サフォネリアの咲く頃

水星直己

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第一章

[第3話]羽根人

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メルクロの診療所は入り口からすぐが診察室となっている。
待合用の椅子、薬棚、診察台、照明、医療器具…部屋の一角は布で仕切られ、簡単な手術も行える。
小さな診療所と言いながら、それなりの設備が整っていた。
デュークは懐かしそうに目を細めた。

立ち止まったデュークをサフォーネが不思議そうに見上げる。
その視線に気が付くと、デュークはサフォーネの背中を押すように、診察室の奥にある部屋へ歩ませた。
そこは食卓が備わっており、普段の食事や、客人が来た時に招く居間となっている。
デュークはひとまずその食卓にサフォーネをつかせた。

居間は食卓とそれを囲む椅子、壁側には長椅子や本棚もあり、大人3~4人がくつろげる広さだった。
サフォーネの向かいにメルクロが座り、デュークにも座るよう促したが、

「あ、すみません。その前に馬の様子を…」

話をする前にシェルドナの荷を解いてやらなければならない、デュークがその場から動こうとしたところ、長椅子の傍にあった荷物に気が付いて立ち止まった。

それらはシェルドナに積んでいた荷物だった。
天幕用の布、着替えなどの入った荷物袋、食料関係、予備の武器等、それは数日野宿ができる程のもので、荷上げや荷下ろしにも結構な労力を必要とする量だ。
驚いていると、隣の炊事場から茶器を持ってきたミューが声をかけてきた。

「あ。馬から荷物下ろしておきました。慎重に運びましたが、壊れたものが無いか念のため確認してください。それと、馬の鞍と轡も外して、ご飯食べさせておきましたので。あとで様子見てあげてください」

「…すまない。そこまでやってくれてたのか…。大変だったんじゃないか?ありがとう」

小柄なミューがひとりでやってくれたと知って面食らったが、早々にシェルドナを休ませてやることができたのは嬉しい限りだった。
デュークがミューに労いの言葉をかけると、メルクロが豪快に笑いだした。

「ははは。結構な働き者だろう?何でも気が利いてな。ミューが来てくれて、わしは本当に助かっとる」

メルクロに褒められ、照れたように頬を染めながら、ミューはお茶の用意をし始めた。
50代半ばを過ぎたくらいのメルクロはまだまだ働き盛りだが、足を負傷していることもあり、独りにしてしまうことはデュークも気にかかっていたのだ。
ミューは小さいながらも逞しそうだ。
初対面で見せた警戒心もあって、メルクロのことを安心して任せられると思った。

「そうですね…ミューは本当にしっかり者みたいだし、安心しました。これからも先生のことよろしく頼むな」

デュークに認められ、ますます頬を紅潮させると、ミューは笑顔で「はい」と返した。


お茶を淹れ終わったミューがメルクロの隣に座り、話もひと段落した。
会話に入れず、すっかり蚊帳の外にいるだろうサフォーネを気遣い、デュークはその表情を窺ったが、赤い瞳は穏やかに二人を見ていた。
話すこともできず、会話に入れない自分、それを悲嘆する訳でもなく、ただ静かにほほ笑んでいる。
それは、森の円い湖で見せた笑顔を思い出させた。
その表情に一瞬気を捕らわれ、言葉を探しているデュークより先に、メルクロが質問を投げかけてきた。

「さて。本題に入って、詳しく聞こうか。このお嬢ちゃんの名前は…?」

その一言に、デューク以外が全く無反応だったのは、ミューも恐らくそう思っていたからなのであろう。
『お嬢ちゃん』それは誰に対することなのか、他人事のような顔をしているサフォーネの傍ら、反射的に片手を額に当て、少し言いにくそうにデュークが答える。

「あぁ、先生…彼は、『お嬢ちゃん』ではありません、念のため。名前はサフォーネです。俺がつけました」

「!」

デュークの言葉に、メルクロとミューは明らかに驚いた反応をした。シンクロするようにデュークの顔を見て、続けてサフォーネの顔を見る。
二人が同じ動きをするのが面白くて、サフォーネはくすくすと笑った。

「こりゃまた…驚いたな……とにかく、ちょっと診させてもらうよ?」

一つ咳ばらいをしたメルクロは座り直し、テーブル越しに腕を伸ばすと、サフォーネの首を触診してみた。

「ふむ…外的な異常はなさそうだな。声帯を詳しく覗いてみるか。ミュー、診察室の照明をつけて、間接喉頭鏡の準備をしておいてくれ」

ミューが席を離れると、お茶を飲みながらメルクロはデュークに問いかける。

「この子を助けようとするのは賛成だが…旅に連れて行くとなると大変だぞ?」

「そのことなんですが…あとで相談したいことがあります」

言いかけて、デュークはサフォーネを見ると口をつぐんだ。

言葉は理解できるサフォーネの耳に入れたくないことなのか、『相談』と言われて大よその検討がつくメルクロであったが、「準備できました」というミューの声も届き、ひとまずそこで話を切ることにした。

「さぁ、サフォーネ。診察をするからこちらに来なさい」

椅子から立ち上がり、診察室に入るメルクロを目で追うサフォーネは、戸惑ってデュークを見た。
麦の丘からクエナの町に向かう間に、サフォーネはすっかりデュークに対して信頼を寄せたようだ。
食べ物を分け与えてもらい、衣服の世話や羽根の扱いまで教えてもらえれば、それは当然かもしれないが…。
自分で判断がつかない時、困った時はデュークの顔色を窺うようになっていた。
恐らく、サフォーネのこれまでの暮らしを想像すると「病院で診てもらう」などという経験は皆無なのだろう。

(ずいぶんと懐かれたものだな…)

悪い気はしないのだが、戸惑いの方が強かった。
この先、サフォーネと関わっていく自分の姿が想像できない。
また、関わっていくべきではないと思っている。
そのために、メルクロの元を訪ねてきたのだから。

「大丈夫だ。先生の言うことをしっかり聞いて、よく診てもらうんだ」

安心させるよう、デュークは青い瞳を細めて笑みを浮かべると、大きく頷いてみせた。
サフォーネはその顔を見てほっとしたのか、笑顔になって立ちあがり、そのまま診察室へと向かっていった。
この後、メルクロに相談する結果によっては、この天使を悲しませたり、不安な思いにさせたりするのかもしれない…そう思うと少し心が痛んだが、今はきちんと診察してもらうことが大切だった。
診察室へ入るサフォーネを見届けたデュークは、忙しなく動いているミューに話しかけた。

「俺は今夜、町の宿屋に泊まるから、サフォーネはこちらで預ってもらえないか?」

寝室は2人分の寝床しかなく、患者用の寝台を使わせてもらうとしても、4人が寝泊まりする場所は無いように思えた。
奥の寝室へと姿を消していたミューがその声に顔を覗かせると布団を持って現れた。

「いえ、デュークさんもこちらでお泊めするよう先生から言われてます。オレは緊急時はここに泊まって行きますが、普段は両親のもとで暮らしているので…。先生は今夜診察室で寝るとのことなので、お二人は奥の寝室使ってください」

デュークが口を挟む余地のないほど早口で話すミューは、部屋を横切って診察室に入り、サフォーネを診ているメルクロの傍らで、てきぱきと寝床作りを始めていく。

「これは断れそうにないな…」

もてなしの様子に異論を唱えるなどできず、デュークは素直に応じることにした。


シェルドナの様子を一度見に行った後、デュークは寝室に向かった。
寝室は部屋の壁にそれぞれ向かい合うように寝床が二つある。
デュークが幼い頃のままであった。
患者の状況などで夜遅くまで起きていることもあったメルクロは、入口に近い寝床を使用し、デュークは部屋の奥にある寝床を使っていた。

高熱と悪い夢にうなされた夜は、メルクロが心配してずっと様子を見てくれていた。
心が不安定でなかなか寝付けない夜でも、反対の寝床から聞こえるメルクロの豪快な鼾がおかしくて、気持ちを紛らわすこともできた。

「本当に…先生が一緒にいてくれただけで、救われてたんだな…」

昔を思い出しながら、かつて自分が使っていた寝床に腰を下ろし、甲冑を外していると、ミューが扉からひょいと顔だけ出してきた。

「お風呂も沸いています。今のうちにどうぞ」

にこりと笑う様子は宿屋の女将のようで、デュークはくすりと笑った。


浴室は寝室の奥にあり、内風呂となっている。
檜の湯舟にお湯が循環するよう釜が備えられ、火は家屋の外で焚く。
幼い頃はその当番をよくやっていたものだ。
再び火の調整を見に来たのだろう、外でミューが釜の火に薪をくべている音を聞きながら、デュークはゆったりと湯船に身を委ねた。

暖かい湯気が浴室に立ちこめる。
冷えていた手足が徐々に温まり、やがて首元や腕にじわりと汗が滲みだしてきた。
疲労していた筋肉の血流が活性していくのが解る。
その感覚を噛みしめるよう、デュークは瞳を伏せた。
旅の間はこんな贅沢はなかなか味わえない。
風呂焚きの技術はまだ伝わっていない場所もあるため、自然の湖や川で身体の汚れを落とすことが多い。
普段封じている翼を、その時だけは密かに広げながら…。

ゆっくり瞳を開けると、デュークは湯船から立ち上がり、静かに翼を押し広げた。
お湯を循環させる金属製のパイプにその姿が反映される。
背中に伝う水滴が、その黒い羽根の上を滑っていった。

「…だが、この穢れを落とすことはできない…か…」

何回水で流しても、何度手で梳いても、その色は落ちない。
ずっと背負っていかなければならないもの。

「あの天使には、こんな穢れなどないのだろうな…」

同じ異端の羽根人でありながら、無垢な赤い瞳を思い出し、デュークは静かに笑った。
今は余計なことを考えるのはやめよう。
成り行きで連れ出した羽根人の今後を考えなくてはならない。
黒い翼を格納し、湯船から上がる。
デュークが旅の疲れを落とす頃、サフォーネの診察も終わっていた。


詳しいことは食事をしながら話そう、と、食卓に4人分の椅子を並べると、ミューが夕食を運んできてくれた。
その手際の良さは本当に感心するほどで、『先生の助手』と言いながら、半分は家政夫のようなことをやっているのだろう。それはこれまでの行動からも想像はつくことだったが。
和やかに食事が始まって間もなく、メルクロがサフォーネの診察結果について口を開いた。

「歯の様子から推定年齢は12~13歳くらい。若干栄養失調ではあるが、病気らしい病気は持っておらん。声帯も正常。結論から言うと、どこにも異常はなし、だ」

見た目はもう少し幼いと思っていたため、実年齢を聞いて多少驚いたものの「異常なし」の一言に、デュークは知らずほっと胸を撫でおろしていた。
だが、喋れない要因については分からないままで、メルクロの見解を聞くことにした。

「おそらく、幼い頃に言葉を失うほどの出来事があったのか…」

言いかけて、ちらりとサフォーネを見れば、まったくの他人事のように食事を楽しみ、ミューの尖った耳が気になるのか、ちょっかいを出している。
その様子に、妙な拍子抜けを感じながらも、メルクロは言葉を続けた。

「直接、人と言葉を交わす環境がなかったか…その辺だろうな」

メルクロは言葉を選んでくれたようだが、それはつまり、親がきちんと育てていない、ということだろう。
翼の管理ができなかったことでも、それは予想していた。
デュークは表情を曇らせた。

「とにかく、喋る機会が無かったせいか、舌や口の周りの筋肉が衰えている。充分な栄養を捕り、体力をつけ、訓練をすれば、喋れるようになるはずなんだがな…」

それは本人次第、とでも言うように、メルクロが告げると、サフォーネは赤い瞳でまっすぐ目の前の主治医を見返してきた。

「どうだ。喋れるようになりたいか?サフォーネ」

思いがけない言葉に驚き、目を丸くした後、こくこくと何度も大きく頷くサフォーネを見て、メルクロもミューも笑った。
デュークだけは口をつぐんだまま、食事の時間は過ぎて行った。


ミューが両親のもとへと帰ったころ、雨が本格的に降り出した。
診療所の屋根や窓を大粒の雨が叩く中、入浴を済ませたサフォーネを寝室で寝かせると、デュークは診察室に向かった。

ミューが作った寝床の上に腰掛け、メルクロは酒を飲んでいた。
そのもとへ歩み寄ると、患者用の椅子に腰を下ろし、向かい合う。

何から切り出せばいいのか…。

しばらく雨音に耳を傾けながら床に視線を落としていたが、意を決して口を開こうとしたところ、それはメルクロの言葉に阻まれた。

「お前がここで暮らしたのは7歳の頃から、5年の間くらいだったかな…」

その声に顔を上げると、メルクロは杯を机に置き、懐にあったパイプを取り出して煙草を詰めているところだった。

「相変わらず吸ってるんですね。体に良くないから、あの頃からやめてくれるよう頼んでいたのに」

パイプ口に火を差し入れ、何度もふかす様子を懐かしく見つめながらデュークは言った。

「これくらいの楽しみしかないからな。これでも本数はだいぶ減らしたんだぞ」

診察室に灯されたランプが、雨の湿気のせいか僅かに揺らめく。
改めて見直す診察室の壁は器具の棚や古びた掛け具があり、あの頃と殆ど変わっていない。
幼い自分が八つ当たりで物を投げつけた場所も、色褪せた傷となって残っていた。
やがてパイプの煙が仄かに鼻を掠めると、このまま数年前に戻れるような不思議な錯覚を覚えたが、デュークは現に戻ろうと口を開いた。

「先生、お願いがあります。サフォーネを…しばらくここで、預ってくれませんか?」

予想していた言葉に、メルクロは黙ってパイプをふかしながら耳を傾けた。

「この町なら…いえ、ここでなら、異端の天使への偏見はないし…。俺が旅に出ているしばらくの間…せめて翼の管理がもう少しできるようになるまで…もちろん、必要な経費は届けます…それから…」

「お前が旅に出ている間、あの子を預る?それはつまり、いずれお前の旅が終わり、最後は引き取るつもりだと、そういうことか?」

「…え…いや、それは…」

言葉を遮られ、顔を上げたデュークはメルクロを見る。
パイプを咥えた顔はほろ酔いの様子ではあるが、薄茶色の瞳はしっかりとデュークを見ていた。



その瞳に動揺したように、再び床に視線を落とす。
正直、その後のことは考えていなかった。むしろ、考えられなかった。
旅をしながら魔物退治を生業とし、これからもそうやって生きていくしかない自分に、旅の終わりなど想像もできなかった。
サフォーネを引き取り、一緒に暮らすなど考えてもみなかった。
あわよくば、ずっとここに置いてもらえたら…、そう思っていたのかもしれない。

「…すみません。そこまで考えていませんでした…」

素直に非を認める姿は子供の頃と何一つ変わらない。
メルクロは、そんな我が子のように育てたデュークを見ると不憫に思えた。

羽根人ならば、羽根人の生き方、がある。

産まれ持った容姿のせいで、普通の羽根人が辿るべき人生を送ることができない。
目の前の我が子は無意識にも、羽根人としての最重要な選択肢を外している。

それは自身が羽根人ということを忘れてしまったのか…。
それとも忘れようとしているのか…。
メルクロは答えを導くように一つの問いかけをした。

「『聖殿』に連れて行く気はないのか?」

その言葉に、デュークの肩がピクリと動いた。


特殊な力を持つ羽根人が、その役割を担うために築き上げた『聖殿』。
それは、羽根人たちの国ともいえる所だ。
羽根人の持つ力は、大陸に住む人々を襲う脅威を打ち消し、救うもの。
その力については古より語り継がれた伝説がある。


はるか昔、『世界』は一つだった。
神もひとりだった。

やがて神は大陸を作ると、様々な種族や生き物たちを誕生させた。
しかし、彼らの命には限りがあり、その魂を眠らせる『闇の世界』と、魂を甦らせる『光の世界』が必要になった。
神は二つの世界を創造すると、自身を二つに分け、それぞれの世界を見守ることにして、人々が住む『地上界』には精霊を送り、その魂の導きを担わせた。

しばらく均衡を保っていた三つの世界に異変が起きたのは、今から数千年ほど前。
いつの頃からか、闇の世界に様々な負の源が巣食い始めたのだ。
ふたつに別れた神の半身はその身を挺し、魂が安らげる場所を守り抜いたが、他は全て負の源に呑み込まれてしまった。
負の源は膨張し続け、やがて闇の世界から地上界への進出を始めた。
それは『魔烟まえん』と呼ばれ、人々を脅威に陥れていくものとなった。

魔烟は闇の霧。大地を汚染し、自然を腐敗させていく。
時にその魔烟は具現化して魔物となり、植物や動物、人々までも食らいつくす。
それは地上界をも手に入れようとするかのように拡がっていった。

やがて、3つの世界は、人々からそれぞれこう呼ばれるようになる。
限りある命を持つ者が住まう場所を『人間界』。
魂を再び蘇らせる光の世界は、神の住む世界と崇められ『天界』へ。
死んだ魂を眠らせる安らぎのはずだった闇の世界は、怖れの心から『魔界』へと…。

もともと人間界を見守る『精霊』が魔烟と対峙してきたが、数千年の長きに渡る戦いを続けてきても魔烟を封じることができず、天界を守る神は持っている最後の力を使い、数百年前に『羽根人』を誕生させたと言われている。

羽根人には魔烟を砕く『闇祓やみはらい』と、魔烟を浄化する『浄清じょうしょう』の力を持つ者がいて、彼らはその力で大陸の人々の生活を護ることにした。
聖殿を築き、周囲に聖都を構え、大陸に住む人々から依頼を受け、魔烟に戦いに挑み、自らの生計も立てていく。
羽根人ならばそこで誕生し、力が目覚めれば聖殿に身を捧げる。
それが羽根人として当然の生き方になる。

そして、デュークには『闇祓い』の力が備わっていた。


「聖殿…あの場所は…異端と呼ばれる者が暮らすには、過酷すぎます」

聖殿行きを勧めたメルクロに、僅かに震える声が返ってきた。
俯いたまま答えるデュークの言葉には、自身が経験した重みがある。
メルクロはすぐには否定できなかった。

床に視線を落とした青い瞳は、ここではない過去の出来事を写すよう、一点を見つめていた。


~つづく~
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