氷の沸点

藤岡 志眞子

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27 番外編)遠森寺

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「私、医者をしております爽庵(そうあん)と申しますが、一晩宿をお願いできませんでしょうか。」  

「え、えぇ。こんな寺ですがどうぞ、どうぞ。」

東の国の寺、遠森寺(えんしんじ)に、私は過去に一度だけ宿を頼んだ事がある。遠森寺という表記は何処にもないし、近所の者も「あそこの寺、」という感じで、そう呼ぶ者はいなかった。
そこの住職は小僧(修行中の坊主)ふたりと三人で寺を切り盛りしていた。立派な瓦屋根に大きな境内、竹林と緑に苔生した石垣。広大な敷地の割に墓所はあまり広く取られていなかった。

「こちらのお寺は長いのですか。」

「はい、一応私で五代目でして。息子で六代目ですが、坊主になる気はさらさら無いようでして…子供はふたりいるし、西の国であなたと同じく医者をしております。」

「それは偶然…。そうですか、実はこれから私も西の国へ向かうのですが、もしかしたら会うかも知れませんね。」

「会うかも知れないって…西の国は東の国の倍はある広さですよ?約束しなければ会えませんよ。」

笑いながら住職は言った。確かに、言われてみればそうだな。北の国では、点在する町や村に行くと聞いた事のある名前の者に高確率で会う事ができた。それは人口が少なく皆密集していて、会えた者は唯一ある酒屋の息子や反物屋の娘などであった。西の国では数え切れないほどあるだろうし、実際同じ名前、同じ取り扱い店もたくさんあった。

「ちなみに息子さんはどちらにお勤めで。もしかして、開業なさってたり?」

「開業はこっちにいた時してましたがね。あっちではどこで医者をしているのかはさっぱりで、」

「そうですか…では、何という名で医者をやっておられるのですか。」

「祥庵という名前でやっております。もし見つけたら親父が怒っていたよ、と伝えてください。」

坊主頭をぽりぽりと掻き、笑いながら住職は言った。

「え。喧嘩でもしたのですか?」

「えぇ。まぁ、喧嘩には違いありませんが、怒り憎しみではなく、心配からくるものでしてね。」

そう言って、少し悲しげな表情になった。夜になり、贅沢な物でないにしろ栄養のありそうな…身体に良さそうな晩飯を頂き、住居である建物の縁側に並んで座り、談笑しながら食後のお茶を飲んでいた。
途端、雨が降り出した。盛りとばかり咲いている紫陽花が、雨に打たれて揺れている。

「宿に来られて良かったです。野宿でもして風邪を引いたら大変ですからね。…息子が寺に来た時も雨が降っておりました。こんな感じに、さめざめと、ね。」

「息子さんは、連れられてこちらにいらしたのですか。」

「いや、そこに…女に捨てられていくのを見ましてね。急いで女を追いかけましたが、馬に跨って走って行ってしまってね。あれは普通の女じゃない、身なりや雰囲気からして女衒だったんじゃないかと踏んでいます。」

東屋を指差して住職が言った。

「女衒が何故。」

「何処かで拐った子供か(頼まれ物)だったのかもしれません。可哀想に思ってここに連れて来てしまったのかな、なんて。でも、もしかすると…自分の子供だったのかもしれません。息子はね、気が強くて強情で大酒飲みで…女衒はそういった気性じゃないとやっていけない商売ですからね。」

そう言いながらも、住職は先程のような優しい笑顔で笑っていた。

「……何か、いろいろと聞いてしまって。私なんかが大切な息子さんの経緯を聞いて良かったのでしょうか。」

「いやいや、こちらこそ。こんな事滅多に話す事なんて無いんですけど。ところで、爽庵さんは西の国のどちらに向かうのですか。」

「あ、はい。安森という家をご存知でしょうか。こちらの近くにも分家がございますが、」

「……あんた、安森の勤め人なのか。」

いきなり声色が変わった。

「は、はい…。」

仲良くなったとうっかりした。安森を嫌う人は結構多く、普段は名前を出さないのだが口を滑らせてしまった。しかし、寺住職の人だ、そんな嫌うはず、

「私は安森が嫌いだ。」

え。

「す、すみません、」

「いや、あんたが嫌いじゃないんだ。安森が嫌いなだけだ。」

そう言いつつ、名前から(あんた)呼びになってるいるし、顔は怖い。

「な、何か安森から、き、気が障るような事でも…?」

「…若い頃の話だ。」

……?

「あんたも男だろ。」

…女か。

「寺の坊主なんで添い遂げはできないとわかっていながらも、好きにはなりますからね。」

「安森の、人間だったのですか…?」

苦い顔をしながらも、話をしてしまったのだから、と続けてくれた。

「その…そこの久尾屋の、まだ独り身だった頃の奥様に横恋慕した事がありましてね。気持ちは伝えませんでしたが、その親戚とやらが私の気持ちに気付きまして。そしたら、嫌ぁな態度になったものだから。」

「…何か意地悪のような事を?」

「まぁ、ね。ありきたりだが口を聞いてくれなくなったり、檀家に悪い噂を触れ回ったり。遠森寺って名前もなくなったようなもんでね。そのお陰で寺の仕事はだいぶ減りましたよ。見ての通り墓だってこれだけさ。みんな他の寺へ移ってしまったよ。」

…安森は、どんな噂を言って回ったのだろう。

「それなのに、何の因果か後から来た安森の娘さんの、結婚相手のご両親の永代供養を頼まれて。断れないから引き受けたけども、何かいい気はしなくてね。まぁ、ちゃんと仕事だからやってるけども。」

坊主も人間で、ちゃんと男なのだなと実感した。

「その娘さんとは麻記様の事ですか。」

「あ、あぁ。安森の人間という事を伏せてくれだの変な事ばかり言うし。惚れた女の姪っ子だから黙ってやっていたけども。まぁ、その奥様も早くに亡くなって、何故か安森の墓に入らずうちで眠ってるよ。」

そう言って紫陽花の陰に隠れた墓石を指さした。墓石には何も掘られていない。

「その奥様の、ご、ご希望で?」

「あぁ。…内緒だよ、どうしても安森の墓に入りたくなくてってね。麻記様の配慮もあってあそこにいるんだ。あんたも、安森に聞かれても言うんじゃないよ。」

「は、はい。承知致しました…。」

もしかしたら奥様も住職が好きだったのかもしれない。だからここに墓を…しかし、それは言わなかった。言わなくてもわかっていただろうし、今は叶って一緒にいる。野暮というものだ。
翌日、私は住職に重ね重ね礼を言って(朝には機嫌が直っていた。)、西の国に発った。安森の専属医師として働き、結婚して子供ももうけた。変わらず本家に出入りで働いていたある日、突然休暇をいただき、離れている間に安森本家は全焼した。それを機に安森を辞め、東の国の田舎に引っ越し開業した。医学塾の同期だった、雪庵の息子を弟子に招き教育もした。今は隠居し妻とふたり、のんびりと暮らしている。

あれ以来、あの寺には行っていない。









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