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ねこやなぎ1 橘高家
ねこやなぎ 橘高家 弐 橘高屋敷と彼。
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「坊ちゃん、お手をどうぞ」
全く、幾つになっても使用人達は僕を「坊ちゃん」と呼び、幼年の頃と同じ扱いをする。
その都度内心苛立ちを覚えるが、古株の使用人に対して怪訝な態度をとるのは賢明ではないことを、ここに来てから6年間のうちに覚えた。
橘高総本家
広大な敷地の中に華やかな豪邸が一棟。
使用人邸宅や離れ、庭園に西洋風の東屋が数棟。
庭園の中心にある池には鯉が住み、そこから流れる水路は裏山の湖まで繋がっている。
屋敷は鹿鳴館を連想させるような造りだ。
年頃の町娘などが憧れるような西洋造りの建物と、錦鯉の泳ぐ大きな池の組み合わせは趣味がいいのか悪いのか、一周回ってハイカラなのかもしれない。
いつも通り応接室に通され、橘高家総頭首である伯父を待つ。
耳を澄ますと、何やら甲高い話し声が聞こえてきた。
「ほらご覧なさい、あの方達が巌史坊ちゃんの…」
「どおりであの少年、中々美麗だと思ったわ。最初は髪の短い美人が男の子の制服を着ているのかと思ったもの。」
「そうね…えぇと、お名前は確かマオさんだったかしら。臺灣生まれですって。」
「あらそうなの。支那のみなしごだった養子の方が、お嫁さんより見目麗しくて橘高に相応しいだなんて、笑ってしまうわね。」
「おやめになって、そんな事を口にするのは。」
「でもそうじゃない?全く、前妻の和歌子様は学があって、それはそれは品のあるお方だったというのにね…後妻の幸子さんなんて、まるで三越ね」
使用人達が笑っている。
醜くて卑しくて品のない笑い声。
後妻の聞こえるところで前妻の話をし、更にその後妻を貶すなど、解雇に値する下劣な行為だ。
隣で顔を真っ赤にし、下を向いてグッと涙を堪える幸子さんに、僕は耐えきれなくなった。
「幸子さん、行きましょう。あの様な連中に構ってはなりません。下品な言葉を聞いてはなりませんよ、さあ。」
「いいんです、私は構いません。」
「でも…」
「私のことはお気になさらないでください。それより、気晴らしに散歩でもしていらっしゃい。私は少し洋装の崩れが気になったのでなおしてきますね。」
嘘だ。
幸子さんの装いが、美しく非の打ち所がないのは、養父に恥をかかせないように努力をしているからだ。
きっと人目を避けて一人静かに泣くのだろう。
強いひとだ。きっと、僕や養父が思っているより遥かに強いひとなのだ。
幸子さんはどこかの貴族の出だと聞いたので、最近までは何不自由なく育ったただの箱入り娘だと思っていた。
しかし偶然数日前、書斎に置いてあった書類に目を通してしまった。
幸子さんのご実家である谷口家は没落寸前の貴族だったということ。
兄が家長を背負う準備を始めても尚、谷口家の斜陽は激しく、見合いをうけてくれる家など無かったこと。
そこで途方に暮れていた幸子さんを、偶然仕事で谷口家に訪れていた養父が後妻に迎え入れたこと。
何も知らない使用人風情が、主人の義妹ともあるひとに何を申すか。
短く切り揃えた爪が手のひらに食い込むほど、拳に強く力が入る。
「幸子さん、僕、何か言ってきます。」
「おやめになって…やめなさい。いいのです、許しておやり。お願いですから。」
「ですが…」
僕の袖を掴む幸子さんの手は小刻みに震えていて、僕はそれ以上何も言えなかった。
「わかりました。気分を落ち着かせたいので少し散歩してきます。」
「ええ、行ってらっしゃい。本当に何もなさらなくて大丈夫ですからね、本当に。」
「承知していますよ。」
安心してくださいと、小麦色の華奢な手を持ち主の膝に置き、僕は冷たい空気の満ちる廊下へと出た。
自分の気持ちに相反する行動に胸のむかつきを覚えながらも一歩一歩、おもひで溢るる屋敷の部屋という部屋を覗いてまわった。
空の客室や応接室を覗いてはみたが、思いの外時間が経過しない。
そこで、遠方から泊まりがけで来ている親戚に挨拶することにした。
確か…12号室に桃子おば様が泊まっている筈。
橘高にお世話になり始めた頃から、桃子おば様は僕のことをよく気にかけてくださった。
桃子おば様は、養父と伯父の従姉妹で、年は現在30才位。
名前通り白い肌にふくよかな桃色の頬が可愛らしい、見るからに優しそうな女性だ。
7号室、8号室と目で追いながら歩くと、10号室にたどり着いた頃、うっすらと何やら甲高い声が聞こえてきて足を止めた。
そっと11号室の前まで寄ると、どうやら件の声は桃子おば様の御部屋から聞こえてくるものらしいとわかった。
「あァっ、そこ…ア、おやめになって、そこはだめよ、ネエ、ネエと申しているの…です。イヤ…アっ。」
「桃子サン、私はいぢ悪するつもりなんて無いんですよ。貴女がイヤと言うなら止めても構わない。」
「…。はァ、ゴメンなさい、許して…続きを…お願い…や、あァっ、もうダメ。」
「何がダメか言ってご覧。ほら、私の方を見て。」
聞こえてくるのは落ち着いた少年の声と、桃子おば様の高く、吐息のまじった嬌声。
よりによって尊敬している女の買春に出会してしまうとは。
声が聞こえてくるのは、部屋の扉が少し開いているかららしかった。
閉じて差し上げようと親切心で扉に手をかけた瞬間、僕の目はしっかりと二人の姿を捉えてしまった。
自らを「私」と呼ぶ、濡れ羽色の艶髪と同色の睫毛に縁取られた目の美つくしいひと。
その流し目は僕の視線をしっかりと捕まえた後、桃子おば様の胸元を妖艶に、舐めるように流れる。
彼のそのしなやかで、透き通るように艶麗な四肢と言ったら、その下に陣取る藁人形の色香など吹き飛んでしまう程。
僕は彼が誰かを知っていた。
僕は扉をそっと閉じ、庭の奥にある丘の林へと、散歩の行き先を変更した。
春先の柔らかい土と硬い砂利との混ざる地面を抜け、敷地内で最も古く、最も人の寄り付かない東屋の一角に腰を下ろした。
この敷地内唯一の、支那風に建てられた東屋。
小さな鳥が目の前を通って行く様子をただ見守る。
その小鳥の鳴き声。
栗鼠が木の側面を駆ける音。
林の上の方を風が通り抜けていく音。
そして人が地面を踏む音。
「やあ橘高くん。君は心地好い場所を知っているんだね」
振り返ると、矢張りそこに立っていたのは、
三越…脳みそが足りない
支那…現在の中国近辺の国々の総称
濡れ羽色…透けた黒のような色。
全く、幾つになっても使用人達は僕を「坊ちゃん」と呼び、幼年の頃と同じ扱いをする。
その都度内心苛立ちを覚えるが、古株の使用人に対して怪訝な態度をとるのは賢明ではないことを、ここに来てから6年間のうちに覚えた。
橘高総本家
広大な敷地の中に華やかな豪邸が一棟。
使用人邸宅や離れ、庭園に西洋風の東屋が数棟。
庭園の中心にある池には鯉が住み、そこから流れる水路は裏山の湖まで繋がっている。
屋敷は鹿鳴館を連想させるような造りだ。
年頃の町娘などが憧れるような西洋造りの建物と、錦鯉の泳ぐ大きな池の組み合わせは趣味がいいのか悪いのか、一周回ってハイカラなのかもしれない。
いつも通り応接室に通され、橘高家総頭首である伯父を待つ。
耳を澄ますと、何やら甲高い話し声が聞こえてきた。
「ほらご覧なさい、あの方達が巌史坊ちゃんの…」
「どおりであの少年、中々美麗だと思ったわ。最初は髪の短い美人が男の子の制服を着ているのかと思ったもの。」
「そうね…えぇと、お名前は確かマオさんだったかしら。臺灣生まれですって。」
「あらそうなの。支那のみなしごだった養子の方が、お嫁さんより見目麗しくて橘高に相応しいだなんて、笑ってしまうわね。」
「おやめになって、そんな事を口にするのは。」
「でもそうじゃない?全く、前妻の和歌子様は学があって、それはそれは品のあるお方だったというのにね…後妻の幸子さんなんて、まるで三越ね」
使用人達が笑っている。
醜くて卑しくて品のない笑い声。
後妻の聞こえるところで前妻の話をし、更にその後妻を貶すなど、解雇に値する下劣な行為だ。
隣で顔を真っ赤にし、下を向いてグッと涙を堪える幸子さんに、僕は耐えきれなくなった。
「幸子さん、行きましょう。あの様な連中に構ってはなりません。下品な言葉を聞いてはなりませんよ、さあ。」
「いいんです、私は構いません。」
「でも…」
「私のことはお気になさらないでください。それより、気晴らしに散歩でもしていらっしゃい。私は少し洋装の崩れが気になったのでなおしてきますね。」
嘘だ。
幸子さんの装いが、美しく非の打ち所がないのは、養父に恥をかかせないように努力をしているからだ。
きっと人目を避けて一人静かに泣くのだろう。
強いひとだ。きっと、僕や養父が思っているより遥かに強いひとなのだ。
幸子さんはどこかの貴族の出だと聞いたので、最近までは何不自由なく育ったただの箱入り娘だと思っていた。
しかし偶然数日前、書斎に置いてあった書類に目を通してしまった。
幸子さんのご実家である谷口家は没落寸前の貴族だったということ。
兄が家長を背負う準備を始めても尚、谷口家の斜陽は激しく、見合いをうけてくれる家など無かったこと。
そこで途方に暮れていた幸子さんを、偶然仕事で谷口家に訪れていた養父が後妻に迎え入れたこと。
何も知らない使用人風情が、主人の義妹ともあるひとに何を申すか。
短く切り揃えた爪が手のひらに食い込むほど、拳に強く力が入る。
「幸子さん、僕、何か言ってきます。」
「おやめになって…やめなさい。いいのです、許しておやり。お願いですから。」
「ですが…」
僕の袖を掴む幸子さんの手は小刻みに震えていて、僕はそれ以上何も言えなかった。
「わかりました。気分を落ち着かせたいので少し散歩してきます。」
「ええ、行ってらっしゃい。本当に何もなさらなくて大丈夫ですからね、本当に。」
「承知していますよ。」
安心してくださいと、小麦色の華奢な手を持ち主の膝に置き、僕は冷たい空気の満ちる廊下へと出た。
自分の気持ちに相反する行動に胸のむかつきを覚えながらも一歩一歩、おもひで溢るる屋敷の部屋という部屋を覗いてまわった。
空の客室や応接室を覗いてはみたが、思いの外時間が経過しない。
そこで、遠方から泊まりがけで来ている親戚に挨拶することにした。
確か…12号室に桃子おば様が泊まっている筈。
橘高にお世話になり始めた頃から、桃子おば様は僕のことをよく気にかけてくださった。
桃子おば様は、養父と伯父の従姉妹で、年は現在30才位。
名前通り白い肌にふくよかな桃色の頬が可愛らしい、見るからに優しそうな女性だ。
7号室、8号室と目で追いながら歩くと、10号室にたどり着いた頃、うっすらと何やら甲高い声が聞こえてきて足を止めた。
そっと11号室の前まで寄ると、どうやら件の声は桃子おば様の御部屋から聞こえてくるものらしいとわかった。
「あァっ、そこ…ア、おやめになって、そこはだめよ、ネエ、ネエと申しているの…です。イヤ…アっ。」
「桃子サン、私はいぢ悪するつもりなんて無いんですよ。貴女がイヤと言うなら止めても構わない。」
「…。はァ、ゴメンなさい、許して…続きを…お願い…や、あァっ、もうダメ。」
「何がダメか言ってご覧。ほら、私の方を見て。」
聞こえてくるのは落ち着いた少年の声と、桃子おば様の高く、吐息のまじった嬌声。
よりによって尊敬している女の買春に出会してしまうとは。
声が聞こえてくるのは、部屋の扉が少し開いているかららしかった。
閉じて差し上げようと親切心で扉に手をかけた瞬間、僕の目はしっかりと二人の姿を捉えてしまった。
自らを「私」と呼ぶ、濡れ羽色の艶髪と同色の睫毛に縁取られた目の美つくしいひと。
その流し目は僕の視線をしっかりと捕まえた後、桃子おば様の胸元を妖艶に、舐めるように流れる。
彼のそのしなやかで、透き通るように艶麗な四肢と言ったら、その下に陣取る藁人形の色香など吹き飛んでしまう程。
僕は彼が誰かを知っていた。
僕は扉をそっと閉じ、庭の奥にある丘の林へと、散歩の行き先を変更した。
春先の柔らかい土と硬い砂利との混ざる地面を抜け、敷地内で最も古く、最も人の寄り付かない東屋の一角に腰を下ろした。
この敷地内唯一の、支那風に建てられた東屋。
小さな鳥が目の前を通って行く様子をただ見守る。
その小鳥の鳴き声。
栗鼠が木の側面を駆ける音。
林の上の方を風が通り抜けていく音。
そして人が地面を踏む音。
「やあ橘高くん。君は心地好い場所を知っているんだね」
振り返ると、矢張りそこに立っていたのは、
三越…脳みそが足りない
支那…現在の中国近辺の国々の総称
濡れ羽色…透けた黒のような色。
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