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愛日と落日
03、冒涜と蔵匿
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春から夏のトラックシーズンは総体、国体、U18選手権と、大きな試合が目白押しだ。と言っても長距離専門の重陽は、トラック大会では五千メートルに集中するのみである。
全国高校総体は五月から六月にかけて全国で順次地区大会が始まり、それを勝ち抜くと次は県大会、その次には地方大会と、予選が三回ある。そしてその地方大会を勝ち抜いた先にあるのが全国大会──いわゆるインターハイだ。
重陽は、三年目にして初めて地方大会を勝ち抜いた。
けれど二つ下に鳴り物入りで現れた双子が一位と二位で表彰台に立ったので、ギリギリ六位でインターハイ出場権を獲得した重陽の存在感は今ひとつ薄い。校舎にかかった「祝! 全国大会出場!」の垂れ幕に書かれた名前が重陽だけ少し小さいのは、果たして文字数のせいだけだろうか。
「喜久井はどうも前半に突っ込み過ぎるなあ。まあたラストの一周で足が止まってるぞ」
まだ慣れない様子の手つきでタブレット端末を操作し重陽のラップタイムをチェックする老監督は、どうしたものかと唸りながら絞り出すように言った。
「すみません。自覚はあるんすけど」
「スタミナは充分ついてきたんだから、もっと落ち着いて、頭使って走れ。お前、いっつも何考えて走ってんだ?」
好きな人のことしか考えてねーっす……。などとは当然口が裂けても言えず、重陽は目を泳がせながら「ジュケンノコトトカデスカネ……」と頭をかく。
「チョーさんにこれ以上何言ったってしょーがないっすよ監督。その人センスねーもん」
と口を挟んだのは、地方大会で二位に輝いた双子の片割れ、松本遥希だ。塩顔で直毛の黒髪で眼鏡をかけているところは夕真と同じだけれど、性格は真逆で全く可愛くない。
「考え事しながら走ってる時点で三流っていうか」
「待て待て待て。凡人の中じゃあ頑張ってる方よ? インハイ出場は」
「お。そこも自覚アリって感じです? じゃあ本番は俺の風除けお願いします! 先輩でかいから、いい仕事してくれると思うんすよね!」
と舐めた口を聞かれても、重陽は「ちょいちょいちょーい!」と茶化して見せることしかできない。遥希の可愛くなさはあまりにも異常だが、先輩風を吹かせて怒るのも重陽のキャラじゃない。
重陽の身長は伸びに伸びて今や百八十センチを超えており、日本の長距離ランナーの中ではかなりの大型選手にあたる。
一方の遥希は百七十センチ弱の痩せ型で、なるほど自分がそのくらいのサイズの頃は、確かによく今の自分くらいの大型選手を風除けに使って体力を温存していた。風の抵抗を防げるだけで、レースの後半に使えるエネルギーはぐっと増える。
そういう意味では遥希の言い分には合理性があるし、だからそこまで悔しくないのだ。実際彼とのタイム差は月とスッポンで、重陽は「遥希がインハイで優勝できるなら風除けでもペースメーカーでもいいか」なんて思ったりもする。
悪いのは性格だけで、遥希の走り様はそのくらい人を魅了するのだ。彼のまるで地面の方を縮めるような走り様を見ていると「おれもあんな風に走れたら、今よりもっと気持ちいいだろうなあ」とうっとりすることもしばしばである。
「おい遥希。調子に乗るな」
「えーっ!? 監督なんでなんで!? 俺なんか間違ったこと言ってますう!? 後輩にここまで言われて黙ってる程度のモチベの人っすよ? 時間割くのムダじゃね?」
タブレットの角で頭を小突かれた遥希は無邪気に口を尖らせて、それからなぜか重陽の顔を見て「ねえ?」と同意を求めてきた。
「……もういい。遥希。お前は練習に戻れ。メニューは有希に渡してあるから」
「うぃーす。りょーかーいっす!」
監督が少し語気を荒くした空気を読んでか遥希は肩を竦めて返事をし、踵を返して駆けていった。
その先では彼の双子の兄──地方大会で遥希を胸の差で下し優勝した松本有希が悠々とストレッチを行っている。
有希の方は弟と違い黙々と練習メニューをこなし淡々と結果を出していくタイプだが、彼は彼で誰に何を言われても無言・無表情・無感情の走りマシーンなので取っ付きにくさはある意味では遥希を軽く上回る。
「お前もお前だぞ喜久井。部長がそんなんでどうする。え? 自覚を持てよ自覚を」
「……さーせん」
重陽もまた遥希と同じく肩を竦め、首を突き出した。双子が入ってくる前の自分的ピーク時に代替わりで部長に指名されはしたが、はっきり言って荷が重い。
先代の部長からははっきり「人間関係の緩衝材」と言われた。なのに、そんなんでとか自覚がとか言われても困る。重陽の部長としての「自覚」は、遥希と有希について回って部員みんなに「まあまあ」「そこをなんとか」と言って回ることだ。
「そりゃあ、あの双子はすごいよ。天才だよ。それに、マイペースで人に煽られないのはお前のいいところだ。けどな、そんなのは忘れなさい」
「はあ。一旦」
「お前が引っ張るんだよ。そういう背中を見せろ。逃げるんじゃない。追うんだ。前だけ見て走れ。集中しろ。お前のそういうところを、他の奴らはちゃんと見てるから」
と力強く言われて背中を叩かれても、全然響いた気がしない。というよりピンと来ないのは、確かに自覚がないせいなんだろう。人を引っ張るとか手本になるとか、矢面に立つとかいうのは、重陽がこれまで一番苦手にしてきたことだ。
悪目立ちして笑われて、道化になって和ませる。学校では今までずっとそういう役回りだったし、それでうまくやってきた。
レースの時だけはしゃんとするけど、それ以外はふざけたヤツ。どういじっても何をいじってもヘラヘラヘラヘラ。みんなのおもちゃ。重陽がどんなにタイムを伸ばしても変わらない。なんにも世界は変わらない。
「……まあでも確かに、あんな天才より俺ぐらいの方がなんか手ェ届きそうっすもんね」
重陽は一応何かを得心したような顔をしてうんうん頷き、肩甲骨を引き剥がすようにストレッチをした。
「そういうところだっての! お前の悪いところは!」
「いてえ!」
伸ばしたところをもう一度強く叩かれ、前につんのめる。
「気持ちで負けてちゃしょうがないだろう! もっと胸張って走れ!」
「……気をつけます」
自分の味方をしてくれているのは監督の方ではあるけれど、遥希が言うのと違って「気持ちで負けてちゃ」というのがどうにもこうにも納得できなかった。
確かに重陽は自分でも、勝負に対する執着が人より薄い方だとは思う。けれどその気持ちの強弱が結果を左右するとは到底思えないのだ。
なぜかと言えば、重陽よりもタイムの振るわない選手がこの部にも同じ地区にも山ほどいる。果たして彼らは重陽よりモチベーションが低くて勝ち負けにも全然執着しないのだろうか。そんなわけはない。そんなバカな話はない。
もうここまで来たら気持ちの闘いです! より貪欲に勝利を渇望した者が栄光を掴むのでしょう!
スポーツ中継でお馴染みのフレーズ。これも重陽は「くそくらえ」と思う。
気持ちで勝てれば苦労はない。勝負の行方を「気持ち」で論じるのは、その人が身につけたすべての「力」への冒涜だ。
性格が呑気だろうが負けず嫌いだろうが、ネガティブだろうがポジティブだろうが、頭がすっからかんだろうが考え事でいっぱいだろうが、そんなことはどうでもいいし、それがプラスに働くかマイナスに働くかは人それぞれだ。
勝てなかった人が弱いわけじゃないし、勝てた人が強いのでもない。それまでにどんな道程を経ようがどんな事情を抱えていようが、その時一番「速かった」人間が勝つ。たったそれだけのことだ。だから陸上は、シンプルで残酷できれいだ。
「あと少し! 頑張ってついてきて!」
長い距離を走る練習で、重陽はへばり始めた後輩の背中を少しだけ押してやってから前に出た。先頭にいる松本兄弟はなんだかぺちゃくちゃ喋りながら走っているが、それでも彼らのスピードは、ほかの部員にとってはオーバーペースだ。
なので後ろから彼らに声をかけようと大きく息を吸ってから、思い直してストライドを伸ばした。口だけで言って素直に聞く相手じゃないことを思い出したからだ。
「遥希、有希、ちょっとごめんな」
どうにか必死で彼らの前に出て、肺をいじめながら少しだけ振り返る。双子の二人が同じようにムッとした顔で、重陽を睨みつけた。
「邪魔かもしんないけど、ちょっとペース抑えさせて。お前たちのペースに任せてたら、他のやつらケガするから」
遥希の方は不服そうに口を尖らせながらも「ウィース」と返事をしたのに対し、有希はムッとした顔のまま何も言わず、じっと重陽を見つめている。
「有希? どうした? 何か言いたいことある?」
内心では「不貞腐れてんじゃねーよコノヤロー」と思いながら、重陽はいつものへつらい笑いで尋ねた。
すると、しばらくして有希は小さな声で呼吸とともに「喜久井さん」と発した。
「なに? 有希」
「楽しいですか」
楽しいわけねーだろ殺すぞ! っていうかおれの方が死にそうだわ‼︎ と地面をのたうって暴れ回りたい気持ちをぐっと飲み込み、重陽は笑って答える。
「うん。楽しいよ。おれは、走ってる時が一番楽しい」
反応を待ってはみたものの、尋ねた有希の方はそれきり黙ったままなので、重陽も前を向き直った。
そして、二人のちょうど間あたりに立ちはだかるようにして少しずつペースを落とす。その影響かどうかは分からないが、後ろから聞こえてくるほかの部員たちの足音のペースは徐々に上がってきているようだ。
重陽はほっと息を吐きながら、右、左、と片方ずつ腕を回し、上半身のリラックスを心がけた。
走っている最中に人と話すと体に妙な力が入る。きっと、根が引っ込み思案で昔から人とのコミュニケーションに苦手意識を持っているせいだ。
小学校では「赤毛のアン」よろしく、髪の色とそばかすがもとで随分いじめられた。自分の「逃げ足」の速さに気付いたのがその頃だ。
なので、生まれてすぐに患った呼吸器疾患の治療に区切りがついたのをきっかけに、サッカーの少年団と陸上教室に通わせてもらった。病み上がりにも関わらず重陽の頼みを聞いて好きなことをさせてくれた両親には、感謝してもしきれない。
スポーツを始めて、重陽の世界は変わった。
足が速いことで、重陽は人権を手に入れた。
調子に乗り切れずキョロ充ポジションに収まってしまったのは、ひとえにオタク趣味と身に染み付いたいじめられっ子マインドのせいだ。
重陽の携帯には男性向け女性向け問わず流行りのソシャゲがひととおりインストールされていて、電子書籍のアプリには夥しい数のBL漫画とライトノベルが並んでいる。
重陽は本能的に分かっていた。それが周囲に知れれば自分は、きっとまたもとの木阿弥になる。ましてや自分がバイセクシャルだなんてことが知られてしまうのは、これほどまでにホモソーシャル(笑)を極めた高校スポーツの中ではほぼほぼ死刑宣告に近しい。
「……ねっみぃ」
前を走る重陽を邪魔くさそうにしながら呟いたのは遥希だ。癪に障る。
いいよなお前らは天才的に速く走れて、楽しそうで、人が何言ったって全然構いやしないんだから。のびのび自由で、なんにも我慢してない。
そんなことを思うと不思議なもので、こいつらには負けられない。絶対に負けちゃいけないという気持ちが湧いてくる。
こんなにこんなに苦しんで生きてるこのおれが、こんなキラキラした奴らにいいようにしてやられる。垂れ幕の字までオマケみたいに小さい。まるで添え物。
そんな夢のない話あるか? バカ言ってんじゃねーよくそくらえ! 負けるな。負けるな! おれ!!
腹の底からふつふつ湧いてきたそんな気持ちを押し殺し、重陽は淡々とピッチを刻む。ここでムキになってペースを上げてもいいことはない。
距離からペースを割り出し、全員をきちんと走りきらせてチーム全員の力の底上げを図る。それがこの練習メニューの目的だし、重陽の強みは人に煽られずにペースを守れるところだ。
というのは建前で、結局これもポジション意識だ。自分に割り当てられた役目から逸脱して、周囲から爪弾きになるのが怖いだけの。
ああ、そういうことか。と突然、重陽は監督の「気持ちで負けてちゃしょうがない」という言葉を理解した。
スポーツの「勝負」と人生の「勝負」は別のもので、きっと監督は人生の勝負の方の話をしていたのだ。
全国高校総体は五月から六月にかけて全国で順次地区大会が始まり、それを勝ち抜くと次は県大会、その次には地方大会と、予選が三回ある。そしてその地方大会を勝ち抜いた先にあるのが全国大会──いわゆるインターハイだ。
重陽は、三年目にして初めて地方大会を勝ち抜いた。
けれど二つ下に鳴り物入りで現れた双子が一位と二位で表彰台に立ったので、ギリギリ六位でインターハイ出場権を獲得した重陽の存在感は今ひとつ薄い。校舎にかかった「祝! 全国大会出場!」の垂れ幕に書かれた名前が重陽だけ少し小さいのは、果たして文字数のせいだけだろうか。
「喜久井はどうも前半に突っ込み過ぎるなあ。まあたラストの一周で足が止まってるぞ」
まだ慣れない様子の手つきでタブレット端末を操作し重陽のラップタイムをチェックする老監督は、どうしたものかと唸りながら絞り出すように言った。
「すみません。自覚はあるんすけど」
「スタミナは充分ついてきたんだから、もっと落ち着いて、頭使って走れ。お前、いっつも何考えて走ってんだ?」
好きな人のことしか考えてねーっす……。などとは当然口が裂けても言えず、重陽は目を泳がせながら「ジュケンノコトトカデスカネ……」と頭をかく。
「チョーさんにこれ以上何言ったってしょーがないっすよ監督。その人センスねーもん」
と口を挟んだのは、地方大会で二位に輝いた双子の片割れ、松本遥希だ。塩顔で直毛の黒髪で眼鏡をかけているところは夕真と同じだけれど、性格は真逆で全く可愛くない。
「考え事しながら走ってる時点で三流っていうか」
「待て待て待て。凡人の中じゃあ頑張ってる方よ? インハイ出場は」
「お。そこも自覚アリって感じです? じゃあ本番は俺の風除けお願いします! 先輩でかいから、いい仕事してくれると思うんすよね!」
と舐めた口を聞かれても、重陽は「ちょいちょいちょーい!」と茶化して見せることしかできない。遥希の可愛くなさはあまりにも異常だが、先輩風を吹かせて怒るのも重陽のキャラじゃない。
重陽の身長は伸びに伸びて今や百八十センチを超えており、日本の長距離ランナーの中ではかなりの大型選手にあたる。
一方の遥希は百七十センチ弱の痩せ型で、なるほど自分がそのくらいのサイズの頃は、確かによく今の自分くらいの大型選手を風除けに使って体力を温存していた。風の抵抗を防げるだけで、レースの後半に使えるエネルギーはぐっと増える。
そういう意味では遥希の言い分には合理性があるし、だからそこまで悔しくないのだ。実際彼とのタイム差は月とスッポンで、重陽は「遥希がインハイで優勝できるなら風除けでもペースメーカーでもいいか」なんて思ったりもする。
悪いのは性格だけで、遥希の走り様はそのくらい人を魅了するのだ。彼のまるで地面の方を縮めるような走り様を見ていると「おれもあんな風に走れたら、今よりもっと気持ちいいだろうなあ」とうっとりすることもしばしばである。
「おい遥希。調子に乗るな」
「えーっ!? 監督なんでなんで!? 俺なんか間違ったこと言ってますう!? 後輩にここまで言われて黙ってる程度のモチベの人っすよ? 時間割くのムダじゃね?」
タブレットの角で頭を小突かれた遥希は無邪気に口を尖らせて、それからなぜか重陽の顔を見て「ねえ?」と同意を求めてきた。
「……もういい。遥希。お前は練習に戻れ。メニューは有希に渡してあるから」
「うぃーす。りょーかーいっす!」
監督が少し語気を荒くした空気を読んでか遥希は肩を竦めて返事をし、踵を返して駆けていった。
その先では彼の双子の兄──地方大会で遥希を胸の差で下し優勝した松本有希が悠々とストレッチを行っている。
有希の方は弟と違い黙々と練習メニューをこなし淡々と結果を出していくタイプだが、彼は彼で誰に何を言われても無言・無表情・無感情の走りマシーンなので取っ付きにくさはある意味では遥希を軽く上回る。
「お前もお前だぞ喜久井。部長がそんなんでどうする。え? 自覚を持てよ自覚を」
「……さーせん」
重陽もまた遥希と同じく肩を竦め、首を突き出した。双子が入ってくる前の自分的ピーク時に代替わりで部長に指名されはしたが、はっきり言って荷が重い。
先代の部長からははっきり「人間関係の緩衝材」と言われた。なのに、そんなんでとか自覚がとか言われても困る。重陽の部長としての「自覚」は、遥希と有希について回って部員みんなに「まあまあ」「そこをなんとか」と言って回ることだ。
「そりゃあ、あの双子はすごいよ。天才だよ。それに、マイペースで人に煽られないのはお前のいいところだ。けどな、そんなのは忘れなさい」
「はあ。一旦」
「お前が引っ張るんだよ。そういう背中を見せろ。逃げるんじゃない。追うんだ。前だけ見て走れ。集中しろ。お前のそういうところを、他の奴らはちゃんと見てるから」
と力強く言われて背中を叩かれても、全然響いた気がしない。というよりピンと来ないのは、確かに自覚がないせいなんだろう。人を引っ張るとか手本になるとか、矢面に立つとかいうのは、重陽がこれまで一番苦手にしてきたことだ。
悪目立ちして笑われて、道化になって和ませる。学校では今までずっとそういう役回りだったし、それでうまくやってきた。
レースの時だけはしゃんとするけど、それ以外はふざけたヤツ。どういじっても何をいじってもヘラヘラヘラヘラ。みんなのおもちゃ。重陽がどんなにタイムを伸ばしても変わらない。なんにも世界は変わらない。
「……まあでも確かに、あんな天才より俺ぐらいの方がなんか手ェ届きそうっすもんね」
重陽は一応何かを得心したような顔をしてうんうん頷き、肩甲骨を引き剥がすようにストレッチをした。
「そういうところだっての! お前の悪いところは!」
「いてえ!」
伸ばしたところをもう一度強く叩かれ、前につんのめる。
「気持ちで負けてちゃしょうがないだろう! もっと胸張って走れ!」
「……気をつけます」
自分の味方をしてくれているのは監督の方ではあるけれど、遥希が言うのと違って「気持ちで負けてちゃ」というのがどうにもこうにも納得できなかった。
確かに重陽は自分でも、勝負に対する執着が人より薄い方だとは思う。けれどその気持ちの強弱が結果を左右するとは到底思えないのだ。
なぜかと言えば、重陽よりもタイムの振るわない選手がこの部にも同じ地区にも山ほどいる。果たして彼らは重陽よりモチベーションが低くて勝ち負けにも全然執着しないのだろうか。そんなわけはない。そんなバカな話はない。
もうここまで来たら気持ちの闘いです! より貪欲に勝利を渇望した者が栄光を掴むのでしょう!
スポーツ中継でお馴染みのフレーズ。これも重陽は「くそくらえ」と思う。
気持ちで勝てれば苦労はない。勝負の行方を「気持ち」で論じるのは、その人が身につけたすべての「力」への冒涜だ。
性格が呑気だろうが負けず嫌いだろうが、ネガティブだろうがポジティブだろうが、頭がすっからかんだろうが考え事でいっぱいだろうが、そんなことはどうでもいいし、それがプラスに働くかマイナスに働くかは人それぞれだ。
勝てなかった人が弱いわけじゃないし、勝てた人が強いのでもない。それまでにどんな道程を経ようがどんな事情を抱えていようが、その時一番「速かった」人間が勝つ。たったそれだけのことだ。だから陸上は、シンプルで残酷できれいだ。
「あと少し! 頑張ってついてきて!」
長い距離を走る練習で、重陽はへばり始めた後輩の背中を少しだけ押してやってから前に出た。先頭にいる松本兄弟はなんだかぺちゃくちゃ喋りながら走っているが、それでも彼らのスピードは、ほかの部員にとってはオーバーペースだ。
なので後ろから彼らに声をかけようと大きく息を吸ってから、思い直してストライドを伸ばした。口だけで言って素直に聞く相手じゃないことを思い出したからだ。
「遥希、有希、ちょっとごめんな」
どうにか必死で彼らの前に出て、肺をいじめながら少しだけ振り返る。双子の二人が同じようにムッとした顔で、重陽を睨みつけた。
「邪魔かもしんないけど、ちょっとペース抑えさせて。お前たちのペースに任せてたら、他のやつらケガするから」
遥希の方は不服そうに口を尖らせながらも「ウィース」と返事をしたのに対し、有希はムッとした顔のまま何も言わず、じっと重陽を見つめている。
「有希? どうした? 何か言いたいことある?」
内心では「不貞腐れてんじゃねーよコノヤロー」と思いながら、重陽はいつものへつらい笑いで尋ねた。
すると、しばらくして有希は小さな声で呼吸とともに「喜久井さん」と発した。
「なに? 有希」
「楽しいですか」
楽しいわけねーだろ殺すぞ! っていうかおれの方が死にそうだわ‼︎ と地面をのたうって暴れ回りたい気持ちをぐっと飲み込み、重陽は笑って答える。
「うん。楽しいよ。おれは、走ってる時が一番楽しい」
反応を待ってはみたものの、尋ねた有希の方はそれきり黙ったままなので、重陽も前を向き直った。
そして、二人のちょうど間あたりに立ちはだかるようにして少しずつペースを落とす。その影響かどうかは分からないが、後ろから聞こえてくるほかの部員たちの足音のペースは徐々に上がってきているようだ。
重陽はほっと息を吐きながら、右、左、と片方ずつ腕を回し、上半身のリラックスを心がけた。
走っている最中に人と話すと体に妙な力が入る。きっと、根が引っ込み思案で昔から人とのコミュニケーションに苦手意識を持っているせいだ。
小学校では「赤毛のアン」よろしく、髪の色とそばかすがもとで随分いじめられた。自分の「逃げ足」の速さに気付いたのがその頃だ。
なので、生まれてすぐに患った呼吸器疾患の治療に区切りがついたのをきっかけに、サッカーの少年団と陸上教室に通わせてもらった。病み上がりにも関わらず重陽の頼みを聞いて好きなことをさせてくれた両親には、感謝してもしきれない。
スポーツを始めて、重陽の世界は変わった。
足が速いことで、重陽は人権を手に入れた。
調子に乗り切れずキョロ充ポジションに収まってしまったのは、ひとえにオタク趣味と身に染み付いたいじめられっ子マインドのせいだ。
重陽の携帯には男性向け女性向け問わず流行りのソシャゲがひととおりインストールされていて、電子書籍のアプリには夥しい数のBL漫画とライトノベルが並んでいる。
重陽は本能的に分かっていた。それが周囲に知れれば自分は、きっとまたもとの木阿弥になる。ましてや自分がバイセクシャルだなんてことが知られてしまうのは、これほどまでにホモソーシャル(笑)を極めた高校スポーツの中ではほぼほぼ死刑宣告に近しい。
「……ねっみぃ」
前を走る重陽を邪魔くさそうにしながら呟いたのは遥希だ。癪に障る。
いいよなお前らは天才的に速く走れて、楽しそうで、人が何言ったって全然構いやしないんだから。のびのび自由で、なんにも我慢してない。
そんなことを思うと不思議なもので、こいつらには負けられない。絶対に負けちゃいけないという気持ちが湧いてくる。
こんなにこんなに苦しんで生きてるこのおれが、こんなキラキラした奴らにいいようにしてやられる。垂れ幕の字までオマケみたいに小さい。まるで添え物。
そんな夢のない話あるか? バカ言ってんじゃねーよくそくらえ! 負けるな。負けるな! おれ!!
腹の底からふつふつ湧いてきたそんな気持ちを押し殺し、重陽は淡々とピッチを刻む。ここでムキになってペースを上げてもいいことはない。
距離からペースを割り出し、全員をきちんと走りきらせてチーム全員の力の底上げを図る。それがこの練習メニューの目的だし、重陽の強みは人に煽られずにペースを守れるところだ。
というのは建前で、結局これもポジション意識だ。自分に割り当てられた役目から逸脱して、周囲から爪弾きになるのが怖いだけの。
ああ、そういうことか。と突然、重陽は監督の「気持ちで負けてちゃしょうがない」という言葉を理解した。
スポーツの「勝負」と人生の「勝負」は別のもので、きっと監督は人生の勝負の方の話をしていたのだ。
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