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4-1.チョコレートケーキ(番外編)
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しおりを挟む「デビューする前、俺がまだ養成所にいたころ……」
遼の脳裏には、昔の思い出が浮かぶ。街中でスカウトされ、養成所に入った遼は、デビューを目指して日々レッスンに励んでいた。高校を中退してまで飛びこんだ世界だったが、即デビューとはならず、現実は厳しいものだった。当時の遼は若さ故に、腐っていた時期もあった。
「なかなかデビューが決まらなくて、モデルやったり、バックダンサーをやったりしてた」
王輝と遼が初めて出会ったのは、その頃だったが、王輝はそれを口にしなかった。
「ようやくデビューが決まって、岸さんがマネージャーになってくれた」
岸と初めて出会ったのは、デビューの話が上がったときだ。岸は当時も敏腕マネージャーで有名で、遼は岸にマネージャーをしてもらえることも一種の自慢だった。デビューに向けて、岸は遼をサポートしてくれた。
「岸さんがスタジオ近くの喫茶店によく連れて行ってくれたんだ。頑張ったから好きなもの注文していいって、奢ってくれて。ご褒美みたいなものだった」
レッスンスタジオに近い喫茶店は、昔ながらという言葉が似合う、古い喫茶店だった。店主が一杯ずつコーヒーを淹れ、レコードが昔の曲を奏で、年代ものの机や椅子が静かに佇み、ゆったりと時間が過ぎる。チェーン店のカフェとは違い、重厚な空間だった。若い遼にとっては、肩身が狭いのが本音だったが、岸の好意を無下にできるはずはない。それに、コーヒーを飲みながら、窓の外をぼんやりと眺める岸の姿に大人の色気を感じ、遼はそれを観察するのが好きだった。
「俺、いつもチョコレートケーキを頼んでたんだ」
「それってチョコレートケーキが好きだから?」
王輝の質問に、遼は自嘲気味に笑った。
「そうじゃなくて、奢ってもらうのに値段があまり高くなくて、お腹も満たせてって考えて、でも甘いもの得意じゃないから、一番甘くないチョコレートケーキを頼んでた」
岸に遠慮して、遼は注文するメニューを考慮した。甘さ控えめのチョコレートケーキは、嫌いではなかったが、好きでもなかった。その喫茶店に行くとき、遼は毎回チョコレートケーキを頼むようになった。
「一度決まってたデビューが白紙になったときも、岸さんは喫茶店に連れていってくれた。岸さんは何も言わずに、落ち込んだ俺にチョコレートケーキを注文してくれた。俺が毎回注文するから、気を遣ってくれたんだと思う」
遼は落ちこみながらも、チョコレートケーキを口に運んだ。本当は食べたくなかったが、岸にも店主にも悪いと思い、無理矢理食べきった。チョコレートケーキが嫌いになった瞬間だった。
「そういう辛い思い出が、さっきチョコレートケーキを見たときに、一気に押し寄せてきて……。自分でも知らなかったけど、トラウマになってたのかもしれない」
今までに、チョコレートケーキを食べる機会が少なかったのか、今回たまたま思い出したのか、遼にはわからなかった。しかし、自分の弱さを情けなく思うことは確かで、遼は軽く笑い飛ばした後、缶ビールを飲み干した。
「これで終わり。話せば大したことなかったな」
遼が顔を顰めたのは、ぬるくなってしまったビールのまずさと、思い出の辛さの両方からだった。今があるのは、過去があったからだが、それでも辛い気持ちは胸の底に重く滞留している。
「そんなことない」
王輝はそれだけ言うと、手を強く握りしめ、唇をきゅっと固く結んだ。高校中退したという話は聞いたことがあったが、デビューが白紙になったという話は初めて聞いた。遼の苦難を想像し、王輝は胸が苦しくなった。
「ごめん、そんな顔させるつもりじゃなかったのに」
遼は強張った王輝の頬に、優しく手を添えた。目を伏せていた王輝が顔を上げると、二人の視線が交わる。遼のほうが辛いはずなのに、こんな時でさえ優しい遼に、王輝はたまらなく愛おしさを感じ、遼を抱きしめた。突然の王輝の行動に驚いた遼だが、王輝の体温が心地よさに、そのまま身を任せた。
「遼、話してくれてありがとう」
王輝の柔らかな声が、遼の耳に落ちる。それだけで、遼の心はじわりと温かくなり、思い出の辛さが和らいでいくように感じた。いつか王輝が過去の話をしてくれた時には、同じように優しく抱きしめようと遼は静かに決意した。
二人はしばし身体を寄せ合っていたが、王輝がふと「あ」と声を漏らした。不思議に思った遼が顔を上げると、王輝が表情を曇らせる。
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