休んだら加勢する…」
ルシュアの言葉に敬礼すると、ディランガとノルシュは『影』に向かっていった。
「あとは通信か…頼む…」
ルシュアは祈るように天を仰いだ。
「…アリューシャ?…今…精霊石が何か反応を示さなかったか?」
ソムルカが、アリューシャが下げている革袋から洩れる僅かな光に気が付いた。
言われるまま精霊石を取り出すと、確かに反応を示している。
アリューシャはその場で跪き、水晶玉に祈りを捧げた。
『……リュ……ま……こえ……か?』
「!…ゴルディ?…なに?よく、聞こえないわ」
それは明らかに何かの力が妨害している様子だった。
アリューシャは更に精霊たちに祈りを捧げ、水晶玉に集中する。
その様子に、ババ様もふたりの長老も、何が起きたのかと覗き込んだ。
「何があったのでしょう…。皆、既にもう山を下りる頃だけど…」
ババ様の言葉に、ふたりの長老は顔を見合わせて驚いた。
「ど、どういうことですか?山を下りる…?」
「まだ大闇祓いの途中ではありませぬか。…まさか…何かあったのですか」
「あぁ…お二人にはまだ話していませんでしたね…」
長の容体の変化で、重要な報告を忘れていたことに気が付いたババ様は、申し訳なさそうに言うと、一部始終を説明した。
「大穴の影響…ですか…やはり、かの場所には何かあるのでしょうか…」
「長なら、何か知っているやもしれませんが…これでは…」
魘される長の様子を垣間見た三人だったが、水晶玉からまばゆい光が放たれて、そちらに意識を戻された。
やっと映像が映り、アリューシャはほっとするとともに、真剣な顔で向こう側に居るゴルディに問いかけた。
「何かあったの?ルシュアは?みんなは…?」
『…おぉ…アリューシャ様…やっと繋がった…。実は急ぎ伝えねばならないことが…』
再び映像が乱れ、声も聞き取りにくくなる。
これは長く持たないかもしれない。
アリューシャは「解ったわ」と大きく頷いて答えた。
『連峰…に、森…を越える程……大……な魔物の『影』が現れま…した』
「…え…?」
『…騎士…の、負傷……数…名…。リゾル…の…滞在、中…。緑…の聖…殿に、至急、増…援を…』
ゴルディの聞き取りにくい報告の内容は充分に伝わってきた。
そこには、村らしき場所に近づく、巨大な『影』が映し出されている。
アリューシャは驚愕の表情のまま固まり、ババ様とふたりの長老たちも息を呑んで顔を強張らせた。
『…いかん!もう、そこまで来ている!』
遠く聞こえてきた声は、その場所を護衛している騎士の誰かだろう。
切羽詰まった叫び声と共に、水晶玉の映像が乱れ始める。
『!…アリュ……ま!…急ぎ……応援を…』
「わ、解ったわ!!すぐに緑の聖殿のヨヌシア様に連絡を取るから…何とか持ち堪えて!!」
アリューシャは一度、ゴルディとの連絡を断つと、早くなる鼓動と混乱する頭を何とか冷静に保つよう、深く呼吸をしながら再び祈りを捧げ始めた。
「…い、今のは…まさか…」
先程の映像を見て、ババ様はあまりの衝撃にその場に倒れそうになるのを、ふたりの長老が慌てて支えた。
「し、信じられん…。あれは、バーズでは無いか…?」
「あ、あり得ん!あれは伝説の魔物…100年に一度現れるかどうか…と言われながらも、この大陸史上、存在しないものだ…」
三人の声を耳にしながらも、アリューシャは集中する。
(あぁ…どうか、皆無事で…。お願い…神様…!)
「…駄目だっ!ルシュア…これ以上奴を引きつけられない…!」
弓部隊と上空からの囮部隊で足止めをしていたが、『影』は徐々に村の方へ進行している。
そこには魔烟を引きつける天使たちが数十名居る。
間違いなく、そこへ向かっているのだろう。
後ろ脚と尾を中心に影を削ぎ落す騎士たちも、既に限界を越えている。
囮として後衛で構えていた弓部隊の騎士たちも、剣に持ち替えて攻撃部隊に転じるが、『影』の足取りを食い止めるのは叶わない。
「おいおい!もうここまで来てるのか…。だが、こっから先へは行かせんぞ!」
村を背に戦う騎士たちに、メルティオの声が届いた。
「近くで見ると…なかなかだな」
「…まぁ、何であれ、祓うだけだ」
共に駆けつけたシャウザとルーゼルも剣を構える。
メルティオは剣を抜くと、猛ダッシュで『影』に向かって突き進みながら空へと羽ばたいた。
『影』がそれを追うように顔をもたげると、追走してきたシャウザとルーゼルも飛び上がり、その首元に向かって剣を突き立てた。
そのまま影を削ぐように、外側へ切り裂くと、まるで血しぶきのように影が飛散する。
「ルシュア!これで、ほぼ全員集合だ!」
メルティオはそう叫ぶと宙で一回転し、『影』の頭に着地して、眉間に剣を突き立てる。
『影』がそれを嫌うように首を大きく振ると、メルティオは投げ出されたが、空中でうまく体制を戻した。
「よし!皆もう少し踏ん張ってくれ!」
体調が万全とは言えない三人の活躍に、他の騎士たちも再び闘志が沸く。
しかし、蒼の騎士たちが精一杯善戦するも、『影』と村の距離は縮まって行った。
『こちら、緑の聖殿、ヨヌシア…。アリューシャ?久しいですね、どうしたのですか?』
ヨヌシアは、アリューシャが緑の聖殿で修行中の時に師事した、精霊の巫女である。
御年80歳を迎え、蒼の聖殿のババ様と昔馴染みでもあった。
「ヨヌシア様…!突然ごめんなさい…。これから伝えること、信じられないかもしれませんが…まずはこれを見てもらえますか?」
アリュ―シュアは先ほど見た『影』の映像を、水晶玉の中で再現した。
それを見たヨヌシアは言葉を失い、固まっている。
だが、すぐに受け入れてもらう必要がある。アリューシャは少し乱暴に思いながらも、用件を伝えた。
「連峰の麓、第5待機所よりやや南下した場所に、獣人族だけのリゾルの村があります。現在、蒼の騎士団は、その周辺で今見た『影』と闘っているの。負傷者も数名…。場所がより近いのは緑の聖殿です。至急応援をお願いできますか!」
アリューシャの懸命な訴えに、ヨヌシアもすぐに我に返った。
『承知しました。すぐに緑の騎士団長に伝えましょう。到着時間が解り次第、また連絡します』
ヨヌシアは手短に通信を切ると、控えていた術師たちに呼びかけ、出陣中の緑の騎士団への連絡に尽力し始めた。
「…まずい…結界に辿り着く…」
『影』の爪を剣で受けながら、背後を確認したノルシュが呟く。
『影』は既に村の中に突入し、村人の住居を破壊しながら、少しずつ侵攻していく。
薄くベールが張られた結界の向こうは、獣人族の長、ヤヌの館の敷地だ。
その離れの館から飛び出して来る騎士の姿があった。ディーアだった。
「皆さん!緑の騎士団と連絡が取れました!夕刻にはこちらに来られると…」
ディーアの言葉は希望と共に絶望も加わっていた。
夕刻まで…?
あと半日もこのままの状態を保つのは現実的では無かった。
ルシュアは思考を巡らせる。
(一時的にでも良い、『影』の動きを止めるには…)
その時、遥か頭上から声が降ってきた。
「皆、結界に入れ!」
見上げるとそこにはセンゲル、シズラカ、トッティワ、ソシュレイ、デュークがボウガンを構え、滞空している。
更に五人の腰には聖水弾と結界薬が備えられているのを見て、ルシュアは目を見開いた。
恐らく、武器の手入れが得意なトッティワとソシュレイが、遠方にも届くよう細工を施したのだろう。
「戦闘中止!直ちに村に退け!」
ルシュアが声を上げると、全員が『影』から退き、その場を離れた。
それを見計らい、上空の五人が聖水弾を魔物目掛けて撃ち放つと、『影』はその衝撃に大きく後退する。
「…っく…」
まだ万全ではないデュークの手元が震える。
額に汗を滲ませながらも狙いを定め、『影』の頭、足元を的確に捉えていく。
各手持ちは四発ずつ。
それぞれが、聖水弾を命中させていくと、15発ほど喰らった辺りで『影』は苦しみながら背中から倒れて行った。
「よし!今のうちだ!結界を張るぞ!!…って、おい!デューク…?!」
降下したセンゲルが指示を出した時、デュークの手から結界薬の入った瓶が零れ落ち、羽ばたきを無くしたまま落下していくのが見えた。
「デューク!!」
「隊長!!!」
ルシュアとカルニスが咄嗟に飛び立ちデュークを受け止めると、その取りこぼした瓶は、同じように駆け付けたノルシュが受け取った。
「その体で無茶なことを…俺が行こう」
朦朧とするデュークが返事をする間もなく、ノルシュは結界薬を手に、聖水の効果に藻掻く『影』の方へ飛び立った。
「すまない、ノルシュ!頼んだぞ!」
ルシュアが叫ぶ声を遠くに聞きながら、デュークは再び意識を無くした。
センゲル、シズラカ、トッティワ、ソシュレイ、ノルシュは、聖水にもがく『影』の周囲を封じ込めるため、結界薬を仕掛けに行った。
五人で間隔を取りながら、結界薬で『影』を囲む。
『影』はまだ苦しんでいるようで、時折その尾で羽根人たちを威嚇しようとしたが、五人は難なく囲むことに成功した。
「…よし、火をつける。これで半日もつといいが…」
センゲルが火を起こそうとしたが、なかなか付かない。
先程の聖水弾発砲の際に液体が零れ、火打石が湿ったようだった。
それを見たノルシュが、自分が持っている火打石を取り出し、結界薬に火をつけようとした瞬間。
「避けろ!ノルシュ!!」
誰かの叫び声が耳に届いたと同時に、ノルシュは背中に衝撃を受けた。
加えて、込み上げてくる吐き気に襲われる。
堪えきれず、その場で吐き出したのは真っ赤な血だった。
「…嘘…だろ…」
自分の胸元に視線を落とすと、鋭い爪が鳩尾から突き出ている。
背中から貫通されたその爪は、半分実体化していた。
『影』が爪を抜くと、ノルシュはそのまま前のめりに倒れた。
センゲル、トッティワ、シズラカが駆け寄り、ノルシュを保護すると、ソシュレイが素早くその火打石を使い、結界薬に火をつけた。
たちまち火が回り込み、敵は薄いベールの中に包まれる。
事態を把握し、中で暴れる『影』を尻目に、四人はノルシュを抱えて結界内に飛び込んだ。
「ノルシュ!!!」
騒ぎを聞きつけたエルジュが、避難していた建物から飛び出してきた。
その場で外套を敷物にし、仰向けに寝かされたノルシュは大きく息をついた。
ノルシュの傷を塞ぐために、騎士たちが止血をする傍らで、エルジュが跪きノルシュの手を取った。
「…ェル…ジュ…」
「喋ってはいけません!今、手当てを…あぁ、誰か…」
そこへ癒しの天使たちと、シャンネラの治療を終えたサフォーネが駆けつけてきた。
癒しの天使たちは、止血する騎士たちの手元を見ると顔を凍らせる。
ノルシュの身体を見事に貫通した爪は、心臓を貫いていたのだ。
ノルシュは急激に寒くなるのを感じた。
エルジュが握ってくれている手の感覚も無くなって行く。
急ぎ、エルジュに言葉を伝えたくても、喉は痺れて声が出ない。
サフォーネは動けずにいる癒しの天使たちの横をすり抜け、エルジュの反対側に跪くと、ノルシュの傷を見る。
「……ぁ…」
遠巻きから見守る騎士や天使たちにも、「それはもう助からないのだ」と解る程、サフォーネの顔は蒼白になっていた。
だが、サフォーネは両手をノルシュの胸に翳し、気を送った。送り続けた。
(たすけたい…たすけたい……でも…たすけられない…)
北の荒れ地で芽吹いた命…それを救えず萎れて行く様を見守ることしかできなかった事が、サフォーネの脳裏に蘇る。
知らずに涙が溢れてきた。
それでも、傍で泣くエルジュの為に、愛する人を置いて行くことになるノルシュの為に、サフォーネは力を尽くした。
その様子を見ていたキシリカは、サフォーネの肩を優しく抱いて、その場から引き離した。
「もう…良いでしょう…」
ノルシュの瞳は輝きを失っていた。
別れの言葉も告げられないまま、エルジュに手を取られたまま、ノルシュは旅立ってしまった。
「…あぁ…ノルシュ……ノルシュ……ノルシューーー……!」
エルジュは恥を捨て、大声を上げて泣いた。
その声に気を失っていたデュークが目を覚まし、ノルシュの最期を知る。
ルシュアはその状況を確認すると、悲しみに暮れる仲間たちに、ノルシュの遺体安置を頼み、その場から離れた。
羽根人は、様々な人種の中で、一番祖人に近い容姿をしているが、その人体を構成する組織は全く違うもので、死ねば脆く崩れやすい。
センゲルとマーツは敷物にしていた外套で、ノルシュの遺体を丁寧に包み込んだ。
ルシュアは館の裏に来ると、どこにぶつけていいか分からない苛立ちに、拳を地面に叩きつけた。
初めて仲間を失った。
ノルシュは貴族出身でありながらも気さくで、控えめに皆を支えてくれる、頼りになる仲間だった。
エルジュという婚約者を得て、幸せそうに報告してきた顔を今も思い出す。
「私は…私は…っ!」
何度も地面に叩きつけるその拳を、そっと包む手があった。
「セルティア…」
セルティアはその手に自分の額を押し当てながら、震える唇で言葉を紡いだ。
「戦いの中で仲間が命を落とす…これは、歴代の総隊長なら、誰もが味わってきた悲しみです。誰のせいでもない。なのに、皆自分を責めます…。でも、今は心を乱してはなりません。貴方を頼る仲間のためにも…」
ルシュアはその言葉に耳を傾けながら、力の限り共に戦ってきた仲間の顔をひとりひとり想い出す。
闘いはまだ終わった訳ではない。
彼らを導き、護るのが総隊長の務め。
今ここで挫ける訳には行かない。
ルシュアは、セルティアの手に自分の手を重ねた。
「…すまない…。君に心配を掛けさせてしまうことが、私にとっては、何より赦せないことだ…。ありがとう…」
ルシュアは歯を食いしばると立ち上がり、頬を伝う涙を乱暴に拭った。
皆の所へ戻ると、外套に包まれたノルシュの遺体を囲み、祈りを捧げているところだった。
エルジュだけは気が抜けたように、館の縁側で呆然と空を見上げていた。
その傍にはニハルノとリルシェザが付き添い、静かに涙を流している。
三人が腰掛けている縁側の母屋から、獣人族のヤヌが出てきたのが見えて、ルシュアは駆け寄った。
「ご挨拶が遅れました。突然、こんなことになってしまい…村人たちは皆無事ですか?…真に申し訳ありませんが、しばし、我々に仲間との別れの時間をください…」
目の前に傅き、頭を下げる羽根人の総隊長は、以前あった時とは随分違っていた。
金の長い髪は乱れ、纏っている甲冑は至る所が汚れ、剥き出しになる肌の部分には数か所傷もある。
目の下には隈があり、青白い顔に脂汗を浮かべ、とても普通ではない状態なのに、毅然と振舞い、村人たちの安寧にも気を配ってくれている。
ヤヌはそれだけで十分だった。
「顔を上げなさい。こうなったのは、何も其方たちの所為ではない。むしろ、其方たちが食い止めてくれたからこそ、ここまでで済んで居る。…我らは全員無事だ。…まぁ何人かは逃げる時に軽い怪我を負ったようだが…命を賭して闘っている其方たちに比べれば…」
ヤヌの声を背中に聞きながら、エルジュは再び溢れる涙を抑えられずに嗚咽した。
ヤヌはその横をすり抜け、縁側を降りると、ルシュアに立つように促した。
ルシュアは高齢のヤヌの足取りを心配するように見守りながら、その視線の先を追った。
村の結界の外、薄く張られたベールの向こうに、さらに薄いベールに囲まれて、自由を失っている巨大な『影』がある。
ヤヌは眉を潜めた。
「何故、あのような物が…神は我々にどんな試練を与えようというのか…。闇の声が聞こえし者が居れば、それも解るだろうにのう…」
~つづく~
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