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第三章
[第34話]東への旅路
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王都は大陸の最東端、蒼の聖殿が見守る湖地区と光の聖殿が見守る広大な平地の境目に位置しており、天馬による空の旅なら、二日から十日で辿り着ける。
特にこの季節は西から東の追風に乗り、最短日数で到着できるだろう。
秋も終わりを向かえる頃だが、この日は幸運にも気温は高めだった。
馭者台で黒髪を靡かせながら天馬を操るデュークの耳に、馬車の中で語り出すルシュアの声が届く。
「王都が建国されたのは25年程前になる。表向きはそれで国も周辺も安定したように見えていたが、実際は盗賊や山賊が増え、内乱も多発していた。その収束が覚束ないこともあってか、初代の王は10年前に暗殺された。現在の王は二代目、ということだ」
王都の歴史はデューク、セルティア、アリューシャは習得済みで問題ないが、イオリギやナチュアなどの世話役はそこまでの知識を得る機会もない。
謁見の前にある程度知っておきたいと、二人は真剣に耳を傾けていた。
サフォーネに至っては、二代目の王についてはまだ習っておらず、傍らで一生懸命理解しようとしている。
「二代目と言っても、世襲制ではないのよね。初代の王には子供も居なかったと言うし…」
「あぁ、二代目の王は都の外から現れた旅人だという話だ」
「…ということは…人望を得れば誰でもなれる可能性があるということですか?」
アリューシャの補足にルシュアが答えると、ナチュアは驚きの声を上げた。
「ある意味そうだな。その旅人は混沌とする賊たちの問題を片付けていき、最終的に初代王を討ったのも彼ではないかと言われている。…とにかく驚かないように言っておくが、その二代目の王には顔がないということだ」
「!」
「…顔がない…というのは…?」
「王都誕生前の戦争で被ったのか、顔はひどく損傷され、視力は片目のみ。言葉もうまく操れず、今は側近に代弁させて国を仕切っているらしい。誰もが見るに堪えない損傷のため、常に覆面を被っているそうだ」
「そのような障害を持ちながら国を纏められているということは、本当に人望が無ければできないでしょうね…」
セルティアの言葉に皆同意するように頷くと、アリューシャが呟いた。
「謎に包まれた祖人の王よね…。でも、どこで異端の天使を嫌うようになったのかしらね…」
問題はそこだった。
長の話では「蒼の聖殿は異端の天使に寛容すぎる」と、四半期の旅については、祖人の王から評価は得られなかったということだ。
「我々が向かうことは早駆けの伝令で明日には届くはずだ。こちらの容姿まで詳しく伝えてはいないから、王の目の前までは行けると思うがな…」
馬車の速度が落ちた。
幌の向こうからデュークの声が届く。
「滞在する町が見えてきた。降下する。念のためどこかに掴まっていてくれ」
町の名は『イマーク』。
蒼の聖殿が見守る土地に属するため、蒼の羽根人たちの滞在は歓迎するところだった。
クエナほど大きくない町だが、ここも祖人を中心に他の種族も共に生活している。
聖殿御用達の宿に到着すると、宿の主人が用意する部屋数を確認してきた。
「そうだな…単純に男女で分けていいものかどうか…」
一同を見渡して、ルシュアは言葉に詰まった。
考えてみれば、分けにくい面子ばかりだ。
イオリギが一歩前に出る。
「申し訳ありませんが、セルティア様を皆様と同室にするなど言語道断。別室を用意してください」
その気迫に皆たじろいだ。
天使団総団長という立場もあってか、集団生活において、セルティアは他の者と行動を共にすることは少ない。
四半期の旅でも、共用天幕の奥に個人用の天幕を構えてもらい、そこで寝泊まりをしたくらいだ。
入浴も人目につかないようにいつの間にか済ませる徹底ぶりで、その肌を見た者はいない。
一説ではその体には人に見せることができない、傷があるのだろうという噂もあった。
イオリギが身を挺する様子が、さらに噂の信憑性を増す。
「…そ、そうだな…ならば、セルティアとイオリギで一部屋。サフォーネとナチュアで一部屋。デュークと私で一部屋。アリューシャで一部屋。…と言ったところか?」
聖殿から出ている予算では、一人一部屋でも十分なくらい余裕もある。
しかし、旅には想定外の出費もつきものだ。それを考慮するなら、節約したいところは節約したい。
そう判断したルシュアの提案にアリューシャが答えた。
「え。あたしひとりで一部屋なんて勿体ないわ。サフォーネとナチュアさえ良ければ、同室でもいいけど」
「え。私は構いませんが…」
「サフォも!アリュとねんねする」
「そ、それはどうかしらね…」
サフォーネ故に許される言動に問題は無いと判断し、ルシュアは宿の主人に三部屋用意してもらうことにした。
「こちらの宿は天然の湯を使った外風呂が自慢でございますので、ぜひご利用くださいませ」
宿の主人の案内に浮き足だったのはルシュアとアリューシャだった。
大陸の地下には東西に大きな地脈があり、そこから枝分かれに南北へと伸びる小さな地脈が複数あると言われている。
地熱で温まった温水が吹き出した場所には、自然の湯もあるが、そういった場所に目を付ける人々によって町が造られることもある。
イマークもその一つだ。
それぞれが部屋でくつろいだ後、アリューシャを先頭にサフォーネとナチュアは意気揚々と外風呂に向かう。
「王都に向かう途中なら、絶対どこかで温泉地に寄ると思ったのよねぇ。まさか一日目に寄れるなんて、思ってもみなかったわ」
しかし、外風呂に続く脱衣所の看板を見て、アリューシャは固まった。
「うそ…混浴なの?」
「え…ど、どうしましょう…」
アリューシャの様子にナチュアも戸惑いを見せる。
個人的には分かれている方が悩むのだが、アリューシャとサフォーネを同じ湯に入れていいものか…。
脱衣所の中をくまなく確認すると、女性用の浴衣を見つけた。
「アリューシャ様、浴衣がありますよ。それに中には衝立もあるようですから…」
外風呂の案内図を見ながら、ナチュアがアリューシャとやり取りしているのを他所に、サフォーネは躊躇いもなく服を脱ぎ捨てると、外風呂に続く戸を勢いよく開けた。
「あ、デューク!」
その声に、浴衣を手にしたアリューシャとナチュアの心臓が跳ね上がった。
外風呂はかなりの湯気が立ち昇っているのか、脱衣所の中にも白い靄が滑り込んでくる。
その湯気に突進するようにサフォーネは外へ飛び出すと、そのまま湯に飛び込んだのか、激しい水音が脱衣所まで轟いた。
「…すごい!…デューク、おっきいね…すごい、おっきいね」
「こら、やめろ、サフォーネ!」
ばしゃばしゃと水音が響く中、聞こえてくるその会話は、顔を真っ赤にしたアリューシャの脳内をかけ巡った。
「…ちょ、ちょっと…大きい…って…なに…?何が大きいの…?」
「ア、アリューシャ様!」
アリューシャに煽られて、ナチュアまで変な想像に駆り立てられそうになり、慌てて頭を振る。
これはこのまま撤退するべきか…しかし、サフォーネの世話役として主を置いて行く訳にも行かず、どうしたものかあたふたしていると…。
「…おい、サフォーネ…何もつけてないのか?男性用の腰布もあっただろう…ナチュア?いるのか?」
「は、はいーー!す、すみませんっ…ただいま…」
デュークの声に反射的に世話役として体が動く。
男性用の腰布?動じながらも周囲を探すと、それが見つかった。
ナチュアが髪を纏め、慌てて浴衣に着替える様子に、アリューシャも続いた。
中の状況が解らないものの、ひとりで遅れて入る程、羞恥に耐える自信がない。
二人が揃って浴衣の前を手で隠すように入って行くと、湯船の中で音を立ててはしゃいでいるサフォーネと、それを落ち着かせようとしているデュークの姿があった。
「…なるほど…大きいわね…」
辺りを見渡してアリューシャは納得した。
外風呂の広さもさることながら、その場に引けを取らない、羽根人を模した大きな彫刻があった。
大きな岩湯の中央に設えられた彫刻と衝立は、完全に湯船を分断している訳ではなく、その反対側への行き来は気軽にできるようになっている。
岩湯の他にも小さな湯船も幾つかあるようで、その外周は樹木で覆われ、外からの視線を遮断していた。
これまでの日常とは違う景色に、サフォーネははしゃいでいるようだった。
「…あれ?ルシュアは…?」
アリューシャは首を傾げた。
当然来ているだろうと思ったルシュアの姿がない。
ナチュアはサフォーネ用に持ってきた腰布を取り出すと、デュークに手伝ってもらいながらサフォーネに身に付けさせた。
「…あぁ、あいつなら…」
デュークが衝立の向こうに視線を送る。
湯気の向こうで楽し気な数人の女性の声とルシュアの声が届いてきた。
「そうでしたの…大事な旅の途中なんですね…」
「その途中で、このように、貴女たちのような美しい女性に逢えるなんて、私は本当に運がいい…」
「まぁ、素敵なことを仰いますのね…」
その会話にげんなりした顔をしながら、アリューシャが静かに湯船に入って行く。
サフォーネは腰布を気にしつつも、デュークとナチュアから解放されて、再び湯船の中でぱしゃぱしゃと音を立てながらはしゃいでる。
ナチュアも続こうと思ったが、はっとなってその場に固まった。
(私のような者が皆様と同じ湯に入るなんて…)
このような事態を想定した教えは受けていない。
どうしたものかと躊躇っていると、デュークが手を差し伸べてきた。
「何してるんだ?そのままでは風邪を引く。温まった方がいい」
その手を見つめて頬が上気するのは湯気のせいだろうか…ナチュアは遠慮がちにその手を取ると、静かに湯船に滑り込んだ。
お湯は程よい温度で、ほっと息をついたが、日頃敬うべき人々が周りにいる緊張感にナチュアが委縮していると、アリューシャがぽつりと呟いた。
「やっぱ、セルティアは来ないわね…」
その言葉にナチュアは少しだけ肩の力が抜ける。
傍らでは大きな湯船に興奮して、あちこち行こうとしているサフォーネを、デュークが落ち着かせようとしている。
同じ湯に入って気にしているのは自分だけか…。
「…そうですね…内風呂もありましたから、そちらで旅の疲れを落とされているのではないでしょうか…」
日頃の様子から、とてもこのような場所にセルティアが来るとは思えないし、同室になることも拒むくらいのイオリギが許す筈も無いと思った。
「まぁ、それでもいいんだけどね…。ねぇ、ナチュアはどっちだと思う?」
「え?」
「セルティアよ…男なのか、女なのか…」
「そ、…そんなこと考えたことも…」
セルティアの性別は一切謎に包まれている。
両性体の身で他人の、増してや浄清の天使団長の性別を推測するなどおこがましいと、言い淀むナチュアに助け舟を出すよう、衝立の上から声が降ってきた。
「セルティアの美しさに性別など必要か?」
見上げればそこにはルシュアが居た。
「あら。大もての蒼の騎士団長さんは、女性たちのお相手が忙しいんじゃなかったの?」
アリューシャの嫌味にルシュアが顔を覆う。
「…それを言うな…。…湯気で良く見えなかったが…皆、ジャンシェンだった…」
ジャンシェンとは、闇の騎士団第六部隊の副隊長で、強面で厳つい体に女性の心を持つ、いわゆるオネエ系だ。
その言葉にサフォーネを除き全員が大笑いした。
ルシュアは軽く肩を聳やかすと、湯船につかりながら慰めを求めるようにデュークの元へすり寄ってきた。
それを見て、デュークを取られまいと、サフォーネがルシュアを引き離そうとすると、逆にルシュアに抱きしめられ、それをデュークが引きはがそうとする。
その度に上がる水飛沫にナチュアとアリューシャは手で避けながら笑いが絶えなかった。
「あはは。…こういうのもたまにはいいわよね…。本当に、セルティアとイオリギもくればいいのにさー」
見上げた夜空には星が綺麗に瞬いていた。
翌日は、宿屋に昼食用の弁当を用意してもらい、早めに出立した。
天候が荒れる気配もない、順調な旅だった。
「あと途中の町で一泊すれば、次の日には王都の領内に入れるだろう。その辺に立ち寄れそうな場所はあるか?」
デュークに代わり、御車台に座ったルシュアから、幌の中に声が掛かる。
「小さな集落なら点々としてるみたいだけど…イマークと王都の中央地点だど『イパワラ』があるわね。かなり大きな都市だけど…どちらかと言えば光の聖殿とか、王都側に入るのかしらね…」
広げた地図を見てアリューシャが溜息を零した。
「光の聖殿側?王都側?…というのは、どういうことでしょう?」
ナチュアが素直に疑問をぶつけてくると、デュークが口を挟んできた。
「つまり、異端の天使に対して厳しい町、ということだ…」
「あ…」
その言葉に、改めて外の世界を旅していることに気づかせられる。
蒼の聖殿の中では思ってもみない、異端の天使に対する偏見と憎悪。
中には、それを教えとする宗教もあるらしい。
ナチュアは急に心細くなった。
「…そうか…できれば避けたいところだが…王都への途中連絡を入れるとなると、立ち寄りは必要になるな…」
ルシュアの言葉にデュークも考える。
「滞在中は翼を出さないように気を付けよう。イパワラはほぼ祖人の町だ。俺とサフォーネ、あとはアリューシャもか。頭巾で髪を覆えば、仮に羽根人が居たとしても解らないだろう」
羽根人同士ならば互いに感知できる能力。
しかし、その色や形まで判別できるものではない。
デュークの提案に皆頷いた。
イパワラに到着すると、まず王都へ早駆けの伝令を頼んだ。
これで今夜中には、明日の昼前に到着する事を知らせることができる。
その足で宿屋を探し、宿泊手続きを済ませたのが夕刻前。
宿の主人からの案内で、町はこの時期、遅くまで市が開催されているという情報を聞きつけた。
「ぜひ見に行きたいわ!」
「駄目だ」
アリューシャの好奇心が爆発するが、珍しくルシュアが反対した。
「!…何でよ。ちょっと覗いてくるだけよ。頭巾もしっかり被って気を付けるから」
「どれだけの人が来てるか、想像はつくだろう。その中ではぐれたりしたらどうするんだ。昼間見た感じでは、この町の治安はあまり良くない。護衛に私やデュークが付いて行くことになれば、それだけこちらの人数も目立つしな」
「…そんなこと言って…あんた、夜中にひとりで町に繰り出す気でしょ?」
「う」
アリューシャの言葉は図星だったか、ルシュアは言葉に詰まった。
「そんなズル許さないんだから。行くならみんなで行きましょうよ」
アリューシャの熱意に押され、結局皆で町に繰り出すことにした。
市は朝と夜で並ぶ店も変わるようで、この時間帯は酒を提供したり、摘まみになりそうな惣菜を売っている店ばかりだった。
市を行きかう人々は祖人が占めていた。
翼を隠した羽根人がいるとすれば、休暇で訪れる者か、何らかの理由で聖殿を出た者か…。
とにかく同族と出くわすということは稀であり、翼さえ格納していれば気づかれることも無いだろう。
他種族には、それでも羽根人だと判別する者たちもいるが、見た限りその心配も無かった。
アリューシャが出店の一角に座って食事ができる場所を見つけた。
「ここが良いわ。セルティアとサフォーネは座ってて。イオリギ、ナチュア、料理運ぶの手伝ってよ」
アリューシャが場を仕切り、いろいろな屋台から料理を注文して運んでくる。
五人が座ったテーブルはたちまち皿で埋まった。
「随分と刺激の強い食べ物が多そうですね…」
様々な匂いの情報にセルティアが戸惑っていると、アリューシャが取り皿に分けて差し出した。
「聖殿じゃお目に掛かれないものばかりよ?セルティアも絶対はまると思うわ」
それを見たイオリギとナチュアも同じように他の料理を小分けし始める。
セルティアは恐る恐るその中の一つを手に取り、食してみた。
「!…これは…」
「セルティア様、無理はなさらずに…」
「…いえ。なかなかの美味ですよ?イオリギも食べてみなさい」
俗的な料理にイオリギが心配するが、セルティアは思いの外、その雰囲気に馴染み始めたようだ。
昨夜の分も距離が縮められそうだと、アリューシャもナチュアも顔を見合わせて微笑んだ。
「ナチュ…。て、べたべた…」
「!…あぁ、サフォーネ様…お口の周りも…」
料理についているソースで、口の周りを汚しているサフォーネに気づき、ナチュアが慌てて手布で拭き取る。
珍しい惣菜に舌鼓を打つ仲間たちを見守りながら、デュークとルシュアは盃を片手に周囲に目を配っていた。
「…それにしても。格差はひどいものだな…」
賑わう市の傍ら、細い路地には行く当てがないのか、ぼろ布を纏った人たちが数人、暗闇の中に潜んでいた。
中には市に来た人に恵んでもらおうと掛け合い、突き飛ばされている輩もいた。
日常茶飯事なのか、その騒ぎを気に留める者もいない。
何か揉め事のようなことがあっても、駆け付ける衛兵も居ないのだろう。やはり治安の悪さが伺えた。
「大きな都市ほど、細部まで目が行き届かないものだ…」
イパワラの町だけではない。
そんな町を旅の間見ていたデュークは、突き飛ばされた男の元へ歩み寄って行った。
「おい、デューク?」
何をするつもりなのか、デュークの動向を気にしつつも、食事を楽しんでいる五人から離れる訳にもいかず、ルシュアはその場に佇んだ。
デュークはその男の元へ歩み寄ると膝を付き、懐から財嚢を取り出した。
「何日食べていない?これをやるから、あんたの連れにも分けてやれ」
男はかなり傷んだ山高帽子を被っていた。服は薄汚れ、綻びた執務服のようなものを着ている。
その山高帽の男の後ろには、元は豪族か、その痕跡を残す身なりをしつつも、ぼろ布を纏っている中年の男が居た。
差し詰め二人は主従関係で、山高帽の男は主人のために物を恵んでもらおうとしていた様子だった。
声を掛けられた男は、虚ろな目をデュークに向けた。
気の強そうな吊り目も空腹に叶わず、すっかり力を失っているように見えたが、その目がどんどん見開かれる。
「…お前…まさか…あの時の……」
「…え?」
その少し気取ったような、高い声の特徴に聞き覚えがあった。
驚いて声を失っている山高帽の男の元に、その主人と思われる中年の男性が近づいてくる。
「ウィスカ…何をしておる…その御方はなんと…?」
「……ウィスカ…?」
その名前を口にして、デュークははっとなった。
デュークがまだメルクロの家に居た頃に、メルクロを王都の医師として勧誘しようと訪ねてきたイパワラの領主・ユニヴァスの使い…。
「……随分と落ちぶれたもんだな…」
その言葉に、ウィスカはきっと睨みつけると、差し出された財嚢を奪い取った。
「あのメルクロさえ、王都の医師として差し出せば、こんなことにはならなかったかもしれないのに…あんたたちの所為よ!」
その言葉で全て察したのか、ユニヴァスがウィスカの前に出てきてデュークに頭を下げた。
「持っていた土地が、全て魔烟にやられましてな…。未だ緑も戻らないでいるのです。メルクロ氏を王都の医師に推薦した報酬として賜る予定だった土地も全て…ですよ。困った世になったものです…。こいつめの無礼を赦してやってください。お恵み、感謝します…」
この辺の地主は、主に人を雇って農作物や植樹材木で財をなす者が多い。
その土地が全て駄目になったということは、生計も立てられなくなったのだろう。
「もうしばらく耐えてくれ。そうすれば、必ず救いが訪れる」
間もなく、再生の力で、痩せた土地が蘇ることになる…。
まだそれをはっきりと告げることができないデュークの言葉は、気休めとしか届かなかったか、ユニヴァスは再び頭を下げて去って行ったが、ウィスカは一度も振り返らなかった。
その時、背後に届いた声にデュークは背筋が凍った。
「異端の天使が…こんなところで何している!」
振り返れば、頭巾が取れて頭部の翼が露になったアリューシャと、それを庇うように翼を放出したサフォーネの姿があった。
~つづく~
特にこの季節は西から東の追風に乗り、最短日数で到着できるだろう。
秋も終わりを向かえる頃だが、この日は幸運にも気温は高めだった。
馭者台で黒髪を靡かせながら天馬を操るデュークの耳に、馬車の中で語り出すルシュアの声が届く。
「王都が建国されたのは25年程前になる。表向きはそれで国も周辺も安定したように見えていたが、実際は盗賊や山賊が増え、内乱も多発していた。その収束が覚束ないこともあってか、初代の王は10年前に暗殺された。現在の王は二代目、ということだ」
王都の歴史はデューク、セルティア、アリューシャは習得済みで問題ないが、イオリギやナチュアなどの世話役はそこまでの知識を得る機会もない。
謁見の前にある程度知っておきたいと、二人は真剣に耳を傾けていた。
サフォーネに至っては、二代目の王についてはまだ習っておらず、傍らで一生懸命理解しようとしている。
「二代目と言っても、世襲制ではないのよね。初代の王には子供も居なかったと言うし…」
「あぁ、二代目の王は都の外から現れた旅人だという話だ」
「…ということは…人望を得れば誰でもなれる可能性があるということですか?」
アリューシャの補足にルシュアが答えると、ナチュアは驚きの声を上げた。
「ある意味そうだな。その旅人は混沌とする賊たちの問題を片付けていき、最終的に初代王を討ったのも彼ではないかと言われている。…とにかく驚かないように言っておくが、その二代目の王には顔がないということだ」
「!」
「…顔がない…というのは…?」
「王都誕生前の戦争で被ったのか、顔はひどく損傷され、視力は片目のみ。言葉もうまく操れず、今は側近に代弁させて国を仕切っているらしい。誰もが見るに堪えない損傷のため、常に覆面を被っているそうだ」
「そのような障害を持ちながら国を纏められているということは、本当に人望が無ければできないでしょうね…」
セルティアの言葉に皆同意するように頷くと、アリューシャが呟いた。
「謎に包まれた祖人の王よね…。でも、どこで異端の天使を嫌うようになったのかしらね…」
問題はそこだった。
長の話では「蒼の聖殿は異端の天使に寛容すぎる」と、四半期の旅については、祖人の王から評価は得られなかったということだ。
「我々が向かうことは早駆けの伝令で明日には届くはずだ。こちらの容姿まで詳しく伝えてはいないから、王の目の前までは行けると思うがな…」
馬車の速度が落ちた。
幌の向こうからデュークの声が届く。
「滞在する町が見えてきた。降下する。念のためどこかに掴まっていてくれ」
町の名は『イマーク』。
蒼の聖殿が見守る土地に属するため、蒼の羽根人たちの滞在は歓迎するところだった。
クエナほど大きくない町だが、ここも祖人を中心に他の種族も共に生活している。
聖殿御用達の宿に到着すると、宿の主人が用意する部屋数を確認してきた。
「そうだな…単純に男女で分けていいものかどうか…」
一同を見渡して、ルシュアは言葉に詰まった。
考えてみれば、分けにくい面子ばかりだ。
イオリギが一歩前に出る。
「申し訳ありませんが、セルティア様を皆様と同室にするなど言語道断。別室を用意してください」
その気迫に皆たじろいだ。
天使団総団長という立場もあってか、集団生活において、セルティアは他の者と行動を共にすることは少ない。
四半期の旅でも、共用天幕の奥に個人用の天幕を構えてもらい、そこで寝泊まりをしたくらいだ。
入浴も人目につかないようにいつの間にか済ませる徹底ぶりで、その肌を見た者はいない。
一説ではその体には人に見せることができない、傷があるのだろうという噂もあった。
イオリギが身を挺する様子が、さらに噂の信憑性を増す。
「…そ、そうだな…ならば、セルティアとイオリギで一部屋。サフォーネとナチュアで一部屋。デュークと私で一部屋。アリューシャで一部屋。…と言ったところか?」
聖殿から出ている予算では、一人一部屋でも十分なくらい余裕もある。
しかし、旅には想定外の出費もつきものだ。それを考慮するなら、節約したいところは節約したい。
そう判断したルシュアの提案にアリューシャが答えた。
「え。あたしひとりで一部屋なんて勿体ないわ。サフォーネとナチュアさえ良ければ、同室でもいいけど」
「え。私は構いませんが…」
「サフォも!アリュとねんねする」
「そ、それはどうかしらね…」
サフォーネ故に許される言動に問題は無いと判断し、ルシュアは宿の主人に三部屋用意してもらうことにした。
「こちらの宿は天然の湯を使った外風呂が自慢でございますので、ぜひご利用くださいませ」
宿の主人の案内に浮き足だったのはルシュアとアリューシャだった。
大陸の地下には東西に大きな地脈があり、そこから枝分かれに南北へと伸びる小さな地脈が複数あると言われている。
地熱で温まった温水が吹き出した場所には、自然の湯もあるが、そういった場所に目を付ける人々によって町が造られることもある。
イマークもその一つだ。
それぞれが部屋でくつろいだ後、アリューシャを先頭にサフォーネとナチュアは意気揚々と外風呂に向かう。
「王都に向かう途中なら、絶対どこかで温泉地に寄ると思ったのよねぇ。まさか一日目に寄れるなんて、思ってもみなかったわ」
しかし、外風呂に続く脱衣所の看板を見て、アリューシャは固まった。
「うそ…混浴なの?」
「え…ど、どうしましょう…」
アリューシャの様子にナチュアも戸惑いを見せる。
個人的には分かれている方が悩むのだが、アリューシャとサフォーネを同じ湯に入れていいものか…。
脱衣所の中をくまなく確認すると、女性用の浴衣を見つけた。
「アリューシャ様、浴衣がありますよ。それに中には衝立もあるようですから…」
外風呂の案内図を見ながら、ナチュアがアリューシャとやり取りしているのを他所に、サフォーネは躊躇いもなく服を脱ぎ捨てると、外風呂に続く戸を勢いよく開けた。
「あ、デューク!」
その声に、浴衣を手にしたアリューシャとナチュアの心臓が跳ね上がった。
外風呂はかなりの湯気が立ち昇っているのか、脱衣所の中にも白い靄が滑り込んでくる。
その湯気に突進するようにサフォーネは外へ飛び出すと、そのまま湯に飛び込んだのか、激しい水音が脱衣所まで轟いた。
「…すごい!…デューク、おっきいね…すごい、おっきいね」
「こら、やめろ、サフォーネ!」
ばしゃばしゃと水音が響く中、聞こえてくるその会話は、顔を真っ赤にしたアリューシャの脳内をかけ巡った。
「…ちょ、ちょっと…大きい…って…なに…?何が大きいの…?」
「ア、アリューシャ様!」
アリューシャに煽られて、ナチュアまで変な想像に駆り立てられそうになり、慌てて頭を振る。
これはこのまま撤退するべきか…しかし、サフォーネの世話役として主を置いて行く訳にも行かず、どうしたものかあたふたしていると…。
「…おい、サフォーネ…何もつけてないのか?男性用の腰布もあっただろう…ナチュア?いるのか?」
「は、はいーー!す、すみませんっ…ただいま…」
デュークの声に反射的に世話役として体が動く。
男性用の腰布?動じながらも周囲を探すと、それが見つかった。
ナチュアが髪を纏め、慌てて浴衣に着替える様子に、アリューシャも続いた。
中の状況が解らないものの、ひとりで遅れて入る程、羞恥に耐える自信がない。
二人が揃って浴衣の前を手で隠すように入って行くと、湯船の中で音を立ててはしゃいでいるサフォーネと、それを落ち着かせようとしているデュークの姿があった。
「…なるほど…大きいわね…」
辺りを見渡してアリューシャは納得した。
外風呂の広さもさることながら、その場に引けを取らない、羽根人を模した大きな彫刻があった。
大きな岩湯の中央に設えられた彫刻と衝立は、完全に湯船を分断している訳ではなく、その反対側への行き来は気軽にできるようになっている。
岩湯の他にも小さな湯船も幾つかあるようで、その外周は樹木で覆われ、外からの視線を遮断していた。
これまでの日常とは違う景色に、サフォーネははしゃいでいるようだった。
「…あれ?ルシュアは…?」
アリューシャは首を傾げた。
当然来ているだろうと思ったルシュアの姿がない。
ナチュアはサフォーネ用に持ってきた腰布を取り出すと、デュークに手伝ってもらいながらサフォーネに身に付けさせた。
「…あぁ、あいつなら…」
デュークが衝立の向こうに視線を送る。
湯気の向こうで楽し気な数人の女性の声とルシュアの声が届いてきた。
「そうでしたの…大事な旅の途中なんですね…」
「その途中で、このように、貴女たちのような美しい女性に逢えるなんて、私は本当に運がいい…」
「まぁ、素敵なことを仰いますのね…」
その会話にげんなりした顔をしながら、アリューシャが静かに湯船に入って行く。
サフォーネは腰布を気にしつつも、デュークとナチュアから解放されて、再び湯船の中でぱしゃぱしゃと音を立てながらはしゃいでる。
ナチュアも続こうと思ったが、はっとなってその場に固まった。
(私のような者が皆様と同じ湯に入るなんて…)
このような事態を想定した教えは受けていない。
どうしたものかと躊躇っていると、デュークが手を差し伸べてきた。
「何してるんだ?そのままでは風邪を引く。温まった方がいい」
その手を見つめて頬が上気するのは湯気のせいだろうか…ナチュアは遠慮がちにその手を取ると、静かに湯船に滑り込んだ。
お湯は程よい温度で、ほっと息をついたが、日頃敬うべき人々が周りにいる緊張感にナチュアが委縮していると、アリューシャがぽつりと呟いた。
「やっぱ、セルティアは来ないわね…」
その言葉にナチュアは少しだけ肩の力が抜ける。
傍らでは大きな湯船に興奮して、あちこち行こうとしているサフォーネを、デュークが落ち着かせようとしている。
同じ湯に入って気にしているのは自分だけか…。
「…そうですね…内風呂もありましたから、そちらで旅の疲れを落とされているのではないでしょうか…」
日頃の様子から、とてもこのような場所にセルティアが来るとは思えないし、同室になることも拒むくらいのイオリギが許す筈も無いと思った。
「まぁ、それでもいいんだけどね…。ねぇ、ナチュアはどっちだと思う?」
「え?」
「セルティアよ…男なのか、女なのか…」
「そ、…そんなこと考えたことも…」
セルティアの性別は一切謎に包まれている。
両性体の身で他人の、増してや浄清の天使団長の性別を推測するなどおこがましいと、言い淀むナチュアに助け舟を出すよう、衝立の上から声が降ってきた。
「セルティアの美しさに性別など必要か?」
見上げればそこにはルシュアが居た。
「あら。大もての蒼の騎士団長さんは、女性たちのお相手が忙しいんじゃなかったの?」
アリューシャの嫌味にルシュアが顔を覆う。
「…それを言うな…。…湯気で良く見えなかったが…皆、ジャンシェンだった…」
ジャンシェンとは、闇の騎士団第六部隊の副隊長で、強面で厳つい体に女性の心を持つ、いわゆるオネエ系だ。
その言葉にサフォーネを除き全員が大笑いした。
ルシュアは軽く肩を聳やかすと、湯船につかりながら慰めを求めるようにデュークの元へすり寄ってきた。
それを見て、デュークを取られまいと、サフォーネがルシュアを引き離そうとすると、逆にルシュアに抱きしめられ、それをデュークが引きはがそうとする。
その度に上がる水飛沫にナチュアとアリューシャは手で避けながら笑いが絶えなかった。
「あはは。…こういうのもたまにはいいわよね…。本当に、セルティアとイオリギもくればいいのにさー」
見上げた夜空には星が綺麗に瞬いていた。
翌日は、宿屋に昼食用の弁当を用意してもらい、早めに出立した。
天候が荒れる気配もない、順調な旅だった。
「あと途中の町で一泊すれば、次の日には王都の領内に入れるだろう。その辺に立ち寄れそうな場所はあるか?」
デュークに代わり、御車台に座ったルシュアから、幌の中に声が掛かる。
「小さな集落なら点々としてるみたいだけど…イマークと王都の中央地点だど『イパワラ』があるわね。かなり大きな都市だけど…どちらかと言えば光の聖殿とか、王都側に入るのかしらね…」
広げた地図を見てアリューシャが溜息を零した。
「光の聖殿側?王都側?…というのは、どういうことでしょう?」
ナチュアが素直に疑問をぶつけてくると、デュークが口を挟んできた。
「つまり、異端の天使に対して厳しい町、ということだ…」
「あ…」
その言葉に、改めて外の世界を旅していることに気づかせられる。
蒼の聖殿の中では思ってもみない、異端の天使に対する偏見と憎悪。
中には、それを教えとする宗教もあるらしい。
ナチュアは急に心細くなった。
「…そうか…できれば避けたいところだが…王都への途中連絡を入れるとなると、立ち寄りは必要になるな…」
ルシュアの言葉にデュークも考える。
「滞在中は翼を出さないように気を付けよう。イパワラはほぼ祖人の町だ。俺とサフォーネ、あとはアリューシャもか。頭巾で髪を覆えば、仮に羽根人が居たとしても解らないだろう」
羽根人同士ならば互いに感知できる能力。
しかし、その色や形まで判別できるものではない。
デュークの提案に皆頷いた。
イパワラに到着すると、まず王都へ早駆けの伝令を頼んだ。
これで今夜中には、明日の昼前に到着する事を知らせることができる。
その足で宿屋を探し、宿泊手続きを済ませたのが夕刻前。
宿の主人からの案内で、町はこの時期、遅くまで市が開催されているという情報を聞きつけた。
「ぜひ見に行きたいわ!」
「駄目だ」
アリューシャの好奇心が爆発するが、珍しくルシュアが反対した。
「!…何でよ。ちょっと覗いてくるだけよ。頭巾もしっかり被って気を付けるから」
「どれだけの人が来てるか、想像はつくだろう。その中ではぐれたりしたらどうするんだ。昼間見た感じでは、この町の治安はあまり良くない。護衛に私やデュークが付いて行くことになれば、それだけこちらの人数も目立つしな」
「…そんなこと言って…あんた、夜中にひとりで町に繰り出す気でしょ?」
「う」
アリューシャの言葉は図星だったか、ルシュアは言葉に詰まった。
「そんなズル許さないんだから。行くならみんなで行きましょうよ」
アリューシャの熱意に押され、結局皆で町に繰り出すことにした。
市は朝と夜で並ぶ店も変わるようで、この時間帯は酒を提供したり、摘まみになりそうな惣菜を売っている店ばかりだった。
市を行きかう人々は祖人が占めていた。
翼を隠した羽根人がいるとすれば、休暇で訪れる者か、何らかの理由で聖殿を出た者か…。
とにかく同族と出くわすということは稀であり、翼さえ格納していれば気づかれることも無いだろう。
他種族には、それでも羽根人だと判別する者たちもいるが、見た限りその心配も無かった。
アリューシャが出店の一角に座って食事ができる場所を見つけた。
「ここが良いわ。セルティアとサフォーネは座ってて。イオリギ、ナチュア、料理運ぶの手伝ってよ」
アリューシャが場を仕切り、いろいろな屋台から料理を注文して運んでくる。
五人が座ったテーブルはたちまち皿で埋まった。
「随分と刺激の強い食べ物が多そうですね…」
様々な匂いの情報にセルティアが戸惑っていると、アリューシャが取り皿に分けて差し出した。
「聖殿じゃお目に掛かれないものばかりよ?セルティアも絶対はまると思うわ」
それを見たイオリギとナチュアも同じように他の料理を小分けし始める。
セルティアは恐る恐るその中の一つを手に取り、食してみた。
「!…これは…」
「セルティア様、無理はなさらずに…」
「…いえ。なかなかの美味ですよ?イオリギも食べてみなさい」
俗的な料理にイオリギが心配するが、セルティアは思いの外、その雰囲気に馴染み始めたようだ。
昨夜の分も距離が縮められそうだと、アリューシャもナチュアも顔を見合わせて微笑んだ。
「ナチュ…。て、べたべた…」
「!…あぁ、サフォーネ様…お口の周りも…」
料理についているソースで、口の周りを汚しているサフォーネに気づき、ナチュアが慌てて手布で拭き取る。
珍しい惣菜に舌鼓を打つ仲間たちを見守りながら、デュークとルシュアは盃を片手に周囲に目を配っていた。
「…それにしても。格差はひどいものだな…」
賑わう市の傍ら、細い路地には行く当てがないのか、ぼろ布を纏った人たちが数人、暗闇の中に潜んでいた。
中には市に来た人に恵んでもらおうと掛け合い、突き飛ばされている輩もいた。
日常茶飯事なのか、その騒ぎを気に留める者もいない。
何か揉め事のようなことがあっても、駆け付ける衛兵も居ないのだろう。やはり治安の悪さが伺えた。
「大きな都市ほど、細部まで目が行き届かないものだ…」
イパワラの町だけではない。
そんな町を旅の間見ていたデュークは、突き飛ばされた男の元へ歩み寄って行った。
「おい、デューク?」
何をするつもりなのか、デュークの動向を気にしつつも、食事を楽しんでいる五人から離れる訳にもいかず、ルシュアはその場に佇んだ。
デュークはその男の元へ歩み寄ると膝を付き、懐から財嚢を取り出した。
「何日食べていない?これをやるから、あんたの連れにも分けてやれ」
男はかなり傷んだ山高帽子を被っていた。服は薄汚れ、綻びた執務服のようなものを着ている。
その山高帽の男の後ろには、元は豪族か、その痕跡を残す身なりをしつつも、ぼろ布を纏っている中年の男が居た。
差し詰め二人は主従関係で、山高帽の男は主人のために物を恵んでもらおうとしていた様子だった。
声を掛けられた男は、虚ろな目をデュークに向けた。
気の強そうな吊り目も空腹に叶わず、すっかり力を失っているように見えたが、その目がどんどん見開かれる。
「…お前…まさか…あの時の……」
「…え?」
その少し気取ったような、高い声の特徴に聞き覚えがあった。
驚いて声を失っている山高帽の男の元に、その主人と思われる中年の男性が近づいてくる。
「ウィスカ…何をしておる…その御方はなんと…?」
「……ウィスカ…?」
その名前を口にして、デュークははっとなった。
デュークがまだメルクロの家に居た頃に、メルクロを王都の医師として勧誘しようと訪ねてきたイパワラの領主・ユニヴァスの使い…。
「……随分と落ちぶれたもんだな…」
その言葉に、ウィスカはきっと睨みつけると、差し出された財嚢を奪い取った。
「あのメルクロさえ、王都の医師として差し出せば、こんなことにはならなかったかもしれないのに…あんたたちの所為よ!」
その言葉で全て察したのか、ユニヴァスがウィスカの前に出てきてデュークに頭を下げた。
「持っていた土地が、全て魔烟にやられましてな…。未だ緑も戻らないでいるのです。メルクロ氏を王都の医師に推薦した報酬として賜る予定だった土地も全て…ですよ。困った世になったものです…。こいつめの無礼を赦してやってください。お恵み、感謝します…」
この辺の地主は、主に人を雇って農作物や植樹材木で財をなす者が多い。
その土地が全て駄目になったということは、生計も立てられなくなったのだろう。
「もうしばらく耐えてくれ。そうすれば、必ず救いが訪れる」
間もなく、再生の力で、痩せた土地が蘇ることになる…。
まだそれをはっきりと告げることができないデュークの言葉は、気休めとしか届かなかったか、ユニヴァスは再び頭を下げて去って行ったが、ウィスカは一度も振り返らなかった。
その時、背後に届いた声にデュークは背筋が凍った。
「異端の天使が…こんなところで何している!」
振り返れば、頭巾が取れて頭部の翼が露になったアリューシャと、それを庇うように翼を放出したサフォーネの姿があった。
~つづく~
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