サフォネリアの咲く頃

水星直己

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第二章

[第18話]リマノラ

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緑の聖都の片隅にある、朽ちかけた杜族の屋敷…。
通された家の中は、思ったより荒れてはいなかった。
新緑を思わせる調度品の色と、蔦の絡まる窓から差し込む陽の光で、森の中に迷い込んだ錯覚もあったが…。

ゆっくりと室内を見渡すデュークとアリューシャの隣で、ルシュアが女性に尋ねた。

「リマノラは、ここで産まれたんですね?」

その言葉に、僅かに口の端を上げて笑ったような女性は、二階へ続く階段を見上げながら答えた。

「お嬢様は…このお屋敷の大事なひとり娘でした。私はお嬢様の乳母を務めておりました…」

語られる言葉は全て過去のもの。
やはり、リマノラはもう居ないのか…。

「いつか、お嬢様が犯した罪のことで、誰かが訪ねてくると思い…誰も居なくなったお屋敷で、私はずっとお待ちしていたのです…」

「リマノラが…犯した罪…」

反芻するようにデュークが呟いた。
立ち尽くす三人に、女性は居間のテーブルへつくように促す。
ゆったりとした八人掛けのテーブルに、三人は並んで座った。
女性が慣れた手つきでお茶を淹れ始める。
それは、自分が仕えた主人のことをゆっくり語らせてください、という思いにも見えた。

目の前に出された器の中に、デュークは視線を落とす。
そこには、怒りよりも悲しみに近い己の顔があった。

それぞれがお茶を口にしたところで、女性は向かいの席に座った。
三人が黙ってこちらを見つめてくるのは、話しやすい頃合いを待ってくれているのか…女性はひとつ息を吐いた。

「これから話すこと…それだけを受け止めてください。お嬢さまは罪を犯しました…でもそれは…お嬢様だけのせいでは無いことも…それだけは…」

僅かな沈黙の後、ゆっくり頷いたのはアリューシャとルシュアだった。
デュークだけ頷かなかったのを見た女性は、諦めたような小さな笑みを浮かべ、俯いて語り出した。


「リマノラお嬢様は…とても美しく、愛らしい方でした。
好奇心も旺盛で、誰にでもお優しく…。
お嬢様を妬んで意地悪をする相手ですら、いつの間にかお嬢様を好きになる…。
この世にお嬢様を嫌う人など居ないのではないか、と言うほどに…。
その美貌と人柄に、言い寄ってくる殿方も多くいたのですが、お嬢様には幼い頃からお慕いする方がいらしたのです。その方は…」

不意に、遠くで轟く雷鳴が聞こえてきた。
女性は「すみません、失礼します」と言って席を立ち、開け放たれていた窓を閉めにいった。

「リマノラの性格を聞いていると、サフォーネが思い浮かぶわね…」

「……」

そっと静かに呟いたアリューシャの声をデュークは黙って受け止めた。
やがて戻ってきた女性が、改めて語り出す。

「…その方は、当時の緑の騎士団長、お嬢様の従兄に当たる方でした。
騎士団長はお嬢様より十歳も年上で、別の方と結ばれましたが…お嬢様はそれでもいいのだと、密かに想い続けておられました。

十四の歳に、浄清の能力を開花したお嬢様は、聖殿に入ることになりました。
騎士団長のお傍に近づける…そう喜んでおられましたが…お二人の立場上、以前よりも気軽に会える筈もなく…。

休暇を頂いてここに帰った時、お嬢様は話して下さいました。
『彼に会えない日々が続き…苦しさのあまり、その思いをぶつけた』と…。
ですが…」

「騎士団長は受け入れなかった…」

「…はい。騎士団長にとって、お嬢様は昔から妹のような存在…。
そして、規律を重んじる義理堅いお人柄でした…。
『妻も居る身、受け入れることはできない』と…はっきり言われたそうです…」

再び雷鳴が轟く。
外を見ると、暗く陰り、雨雲は近くまで来ているようだった。
窓の外を見つめながら、女性は再び口を開いた。

「…しかし、この雷鳴のように予期しないことが起きたのです…」

視線を戻した女性の顔色が変わっていた。
強張った表情で大きく深呼吸すると、震える声で言葉を続けた。

「お嬢様が体調を崩したという話を受け、私は聖殿に見舞いに行きました…。
するとそのお腹には…子供が……お嬢様は、お子を授かっていたのです。
その時、お嬢様はまだ十五歳でした…」

突然、窓の外を閃く稲光に、アリューシャが「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
女性の話にルシュアが唸り声をあげる。

「まさか…お相手は…その騎士団長、だったのですか?しかし、そんなことをすれば…」

「はい。浄清の天使…特に女性は、異性との精通があればその能力は衰え、さらに子供を宿せばその力を失います。
私は信じられなかった…お嬢様を大事に思って下さるなら、そんなことは決して無いと…」

女性は当時の悔しさを思い出し、涙ぐんだ。
その涙を拭うようにとアリューシャが手布を差し出すと、「ありがとうございます」と受け取り、静かに目頭に当てた。

「お嬢様は、騎士団長を責めないで、と言いました。
浄清の力を失うことは寂しいけれど、それよりも、彼の心が一夜だけでも自分に向けられたことが嬉しかったのだと…。
そして、授かった子供は大事に育てるのだと…。

責任を感じて、全てを明らかにしようとする騎士団長を説き伏せ、お嬢様は誰の子かを明かすことなく聖殿を去り、この屋敷に戻られました。
遠くの空に、騎士団たちが魔烟を祓いに行く様子を、ここから祈るように眺めながら、日に日に大きくなるお腹の子を慈しんでおられました。

時折、送り主の名前が無い、子育てのための品が届くのも、嬉しそうに受け取られていました…」

リマノラは愛する人の子を宿し、それを喜んでいた…。
それなのに何故…デュークは拳を握る力を籠め、話の続きに耳を傾けた。

「そして、十五年に一度の大闇祓い。
緑の聖殿が請け負う戦いでした。
騎士団長の無事を祈りながら、お嬢様は産気づきました。
酷い難産で、丸一日…階下でお嬢様のご両親が心配する中、この屋敷の二階で、お嬢様は男の子を産み落とされたのです。
取り上げたのは私でした…」

女性は当時を思い出すように、両手で見えない赤子を掬う。
しかし、その手は徐々に震え始めた。

「…その子の髪を見て…私は息を呑みました。
力尽き、気を失いかけていたお嬢様に見られないように隠すべきか…そこまで考えました。

ですが、子供の顔を見たがるお嬢様に、私は恐れながらその子を抱かせてやったのです。
お嬢様は、最初は気づかなかったのでしょう。
子供を愛おしそうに抱きしめましたが、その髪の色を見ると…悲鳴を上げました…」

強くテーブルを叩く拳の音が部屋中に響いた。

驚いたのはアリューシャとルシュアだった。
叩きつけた拳を震わせながら、デュークは言葉を吐きだした。

「…貴女はさっき、お嬢様の罪は、お嬢さまだけのせいではないと言った…。それなら、その子供はどうなんだ!子供にこそ何の罪もない!それを…!」

気が昂るデュークを落ち着かせようと、アリューシャが手を伸ばしてその拳を包み込む。
年下のアリューシャの方が落ち着き、宥めてくる。
取り乱した己を恥じるよう、デュークは片手で顔を覆った。

「…その通りです。子供には何の罪もない…。
でも、お嬢様にとって、その子を厭わしく思うようになる事が相次いだのです…。

お嬢様のご両親は遅くにお嬢様を授かり、ご高齢でもありました。
以前より病を患われてもいたのですが、赤子が産まれて十日も経たないうちに奥さまが倒れ、そのまま息を引き取られました。
そしてそれを追うように、旦那さまも…数日後に亡くなられ…。

お嬢様は度重なる不幸に、子供を畏れました。
『災いの色を持つ、この子を産んだせいかもしれない』と…」

「……っ!」

震えるデュークの拳を包むアリューシャの手に力が籠る。
デュークは声を上げたいのを堪えた。

「酷い話、ですよね…でも、お嬢様が何より一番に責めたのは、ご自分のことでした。

『この子は愛する人の子。この子をこの身に宿らせたのは自分であり、どんな子であろうと育てなければいけない』

…そう言っておられました。
そんな矢先…騎士団長が戦死した、という話が届いたのです…」

重たい空気が辺りを包むようだった。
女性が口を閉ざすと、外の雨音が屋敷の中に響き渡る。

「先代の緑の騎士団長は、大闇祓いで命を落とされたのか…」

ルシュアの言葉に女性が静かに頷いた。

「お嬢様の悲しみは計り知れませんでした。
それまでは、赤子に対して恨み言を吐くことはあっても、乳を含ませることを忘れたことは無かったのに…。
騎士団長までがこの世を去ったのは受け止め切れなかったご様子で、日に日に食は細くなり、乳も出なくなり、赤子は毎日腹を空かせて泣いていました。

そしてその後…。
騎士団長の遺品に、お嬢様からの手紙があったことで、妻以外の女性に子供を産ませたことが、知られてしまったのです。

噂は広がり、お嬢様は『騎士団長の子を孕んで聖殿を追い出された』という不名誉を負いました。
そして、その子の髪の色が知られると、度重なる不幸は『異端の天使』が持つ災いの色がなしたことと、周囲は囁きました。
このままにしておけば、その災いがさらに広まるかもしれない…。
恐れた人々から『子供を殺せ』という声まで上がり、屋敷に向かって石を投げる者も現れ…。

ある日、お嬢様は赤子を抱いたまま、行方をくらましました。
数日経って、戻ってきたその手に赤子は居ませんでした。

私はその時初めて、お嬢様を責めたのかもしれません。
お嬢様は泣きはらした目で言ったのです。

『ゆるしてほしい』と…。

…翌朝、お嬢様は寝床の中で冷たくなっていました…。
栄養失調と、心労による…衰弱死でした…。
…でも、その顔はどこか安らかで…私は…私は……」

手布を握りしめ、泣き崩れる女性を見て、アリューシャは席を立つとその傍に寄り添い、震える背を優しく撫でてやった。
あまりにも悲しい話に、ルシュアは言葉を失い、デュークは静かに顔を上げるとゆっくりと立ち上がった。

通り雨だったのか、雨はいつの間にか上がっており、雲の切れ間から降り注ぐ陽の光が家の中まで差し込んでいた。

リマノラが子供を産んだのはこの二階…デュークは誘われるように一歩踏み出し、その階段を昇り始めた。

二階は小さな部屋が幾つかあるようだった。
一番手前は客間のようで、その隣には小さな給仕室と、揺り籠のある育児部屋があった。
その部屋に足を踏み入れた途端、デュークは金縛りにあったように、壁の一点を見つめた。

そこには、美しい金髪に大きな若緑の瞳でこちらを見つめるサフォーネの顔があった。



…いや、これは…。

リマノラの肖像画なのだろう。
その面差しはサフォーネを思わせるほど似ている。
女性の話に出ていた子供は、サフォーネなのだという証だった。

背後に人の気配を感じて、デュークは振り返った。
泣きはらした顔の女性と、付き添うように立っているアリューシャ、その後ろにはルシュアもいた。

「そっくりね…」

肖像画を見たアリューシャの言葉に女性が目を見開く。

「…生きているんですね…あの子が…あぁ…お嬢様は…最後の罪まで犯していなかった…」

喜ぶ女性の様子をデュークだけは納得がいかなかった。
納得したいと思わなかった。


最後の罪…それは、我が子の命までは奪わなかった…そう言いたいのだろう。
しかし、リマノラがサフォーネを手離したことは事実だ。
幾ら自分を責めたとて、育てようとしたとて、異端の色を恐れ、周りから追い込まれ、結局捨てたのだ…。
それは、殺したも同然ではないのか?

異端の子…それだけで我が子を愛せない母親。
そんな母親を持った子供は、孤独と悲しみの中で生きるしかない。

サフォーネと出会った頃を思い出せば、独りで生きてきた羽根人の子の悲しみや苦しみを分かってやれるのは自分しかいないとデュークは思った。

(サフォーネは俺と同じ…愛の無い母親の元に産まれたんだ…)

それでもサフォーネは、光の中で生きている。
誰を恨むでもなく、自分の運命を呪うでもなく、ひたすら前を見ている。
同じ異端の天使なのに…愛のない母親を持つ身なのに…。
それならば、自分もいつか、同じ光の中を歩むことができるのだろうか…。


「長い時間、辛い話をさせてしまいました…少し下で休みましょう」

ルシュアに促され、皆が階下へ降りていく。
壁の肖像画に後ろ髪を引かれながら、デュークも続いて行った。


昔の記憶を甦らせ、すっかり憔悴してしまった女性が落ち着くまで、アリューシャは寄り添った。
ルシュアは、リマノラから手離された赤子の行方を知っている者がいないか、調べてみると出て行った。

サフォーネの出生元がわかればこのお忍びの旅も終わりの筈だったが、デューク自身もその後のサフォーネのことが気掛かりで、とても帰る気にはなれない。
ルシュアを見送ると、デュークは屋敷の庭に出た。

子供用の木馬や遊具が庭の片隅にあった。
一度も使われることなく、朽ちた様子を見て、切ない気持ちになる。

「あの子を…とても大切にしてくれているんですね…」

声を掛けられ振り向けば、落ち着きを取り戻した女性が立っていた。
その目は泣きはらして赤く濁っていたが、声はしっかりとしたものだった。

「あいつは何も覚えていない…誰一人怨んでいませんよ。だから俺が、貴女のお嬢様を…止められなかった貴女や、追いやった全ての人たちを…あいつの代わりに憎むんです…」

デュークの厳しくも落ち着いた言葉に、女性は嬉しそうに微笑んだ。

「えぇ、憎んでください。私はその為に、ここで貴方を待っていたんだと思います」

女性は一礼して屋敷の中に消えて行った。

お嬢様の知り合いですか?そう尋ねた女性は、最初からリマノラの知り合いとは思っていなかったのだろう。
リマノラを訪ねてくるのは、彼女を責めるか、憎む者しかいないと…。

その贖罪をするために語った昔話。
そうすることで、長い間、ひとりで背負っていた罪の重さを少しでも軽くできたのだろうか…。

去っていく女性の後姿を見送っていると、ルシュアが戻ってくるのが見えた。
女性と入れ替えに屋敷を出てきたアリューシャが揃うと、ルシュアは二人に報告した。

「昔のことをよく知っている、という語り部がいるらしい。リマノラの事件のことも知っているようだ」

その言葉に連れられるように、一行は屋敷の敷地から足を踏み出す。
辺りは夕暮れに包まれ始めていた。

ふと空を見上げると、雨上がりの虹が架かっていた。
夕焼けの橙色と薄紫の雲が、その虹をうっすらと浮かび上がらせている。
この虹を今頃、サフォーネも見ているだろうか…。
遠い蒼の聖殿に、デュークは思いを馳せた。

   ∽ ∽ ∽ ∽ ∽

蒼の聖殿では、その日の学問を終えたサフォーネが、いつまで経っても理解できないでいる分厚い書物を手に、中央塔の『憩いの間』でナチュアを待っていた。
闇祓いの騎士たちがしばらく休暇になった、という噂を聞きつけたナチュアが、デュークを呼んでくると言って闇祓いの塔に行っているのだ。

憩いの間には、本を読んでいる者や、楽器を奏でている者、お茶を楽しんでいる者たちがいたが、殆どが年嵩のいっている羽根人ばかりだ。

ここには現役の闇祓いや浄清の天使はあまり来ない。
彼らには日々の仕事があり、休日も鍛錬に勤しむ者もいる。
憩いの間は、他の役職に就いている羽根人や、または半人前の羽根人たちが休息を取る為に利用する場所だった。

皆それぞれの時間を楽しみ、周囲のことは殆ど気にしていない。
その誰も知り合いの居ない空間で、サフォーネは何となく身の置き場に困っていた。

一瞬だけ、楽器を奏でている女性が顔を上げて、ちらりとサフォーネを見た。
その目は冷たくもなく、静かなものだった。
それだけでサフォーネは安心できた。
いそいそとその女性の近くまで行き、空いている椅子に腰かけた。

聖殿に来てから、出会う羽根人の半分くらいが、サフォーネを見て軽く眉を潜めるので、どこか居心地の悪さを感じていたのだ。
サフォーネが近づいても、その女性は動じることなく楽器を奏で続けている。
弦が数本張られた竪琴の音色は美しく、サフォーネは本を抱えたまま瞳を閉じて、しばらくその音に耳を傾けていた。

「…虹が…出ていますよ?」

不意に囁かれた言葉に瞳を開ける。
女性の視線の先、振り仰ぐとそこには高窓があり、空にかかる七色の橋が覗けた。
教えてくれた女性に目を向けると、その人は竪琴を手にゆっくりと立ち去るところだった。

「あ…ありがと…ございます…」

その場にふさわしい言葉か判らなかったが、サフォーネは本を抱えたまま立ち上がり、頭を下げた。
それは虹が出ていると教えてくれたことよりも、サフォーネの存在を認めてくれたことへのお礼だったのかもしれない。
女性が振り返り、笑顔を一つ浮かべて部屋を出て行くのと、ナチュアが入れ替わりに入ってくるのは同時だった。

「サフォーネ様、お待たせしました…。その…デューク様ですが…しばらくお出かけになられたようで…ルシュア様とアリューシャ様も…」

ナチュアの報告に、持っていた本を足元に落とす音が部屋に響いた。

「デューク…いない?アリュも…?」

陽の曜日では無いけれど、もしかしたらデュークに会えるかもしれない、そんな期待に溢れていた。
会えたら、今どんなことを勉強しているのか伝えたかった、解らないところを教えてもらいたかった…。
がっかりして肩の力を落とすサフォーネに近づき、本を拾い上げたナチュアはその手を優しく取った。

「私でよければ一緒にお勉強しましょう」

そう言って手を引きながら、託児所へとサフォーネを案内した。
ナチュアは兼ねてから、サフォーネの持っている本が難しすぎるのではと思っていた。

「ここで待っていてくださいね。今、勉強用の本を取ってきますから」

ナチュアは子供たちに読み聞かせする本を探しに、部屋の奥へと入って行った。
託児所の入り口で、サフォーネは部屋の中を見渡した。

一番小さい子は、まだ這い這いをするくらいの赤ん坊で、大きい子はサフォーネよりも言葉巧みに本を読んだり、同じ年頃の子たちとままごと遊びをしている。

サフォーネは無意識にその頭を数えながら、子供たちは全部で七人いると思った。
子供たちの面倒を見ている世話役は二人。

どの子たちも笑顔で楽しそう。
でもひとりが泣き出すと、途端にそれが伝染して泣き出す赤ん坊もいた。

その様子が面白くて「ふふふ」と笑いながら眺めていると、サフォーネの側を若い女性の羽根人が通り過ぎ、部屋に入っていった。
その人は一番小さい赤ん坊の母親のようだった。
子供を抱き上げると、笑顔を向けて優しく話しかけている。

サフォーネは、その暖かい光景に見とれるように立ち尽くしていた。
その人は世話役たちに頭を下げ、部屋を出ようとしたところで、サフォーネの存在に気付き、視線を向けた。

一瞬どきりとして後ずさった。

赤ん坊に向けられた優しい笑顔は、自分には向けられないものだと、どこかで思ったのだろうか…。
だが、その人は自分の子供に向けた笑顔のまま、サフォーネを見つめ、軽く頭を下げてその場を去って行った。

「…ま…ま?」

それはメルクロの家で勉強した絵本の中にいた、優しい笑顔の女性そのものだった。

「お待たせしました。お勉強に良さそうな本見つけてきましたよ?…サフォーネ様?」

戻ってきたナチュアが、呆けているサフォーネに向かい、心配そうに声を掛ける。

「…まま、いたの」

サフォーネが指さす方を見れば、遠くに赤子を抱いた後姿があった。

ルシュアやデュークの話で、サフォーネが孤児だということはナチュアも知っていた。
その声が母親を懐かしむものではなく、また羨望するものでもなく、淡々と語られる『音』に聞こえて、ナチュアは悲しくなる。

「さ、いきましょう。この本とても面白いんですよ?私が読んであげますから…」

見たことのない幻影に囚われ、動けなくなったサフォーネをその場から引き離すように、ナチュアは手を取り、歩き出した。


~つづく~
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