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第一章:春
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しおりを挟む「僕のほうこそごめん。美術館で怖い思いをさせてしまった」
見知らぬαに襲われることが、Ωにとってどれほどの恐怖なのか、秀悟には想像もつかない。襲われるΩの方が悪い、発情期に抑制剤を飲まないΩのせいだ、と言う人たちも多いが、秀悟の考えとしては、それは違った。α本位に考え方には抵抗がある。
「それに、逃げたって言うなら、僕も同じだ。あの場にいたら、自分が保てなくなりそうで……」
話しているうちに言い訳がましくなっていることに気づいた秀悟は、言葉を止めた。
「ごめん、僕にこんなこと言う資格ない。悪いのは僕だ」
秀悟は表情を曇らせ、差し出していた手をぐっと握りしめた。
どうあがいても本能には抗えないのに、本能を理由にすれば楽なのに、秀悟はそれを言い訳にしなかった。椿はそれに対して、秀悟のことを真面目で不器用な人間だと評価した。αのくせに生きづらくはないのだろうかと逆に同情してしまう。
「七村さん」
椿は優しく呼び、秀悟の握られた手を取る。椿からの唐突な接触に、秀悟の肩が揺れた。力強く握られた秀悟の指を優しく開かせた椿は、手のひらに五百円硬貨を置き、また握らせる。
「謝るのはこれで終わりね。おあいこだから」
落ちこむ秀悟を励ますために、また、この話を終わらせるために、椿は秀悟の手を優しく押し返した。
秀悟の視線は椿の顔と握った自分の手を行き来する。椿の肌の温かさの名残、そして手の中の五百円硬貨の存在を感じながら、秀悟は謝罪が受け入れられたことにほっとしていた。
「ごめん、気を遣わせてしまって……」
「また謝ってる」
「あ、ごめ……、えっと……」
つい謝罪の言葉が飛び出してしまい、秀悟は苦笑いをした。謝罪の代わりの言葉を探し、秀悟が辿り着いたのはお礼の言葉だった。
「ありがとう、椿くん」
優しく微笑む秀悟に、椿の鼓動がとんっと跳ねた。遅れて顔が熱くなり、椿は慌てて俯く。「別に、お礼なんて」と小さく呟くのが精一杯で、跳ねる鼓動の理由を椿はまだ理解できなかった。
俯いた椿の首筋に、ぽつりと雨粒が落ちた。驚いて顔を上げた椿が、秀悟と目が合った瞬間、雨粒が次々と二人に降り注ぐ。
「俺傘持ってない」
「僕も」
二人は突然の雨に慌てふためく。河川敷や歩道の人たちも同様に慌てつつも、ちらほらと傘を差す人たちもいた。
秀悟は折り畳み傘を持ってくればよかったと後悔しながら、周囲を見回す。少し先に河川にかかる鉄橋を見つけ、その下なら雨宿りできると判断した。
「椿くん、あそこ、雨宿りしよう」
秀悟は椿が頷くのを確認して、走りだす。椿は秀悟の後を追いかけた。
二人が鉄橋の下にたどり着いた頃には、雨は本降りになっていた。ざぁっという雨音が響き渡る。息を整えている二人は、すっかり濡れてしまい、髪や服からはぽたぽたと水滴が落ちた。
「椿くん、大丈夫?」
秀悟はズボンのポケットからハンカチを取り出し、椿に差し出そうとしたが、そのハンカチも濡れていたので、またポケットに戻した。
「平気。でも、濡れちゃったね」
苦笑しながら椿は雨で濡れた半袖シャツを脱いだ。中に来ていたTシャツは湿ってしまい、肌に張りつく。濡れた髪が煩わしくて、椿はふるふると頭を振ると、水滴が飛んだ。
犬のような椿の動作に、秀悟は小さく笑った。しかし、すぐに表情が強張る。
半袖から伸びる細い腕、首筋のネックガード、濡れた肌、湿った黒髪。椿の姿に、秀悟はくぎ付けになった。椿の甘い匂いがして、どっと秀悟の鼓動が跳ねる。先ほどまで椿を心配していた思考が、徐々に塗り替わっていき、触れたい、汚したい、手に入れたいと欲望に支配される。
「どうかした?」
急に黙り込んでしまった秀悟を不思議に思い、椿は首を傾げた。
「いや、何でもない」
秀悟は椿から顔を背ける。秀悟のよそよそしさが気になった椿は、秀悟の様子を伺うために、秀悟の目の前に移動した。
「七村さん?」
椿の大きく、無垢な瞳に見つめられ、秀悟の鼓動は速くなる。触れたらどんな反応をするのだろうと秀悟の本能が囁く。秀悟の脳内には鼓動が大きく響き、雨音は遠く小さくなる。秀悟の視界から周囲の光景は消え、今は椿しか見えていない。
「椿くん」
秀悟の手がゆっくりと動き、椿の頬へと伸びる。駄目だと本能に抵抗する秀悟だが、身体は言うことを聞かない。
秀悟の指先が優しく椿の肌が触れると、椿は肩を揺らした。椿の柔らかく温かい肌に、秀悟の背筋にぞくりと興奮が走る。αとしての本能がΩを求め、もっとと欲望が湧きあがる。
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(『ride』は2021年3月28日に追加します)
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