枢要悪の宴

夏草

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第4章 スタートダッシュ

30話 甘美な毒の味わい・下

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 テオファンに呼ばれたドウメキは、ふらつきながらも彼がいる場所へと駆け上った。途中、兎型の悪魔が後を追うように飛びかかってきたが、ギリギリで躱して、上階へと躍り出る。
「てお、ふぁん……!」
「はぁッ、ドウメキ、俺の、話を聞け……!」
 アイリスも彼らの動きを見て何かの変化を察したのか、可能な限りで蔓をしならせ、兎をけしかける。ドウメキはひとつ舌打ちをすると、テオファンを担いで駆け出した。


《畜生、どこにあんな力が……!》
 逃げ回るテオファンとドウメキへ攻撃を放ちながらも、一向に当たらない現実にアイリスは隠せないように苛立ちを吐き出す。おそらく、あの赤毛の聖職者の聖媒による力のせいだろう、やっと届くという攻撃でもなぜか逸らされたり、真っ二つに引き裂かれてしまう。
 大樹から蔦を伸ばし、鞭のようにしならせる。せめて足でもかけて下界に落とせば、それだけで動かぬ肉の塊になる。ただの人間であるというのに。
《ったく、なんなの!》
 体を揺すらせて駆け回る二人を目で追うアイリス。すでに虫の息であるというのに、醜く抵抗を続ける矮小な生物。アイリスからしてみれば、ネズミ同然。
 そのネズミ二匹に気を取られていたアイリスは、自分のすぐ隣で転がしていた人物のことをすっかりと忘れていた。

《うっ!?》

「……ボインのねーちゃん、オレのこと……ゲホッ、忘れて、ねェか?」

 緑の肌を貫き、脇腹から体内へ侵入したそれは、特徴的な刀身をアイリスの肩から現していた。突然の痛みと攻撃にギョッとしたアイリスが振り向けば、緑髪の男エクトルが、ギラギラとした獣のような目でこちらを睨んでいる。
《あんた、死んだ……》
「ゲホッ……ベアトリックス様の相棒だぜ?ンな簡単に、死ぬか、よ……」
 口に入った消化液を吐き出した後、エクトルは剣のグリップを握り込んだ。
 《ぎゃあああっ!?》
 悪魔の体に突き刺さった剣から、着火した燃料とともに火花が噴き出す。ホールのあちらこちらにある炎の痕跡は、すべてエクトルの剣先から放火されたものだったのだろう。まさか体内に直接炎を流し込まれるとは思っていなかったのか、悪魔は苦悶に表情を歪め、悲鳴をあげた。
《この、っ、離れなさい!》
 じゅうじゅうと肩口と脇腹から焼け焦げた肉の臭いをさせながら、アイリスは腕を振り回し、辛うじてしがみついているエクトルの体を殴打する。エクトルはそれを受け止めることも避けることも叶わず、真正面から攻撃を受けて、剣を握ったまま吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
 口元から血を流しながら真後ろに飛ばされる体。このまま硬い壁に叩きつけらるかと思ったが、さらに力強い腕でしっかりと止められる。
「……?」
 エクトルがのろのろと背後を振り返ってみれば、刀をもった見知らぬ男がいた。いや、姿は先ほどからチラチラと見えていた。赤毛の聖職者が名前を叫んでいたはずだった。たしか、そう。
「ドウメキ……?」
「下がっててくれ、テオファンの方へ」
 テオファンというのはあの聖職者のことだろう。見回せば、彼は下の階にはおらず、悪魔の攻撃が届きにくい上階へと渡っているらしい。
「いや、オレはまだ戦え……」
「……違う」
 ドウメキの「違う」という一言にエクトルの指がぴくりと動いた。そして小さく頷くと、ドウメキに支えられていた格好から立ち上がり、よろけながらも上階へと走っていく。
「……」
 無事とは言い難いが、どうにか動けたエクトルの気配を背中で感じながら、ドウメキは刀を構えた。
《また私に勝負を挑むっての?馬鹿じゃない?》
「……」
 ドウメキは答えない。足を肩幅より大きく前後に開き、体の右側――ちょうど、目の高さに柄を握り締めた手を持っていく。ホールのガラス張りの天井から注ぎ込んだ月光が、白い刀身を浮き上がらせ、独特の刃紋が花びらのように輝いた。
「――すぅ」
 数秒、目を閉じる。深呼吸をして全身に血を巡らせる。作戦はわかっている。神経を極限まで尖らせろ、と体に命令する。
 ざり、と地面をブーツの底で踏みしめた。

《舐めてんじゃないわよ!》

 刹那、ドウメキの背後からも正面からも、左右からも蠢く蔦が襲いかかる。その瞬間を待っていたようにドウメキは開眼すると、全身の筋肉へ力を込める。
 四方からの攻撃は来るだろうと予測していた。こちらの不穏な動きにアイリス側も一気に決着をつけてこようと――今まで防御にも分散していた余力をすべてを攻撃に転化してくるだろうと。
 ――もし前後左右から攻撃が飛んできたら?その問いへの答えは、すでにドウメキの中で決していた。
《え》
 アイリスは一瞬体を硬らせた。目の前にいるのが信じられないという風に。
《嘘でしょ……?》
「……」
 ドウメキはアイリスの攻撃を全て避けた。
 がむしゃらに刀を振り回して全て斬り伏せたわけではない。特殊な術で姿を眩ませたわけでもない。
 ただ、彼は上へ跳躍しただけだった。すべての蔦が届かない高さまで。
「……『剣技・十六夜イザヨイ』」
 ドウメキが手首をわずかに傾ける。そして飛び上がった体勢のまま、目下にある大量の蔦へ向かって、真円の軌跡を放った。
 その剣劇の速さたるや、アイリスでさえも目で追えなかった。彼女が事を理解した頃には、ドウメキの周りに群がっていた草木は全て一様に切断され、ハラハラとその身を散らしていた。
《な、》
「っ、ふっ……はぁ……」
 着地すると同時に乱れた呼吸を整えるドウメキ。テオファンから『毒』の正体は聞いていたが、こうもちょっとした運動で苦しくなるのは厄介であった。ぱっと顔をあげれば、真っ赤な顔をして怒り狂っているアイリスと――己に襲いかかる何本もの蔦だった。
「げ、」
 さすがにこの数は対応できない。そう判断したドウメキは、踵を返して蔦とは反対の方向へ走り出す。走れば心臓がどくどくと脈打ち、さらに呼吸は苦しくなったが、これも作戦のため仕方がない。倒れるまで走り抜いて――ドウメキはドウメキの役目を達成しなくてはいけない。
 床を突き破って生えてきた蔓や、容赦ない飛び蹴りを繰り出す兎悪魔をギリギリで躱しながら、ドウメキは刀を握ったままひたすら逃げる。大樹を中心にしてぐるぐると走り回って逃げる『ネズミ』にアイリスは青筋を浮かせながら追跡せんと自身の手足を伸ばした。
《いい加減に――》
「……」
 大樹の周りを何周かしたところで、ドウメキはふと足を止めた。アイリスはしめたと思い、その隙に奴の手足を絡めとろうと蔦を伸ばしたが――異様な臭いに手を止めた。
《……焦げ臭い……?》
 それだけではない。熱い。室温が上昇している。もはやエクトルと戦ったとき以上の温度になっている。それこそ、火事の現場にいると思ってもおかしくないくらいだ。
「……はぁ、はぁ……は……」
 ドウメキがゆっくりと振り返る。衣服の色が変わるほど汗をかき、呼吸は荒く、熱された刀はもう持てないのか鞘に仕舞っていた。赤い目はどことなく虚ではあったが……勝利を確信していた。
《!?》
 その視線が上へ向けられていると知ったアイリスは上階へと首を向ける。そこには、あの赤毛の聖職者と緑の髪の男がなにやら動き回っていた。
《なにを、してるの……?》
 上階から煙が大量に出ている。が天井へともくもくと立ち込め、大樹の葉を覆うほどになっていた。
《煙?なんで、あんなに……》
 テオファンが顔を出す。口元にストラをぐるぐると巻いて、簡易マスクのようにしていた。――まるで、毒から身を守るように。彼もドウメキ同様に滝のように汗をかいており、ちらちらと光る炎に頬を光らせていた。
《まさかそれで私の毒から身を守ったつもり?なんて馬鹿なの?!》
 テオファンが口と鼻を塞いでいるのは己の毒から身を守るためだと考えたアイリスは腹を抱えて笑う。そんなことは無駄であると、彼女が一番気づいていた。なぜなら――
「……」
 そんな笑うアイリスには構わず、ドウメキは今度は上階に向かって駆け出す。ここからはスピードが全てとなる。
 準備は整った。あとは、トリガーを引くだけだ。


「毒なんて初めからないんです」
「は?」
 ドウメキにアイリスの相手を任せたエクトルは、テオファンと合流した後に告げられた言葉に、目を丸くした。
「いや、実際オレは……はぁっ……ここへきてから、呼吸も……」
「落ち着いて、深呼吸して。……ふー……それは私も同意です。が、呼吸が苦しいんでしょう?」
「……」
 深呼吸すれば毒が早く体に回ると思っていたエクトルだが、目の前のテオファンは平気な顔をして深呼吸をしている。その様子をやや訝しげに見ていたが、ほら、と促されるとエクトルも渋々深呼吸をした。
 少しだけ頭の痛みがマシになった気がした。
「酸素です」
「酸素?」
「あの悪魔は毒を撒き散らしているんじゃない。。だから、私たちは酸欠状態に陥り、いわば窒息のようになっているんです」
「……なーる」
 だから換気をされると意味がないのだ。毒など最初からないのだ。予め相手に「自分は毒を使う」というブラフを撒いてから、呼吸へのプレッシャーを抱かせる。そして、あとは相手が酸欠状態になるまで戦わせればいい。そもそも悪魔との戦闘は常に緊張状態であるため、軽い低酸素状態でも重い酸欠症状が引き起こされる。
 そして、ドウメキは毒の回りが遅かったわけではない。単純に、肺活量がテオファンらよりはるかに上だっただけだ。
「なら換気を」
「の前に。あの悪魔は再生能力が非常に高く、体も大きい。私が考えるに、あの大樹が本体でしょうね」
「……同意見だ」
 エクトルとテオファンは床を突き破って根を張っている樹木を見た。とてもじゃないが、簡単に斬り倒せるような代物ではない。あれが本体であるのは明白であるが、倒せる術は思いつかない。
「私には神力の糸がある。それを絡ませて、スピードと重さを乗せれば、斬れないことはないですが……生の樹木を斬るのは難しいです」
「……なら、どうする」
「悪魔にとどめを刺すのは神力による攻撃でないといけない。けれど、弱らせる攻撃なら」
「他の手でいいッてわけ、か……」
 エクトルは手元の剣をじっと眺めた。その原理は彼自身もよく知っており、むしろ普段の常套手段であった。そこからどうする、という視線をテオファンに向ければ、彼は唇に指をあて、声を潜めた。
「火です。火を使って、ここを焼く」
「……無理だな、生きている植物は燃えねェ」
「だから少し準備がいる。あなたの持っている剣、構造はわかりませんが、着火できるのでしょう?……この方法、私たちの生存すら脅かされる手法ですが、確実にここを火の海にできます」
 テオファンはふらふらと立ち上がり、エクトルが持っていた二本の剣の片方を拾い上げた。そして、自分のストラを破ると、口元へとぐるぐる巻きつける。
「次は私たちが『毒』を発生させる番です。……とにかく本に火をつけてください。


 テオファンがドウメキに合図をしたころ、ほとんどの本棚への着火は完了していた。エクトルの剣の内部には幸いにも燃料が残っており、それを当たり一面へとぶちまけることで更なる燃焼効果が見込まれた……が。
 炎の勢いはあまりにも弱い。むしろ、着火した時より弱まっているほどだ。火は小さいくせに、くするぶる黒い煙を出して、辺りの温度だけをどんどんと上昇させている。上階はほとんど火災状態になっているにも関わらず、だ。
(本当にこれでいいのか?)
 テオファンから一通りの説明は受けたが、半ば半信半疑のままエクトルは窓へとかけよった。ドウメキが来るまでは絶対に窓を開けるなと言われている。テオファンも何ヶ所かに追加の糸を貼ってきたようで、エクトルのそばまで来ると、窓の取手へと手をかけた。
(くそ、息が苦しい……酸欠、だけじゃねェな)
 エクトルとテオファンが放火したことにより、あたりに火災のガスが充満していた。特に天井付近には黒い煙が溜まっており、室内の熱気と相まって最悪な状況を作り出していた。
 下層はまだ『マシ』なのだろうが、あと少しすれば下の階も同じようなことになるだろう。
(熱い……)
 テオファンからなるべく体を低くしろという指示は受けているが、それでも呼吸は苦しい。口に巻いた布にじわりと汗が染み込んでいく。
(はやく、はやく来いよドウメキ……!)
 もう耐えられないと叫びたくなったころ、灰色の影が目の前に飛び上がった。

「!」

 彼も有毒性のガスを感じたのか、口元を衣服の袖で覆っている。青かった上着は濃紺に変わり、刀はすでに収めていた。
 そして、まるでおまけのように――彼の背後には大量の蔦が忍び寄っていた。
「はやく!」
 ここでドウメキが捕まれば全ての作戦が失敗に終わり、全員が死ぬ。ドウメキは床に着地すると、ガスと酸欠と熱で眩む体を叱咤し、窓の方へと――エクトルとテオファンが待機している場所へと走り出した。
「ドウメキィイイ!」
 テオファンが叫ぶ。すでに窓枠へ手をかけている。彼らがいる場所まであと二メートル、ドウメキを蔦が捕まえるまで三メートル。
「うぉおおお!」
 口元を抑えるのをやめ、ドウメキは雄叫びを上げて両足を踏ん張る。
(――『剣技・暁』!)
 直線の移動を最速に行う型、『暁』。本来ならば剣術の型に用いられる足の運びであるが、それを刀をもたず、ただ逃走のために用いる。床を砕くほど左足を強く踏み込み、全力をただ推進力にかける。
 ドウメキと窓の距離は、あと一メートル。テオファンは指先に力を込めた。

 火災の際に起こり得る恐ろしい現象は数多くある。
 その一つは、蓄積された一酸化炭素に酸素が急激に結びつく化学反応により引き起こされる爆発現象である。
 密閉空間等の低酸素条件により炎が不完全燃焼を起こし、一酸化炭素をとして排出する。その条件が整った状態で、窓や扉を開くことで酸素を取り入れることが爆発のトリガーとなる。
 その驚異の現象の名は――バックドラフト。

 テオファンが歯を食いしばり、窓を開けた。それもひとつではない。糸をかけていた窓を一斉に開け――外へと飛び出した。
 エクトルもドウメキも彼と同じく外へと飛び出す。それと同時に密閉されていた低酸素空間――それも超高温に熱された一酸化炭素が充満した室内へ、酸素が雪崩れ込んだ。
《え――》
 間抜けなアイリスの声が聞こえた、気がした。

 三人の背後で引き起こされる大爆発、そして巻き起こる炎の気配。ガラスが一斉に割れ、横殴りの雨のように降り注ぐ。だが、一回の爆発では収まらず、また二度、三度と爆発が巻き起こり、ホールの支柱や壁を吹き飛ばしていく。
 三人はその爆風を背後に受け、飛び出した勢いよりもさらに強い衝撃で外に投げ出された。エクトルやドウメキが受け身の体勢に入る中、テオファンだけは両手をギリリと握り締め、爆発の衝撃と落下のスピードを乗せた『糸』を引いていた。
 悪魔は神力をもってしないと絶命しない。そのため、この爆発では直接死には至らしめられない。だから、テオファンはドウメキを走らせたのだ。
 あの時、ドウメキはアイリスを攻撃するつもりで対峙したのではない。テオファンの糸を持って、ただ大樹の周りを走り回ったのだ。糸を巻き付ける為に。
 そして、テオファンが爆発の勢いと共に外へ飛び出せば――絡みついた糸は必然的に大樹を切断する方向へ動く。火災と爆発の二重の攻撃で弱った体へとどめを刺せる。
「く、ぅうう!!」
 熱風と衝撃、落下に晒されながら、テオファンは両手を必死に硬らせた。ここで仮に、自分の『引き』が甘くて切断できなかったとしたら、無駄に火災を起こしたことになる。それだけはさせまいと、折れそうなほどに食いしばる。
「!」
 テオファンと同じ方向へ飛んだドウメキが彼に気が付き、カソックの裾を掴んで手繰り寄せ、庇うように頭を抱え込んだ。このままではテオファンは一切の受け身行動がとれない。ならばせめてもと思った咄嗟の行動だった。
 何度目かの爆発。落下まで数秒もなかったが、彼らが宙に身を投げ出している時間はひどく長く感じられた。
 テオファンの指に伝わる糸の感触が消えたと同時に、燃え盛るホールから断末魔の悲鳴が聞こえた。


「……」
 爆発がおさまった頃、エクトルは木に引っ掛かったまま絶妙なバランスでぶら下がっていた。
 運よく自分は三階から地面への飛び降りにはならなかったらしい。ところどころは火傷をしてるが、命に別状はない。一度救護隊に手当てをして貰えば、翌日には動ける程度だろう。
 この状態で下手に動くと落下しそうなため、そっと首と眼球を動かして辺りを見る。図書館はまだ燃え盛っていたが、幸いにもこのあたりには住宅がない。他の建物への引火は見られないため、放っておけば自然鎮火するだろう。あるいは、朝になれば消火活動が始まる。
 あの二人はと思い、周囲の地面へと目を凝らすと――仲良く抱き合って寝そべっていた。
「……」
 カソックはボロボロに焼け焦げ、ドウメキの灰色の髪ももはや黒に近い色になっていたが、外見上は目立った流血や外傷はない。懸念するべきは頭部の殴打だが、テオファンのほうはドウメキが頭を抱えて落下してくれたようだった。
(なんだ、お前ら……良いコンビじゃねェか)
 二人の無事を確認したところで、疲労のあまりエクトルの意識が遠くなる。彼がまぶたを閉じる寸前、ちかりと眩い光が見えた。
(朝日、か……)
 夜明けだった。燃え落ちる図書館も、住宅街も、すべて黄金色をした太陽の光が照らしていた。それを見たエクトルは、安心したように目を瞑った。

 聖典封解儀一日目、終了。
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