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3-1.夜に走る

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「ちょっと…、え、頭おかしいんじゃないですか…?」
 狂行に走った王輝を漠は信じられないと見つめた。漠の顔は引き攣っている。
「俺はお前の言いなりにはならない」
 王輝の鬼気迫る表情に、漠は恐怖を覚えた。王輝の瞳の奥は暗くて、冷たい。その瞳に睨まれ、漠は今すぐここから逃げたくなった。こんなに狂った人間を相手にはできない。漠の生存本能が悲鳴をあげる。
 王輝は漠に手を伸ばした。手にも傷がついていたため、白い肌に血が流れ、ぽたぽたとローテーブルに滴を落とした。
「スマホ貸せ」
 漠は震える手で、スマホを王輝に渡す。王輝に何をされるかわからないので、おとなしく従うしかなかった。
 血が流れ出る感覚に気持ち悪さを感じながら、王輝はスマホを操作する。写真の画面が開いたままだったので、ロックを解除する必要はなかった。何十枚も撮られていた写真を全て削除する。血で濡れた指先のせいで、画面が赤く汚れた。服の袖で軽く画面を拭いて、漠の手にスマホを戻す。
「保存したのはここだけ?クラウドには?」
「してない…、スマホの中だけです…」
「嘘じゃないよな?」
 王輝は血に濡れた手で、漠の頬を軽く叩いた。漠は「ひっ」と悲鳴を上げ、肩を大きくびくつかせた。
「本当、嘘じゃないから、触らないで…」
 泣きそうな漠に、王輝は脅しと憂さ晴らしを兼ねて、漠の頬にべたりと血の跡をつけた。漠は完全に降参状態で、王輝にされるがままだった。
 漠の様子を見て、これくらいやればもう何も言ってこないだろうと王輝は判断した。これ以上長居は無用だったし、早く怪我の手当てをしたかった。
「今後一切俺に関わるな」
 王輝は威嚇して、漠の胸を軽く押した。漠は抵抗することはなくソファに座りこみ、黙ったまま項垂れた。
 王輝は部屋を出ていこうとして、少女の存在を思い出す。少女は部屋の隅に立ち尽くしたままだった。少女の乱れたままの服装に、王輝は顔をしかめながら尋ねた。
「矢内とはどういう関係?」
「……妹です」
 思わぬ答えに、王輝は驚き、じっと顔の造形を確認する。メイクはしているが、確かに漠に似た雰囲気をまとっていた。
「お兄ちゃんが手伝ってって…まさかこんなことだとは思わなかったんです、ごめんなさい…」
 ぽろぽろと涙をこぼして謝る少女に、王輝は戸惑った。あどけない泣き顔の少女をそのまま放置するわけにもいかず、王輝はズボンのポケットからハンカチを取り出し、少女に渡す。そして、コーチジャケットを脱いで少女に羽織らせた。
「俺こそ怖がらせてごめん」
 ハンカチで涙を拭う少女をソファに座らせた。もしかしたら妹ではないかもしれないし、本当は漠とグルかもしれない。少女の言うことを鵜呑みにはできないが、今は信じるしかなかった。
 ソファに座った二人を部屋に残し、王輝は廊下に出た。左右を見ると狭い通路に等間隔にドアが並んでいた。廊下の奥に階段を発見して、左足を庇いながら、そちらへと歩を進めた。並ぶドアからは歌声や騒がしい声が漏れ聞こえて、王輝は羨ましさすら感じた。
 階段で階下へ降り、出口を探す。客は部屋に篭りきりで、廊下や階段には人気がない。王輝にとってそれは好都合だった。手は血まみれで、キャップもマスクもしていない。ジョガーパンツが黒色のため足の出血はわかりにくいが、今の格好では目立つ。
 受付には金曜の夜のせいで、酒に酔った人たちが溢れていた。混雑に紛れることも可能だが、人が多いためバレる可能性が高い。仕方なく、王輝は別の出口を探す。裏口や従業員用の出入口があるはずだと検討をつけ、受付とは反対側の廊下を進むと、質素な作りのドアが見えた。王輝は人に見られていないか確認して、静かにドアに近づく。幸いドアに鍵はかかっておらず、ドアを押し開けると、ビルの裏へと出た。
 冷たい外気に王輝の頬に触れる。王輝は逃げることができて一安心したが、身体は悲鳴を上げていた。ビルの壁に手をつき、倒れそうになるのを防ぐ。息切れがひどく、呼吸を繰り返しても、息苦しさは拭えなかった。ドアから数歩歩いたところで、王輝は壁沿いに座り込んだ。刺したところが熱いが、身体は寒い。あのコーチジャケット気に入っていたのに、と王輝は残念に思いながら、自分の身体を温めるように抱き寄せた。
 再び意識が遠のく。刺したので当たり前だが、まさかこんなに出血するとは想像していなかった。無茶するんじゃなかったと王輝は後悔したが、もう遅い。大腿部が血でぐっしょりと濡れ、触れると手が赤く染まる。撮影で血糊を使ったことがあったが、やはり本物を見るとぞっとする。この感覚はいつか演技に活かせると考えて、こんな時まで演技のことを考える自分が可笑しくて、王輝は力なく笑った。
 須川に助けを求めるために、ポケットからスマホを取り出す。画面が血で汚れることに煩わさしさを感じながら、電話のアイコンをタップした。履歴から須川に電話しようと思ったが、指先が滑り連絡先の画面が開く。登録件数は多くないため、そのままサ行までスクロールした。須川の名前はすぐ画面に現れた。同時に、その上に並んだ名前が王輝の目に飛び込んでくる。
「佐季」
 遼の名前を口にすれば、王輝の胸がじんわりと熱くなった。無性に声が聞きたくなり、遼の名前をタップする。画面は通話画面になり、王輝はスマホを耳に当てた。
 そういえば遼に電話をかけるのは初めてだった。驚く顔の遼を想像して、王輝はふっと笑いがもれた。
 そこから先の王輝の記憶は曖昧で、薄れゆく意識の中、どうにか位置情報を送ったことが王輝の最後の記憶だった。
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