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第2部 第1章
第5話 領主と統領
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夏が終わりの気配を告げる。
稲穂は色づき、実りをより膨らませようとする時期だ。
朝、父の書簡を読み直していた小夜は、突然、組頭以上の参集を命じた。
「現在の稲の状態を知りたい」
全ての村長、組頭が九割九分のできと答えた。
「では、全ての田の水を抜きなさい」
反対をする者はいないが、理由を知りたがった。
「理由は二つ。答えの一つは刈り入れの時にでる。あと一つは来年の田起に出ます。楽しみにしていて」
「最悪でも一分の減作だ。問題ない。それよりも、あの統領が何をやるのか楽しみでならぬ」
村長達はそう言って、組頭に田の水を落とすよう指示した。
小夜の『記憶』の中の稲刈りは、田に水がない。
小夜が子供の頃から知っている、水を残して稲を刈るのは来年の田起のためだ。
水を含んだ土は軟らかく、鍬が良く通るので、土に含ませる肥料などの栄養分が多くなる。
そのかわり、作業をする者は、振り上げた鍬から落ちる泥水を被りながらの辛い作業になる。
だが、今水を抜けば、収穫量に影響を与えず、土が堅くなるので稲刈りも楽に早くできる。では両親は何故これまでそうしなかったのか。その知識はあったはずだ。
小夜は考え続けてようやく複合する原因を導き出した。
その一つは父の統領時代は、まだそれ程の権力や統率力が無く、村の伝統や因習を打ち破る力が無かった。
絶対権者として生殺与奪の力を振るえるのは、武士との戦に勝利した後からだ。
だからこそ、小夜が統領就任の翌日、忠兵衛が久三を弾劾して、小夜の権力を知らしめたのだろう。
父が村々をようやくまとめ上げたとき、今の小夜のように理由も明かさず「水を抜け」と言えば、非難の嵐に晒された可能性がある。
二つにはこの時代と直近未来の農法の違いを、両親は知らなかったのかも知れない。
いずれにしても、稲作の大転換が、小夜が指示した水田の水を抜くことから始まった。
今年の収穫量が一分減ることについて、七人の村長が庄屋として登城した。
統領は女の身で畏れ多いとして、代わりに藤井忠兵衛が七人を率いての謁見であった。
「今年についてのみ、年貢の他に我々の食い扶持をお買い上げ頂きたいのでございます」
領主、家老、役方の居並ぶ中で、七人を代表して忠兵衛が述べる。
「お買い上げ頂きました金子は全て工事の人足費用、道具に使い、足らないものは幸田全村が一丸となって工事を支える覚悟で居ります」
「それはならぬ」
意外な言葉に名主が顔を見合わせる。
領主は、前々代の統領、八郎太を友と遇してきた間柄である。現当主とも親交がある。
反対される筈が無いと思っていた。
「訳をお聞かせ頂けましょうや」
領主は端然と座して頷いた。
「治水治山は本来藩や領主が行う工事である。その工事のためにそなたらの食い扶持を取り上げたとあっては、近隣にあなどられる。侮りを受ければいつ戦になるやもしれぬ。それに米を作る民・百姓が米を食えぬのでは、米を作る意欲が削がれよう。まだある。幸田の中には棚田の影響を受けぬ村が四つあるが、それはどう扱う」
「収穫も仕事も全て共同で行い、按分致します」
「四ヶ村はそれでよいのか」
「我等は、七ヶ村で一つでありますれば」
「ならばよし」
領主は扇の要を役方に向けた。
役方が、かしこまって口を開いた。
「殿のお考えを説明いたす。まず幸田の年貢を二割下げる」
「これはッ」名主に警戒感が広がった。うまい話には飛びつかないのが幸田村の伝統でもある。
「次に全村は所定の食い扶持を確保せよ。その後、余った米に年貢の二割を足したものを我等が買い上げる。これで表向きの石高は確保できるので扶持米に影響はない」
「それでよろしいのでしょうか。結局藩は二割の損が生じますが」
領主が笑った。
「損ではない。僅か二割で村に治水工事を請け負わせたことになる。我等はその分、租税を増やすことにする。すなわち通行税、酒税……。などであるが、幸田の村々には益々人の流れが増えるよう励んで貰わねばな」
忠兵衛はかしこまって礼を言上し、
「その米を金子でお支払い致せばいかに」と訊ねた。
役方が検品した米の量を、決められた単価で支払う。そうすれば役方は蔵米を運ぶ手間も捌く手間も略することができ、人足代も浮くことになる。
役方が頷いた。
「それがよろしいかと存じます」
「ならばそうせよ」
そう言って、「ときに小夜は息災であるか」と忠兵衛に訊ねた。
領主は八郎太が統領のとき、春の花見と秋の祭りに忍びで臨席したことがあり、陪席した小夜を見知っていた。
「元気に野山を駆け巡っておりまする。実は今回のお願いの儀につきましても統領が天地の異変を感じまして、作物を守らんが為に申し出ましたこと」
忠兵衛の答えに「そうか。それならば尚更のこと、小夜の申すことに応じずばならぬな」
そう言って笑いながら席を立った。
領主は以前、小夜を側室にとのぞんだ事がある。
八郎太は「勿体なきこと」と言ってそれを断った。
小夜が側室に入れば、幸田の跡継ぎはさておき、領主と幸田家に姻戚関係が生じる。
それは、村の自治と独立性が失われることになり、幸田の村が城側に支配されることだ。そうなれば、いつか大きな武家同士の戦に巻き込まれる事を意味した。
平和を維持するために、いつでも城と戦ができる距離をおきたい村と、平和を維持するために絆を作ろうとする城の領主との違いは、歩み寄れる場所が無く、僅かな恋心を残して、側室の話は消えた。
ほどなく、領主佩用の腰刀が小夜の元に送られてきて、幸田家からは織物と異国の茶色の酒が、透明な杯と供に領主に送られた。
稲穂は色づき、実りをより膨らませようとする時期だ。
朝、父の書簡を読み直していた小夜は、突然、組頭以上の参集を命じた。
「現在の稲の状態を知りたい」
全ての村長、組頭が九割九分のできと答えた。
「では、全ての田の水を抜きなさい」
反対をする者はいないが、理由を知りたがった。
「理由は二つ。答えの一つは刈り入れの時にでる。あと一つは来年の田起に出ます。楽しみにしていて」
「最悪でも一分の減作だ。問題ない。それよりも、あの統領が何をやるのか楽しみでならぬ」
村長達はそう言って、組頭に田の水を落とすよう指示した。
小夜の『記憶』の中の稲刈りは、田に水がない。
小夜が子供の頃から知っている、水を残して稲を刈るのは来年の田起のためだ。
水を含んだ土は軟らかく、鍬が良く通るので、土に含ませる肥料などの栄養分が多くなる。
そのかわり、作業をする者は、振り上げた鍬から落ちる泥水を被りながらの辛い作業になる。
だが、今水を抜けば、収穫量に影響を与えず、土が堅くなるので稲刈りも楽に早くできる。では両親は何故これまでそうしなかったのか。その知識はあったはずだ。
小夜は考え続けてようやく複合する原因を導き出した。
その一つは父の統領時代は、まだそれ程の権力や統率力が無く、村の伝統や因習を打ち破る力が無かった。
絶対権者として生殺与奪の力を振るえるのは、武士との戦に勝利した後からだ。
だからこそ、小夜が統領就任の翌日、忠兵衛が久三を弾劾して、小夜の権力を知らしめたのだろう。
父が村々をようやくまとめ上げたとき、今の小夜のように理由も明かさず「水を抜け」と言えば、非難の嵐に晒された可能性がある。
二つにはこの時代と直近未来の農法の違いを、両親は知らなかったのかも知れない。
いずれにしても、稲作の大転換が、小夜が指示した水田の水を抜くことから始まった。
今年の収穫量が一分減ることについて、七人の村長が庄屋として登城した。
統領は女の身で畏れ多いとして、代わりに藤井忠兵衛が七人を率いての謁見であった。
「今年についてのみ、年貢の他に我々の食い扶持をお買い上げ頂きたいのでございます」
領主、家老、役方の居並ぶ中で、七人を代表して忠兵衛が述べる。
「お買い上げ頂きました金子は全て工事の人足費用、道具に使い、足らないものは幸田全村が一丸となって工事を支える覚悟で居ります」
「それはならぬ」
意外な言葉に名主が顔を見合わせる。
領主は、前々代の統領、八郎太を友と遇してきた間柄である。現当主とも親交がある。
反対される筈が無いと思っていた。
「訳をお聞かせ頂けましょうや」
領主は端然と座して頷いた。
「治水治山は本来藩や領主が行う工事である。その工事のためにそなたらの食い扶持を取り上げたとあっては、近隣にあなどられる。侮りを受ければいつ戦になるやもしれぬ。それに米を作る民・百姓が米を食えぬのでは、米を作る意欲が削がれよう。まだある。幸田の中には棚田の影響を受けぬ村が四つあるが、それはどう扱う」
「収穫も仕事も全て共同で行い、按分致します」
「四ヶ村はそれでよいのか」
「我等は、七ヶ村で一つでありますれば」
「ならばよし」
領主は扇の要を役方に向けた。
役方が、かしこまって口を開いた。
「殿のお考えを説明いたす。まず幸田の年貢を二割下げる」
「これはッ」名主に警戒感が広がった。うまい話には飛びつかないのが幸田村の伝統でもある。
「次に全村は所定の食い扶持を確保せよ。その後、余った米に年貢の二割を足したものを我等が買い上げる。これで表向きの石高は確保できるので扶持米に影響はない」
「それでよろしいのでしょうか。結局藩は二割の損が生じますが」
領主が笑った。
「損ではない。僅か二割で村に治水工事を請け負わせたことになる。我等はその分、租税を増やすことにする。すなわち通行税、酒税……。などであるが、幸田の村々には益々人の流れが増えるよう励んで貰わねばな」
忠兵衛はかしこまって礼を言上し、
「その米を金子でお支払い致せばいかに」と訊ねた。
役方が検品した米の量を、決められた単価で支払う。そうすれば役方は蔵米を運ぶ手間も捌く手間も略することができ、人足代も浮くことになる。
役方が頷いた。
「それがよろしいかと存じます」
「ならばそうせよ」
そう言って、「ときに小夜は息災であるか」と忠兵衛に訊ねた。
領主は八郎太が統領のとき、春の花見と秋の祭りに忍びで臨席したことがあり、陪席した小夜を見知っていた。
「元気に野山を駆け巡っておりまする。実は今回のお願いの儀につきましても統領が天地の異変を感じまして、作物を守らんが為に申し出ましたこと」
忠兵衛の答えに「そうか。それならば尚更のこと、小夜の申すことに応じずばならぬな」
そう言って笑いながら席を立った。
領主は以前、小夜を側室にとのぞんだ事がある。
八郎太は「勿体なきこと」と言ってそれを断った。
小夜が側室に入れば、幸田の跡継ぎはさておき、領主と幸田家に姻戚関係が生じる。
それは、村の自治と独立性が失われることになり、幸田の村が城側に支配されることだ。そうなれば、いつか大きな武家同士の戦に巻き込まれる事を意味した。
平和を維持するために、いつでも城と戦ができる距離をおきたい村と、平和を維持するために絆を作ろうとする城の領主との違いは、歩み寄れる場所が無く、僅かな恋心を残して、側室の話は消えた。
ほどなく、領主佩用の腰刀が小夜の元に送られてきて、幸田家からは織物と異国の茶色の酒が、透明な杯と供に領主に送られた。
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