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回想2
こんにちは。わたしの新しい家族
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-どうしよう……全然眠れないや……
次の異変が起こったのは通夜が終わった後、参列者のほとんどが帰宅して千景も床に着いた深夜だった。
梗一郎の勤めていた会社が手配してくれたセレモニーホールには家族や親しい人が故人と最後の別れを過ごせるようにと寝具の用意があったので、千景と葵、日菜子だけはそこに泊まる事にした。
葵と布団を並べて眠くなるまで話をするのは、こんな状況でさえなければすごく楽しい時間だろう。一人で過ごすよりもずっと心強かったのだが、それでも少し眠っただけですっかり目が覚めてしまった。気も昂ぶっているし家でもないのだから仕方ない。いつでも起こして良いとは言われていても、一日手伝ってくれた二人を起こすのは忍びなくて布団の中で寝返りを打った。
明かりを消した闇の中でいやに遅く感じる時間をやり過ごしていると、不意に生臭い臭いが鼻をつく。
-やだやだ、もしかして幽霊?
場所が場所だけに真っ先に考えてしまう。一度そう思ってしまうと、ぴし……と響く家鳴りの音すら何かこの世の者の仕業ではないようで布団を頭まで被った。
-でも、もし幽霊だったらお父さんだったりするのかな?
それなら怖くはないのかもしれない。しかし臭気は更に強くなる。背筋を走る嫌な予感に千景は身を起こした。
-怖い、けど……
もし本当に幽霊を見てしまったらどうしよう。そう思いながらも千景は梗一郎の柩が安置されている部屋に向かう。24時間電気が灯された清潔な室内には祭壇に飾られた花と線香の香りが立ち込めていた。やっぱりさっきの臭気は自分の勘違いだった。そう安堵して部屋を出ようとした時。
……え……っ?!
柩の中の梗一郎の体が浮き上がっている。起き上がっている(それもそれで恐怖だが)のではなく、だ。
呆然と立ち尽くす千景の周囲から耳障りな笑い声が聞こえた。
『あぁ腹が減ったぞ。早よう持っていこう』
『こやつ善人にしか見えぬが、本当に喰らってよいものか?』
『なぁに。おおかた親より早く死んだのよ。もしくは羽虫の一つも殺めたか』
『罪の一つも犯さぬ人間なんぞおらんからなぁ』
ノイズのような声を上げる者がみっしりと梗一郎の体に纏わりついて、どこかに運ぼうとしている。思わず千景は叫んだ。
「やめて!お父さんをどこに連れていくつもり?!」
声の主達が千景の存在に気が付いて一斉に視線を向けてくる。それはなんともおぞましかった。緑や青、紫色に爛れた肌。めくれた唇から覗く黄ばんだ牙。ぎょろりとした瞳。サイズとしては20センチに満たない程度のそれらは緩んだ腹を揺すって柩から飛び降りてきた。
『ほう……この娘、検鬼か』
『いやいや……人と獣の混ざったこのにおいは……』
『おお、これは珍しや……』
醜悪なそれらが近付いてくると臭気で吐き気を催す。千景の脚が震えた。こんな奴らに梗一郎を連れて行かせる訳にはいかない。その一念でこの場に留まってはいるものの逃げ出したくて仕方がない。後退しながら手で壁に立てかけてあるパイプ椅子を探りあてた。
「こ……来ないで……!来たらやっつけてやるから……!」
凶器の役目を十分に果たすそれを振り上げて牽制する。しかし目の前の異形達はけたたましい声で笑うだけだ。最初は数匹だったそれらは数も明らかに増えている。
「来るな……!」
がむしゃらに振り回した椅子が先頭の一匹に当たっても怯みはしない。気が付けば足元はすっかり異形に囲まれていた。それとほとんど同時に千景を取り巻く世界が変化する。
落ちる。
最初に覚えたのはそんな感覚だった。高い所から飛び降りたように腹のあたりがむずむずするような気持ち悪さ。思わず目をぎゅっと瞑ってもう一度開けた時にはそれまでいた白い部屋は灰色の何もない空間へと変わっていた。
「え、何……ここ……?!ごほっ……」
空間を包む重苦しい靄。それを吸い込んでしまって思い切り咳き込む。その時ついパイプ椅子から手を離してしまった。異形の一匹がそれをどこかに投げ飛ばす。
「……やば……」
唯一の武器を奪われては為す術もない。動揺のあまり脚を滑らせて転んでしまった。そのまま尻餅をついたような情けない姿で後退る千景に異形が迫る。
「……あ……ひっ……」
ぎぎ……ッ……
枯れた枝のような腕が千景の両手足を抑えつけた。長い爪が肌に食い込む痛みにこれが夢でも幻覚でもない事を教えられる。べたべた、ずるずるとおぞましい感触が体の上に這い上がってくる気味の悪さ。
-いや、誰か助けて……!!
「おおっと!そこまででい!」
薄灰の世界を引き裂くように朗々と声が響いた。
耳元で喧しい悲鳴がいくつか上がると同時に千景の体が浮き上がる。
「ひぃいっ!?今度は何よぉっ!!……ごほごほっ!!」
思わず上げた悲鳴と共に再度咳き込んだ。そんな千景の顔から近い位置でもう一度先ほどの声がする。
「いけやせん、いくら半分は妖しの血が流れてるからって陰態の空気は人間にゃ毒ですぜ?」
千景の世代では聞いたことのない、時代劇のような言い回しで告げたのは彼女とそう年は変わらないであろう少年だった。
黒のメッシュの入った白髪に右が緑で左が水色のオッドアイ。その虹彩は縦に長く明らかに人間の物ではない。頭の高い位置にある耳は三角形でふさふさとした毛に覆われている。そちらも髪と同じく白に黒の斑模様。シャツの上から羽織った緑地に茶の縞模様の着物を短く絡げ、ズボンを穿いた出で立ちだ。
「ちっ……まだしがみついてやがらぁ……ちっと痛ぇかもですが……ほいっと」
少年は執念深く千景の脚に爪を立てていた異形の頭を掴むと無造作に地面に叩きつけた。
「これで大丈夫。遅くなって申し訳ありやせん、千景お嬢さん」
「う、うん……ありがとう……でもなんでわたしの名前を……?」
間近で見つめてくる少年の瞳にどぎまぎしながらも一先ずは礼を言ってから気が付く。
道理で近い訳だ。少年の腕は千景の膝と腰をしっかりと支えている。いわゆるお姫様抱っこ。いくら助ける為とは言っても年の近そうな異性……しかも可愛らしさも残しながらもそれなりに整った顔立ちの少年にそんな事をされては恥ずかしくて堪らない。
「あ、あの……降ろしてもらえません……?」
なぜ少年が自分を知っているのかも気になるが、とにかくお姫様抱っこはやめてほしい。
「失礼いたしやした。まぁ俺っちとしてはこのままでも全然大歓迎で……」
「降ろして」
命の恩人相手だというのについ命令口調になってしまった。少年は特に腹を立てるような様子もなく(むしろ嬉しそうだったのは千景の気のせいだと思いたい)千景を地面に降ろしてくれた。
「千景お嬢さん。俺っちが来たからにはもう安心ですぜ。もうしばらくだけ辛抱して下せぇ」
跪いて千景の手を取る姿は、時代劇がかった口調と着物姿にそぐわない。騎士か王子様みたいと一瞬思ってから千景は自分のあまりの呑気さに呆れてしまった。ここが自分にとって危険な場所であるのは変わらないし、目の前の少年を信じていいのかも分らない。なにせ目も耳も人間の物ではないのだ。着物の裾から伸びている長い尾もそうだ。これがコスプレでなければ……
-妖怪……まさかね。
しかし、もう既に千景の常識では考えられない事が起こってしまっているのだ。
「このぶち、全身全霊をかけて千景お嬢さんをお護りしやす」
作り物ではないと証明するかのようにぶちの耳と尻尾が動く。なぜか愛しさの篭ったような瞳で千景を見つめるぶちの背後から異形が躍りかかった。
「う……うしろ……っ……!」
「おにいちゃま!危ない!」
千景の悲鳴じみた声にもう一つの声が鋭く重なる。
弾丸のように飛び込んできたのは黄色の地に紺の格子模様の着物にスパッツを合わせた小柄な少女。ショートカットの白髪に右目が水色で左目が緑のオッドアイ。ぶちと同じく猫のような耳と尻尾だが、こちらは白一色だ。一撃で異形を蹴り飛ばした少女は素早く態勢を立て直した。
「まだ敵さんはたくさんいるのにゃ!早く倒さないと千景おじょうしゃまが危ないのにゃあ!」
「わぁってらぁ!まったく……たまの野郎、良いところで邪魔しやがって……」
たま、というのが少女の名前らしい。二人揃って名前も猫そのものだ。
ぶちとたまは千景を護るように左右を挟んだ。そのまま阿吽の呼吸で頷き合う。
「よっし!行くぜたま!」
「はいにゃ!」
二人が俊敏な動作で異形達に飛びかかった。ぶちが爪で跳ね上げ、たまの蹴りが醜悪な体を地面に叩きつける。傍から見ても二人が異形達より強いのは明らかだ。
「はっ……死体漁りの魍魎風情がこのぶち様の相手になろうなんざ百年早ぇ!」
「にゃあ!おじょうしゃまを怖い目に合わせたお仕置きにゃあ!」
見る見るうちに数で圧倒していた異形達の数が減っていく。群れの中から甲高い声が叫んだ。
『このままでは皆やられてしまうぞ』
『そうだあの方を呼ぶのじゃ、我らでは到底太刀打ちできぬ』
「あの方?」
ぶちが耳をぴくぴくと動かしてその声を聞き取る。異形たちがじりじりと距離を取った。重苦しい空間にさらに緊張が走る。それを紛らわすかのようにぶちが軽口を叩いた。
「あの方って何でぇ!ちぃっとも来ねえで隠れてやがんじゃねぇか!」
『大口もそれまでよ……ほうれ、聞こえてきたわい……』
異形の口元がにやりと歪み、濁った瞳が空を仰ぐ。にわかに暗雲が立ち込め始めた。
がらがら……
何か硬い物を転がす音が遠くから聞こえてくる。
『……やれやれ、遅いと思っておればこのようなところで油を売っておるとはのぅ』
ざらっとした男とも女ともつかぬ声。稲妻が走る雲中に隠れるように、両脇に大きな車輪だけが残った車が空を走っている。炎が燃え盛る中心に座すのは美しい着物を何枚も纏った年老いた猫だ。
「あれは火車……!魍魎を使って死体を集めてやがったのか……!」
火車と呼ばれた妖はにまりと笑う。
『猫鬼の小僧か……ようもわしの手先をいたぶってくれたの』
火車は着物を重ねた膝の上に何かを抱えている。それが何か分かって千景は叫んだ。
「お父さん……!」
火車が千景に視線を向ける。
『ほう。生きた人間など不味くて食えたものではないが……いやはや……このような馳走にありつけるとは僥倖よ』
「何言ってんのよ!お父さんを返して!」
「千景おじょうしゃま!危ないにゃ!」
衝動的に駆け出そうとする千景をたまが縋り付くようにして止めた。その背に魍魎が襲い掛かる。
「たま!」
ぶちの爪が魍魎の背を切り裂いた。しかし血しぶきの代わりに噴出した瘴気がほんのひと時視界を曇らせた。そこにもう一匹の魍魎が迫る。
「おにいちゃま!」
間一髪。魍魎の攻撃を躱すも頬につう……とぶちの頬に血が辿った。
「へっ……こんくらいどうって事ねぇやい」
顔を顰めながら親指で傷口を拭ったぶちは中空に向けて啖呵を切る。
「やい、火車野郎!降りてきやがれ!このぶち様が勝負してやらぁ!」
「ひひ……降りろと言われて降りる阿呆がどこにいるのじゃ。そうれ!」
火車が右手を振りかざす。轟音が響いて一条の光がぶちを目掛けて放たれた。ひえ、と一声上げたぶちは俊敏な動きでそれを避ける。
ピシャッ!ガラガラ!
思わず目も耳も塞ぎたくような恐ろしい音と光。しかし、ぶちは火車の攻撃を全て避けきっている。だが攻撃を躱す事は出来ても反撃の手段がない。このままではいたずらに体力を消費させられるだけ。と一見すればそう見えるだろう。
「雷なんて卑怯じゃねぇか!こんちきしょう!」
空中にいる以上手出しが出来ないと踏んで、火車は悠々とぶちを見下ろしている。
「……なーんてなっ」
ぶちが不敵な笑みを浮かべた。
「たま!」
「分かったにゃ!」
たまが態勢を低くして地面を蹴る。そのままぶちの肩を足がかりにして高く飛び上がった。火車よりも高く、高く。見下ろすほどに。
「にゃあああっ!!」
『ぬぅ……っ!』
火車が袖を振り払う。しかし小回りではたまに分があるらしい。車輪の炎の熱を孕んだ風を空中で器用に避けながらたまは火車に狙いを定めた。
『なんの……!』
ぎぃ……と耳障りな音と共に車輪が動きだした。鈍い動きではあるものの、既に攻撃態勢に入っているたまの蹴りを躱すには充分だ。いや充分なはずだった。
「残念!たまの狙いはこっちにゃあ!」
小柄な体が車の長押にぶら下がる。そのまま振り子のように体を揺らしてぐるりと一回転。車が大きく揺れた。火車の動揺と共に一瞬だけ妖力が切れたのか、梗一郎の体が地面に向かって落下する。
「お父さん!?」
「おい、たま!千景お嬢さんの親父さんを振り落としてどうすんでぃ!」
「にゃにゃ?!」
千景の悲鳴とぶちの叱責にたまの手が滑った。そのまま体が宙に投げ出される。ちょうど頭から垂直に地面に落ちる形になってしまうもののたまはなんとか空中で一回転して態勢を立て直した。火車がそれを見逃す訳もない。
「たま!!」
たまが大きな目を見開いた。しかし、火車が放った雷はたまを貫く事はなかった。
ごうんっ!!
まるで見えない壁が出現したかのようにたまの目の前で雷が四散する。同時にたまと梗一郎の体がふわりと受け止められて地上へと降ろされた。梗一郎の体がすう……と大気に溶ける。
「え……うそ……」
「いや、あれはきっと大丈夫。親父さんは一足先に無事、あっちの世界に戻ってやすよ」
千景を宥めるようにぶちが言った。同時に魍魎達が一斉に騒ぎ出す。
『御方様、火車様、新手でございます!』
『おお怖い、なんじゃこの気配……全身が砕けそうにございます!』
わらわらと四方へと逃げ出そうとするその動きが次々に止まった。
『な……ぎぃやぁ、あ、熱い……!』
『御方様、お助け下され御方様ぁ!!』
魍魎達を火車の物とは違った別の炎が包む。
「まったく……この稲生屋の手代ともあろう者が魍魎ごときに手こずりよって」
靄の中から一人の男が歩み出た。長身でがっしりとした体付きに鼠色の着物と紋付を羽織った和服姿。精悍な顔立ちで口元は意志の強さを示すように固く引き結ばれている。眉間や目元には重ねてきた月日を表すように深い皺が刻まれていた。黒みがかった長い銀髪からは大きな三角形の耳が覗き、四本の尾が靄を晴らすように光を放っている。
「大旦那様!」
「大旦那しゃま!」
ぶちとたまの声が重なる。
『御方様、こやつ妖狐でございます!お助け下されぇ!』
炎に巻かれながら魍魎達が苦悶の声を上げた。
『おのれ……』
火車の瞳が大きく吊り上がり、口が耳元まで裂ける。その恐ろしい形相を見ても男の表情が変わる事はなかった。
「火車よ。わしにも立場がある。大人しく引くならば命までは取らぬぞ」
『戯けが……獲物を横取りしようとしてもそうは行かぬぞ?何せ今の世ではなかなか妖の血が入った人間になぞ出会わぬからのう……』
まただ。妖の血が入った人間などと言われても千景に心当たりはない。
「だからこそよ。その子はわしが護ってやらねばのう」
男が振り向いて千景に微笑みかけた。目尻の吊り上がった金色の瞳は初めて見たはずなのに胸が締め付けられるような懐かしさがある。
『老いぼれが……!』
火車の雷が男を襲った。しかし彼が羽織りの袖をほんの一振り動かしただけでそれは空中で霧散してしまう。
「やれやれ……わしも甘く見られたものよ……」
更に袖を一振り。すると万力で締め付けられたかのように火車が体を捩り始めた。
『おのれ……おのれぇ……!』
「へっ……!猫の妖の風上にも置けねぇ奴がまどはしの世の顔役、稲生屋の権太夫大旦那に敵うわけねぇだろ!」
『なに……?!稲生屋権太夫だと……!なぜそんな大妖怪がここに……?!ぎやゃあああ!!』
耳を劈くような悲鳴が響く中、肉と毛皮が焼ける嫌な臭いが漂いだす。
『なぜ、なぜだ……ぎ……わしの炎が……ぐああっ!』
「炎を操るのはわしの方が上手のようだな。どうする?このままでは丸焼けだぞ?」
『くそ……くそぉお……っ!』
火車が悶え苦しみながら権太夫に向かって身を躍らせた。
「はぁ……仕方がない……」
権太夫が四本の尾を擦り合わせると周囲にいくつもの火球が現れた。轟と渦巻くや蛇のような形をとったそれが火車を飲み込まんと顎を開ける。手負いの火車は勢いのままにその中心に飛び込んだ。
『おのれ……おのれぇえ!!』
炎の中の黒い影が徐々に小さくなると共に怨嗟の声も小さくなっていく。やがて頬を散りつかせる熱が空間の向こうへと消え去った。火車は骸すら残す事なく、首領格を失った魍魎達も蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
「た……助かった……?」
全身の力が一気に抜けて千景は座り込んだ。相変わらず胸の奥が苦しくて呼吸をするのも難しいが、自分を狙っている化け物がいなくなっただけでほっとする。もっともいくら助けてくれたとは言え千景を取り囲んでいる獣の耳と尾を持った存在が彼女を狙っていないとは言い切れないのだが。
「千景お嬢さん、よく頑張りましたね」
ぶちが優しく声をかけて背中を支えてくれた。目先まで迫った命の危機が去ったからだろう。これまで胸につかえていた疑問が一気に込み上げてくる。
「あなた達……一体なんなの……?お嬢さんって……それになんでわたしの名前知ってるの……?」
「それは……」
ぶちは権太夫を振り返る。
「積もる話は山ほどあるが……まずはこの陰態を抜ける事が先じゃな。立てるかい、千景や」
千景に向かって差し出された大きな節の目立った手。千景はその手に自分の手を恐る恐る重ねた。
たまが耳をぴくぴくと動かす。
「あ!大旦那しゃまにおにいちゃま!大奥しゃまにゃあ!」
灰色の靄の向こうからぼんやりとした光が近付いてきた。
明かりを灯した提灯を掲げているのは江戸紫に菊花を散らした着物姿の女性だ。権太夫と同じ大きな三角形の耳に四本の尾。肩口で揺れるウェーブがかった銀の髪は今風のカットだが着物とよく合っていてなんとも上品な印象を受ける。大奥様と呼ばれてはいるがどんなに見積もってもせいぜい30代半ばくらいにしか見えない。
「あぁ、良かった。無事に見付けられたのね」
おっとりと伸びやかな声で言って、女性が千景に微笑みかけた。権太夫同様その声と瞳は千景に懐かしさを呼び起こす。
「この道を辿った先に空間の裂け目を作ったわ。長くは持たないでしょうから急ぎましょう」
「ご苦労だったな、尾豊」
「わっ……」
権太夫が千景に羽織を被せた。
「さぁ、行こう。千景。もう大丈夫だ」
優しい声が脳裏に染み込んでくる。出会ったばかりなのにその声はひどく千景を安心させて……
「千景、千景ったら。もう起きないと」
葵の声に目を開くと、そこは布団の上だった。
「あれ……葵……どうしたの?」
「どうしたって……千景ったら寝惚けてるな」
寝る前と同じ少し黴臭い布団。葵は不思議そうに千景を見詰めている。
「わたし、夜中に布団から出て、変な化け物に攫われて……」
「夜中に?千景が起きた感じしなかったけど……」
では一連の出来事は夢だったのだろうか。布団から出てみても昨晩魍魎に掴まれた場所には傷の一つもない。しかしその感覚だけはたしかに残っている。夢にしてはあまりにもリアルだ。
「そうだ……お父さんは……?!」
「お父さん?もう母さんがお葬式の準備してるけど特に何も……」
「そっか……」
なぜか胸を寂しさに似た感情が過ぎる。階下から日菜子の声が聞こえてきた。
「あの、どちら様でしょうか……この辺りの方ではないようですけど故人のお仕事の関係で……?」
もしかして、と予感が過ぎって支度もそこそこに階段を駆け下りる。ホールの入り口では日菜子が喪服を着た初老の男性と話していた。彼の隣にはやはり喪服姿の女性。二人の後ろには学ラン姿の少年とセーラー服姿の少女が従っている。昨晩と服装は違うものの、耳や尻尾は獣のままだし間違いない。やはり夢ではなかったのだ。
「お初にお目にかかります。稲生と申します。こちらに娘が遺した子……私の孫がいると聞きましてな」
「はぁ……稲生さん、ですか……?」
稲生と名乗った男……稲生屋権太夫の視線が千景に向けられた。
「おお、千景。待たせて悪かったね。おじいちゃんが迎えにきたよ」
「おじいちゃん……えぇ……あなたが?!ほんっとうに!この私の?!」
信じられるわけがない。いきなり現れた挙句、どう見ても人間ではない存在に祖父を名乗られても。そこではっと気が付いた。
「日菜子おばさん……なんで普通に応対できてるの……?」
「え?」
目の前にいるのは日本人どころか人間離れした容姿をした相手なのに。しかし千景の言葉に日菜子は首を傾げるばかりだ。それだけではない。
「千景?どうしたの?」
千景を追いかけてきた葵も不思議そうな表情だ。
「え、葵にも見えてないの?!」
「見える?何が?」
そうすると目の前の一行が異様な風体に見えているのは千景だけという事になる。
「あらあら、あの子ったら一番大事な事を伝えていなかったのかしら。びっくりさせちゃったかしらねぇ」
尾豊がくすくすと笑って権太夫の横顔を見上げた。権太夫が咳払いする。
「お前が動揺するのはもっともだ。ずっと人間の……父親の手元で育てられていたのだからね。しかしお前がこの千年の大妖狐、稲生屋権太夫と尾豊の孫であるのは間違いない」
悠とした動作で差し出された大きな手。躊躇いながらも千景はその手を取った。その温かさに改めて触れた時、必死で抑え込んできた涙が堰を切ったように溢れ出すのを感じた。
本当はすごく寂しくてどうして良いのかも分からなくて。
父の死を分かち合えるはずの血縁にそんな子は知らないなんて言って欲しくもなくて。
小さな子供に返ったように泣きじゃくる千景の肩を尾豊が抱いた。優しくて上品な甘やかな香の匂い。
「ずっと寂しい思いをさせてごめんなさい。でも大丈夫、これからは一緒に暮らしましょう?おじいちゃんとおばあちゃん、ぶちとたまもよ。ねぇ、あなた?」
「ああ、千景。私達は家族になるんだよ」
にしし、とぶちとたまが顔を見合わせる。
その時、孤独な少女と妖怪達は確かに新しい家族になったのだった。
次の異変が起こったのは通夜が終わった後、参列者のほとんどが帰宅して千景も床に着いた深夜だった。
梗一郎の勤めていた会社が手配してくれたセレモニーホールには家族や親しい人が故人と最後の別れを過ごせるようにと寝具の用意があったので、千景と葵、日菜子だけはそこに泊まる事にした。
葵と布団を並べて眠くなるまで話をするのは、こんな状況でさえなければすごく楽しい時間だろう。一人で過ごすよりもずっと心強かったのだが、それでも少し眠っただけですっかり目が覚めてしまった。気も昂ぶっているし家でもないのだから仕方ない。いつでも起こして良いとは言われていても、一日手伝ってくれた二人を起こすのは忍びなくて布団の中で寝返りを打った。
明かりを消した闇の中でいやに遅く感じる時間をやり過ごしていると、不意に生臭い臭いが鼻をつく。
-やだやだ、もしかして幽霊?
場所が場所だけに真っ先に考えてしまう。一度そう思ってしまうと、ぴし……と響く家鳴りの音すら何かこの世の者の仕業ではないようで布団を頭まで被った。
-でも、もし幽霊だったらお父さんだったりするのかな?
それなら怖くはないのかもしれない。しかし臭気は更に強くなる。背筋を走る嫌な予感に千景は身を起こした。
-怖い、けど……
もし本当に幽霊を見てしまったらどうしよう。そう思いながらも千景は梗一郎の柩が安置されている部屋に向かう。24時間電気が灯された清潔な室内には祭壇に飾られた花と線香の香りが立ち込めていた。やっぱりさっきの臭気は自分の勘違いだった。そう安堵して部屋を出ようとした時。
……え……っ?!
柩の中の梗一郎の体が浮き上がっている。起き上がっている(それもそれで恐怖だが)のではなく、だ。
呆然と立ち尽くす千景の周囲から耳障りな笑い声が聞こえた。
『あぁ腹が減ったぞ。早よう持っていこう』
『こやつ善人にしか見えぬが、本当に喰らってよいものか?』
『なぁに。おおかた親より早く死んだのよ。もしくは羽虫の一つも殺めたか』
『罪の一つも犯さぬ人間なんぞおらんからなぁ』
ノイズのような声を上げる者がみっしりと梗一郎の体に纏わりついて、どこかに運ぼうとしている。思わず千景は叫んだ。
「やめて!お父さんをどこに連れていくつもり?!」
声の主達が千景の存在に気が付いて一斉に視線を向けてくる。それはなんともおぞましかった。緑や青、紫色に爛れた肌。めくれた唇から覗く黄ばんだ牙。ぎょろりとした瞳。サイズとしては20センチに満たない程度のそれらは緩んだ腹を揺すって柩から飛び降りてきた。
『ほう……この娘、検鬼か』
『いやいや……人と獣の混ざったこのにおいは……』
『おお、これは珍しや……』
醜悪なそれらが近付いてくると臭気で吐き気を催す。千景の脚が震えた。こんな奴らに梗一郎を連れて行かせる訳にはいかない。その一念でこの場に留まってはいるものの逃げ出したくて仕方がない。後退しながら手で壁に立てかけてあるパイプ椅子を探りあてた。
「こ……来ないで……!来たらやっつけてやるから……!」
凶器の役目を十分に果たすそれを振り上げて牽制する。しかし目の前の異形達はけたたましい声で笑うだけだ。最初は数匹だったそれらは数も明らかに増えている。
「来るな……!」
がむしゃらに振り回した椅子が先頭の一匹に当たっても怯みはしない。気が付けば足元はすっかり異形に囲まれていた。それとほとんど同時に千景を取り巻く世界が変化する。
落ちる。
最初に覚えたのはそんな感覚だった。高い所から飛び降りたように腹のあたりがむずむずするような気持ち悪さ。思わず目をぎゅっと瞑ってもう一度開けた時にはそれまでいた白い部屋は灰色の何もない空間へと変わっていた。
「え、何……ここ……?!ごほっ……」
空間を包む重苦しい靄。それを吸い込んでしまって思い切り咳き込む。その時ついパイプ椅子から手を離してしまった。異形の一匹がそれをどこかに投げ飛ばす。
「……やば……」
唯一の武器を奪われては為す術もない。動揺のあまり脚を滑らせて転んでしまった。そのまま尻餅をついたような情けない姿で後退る千景に異形が迫る。
「……あ……ひっ……」
ぎぎ……ッ……
枯れた枝のような腕が千景の両手足を抑えつけた。長い爪が肌に食い込む痛みにこれが夢でも幻覚でもない事を教えられる。べたべた、ずるずるとおぞましい感触が体の上に這い上がってくる気味の悪さ。
-いや、誰か助けて……!!
「おおっと!そこまででい!」
薄灰の世界を引き裂くように朗々と声が響いた。
耳元で喧しい悲鳴がいくつか上がると同時に千景の体が浮き上がる。
「ひぃいっ!?今度は何よぉっ!!……ごほごほっ!!」
思わず上げた悲鳴と共に再度咳き込んだ。そんな千景の顔から近い位置でもう一度先ほどの声がする。
「いけやせん、いくら半分は妖しの血が流れてるからって陰態の空気は人間にゃ毒ですぜ?」
千景の世代では聞いたことのない、時代劇のような言い回しで告げたのは彼女とそう年は変わらないであろう少年だった。
黒のメッシュの入った白髪に右が緑で左が水色のオッドアイ。その虹彩は縦に長く明らかに人間の物ではない。頭の高い位置にある耳は三角形でふさふさとした毛に覆われている。そちらも髪と同じく白に黒の斑模様。シャツの上から羽織った緑地に茶の縞模様の着物を短く絡げ、ズボンを穿いた出で立ちだ。
「ちっ……まだしがみついてやがらぁ……ちっと痛ぇかもですが……ほいっと」
少年は執念深く千景の脚に爪を立てていた異形の頭を掴むと無造作に地面に叩きつけた。
「これで大丈夫。遅くなって申し訳ありやせん、千景お嬢さん」
「う、うん……ありがとう……でもなんでわたしの名前を……?」
間近で見つめてくる少年の瞳にどぎまぎしながらも一先ずは礼を言ってから気が付く。
道理で近い訳だ。少年の腕は千景の膝と腰をしっかりと支えている。いわゆるお姫様抱っこ。いくら助ける為とは言っても年の近そうな異性……しかも可愛らしさも残しながらもそれなりに整った顔立ちの少年にそんな事をされては恥ずかしくて堪らない。
「あ、あの……降ろしてもらえません……?」
なぜ少年が自分を知っているのかも気になるが、とにかくお姫様抱っこはやめてほしい。
「失礼いたしやした。まぁ俺っちとしてはこのままでも全然大歓迎で……」
「降ろして」
命の恩人相手だというのについ命令口調になってしまった。少年は特に腹を立てるような様子もなく(むしろ嬉しそうだったのは千景の気のせいだと思いたい)千景を地面に降ろしてくれた。
「千景お嬢さん。俺っちが来たからにはもう安心ですぜ。もうしばらくだけ辛抱して下せぇ」
跪いて千景の手を取る姿は、時代劇がかった口調と着物姿にそぐわない。騎士か王子様みたいと一瞬思ってから千景は自分のあまりの呑気さに呆れてしまった。ここが自分にとって危険な場所であるのは変わらないし、目の前の少年を信じていいのかも分らない。なにせ目も耳も人間の物ではないのだ。着物の裾から伸びている長い尾もそうだ。これがコスプレでなければ……
-妖怪……まさかね。
しかし、もう既に千景の常識では考えられない事が起こってしまっているのだ。
「このぶち、全身全霊をかけて千景お嬢さんをお護りしやす」
作り物ではないと証明するかのようにぶちの耳と尻尾が動く。なぜか愛しさの篭ったような瞳で千景を見つめるぶちの背後から異形が躍りかかった。
「う……うしろ……っ……!」
「おにいちゃま!危ない!」
千景の悲鳴じみた声にもう一つの声が鋭く重なる。
弾丸のように飛び込んできたのは黄色の地に紺の格子模様の着物にスパッツを合わせた小柄な少女。ショートカットの白髪に右目が水色で左目が緑のオッドアイ。ぶちと同じく猫のような耳と尻尾だが、こちらは白一色だ。一撃で異形を蹴り飛ばした少女は素早く態勢を立て直した。
「まだ敵さんはたくさんいるのにゃ!早く倒さないと千景おじょうしゃまが危ないのにゃあ!」
「わぁってらぁ!まったく……たまの野郎、良いところで邪魔しやがって……」
たま、というのが少女の名前らしい。二人揃って名前も猫そのものだ。
ぶちとたまは千景を護るように左右を挟んだ。そのまま阿吽の呼吸で頷き合う。
「よっし!行くぜたま!」
「はいにゃ!」
二人が俊敏な動作で異形達に飛びかかった。ぶちが爪で跳ね上げ、たまの蹴りが醜悪な体を地面に叩きつける。傍から見ても二人が異形達より強いのは明らかだ。
「はっ……死体漁りの魍魎風情がこのぶち様の相手になろうなんざ百年早ぇ!」
「にゃあ!おじょうしゃまを怖い目に合わせたお仕置きにゃあ!」
見る見るうちに数で圧倒していた異形達の数が減っていく。群れの中から甲高い声が叫んだ。
『このままでは皆やられてしまうぞ』
『そうだあの方を呼ぶのじゃ、我らでは到底太刀打ちできぬ』
「あの方?」
ぶちが耳をぴくぴくと動かしてその声を聞き取る。異形たちがじりじりと距離を取った。重苦しい空間にさらに緊張が走る。それを紛らわすかのようにぶちが軽口を叩いた。
「あの方って何でぇ!ちぃっとも来ねえで隠れてやがんじゃねぇか!」
『大口もそれまでよ……ほうれ、聞こえてきたわい……』
異形の口元がにやりと歪み、濁った瞳が空を仰ぐ。にわかに暗雲が立ち込め始めた。
がらがら……
何か硬い物を転がす音が遠くから聞こえてくる。
『……やれやれ、遅いと思っておればこのようなところで油を売っておるとはのぅ』
ざらっとした男とも女ともつかぬ声。稲妻が走る雲中に隠れるように、両脇に大きな車輪だけが残った車が空を走っている。炎が燃え盛る中心に座すのは美しい着物を何枚も纏った年老いた猫だ。
「あれは火車……!魍魎を使って死体を集めてやがったのか……!」
火車と呼ばれた妖はにまりと笑う。
『猫鬼の小僧か……ようもわしの手先をいたぶってくれたの』
火車は着物を重ねた膝の上に何かを抱えている。それが何か分かって千景は叫んだ。
「お父さん……!」
火車が千景に視線を向ける。
『ほう。生きた人間など不味くて食えたものではないが……いやはや……このような馳走にありつけるとは僥倖よ』
「何言ってんのよ!お父さんを返して!」
「千景おじょうしゃま!危ないにゃ!」
衝動的に駆け出そうとする千景をたまが縋り付くようにして止めた。その背に魍魎が襲い掛かる。
「たま!」
ぶちの爪が魍魎の背を切り裂いた。しかし血しぶきの代わりに噴出した瘴気がほんのひと時視界を曇らせた。そこにもう一匹の魍魎が迫る。
「おにいちゃま!」
間一髪。魍魎の攻撃を躱すも頬につう……とぶちの頬に血が辿った。
「へっ……こんくらいどうって事ねぇやい」
顔を顰めながら親指で傷口を拭ったぶちは中空に向けて啖呵を切る。
「やい、火車野郎!降りてきやがれ!このぶち様が勝負してやらぁ!」
「ひひ……降りろと言われて降りる阿呆がどこにいるのじゃ。そうれ!」
火車が右手を振りかざす。轟音が響いて一条の光がぶちを目掛けて放たれた。ひえ、と一声上げたぶちは俊敏な動きでそれを避ける。
ピシャッ!ガラガラ!
思わず目も耳も塞ぎたくような恐ろしい音と光。しかし、ぶちは火車の攻撃を全て避けきっている。だが攻撃を躱す事は出来ても反撃の手段がない。このままではいたずらに体力を消費させられるだけ。と一見すればそう見えるだろう。
「雷なんて卑怯じゃねぇか!こんちきしょう!」
空中にいる以上手出しが出来ないと踏んで、火車は悠々とぶちを見下ろしている。
「……なーんてなっ」
ぶちが不敵な笑みを浮かべた。
「たま!」
「分かったにゃ!」
たまが態勢を低くして地面を蹴る。そのままぶちの肩を足がかりにして高く飛び上がった。火車よりも高く、高く。見下ろすほどに。
「にゃあああっ!!」
『ぬぅ……っ!』
火車が袖を振り払う。しかし小回りではたまに分があるらしい。車輪の炎の熱を孕んだ風を空中で器用に避けながらたまは火車に狙いを定めた。
『なんの……!』
ぎぃ……と耳障りな音と共に車輪が動きだした。鈍い動きではあるものの、既に攻撃態勢に入っているたまの蹴りを躱すには充分だ。いや充分なはずだった。
「残念!たまの狙いはこっちにゃあ!」
小柄な体が車の長押にぶら下がる。そのまま振り子のように体を揺らしてぐるりと一回転。車が大きく揺れた。火車の動揺と共に一瞬だけ妖力が切れたのか、梗一郎の体が地面に向かって落下する。
「お父さん!?」
「おい、たま!千景お嬢さんの親父さんを振り落としてどうすんでぃ!」
「にゃにゃ?!」
千景の悲鳴とぶちの叱責にたまの手が滑った。そのまま体が宙に投げ出される。ちょうど頭から垂直に地面に落ちる形になってしまうもののたまはなんとか空中で一回転して態勢を立て直した。火車がそれを見逃す訳もない。
「たま!!」
たまが大きな目を見開いた。しかし、火車が放った雷はたまを貫く事はなかった。
ごうんっ!!
まるで見えない壁が出現したかのようにたまの目の前で雷が四散する。同時にたまと梗一郎の体がふわりと受け止められて地上へと降ろされた。梗一郎の体がすう……と大気に溶ける。
「え……うそ……」
「いや、あれはきっと大丈夫。親父さんは一足先に無事、あっちの世界に戻ってやすよ」
千景を宥めるようにぶちが言った。同時に魍魎達が一斉に騒ぎ出す。
『御方様、火車様、新手でございます!』
『おお怖い、なんじゃこの気配……全身が砕けそうにございます!』
わらわらと四方へと逃げ出そうとするその動きが次々に止まった。
『な……ぎぃやぁ、あ、熱い……!』
『御方様、お助け下され御方様ぁ!!』
魍魎達を火車の物とは違った別の炎が包む。
「まったく……この稲生屋の手代ともあろう者が魍魎ごときに手こずりよって」
靄の中から一人の男が歩み出た。長身でがっしりとした体付きに鼠色の着物と紋付を羽織った和服姿。精悍な顔立ちで口元は意志の強さを示すように固く引き結ばれている。眉間や目元には重ねてきた月日を表すように深い皺が刻まれていた。黒みがかった長い銀髪からは大きな三角形の耳が覗き、四本の尾が靄を晴らすように光を放っている。
「大旦那様!」
「大旦那しゃま!」
ぶちとたまの声が重なる。
『御方様、こやつ妖狐でございます!お助け下されぇ!』
炎に巻かれながら魍魎達が苦悶の声を上げた。
『おのれ……』
火車の瞳が大きく吊り上がり、口が耳元まで裂ける。その恐ろしい形相を見ても男の表情が変わる事はなかった。
「火車よ。わしにも立場がある。大人しく引くならば命までは取らぬぞ」
『戯けが……獲物を横取りしようとしてもそうは行かぬぞ?何せ今の世ではなかなか妖の血が入った人間になぞ出会わぬからのう……』
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男が振り向いて千景に微笑みかけた。目尻の吊り上がった金色の瞳は初めて見たはずなのに胸が締め付けられるような懐かしさがある。
『老いぼれが……!』
火車の雷が男を襲った。しかし彼が羽織りの袖をほんの一振り動かしただけでそれは空中で霧散してしまう。
「やれやれ……わしも甘く見られたものよ……」
更に袖を一振り。すると万力で締め付けられたかのように火車が体を捩り始めた。
『おのれ……おのれぇ……!』
「へっ……!猫の妖の風上にも置けねぇ奴がまどはしの世の顔役、稲生屋の権太夫大旦那に敵うわけねぇだろ!」
『なに……?!稲生屋権太夫だと……!なぜそんな大妖怪がここに……?!ぎやゃあああ!!』
耳を劈くような悲鳴が響く中、肉と毛皮が焼ける嫌な臭いが漂いだす。
『なぜ、なぜだ……ぎ……わしの炎が……ぐああっ!』
「炎を操るのはわしの方が上手のようだな。どうする?このままでは丸焼けだぞ?」
『くそ……くそぉお……っ!』
火車が悶え苦しみながら権太夫に向かって身を躍らせた。
「はぁ……仕方がない……」
権太夫が四本の尾を擦り合わせると周囲にいくつもの火球が現れた。轟と渦巻くや蛇のような形をとったそれが火車を飲み込まんと顎を開ける。手負いの火車は勢いのままにその中心に飛び込んだ。
『おのれ……おのれぇえ!!』
炎の中の黒い影が徐々に小さくなると共に怨嗟の声も小さくなっていく。やがて頬を散りつかせる熱が空間の向こうへと消え去った。火車は骸すら残す事なく、首領格を失った魍魎達も蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
「た……助かった……?」
全身の力が一気に抜けて千景は座り込んだ。相変わらず胸の奥が苦しくて呼吸をするのも難しいが、自分を狙っている化け物がいなくなっただけでほっとする。もっともいくら助けてくれたとは言え千景を取り囲んでいる獣の耳と尾を持った存在が彼女を狙っていないとは言い切れないのだが。
「千景お嬢さん、よく頑張りましたね」
ぶちが優しく声をかけて背中を支えてくれた。目先まで迫った命の危機が去ったからだろう。これまで胸につかえていた疑問が一気に込み上げてくる。
「あなた達……一体なんなの……?お嬢さんって……それになんでわたしの名前知ってるの……?」
「それは……」
ぶちは権太夫を振り返る。
「積もる話は山ほどあるが……まずはこの陰態を抜ける事が先じゃな。立てるかい、千景や」
千景に向かって差し出された大きな節の目立った手。千景はその手に自分の手を恐る恐る重ねた。
たまが耳をぴくぴくと動かす。
「あ!大旦那しゃまにおにいちゃま!大奥しゃまにゃあ!」
灰色の靄の向こうからぼんやりとした光が近付いてきた。
明かりを灯した提灯を掲げているのは江戸紫に菊花を散らした着物姿の女性だ。権太夫と同じ大きな三角形の耳に四本の尾。肩口で揺れるウェーブがかった銀の髪は今風のカットだが着物とよく合っていてなんとも上品な印象を受ける。大奥様と呼ばれてはいるがどんなに見積もってもせいぜい30代半ばくらいにしか見えない。
「あぁ、良かった。無事に見付けられたのね」
おっとりと伸びやかな声で言って、女性が千景に微笑みかけた。権太夫同様その声と瞳は千景に懐かしさを呼び起こす。
「この道を辿った先に空間の裂け目を作ったわ。長くは持たないでしょうから急ぎましょう」
「ご苦労だったな、尾豊」
「わっ……」
権太夫が千景に羽織を被せた。
「さぁ、行こう。千景。もう大丈夫だ」
優しい声が脳裏に染み込んでくる。出会ったばかりなのにその声はひどく千景を安心させて……
「千景、千景ったら。もう起きないと」
葵の声に目を開くと、そこは布団の上だった。
「あれ……葵……どうしたの?」
「どうしたって……千景ったら寝惚けてるな」
寝る前と同じ少し黴臭い布団。葵は不思議そうに千景を見詰めている。
「わたし、夜中に布団から出て、変な化け物に攫われて……」
「夜中に?千景が起きた感じしなかったけど……」
では一連の出来事は夢だったのだろうか。布団から出てみても昨晩魍魎に掴まれた場所には傷の一つもない。しかしその感覚だけはたしかに残っている。夢にしてはあまりにもリアルだ。
「そうだ……お父さんは……?!」
「お父さん?もう母さんがお葬式の準備してるけど特に何も……」
「そっか……」
なぜか胸を寂しさに似た感情が過ぎる。階下から日菜子の声が聞こえてきた。
「あの、どちら様でしょうか……この辺りの方ではないようですけど故人のお仕事の関係で……?」
もしかして、と予感が過ぎって支度もそこそこに階段を駆け下りる。ホールの入り口では日菜子が喪服を着た初老の男性と話していた。彼の隣にはやはり喪服姿の女性。二人の後ろには学ラン姿の少年とセーラー服姿の少女が従っている。昨晩と服装は違うものの、耳や尻尾は獣のままだし間違いない。やはり夢ではなかったのだ。
「お初にお目にかかります。稲生と申します。こちらに娘が遺した子……私の孫がいると聞きましてな」
「はぁ……稲生さん、ですか……?」
稲生と名乗った男……稲生屋権太夫の視線が千景に向けられた。
「おお、千景。待たせて悪かったね。おじいちゃんが迎えにきたよ」
「おじいちゃん……えぇ……あなたが?!ほんっとうに!この私の?!」
信じられるわけがない。いきなり現れた挙句、どう見ても人間ではない存在に祖父を名乗られても。そこではっと気が付いた。
「日菜子おばさん……なんで普通に応対できてるの……?」
「え?」
目の前にいるのは日本人どころか人間離れした容姿をした相手なのに。しかし千景の言葉に日菜子は首を傾げるばかりだ。それだけではない。
「千景?どうしたの?」
千景を追いかけてきた葵も不思議そうな表情だ。
「え、葵にも見えてないの?!」
「見える?何が?」
そうすると目の前の一行が異様な風体に見えているのは千景だけという事になる。
「あらあら、あの子ったら一番大事な事を伝えていなかったのかしら。びっくりさせちゃったかしらねぇ」
尾豊がくすくすと笑って権太夫の横顔を見上げた。権太夫が咳払いする。
「お前が動揺するのはもっともだ。ずっと人間の……父親の手元で育てられていたのだからね。しかしお前がこの千年の大妖狐、稲生屋権太夫と尾豊の孫であるのは間違いない」
悠とした動作で差し出された大きな手。躊躇いながらも千景はその手を取った。その温かさに改めて触れた時、必死で抑え込んできた涙が堰を切ったように溢れ出すのを感じた。
本当はすごく寂しくてどうして良いのかも分からなくて。
父の死を分かち合えるはずの血縁にそんな子は知らないなんて言って欲しくもなくて。
小さな子供に返ったように泣きじゃくる千景の肩を尾豊が抱いた。優しくて上品な甘やかな香の匂い。
「ずっと寂しい思いをさせてごめんなさい。でも大丈夫、これからは一緒に暮らしましょう?おじいちゃんとおばあちゃん、ぶちとたまもよ。ねぇ、あなた?」
「ああ、千景。私達は家族になるんだよ」
にしし、とぶちとたまが顔を見合わせる。
その時、孤独な少女と妖怪達は確かに新しい家族になったのだった。
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