氷の沸点

藤岡 志眞子

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月の綺麗な夜、男ふたりで向かい合う。

「僕は何をすればいいのでしょう。」

「宿では過激な事を言ったが、端っから殺しはさせねぇよ。」

ガリガリで虚な目の男が言った。安宿で仕事に誘ってきた男である。場所は東の国の北寄り、ほぼ北の国で土地が痩せた村。田圃の稲は盛りの時期だというのに育ちが悪く、農業をしている農民は皆痩せていた。こんなところに旅籠を構えてやっていけるのだろうか。いや、旅籠なんて表向き。本業は、(忍)だ。
(四月菖蒲)と書かれた店看板。洒落た名前に相応しくない仕事内容。村人や田圃で働く農民も手伝っているようだ。その金で生活しているのである。

「依頼されてずっとできなかった仕事があるんだ。お前、西の国で働いてたんだよな、喜船っつぅ料亭を知っているか?」

何の因果だろう、聞いた名前の店だった。

「はい。僕が行くはずだった奉公先の料亭です。」

「あ?じゃあ、顔が割れてんのかい。」

「多分…。名前も確実に知れています。」

「困ったな。じゃあ使えねぇじゃねぇか。」

「ちなみに、どんな内容で。」

「え。あぁ、話す分には問題ねぇからいいけどよ。安森っつぅ家があってよ、喜船から結構な額の金を借りている。お前が孕ませた女の家だ。で、その安森からの依頼でな、旦那の孫を拐かして欲しい、と。」

「身代金要求ですか。」

「それもだが、過去に喜船の仕出しで安森の旦那が死んだらしい。食あたりと片付けられたらしいが、その事実さえも揉み消されたんだと。死んだ旦那の前から金を借りていたらしいが、それが謂わばトイチ(十日で一割の利息を取る)な訳よ。いくら返しても返しきれない。」

「最近も仲良くしているような話を客から聞いた事がありましたが、」

豪華な仕出しを注文したりされたりと、安森で振る舞われた者が自慢げに話していたのを聞いた事があった。

「あぁ。喜船との関係を切るなんてありえないよな、とかなんとか脅されてるんだろう。何か弱みを握られているようでもあったが、それについては話さなかった。もしかしたら、安森も人殺してんのかもな。」

そうだろうな。父さんの手紙に書かれていた(狐憑き)。ひとりふたりの数ではないだろう。それを弱みにしているのだとしたら、僕も唯じゃ許せない。

「その話、何とか参加できないでしょうか。」

「は。何だお前、今の話でやる気になったってか?でもなぁ、お前の存在が知れちゃってるんじゃあなぁ。」

「喜船の旦那のお孫さんはどちらにいるのですか。」

「えっ…と。西の国の、色街だよ。」

「え、遊女ですか。」

「馬鹿言え。有名な料亭の娘が何で売られなきゃぁならねぇんだよ、茶屋に嫁いだんだよ。十六歳っつってたから、遊女でもやってけるだろうけどなぁ。」

そう言いながら男の鼻の下が伸びた。行きつけの女でも思い出したのだろうか。

「女を誘拐するだけなら、僕でもできますよね。喜船の者に接触しなければいいんだし。」

「そうだけども…、」

「女も、見た目の良い男の方が、言う事を聞くのでは?」

改まってまじまじと顔を見る。そして、にやりと笑った。

「……そうだなぁ。」

気持ち悪いな。

「それにしても、四月菖蒲とは洒落た名前ですね。」

「お前がいた西の国にもあるぜ。さっきの話はそこでやるんだけど、な。」

男が煙草に火を付ける。勧められてひとくち吸った。咽せはしなかったが、喉が少しひりついた。

「ふたつもあるんですか。」

「もっとあるよ、名前は違うがな。このご時世…いや、いつの世も需要のある仕事なんだよ。俺は雇われだが、経営している上の奴らはみんな親戚筋だ。南の国の出身者でよ、今じゃそっちで温泉旅館なんて、ちゃんと(旅籠の仕事)をしてるらしい。」

南の国。

「何という家系なのですか。」

ぶっ、といきなり吹いた後、男は笑い始めた。

「それがさ、俺もびっくり仰天だよ。まさか旦那様の御子息に声掛けちゃったかと思ったからよ。」

「は。」

「遠原。と、お、は、ら、だよ。」

やっぱり、な。

「あ、あとよ、四月菖蒲(しがつしょうぶ)は表向きの名前で、本当は違うぜ。」

「…え。」

「ヨヅキ アヤメ。こっちが本当。夜月に、殺めるってな。な?洒落てんだろ?」

「本当に、そうですね。」

話は決まった。実行は東の国で(用事)を済ませてから、となった。




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