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第4章 スタートダッシュ
29話 甘美な毒の味わい・中
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生きることは何か、を考えたことがある。
元々人の死に隣接する職業だからか。死体の顔を何度も見てきたからか。
考えた上ででた結論。それは、生きることとは、生きるために選択をすることだ。
ただ生きるだけでは生きることは達成できない。死を恐れ、生への選択肢をとることが生存の思考だ。
だから選択する。生きるための最善を。己にあるのは、人間的道徳でも高等生物としての矜持でもない。
動物的生存本能だ。
「――は、」
ほんの少しだけ呼吸が楽になり、目を開く。ここが死後の国かと思ったが、どうも自分の体勢に違和感がある。
ぼやける視界を必死に働かせれば、今の自分は両足を中に浮かせていて、仰向けで、どこかに運ばれているようだった。
「……?」
手足の倦怠感はひどい。自分の体だというのに鉛のように重い。その上、吐き気と頭痛が波のように押し寄せ、呼吸もすればするほど苦しくなる。つまり、まだ生きている。これだけ苦しいのだから生きている。
――なぜ?
そこまで思考したところで、テオファンは現状を理解した。
テオファンが死を覚悟し目を閉じたあと、彼を素早くその場から担いで飛び去った男がいた。その男は今、いわゆる「お姫様だっこ」の状態で彼を運び、悪魔の攻撃が届きにくい高所へと飛び去っていた。
男――ドウメキは、なるべく蔦が密集していない場所まで来ると、テオファンを乱暴に地面に降ろした。
「けほっ……」
ホールは何層にも円形のエリアが重なっているため、ドウメキほどの驚異的な脚力の持ち主ならば、生えた植物を足場にして外側から駆け上ることもできたのだろう。ほんの少しだけ呼吸が楽になり、テオファンはむせこみながらドウメキを見上げた。
「なんで、だ……」
「……」
灰色の髪の男は答えない。
いつもより暗い赤の瞳を何度か瞬きさせた後、「はぁ」とゆるく息を吐いて、刀に触れた。
「お前が生きてたほうが、俺の生存確率が上がる。……それだけ」
「……ああ、そ」
友情など微塵も感じていない言葉に、テオファンは目を伏せた。だが、その肩はわずかに揺れている。……声すら聞こえないほど小さく、しかし笑っているようだった。
「……なんで」
「は、は……はぁーっ、は」
笑ったことで呼吸が乱れたのか、テオファンは大きく深呼吸した。ここの空気はあの悪魔曰く毒で汚染されているのだから、吸えば吸うだけ体へのダメージは大きくなるはずだが、今更そんなことを気にするほどの繊細さをテオファンもドウメキも持ち合わせてはいなかった。
「なら、俺に何を、はッ……のぞむ?はぁッ、ドウメキ」
「……敵の弱点」
「は、はぁッ……はぁッ」
返事すらだるいのか、テオファンは無言でホールの下、すなわち大樹の悪魔「アイリス」を見下ろした。予想通り、あの悪魔は地に根を張っており、こちらまで上がってくることはしない。幸運なことにここまで攻撃が届く気配もない。しかし、毒の効果は確実に現在地まで影響を及ぼしており、あの兎型悪魔に関しては根の縛りもない為、平気で攻撃してくるだろう。
すなわち、安全地帯でのんびりと考えている暇はない。
額に浮かんだ汗を拭う。息苦しさと周囲の熱が着々と思考を奪うが、それでもあれの倒し方を考えなくてはいけなかった。熱による乾燥で唇が薄く切れた感触がした。
「……」
ドウメキはカチンと刀の頭を指で押し上げると、マントを脱ぎ捨て、悪魔が鎮座する下のホールへと降りていった。普通の人間ならば足が竦むが、彼にとっては全く恐ろしくもない高さなのだろう。
それを見届けたテオファンは、朦朧とする頭のまま、両手を合わせて糸を織り込んだ。
ホールへ降り立ったドウメキは悪魔の全貌をその視野に入れていた。
まず目につくのは大きな樹木だ。見た目はただの植物にしか見えず、しかしゆらゆらと自ら揺れていることから、それらが明確な意思をもった生物であることがわかった。
その幹から出てきた女の形をした者は、アイリスと名乗り、人間と同じように言語を操っている。
蔦は自在に動き、植物に寄生された兎悪魔もアイリスの思うように動いているのだろう。
以上のことからドウメキが導き出した簡単な結論は。
(蔓や兎を攻撃しても無駄か……狙うは、本体。あの女か?)
狙うべきところと、無視するところの選別。悪魔という生き物と戦った経験はひどく浅いが、なんとなく生き物の弱点は分かっている。樹木も兎も蔦も、すべてまとめて「アイリス」という大きな悪魔ならば、あの女こそがアイリスの「首」だろう。
《いつまでぼけっとしているわけ?あんた、嫌な空気のやつね》
「……」
殺気を放ったままのドウメキに警戒し静止していたアイリスは、彼が単純に考えているだけだとわかると、これみよがしに鼻を鳴らして豊満な胸を揺らした。恥部を隠している頼りない花弁が揺れる。
《赤毛の子は逃げちゃったし、なら、あんたを食うまで》
「!」
アイリスが大きく手をかざせば、何本もの蔦がドウメキに向かって伸びる。それと当時に、待機していた何匹かの兎悪魔が牙を剥い襲いかかってきた。
だが、それもドウメキとしては想定内だ。刀を抜いたまま大きく後ろへ下がると、回避の勢いを両足を踏ん張って押し殺し、今度はバネのように前へ飛び出した。
飛翔のように前方へ突進し、振りかぶった刀を大きく振る。切り刻むようにして前進すれば、伸びていた頼りない草木はあっさりと散った。牙を剥いてきた兎悪魔も、一度硬いブーツの底で頭を蹴り上げると、怯んだすきにその首へと深く刃を突き立てた。
それでドウメキの攻撃は終わらない。前に出たチャンスをそのまま逃すようなことはしない。兎悪魔の肉に突き刺さった刀を抜く勢いで再度振りかぶりの体勢に入ると、女体のアイリスの方へと突進した。
《!?》
人間を超えた反応速度、攻撃と回避がすべてひとつに繋がった流線的な動き。それらに一瞬気を動転させたアイリスは、防御までの蔦の配置に間に合わず――刀より遥かに柔らかい肌をドウメキの前に差し出すことになる。
《ぎゃッ!?》
ぞぶり、と人間の肌と同じくらいの硬さの皮膚に、銀色が食い込む。芯の硬度をたしかに手応えとして感じながらも、ドウメキは力を緩めることなく、刃先で円を描くようにして腕を振るった。
《ぎゃぁあああ!!》
ドウメキの刀が声帯を引きちぎるまで、悪魔は悲鳴を上げる、ごぼり、と分厚い唇から赤黒い液体が漏れ出すと、するりと刀の抵抗が消えた。
「――!」
刀が力から解放されると同時に、悪魔の首が宙に舞う。悲鳴をあげたままの表情は、図書館ホールの中をボールのように飛び出し、床に落ちてごろごろと転がった。そして、数秒遅れて主を失った体の断面から、噴水のように体液が噴き出す。
「……」
ドウメキは首を斬り落とした姿のまま、しばらく膝をついて静止していた。
勝負は決したように見えた、が。
――何か、おかしい。
首は斬り落とした。生物としての急所を潰した。だが、なぜ、なぜこんなにも手応えがないのだろう?
物理的な手応えではない。相手が生きるためにしてくるであろう抵抗の手応えだ。ドウメキは、アイリスの頭を完全に斬り落とすのに少々の時間をかけてしまった。その間に、アイリスは兎なり蔦なりをドウメキにけしかけることができたはずだ。
だが、それをやらない。生きるための選択を選んでいない。それはすなわち――
《なぁんて、はずれ》
「……」
やはり、と思った。
首を失ったはずのアイリスの体は倒れることなく、ただただ血を吹き出させていた。
その断面のすぐ下にメキリと音を立てて新しい口が生まれ、生えたばかりの白い歯を剥き出しにしてケタケタと笑っている。
《頭を使ったようだけど、大外れ》
ケタケタ。
《私はアイリス》
ケタケタケタ。
《この空間は私そのもの。生えている蔦も、私の末端。死なない限り、どこからでも治る。こうなるまで、ひっそりと、影に隠れて耐え忍んだ》
ケタケタケタケタ。
《まだ一晩、されど一晩、私はただ根を張ることだけを考えて、他の機能は停止させていたのよ。己の力は最小限に使って、最大の結果を得るのが、節制の美徳でしょう?》
断面の肉が盛り上がる。血管が、骨が、眼球が、脳髄が、順に作られて、人間と同じ頭部を再び形取っていく。
そして瞬く間に肉の隆起は完了し、残るは左の眼孔が空くのみとなった。
《さて、あんたも毒にやられてしまいなさいな》
じわり、と刀を握る手に嫌な汗が滲んだ。
まずい、と下の階を伺っていたテオファンは息を呑んだ。
ドウメキには毒が効きにくいとは思っていたが、ここできて体の動きが鈍っている。外観を見るに、己と同じような呼吸困難と頭痛と全身の脱力感が症状として出ているようだった。ドウメキが派手に戦っている間に突破口を見出そうと思っていたが、事態はそこまで悠長でもないようだ。
「は、はぁッ……ふー……」
自分自身にもそこまで時間はない。毒の効果がここまできたのか、先ほどから呼吸が苦しくなってきている。まともに思考ができ、鈍くもあるが動ける今の時期に手を打たないとまずい。
考慮するべきなのは毒の効果だけではない。このホール内の室温も、最初に入った時よりかは随分と上昇していた。だらだらと汗は滝のように流れ、眼や唇の粘膜から水分が蒸発している自覚はある。
兎悪魔が設置した糸の罠にうまく引っかかり悶えているのを見ながら、テオファンは状況を整理することにした。
まずはあの悪魔についてだ。毒を黒魔術として操り、首を切られただけでは死なない。
死なない理由に関しては、悪魔の言葉と様子からすると、高度な再生能力とその体の巨大さによる『死ににくさ』のせいなのだろう。
(対抗策を考えろ……言葉を操る悪魔は初めて会った。知性を持つものはより強大だと噂では聞いたことがあるが……)
ずきずきと痛む頭を振る。強さがどうとかを今は考えている時間ではない。すでに力量差があるのはわかっている。ならば、それをどう埋めるかだけに集中すればいい。
(今確実にわかるのは、相手には知性がある……だから他の悪魔に寄生をさせ、黒魔術のことも……)
――これまでのことを振り返り、ふとした違和感。
悪魔が黒魔術について発言したことに関してだ。もしテオファンが逆の立場なら、わざわざ手の内を明かすだろうか?それも、自分と同じくらいの頭脳の生物に。
これが言葉を解さぬ動物ならば、喋っても問題ないだろう。相手は状況を理解できない。しかし、手の内を理解できる相手に明かすというのは、むしろデメリットしかない。
毒のことだって、建物から漏洩させて大人数を巻き込んだ方が悪魔にとって有利なのだ。それをわざわざあのアイリスは明かした。忠告した。
となると、あのアイリスには別の考えがあって手の内を明かしたということになる。自分の能力を敵にベラベラと喋るなど、バカのすることだ。そこまであの悪魔が愚かには見えない。
……そもそも、なぜ自分は悪魔が言ったことをわざわざ信じているのだ?
敵ならば、真実を伝える必要などあるのだろうか?
そう、もし、もしあの悪魔が伝えた情報が全て「ブラフ」であったら?こちらに勘違いをさせるための嘘であったら?……だとしたら、どこからが嘘だ?
――呼吸が浅くなる。息が苦しい。何度も吸っているのに、溺れたように息ができない。
あの悪魔が己に「禁止」した建物の破壊、すなわち換気。それが逆に、あの悪魔にとっては不利な状況を作り出すものなのでは?しかし、毒が漏洩するのも事実だ。悪魔の毒は外気に混ざれば効果が薄まるものなのか?
では毒の効能はなんだ?最初の症状はなんだった?
――息が苦しい。異常な熱気で汗がだらだらと流れる。
テオファンは最後の手がかりを見つけようと、再度ぐるりと周囲を見回した。あたりは本がたくさん散らばっており、青々とした植物が生えており、チロチロと火が瞬いている。この火はテオファンらの前に戦った誰かの攻撃の名残なのだろう。そして、ホール内の温度を上昇させている要因のひとつに違いない。今にも燃え尽きそうなところを見る限り、これを攻撃に転化させるのは難しそうだが。
「……」
本に引火している火を見て、緑の目が何度か瞬きした。
(生きている草に火が燃え移らないのはわかる……けど、なんで、燃えやすい乾燥した本の火が、消えそうなんだ?)
水分を多く含んだ草木は見た目に反して燃えにくい。しかし、加工された本、しかも古書となれば非常に燃焼には有利な状態になっているはずだ。だとすると、燃焼の条件を欠いている可能性があった。
(燃焼の条件、燃えるものは、本。温度は、十分過ぎる。むしろ、これ以上の高温は生きていられない。あとは……)
全ての糸がつながった。
毒の症状、消えそうな火、そして悪魔が不利になる条件。
そして見つけた、突破口。
テオファンは座り込んでいた大勢からよろよろと立ち上がり、もう遠慮などいらないという風に空気を大きく吸い込み――叫んだ。
「ドウメキィイイ!!いますぐ、こっちにこい!!」
悪魔の『毒』とやら、すべて逆手にとってやろうじゃないか。
元々人の死に隣接する職業だからか。死体の顔を何度も見てきたからか。
考えた上ででた結論。それは、生きることとは、生きるために選択をすることだ。
ただ生きるだけでは生きることは達成できない。死を恐れ、生への選択肢をとることが生存の思考だ。
だから選択する。生きるための最善を。己にあるのは、人間的道徳でも高等生物としての矜持でもない。
動物的生存本能だ。
「――は、」
ほんの少しだけ呼吸が楽になり、目を開く。ここが死後の国かと思ったが、どうも自分の体勢に違和感がある。
ぼやける視界を必死に働かせれば、今の自分は両足を中に浮かせていて、仰向けで、どこかに運ばれているようだった。
「……?」
手足の倦怠感はひどい。自分の体だというのに鉛のように重い。その上、吐き気と頭痛が波のように押し寄せ、呼吸もすればするほど苦しくなる。つまり、まだ生きている。これだけ苦しいのだから生きている。
――なぜ?
そこまで思考したところで、テオファンは現状を理解した。
テオファンが死を覚悟し目を閉じたあと、彼を素早くその場から担いで飛び去った男がいた。その男は今、いわゆる「お姫様だっこ」の状態で彼を運び、悪魔の攻撃が届きにくい高所へと飛び去っていた。
男――ドウメキは、なるべく蔦が密集していない場所まで来ると、テオファンを乱暴に地面に降ろした。
「けほっ……」
ホールは何層にも円形のエリアが重なっているため、ドウメキほどの驚異的な脚力の持ち主ならば、生えた植物を足場にして外側から駆け上ることもできたのだろう。ほんの少しだけ呼吸が楽になり、テオファンはむせこみながらドウメキを見上げた。
「なんで、だ……」
「……」
灰色の髪の男は答えない。
いつもより暗い赤の瞳を何度か瞬きさせた後、「はぁ」とゆるく息を吐いて、刀に触れた。
「お前が生きてたほうが、俺の生存確率が上がる。……それだけ」
「……ああ、そ」
友情など微塵も感じていない言葉に、テオファンは目を伏せた。だが、その肩はわずかに揺れている。……声すら聞こえないほど小さく、しかし笑っているようだった。
「……なんで」
「は、は……はぁーっ、は」
笑ったことで呼吸が乱れたのか、テオファンは大きく深呼吸した。ここの空気はあの悪魔曰く毒で汚染されているのだから、吸えば吸うだけ体へのダメージは大きくなるはずだが、今更そんなことを気にするほどの繊細さをテオファンもドウメキも持ち合わせてはいなかった。
「なら、俺に何を、はッ……のぞむ?はぁッ、ドウメキ」
「……敵の弱点」
「は、はぁッ……はぁッ」
返事すらだるいのか、テオファンは無言でホールの下、すなわち大樹の悪魔「アイリス」を見下ろした。予想通り、あの悪魔は地に根を張っており、こちらまで上がってくることはしない。幸運なことにここまで攻撃が届く気配もない。しかし、毒の効果は確実に現在地まで影響を及ぼしており、あの兎型悪魔に関しては根の縛りもない為、平気で攻撃してくるだろう。
すなわち、安全地帯でのんびりと考えている暇はない。
額に浮かんだ汗を拭う。息苦しさと周囲の熱が着々と思考を奪うが、それでもあれの倒し方を考えなくてはいけなかった。熱による乾燥で唇が薄く切れた感触がした。
「……」
ドウメキはカチンと刀の頭を指で押し上げると、マントを脱ぎ捨て、悪魔が鎮座する下のホールへと降りていった。普通の人間ならば足が竦むが、彼にとっては全く恐ろしくもない高さなのだろう。
それを見届けたテオファンは、朦朧とする頭のまま、両手を合わせて糸を織り込んだ。
ホールへ降り立ったドウメキは悪魔の全貌をその視野に入れていた。
まず目につくのは大きな樹木だ。見た目はただの植物にしか見えず、しかしゆらゆらと自ら揺れていることから、それらが明確な意思をもった生物であることがわかった。
その幹から出てきた女の形をした者は、アイリスと名乗り、人間と同じように言語を操っている。
蔦は自在に動き、植物に寄生された兎悪魔もアイリスの思うように動いているのだろう。
以上のことからドウメキが導き出した簡単な結論は。
(蔓や兎を攻撃しても無駄か……狙うは、本体。あの女か?)
狙うべきところと、無視するところの選別。悪魔という生き物と戦った経験はひどく浅いが、なんとなく生き物の弱点は分かっている。樹木も兎も蔦も、すべてまとめて「アイリス」という大きな悪魔ならば、あの女こそがアイリスの「首」だろう。
《いつまでぼけっとしているわけ?あんた、嫌な空気のやつね》
「……」
殺気を放ったままのドウメキに警戒し静止していたアイリスは、彼が単純に考えているだけだとわかると、これみよがしに鼻を鳴らして豊満な胸を揺らした。恥部を隠している頼りない花弁が揺れる。
《赤毛の子は逃げちゃったし、なら、あんたを食うまで》
「!」
アイリスが大きく手をかざせば、何本もの蔦がドウメキに向かって伸びる。それと当時に、待機していた何匹かの兎悪魔が牙を剥い襲いかかってきた。
だが、それもドウメキとしては想定内だ。刀を抜いたまま大きく後ろへ下がると、回避の勢いを両足を踏ん張って押し殺し、今度はバネのように前へ飛び出した。
飛翔のように前方へ突進し、振りかぶった刀を大きく振る。切り刻むようにして前進すれば、伸びていた頼りない草木はあっさりと散った。牙を剥いてきた兎悪魔も、一度硬いブーツの底で頭を蹴り上げると、怯んだすきにその首へと深く刃を突き立てた。
それでドウメキの攻撃は終わらない。前に出たチャンスをそのまま逃すようなことはしない。兎悪魔の肉に突き刺さった刀を抜く勢いで再度振りかぶりの体勢に入ると、女体のアイリスの方へと突進した。
《!?》
人間を超えた反応速度、攻撃と回避がすべてひとつに繋がった流線的な動き。それらに一瞬気を動転させたアイリスは、防御までの蔦の配置に間に合わず――刀より遥かに柔らかい肌をドウメキの前に差し出すことになる。
《ぎゃッ!?》
ぞぶり、と人間の肌と同じくらいの硬さの皮膚に、銀色が食い込む。芯の硬度をたしかに手応えとして感じながらも、ドウメキは力を緩めることなく、刃先で円を描くようにして腕を振るった。
《ぎゃぁあああ!!》
ドウメキの刀が声帯を引きちぎるまで、悪魔は悲鳴を上げる、ごぼり、と分厚い唇から赤黒い液体が漏れ出すと、するりと刀の抵抗が消えた。
「――!」
刀が力から解放されると同時に、悪魔の首が宙に舞う。悲鳴をあげたままの表情は、図書館ホールの中をボールのように飛び出し、床に落ちてごろごろと転がった。そして、数秒遅れて主を失った体の断面から、噴水のように体液が噴き出す。
「……」
ドウメキは首を斬り落とした姿のまま、しばらく膝をついて静止していた。
勝負は決したように見えた、が。
――何か、おかしい。
首は斬り落とした。生物としての急所を潰した。だが、なぜ、なぜこんなにも手応えがないのだろう?
物理的な手応えではない。相手が生きるためにしてくるであろう抵抗の手応えだ。ドウメキは、アイリスの頭を完全に斬り落とすのに少々の時間をかけてしまった。その間に、アイリスは兎なり蔦なりをドウメキにけしかけることができたはずだ。
だが、それをやらない。生きるための選択を選んでいない。それはすなわち――
《なぁんて、はずれ》
「……」
やはり、と思った。
首を失ったはずのアイリスの体は倒れることなく、ただただ血を吹き出させていた。
その断面のすぐ下にメキリと音を立てて新しい口が生まれ、生えたばかりの白い歯を剥き出しにしてケタケタと笑っている。
《頭を使ったようだけど、大外れ》
ケタケタ。
《私はアイリス》
ケタケタケタ。
《この空間は私そのもの。生えている蔦も、私の末端。死なない限り、どこからでも治る。こうなるまで、ひっそりと、影に隠れて耐え忍んだ》
ケタケタケタケタ。
《まだ一晩、されど一晩、私はただ根を張ることだけを考えて、他の機能は停止させていたのよ。己の力は最小限に使って、最大の結果を得るのが、節制の美徳でしょう?》
断面の肉が盛り上がる。血管が、骨が、眼球が、脳髄が、順に作られて、人間と同じ頭部を再び形取っていく。
そして瞬く間に肉の隆起は完了し、残るは左の眼孔が空くのみとなった。
《さて、あんたも毒にやられてしまいなさいな》
じわり、と刀を握る手に嫌な汗が滲んだ。
まずい、と下の階を伺っていたテオファンは息を呑んだ。
ドウメキには毒が効きにくいとは思っていたが、ここできて体の動きが鈍っている。外観を見るに、己と同じような呼吸困難と頭痛と全身の脱力感が症状として出ているようだった。ドウメキが派手に戦っている間に突破口を見出そうと思っていたが、事態はそこまで悠長でもないようだ。
「は、はぁッ……ふー……」
自分自身にもそこまで時間はない。毒の効果がここまできたのか、先ほどから呼吸が苦しくなってきている。まともに思考ができ、鈍くもあるが動ける今の時期に手を打たないとまずい。
考慮するべきなのは毒の効果だけではない。このホール内の室温も、最初に入った時よりかは随分と上昇していた。だらだらと汗は滝のように流れ、眼や唇の粘膜から水分が蒸発している自覚はある。
兎悪魔が設置した糸の罠にうまく引っかかり悶えているのを見ながら、テオファンは状況を整理することにした。
まずはあの悪魔についてだ。毒を黒魔術として操り、首を切られただけでは死なない。
死なない理由に関しては、悪魔の言葉と様子からすると、高度な再生能力とその体の巨大さによる『死ににくさ』のせいなのだろう。
(対抗策を考えろ……言葉を操る悪魔は初めて会った。知性を持つものはより強大だと噂では聞いたことがあるが……)
ずきずきと痛む頭を振る。強さがどうとかを今は考えている時間ではない。すでに力量差があるのはわかっている。ならば、それをどう埋めるかだけに集中すればいい。
(今確実にわかるのは、相手には知性がある……だから他の悪魔に寄生をさせ、黒魔術のことも……)
――これまでのことを振り返り、ふとした違和感。
悪魔が黒魔術について発言したことに関してだ。もしテオファンが逆の立場なら、わざわざ手の内を明かすだろうか?それも、自分と同じくらいの頭脳の生物に。
これが言葉を解さぬ動物ならば、喋っても問題ないだろう。相手は状況を理解できない。しかし、手の内を理解できる相手に明かすというのは、むしろデメリットしかない。
毒のことだって、建物から漏洩させて大人数を巻き込んだ方が悪魔にとって有利なのだ。それをわざわざあのアイリスは明かした。忠告した。
となると、あのアイリスには別の考えがあって手の内を明かしたということになる。自分の能力を敵にベラベラと喋るなど、バカのすることだ。そこまであの悪魔が愚かには見えない。
……そもそも、なぜ自分は悪魔が言ったことをわざわざ信じているのだ?
敵ならば、真実を伝える必要などあるのだろうか?
そう、もし、もしあの悪魔が伝えた情報が全て「ブラフ」であったら?こちらに勘違いをさせるための嘘であったら?……だとしたら、どこからが嘘だ?
――呼吸が浅くなる。息が苦しい。何度も吸っているのに、溺れたように息ができない。
あの悪魔が己に「禁止」した建物の破壊、すなわち換気。それが逆に、あの悪魔にとっては不利な状況を作り出すものなのでは?しかし、毒が漏洩するのも事実だ。悪魔の毒は外気に混ざれば効果が薄まるものなのか?
では毒の効能はなんだ?最初の症状はなんだった?
――息が苦しい。異常な熱気で汗がだらだらと流れる。
テオファンは最後の手がかりを見つけようと、再度ぐるりと周囲を見回した。あたりは本がたくさん散らばっており、青々とした植物が生えており、チロチロと火が瞬いている。この火はテオファンらの前に戦った誰かの攻撃の名残なのだろう。そして、ホール内の温度を上昇させている要因のひとつに違いない。今にも燃え尽きそうなところを見る限り、これを攻撃に転化させるのは難しそうだが。
「……」
本に引火している火を見て、緑の目が何度か瞬きした。
(生きている草に火が燃え移らないのはわかる……けど、なんで、燃えやすい乾燥した本の火が、消えそうなんだ?)
水分を多く含んだ草木は見た目に反して燃えにくい。しかし、加工された本、しかも古書となれば非常に燃焼には有利な状態になっているはずだ。だとすると、燃焼の条件を欠いている可能性があった。
(燃焼の条件、燃えるものは、本。温度は、十分過ぎる。むしろ、これ以上の高温は生きていられない。あとは……)
全ての糸がつながった。
毒の症状、消えそうな火、そして悪魔が不利になる条件。
そして見つけた、突破口。
テオファンは座り込んでいた大勢からよろよろと立ち上がり、もう遠慮などいらないという風に空気を大きく吸い込み――叫んだ。
「ドウメキィイイ!!いますぐ、こっちにこい!!」
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