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1巻

1-3

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 数日の間にわたくしの体調はみるみる良くなった。あの神々が言った通りだ。
 とりあえず今優先すべきなのは、学園でどう過ごすか、だ。
 神々はわたくしに「自由に生きてほしい」と言った。それなら、友人と呼べる人が欲しい。できるなら、対等に本心で語り合えるエマのような。
 わたくしは「人形令嬢」。前世のわたくしには、誰も好んで近寄ってこなかった。擦り寄ってくる人間もいたが、それはあくまでも地位があったから。そして今その地位を捨てようとしている。そんなわたくしに友人はできるのだろうか。今までは、ほとんど誰とも関わることなく一人で過ごしてきた。そのせいで友人の作り方など何ひとつ知らない。

「エ、エマ……」
「はいお嬢様」
「わたくしが……友人を作るには……どうすればいいのかしら。お金? 宝石が必要?」

 エマは大きくため息をついた。

「お嬢様、友人とはお互いを心から信頼し、気軽に話せる間柄を指します。お金で釣られるような人間が本当の友人になれると思いますか?」
「……ならどうすればいいの?」
「そうですね。お嬢様には少々、近寄りがたい雰囲気があります」
「というと?」
「お嬢様は完璧でいらっしゃいます。ですが、完璧すぎるが故に近寄りがたいのです」
「……なるほど」
「お嬢様はすでに一年間学園で過ごされ、皆様が抱くお嬢様のイメージは固定されてしまっています。ですので、そのイメージを塗り替えることが必要です」
「どうすればいいのかしら⁉」

 わたくしは前のめりに尋ねる。

「たとえばですが……髪型を変えたり」
「髪型?」
「はい。人に話しかけるには話題が必要です。会話をしたことがない相手と簡単にできる話題、それは『髪型変えました?』です。いつもより素敵ですね、など、話が発展しやすいです」

 エマの話に納得する。これはいいことを聞いた。学園に通い始めたら実践しよう。

「そうと決まれば教科書を整理するわよ。もうそろそろ学園に行けるようになるわ。ちゃんと準備しないといけないわね」

 冷静になれば準備するものはほとんどないはずなのに、一瞬それすら忘れてしまうほど楽しみにしている自分がいた。


 そして、逆行転生してから初めて学園に通う日がやってきた。
 エマに言われた通り、今日の髪は一部を編み込み、下ろした。明るめのシルバーのウェーブがかった髪はメイドたちの手によって艶々に磨かれ、花を模した薄桃色の髪飾りがキラキラと輝いている。これは、「お嬢様には花が似合う!」というエマのチョイスだ。

「そろそろ時間ね。馬車の用意はできているの?」
「もちろんです、お嬢様」

 エマは本当に優秀だ。まあ公爵邸で働くには優秀であることは大前提だが、彼女はよく気がきくし作業が丁寧だ。

「流石エマね」

 わたくしがそう言うとエマはパッと笑い、「さあ行きましょう!」と言った。
 馬車の窓から湖が見える。この湖はわたくしにとって思い入れがある場所。
 ――前世で、エマを看取った場所。
 普段は通学路に口出しなんてしないが、何故かどうしても見たくなった。
 相変わらず美しい湖だ。湖面が朝日でキラキラと輝いている。心が洗われるような、ずっと見たくなるような魅力がある。
 美しい?
 ふと自分に問いかける。わたくしは今確かに、湖を見て美しいと思った。今までそんなふうに感じたことがなかった。
 どうしてか分からない。分からないが、前世のわたくしと今世のわたくしは同じクローディアなのに何かが違う。変化している。以前は何事にも興味を持てなかったし、皆のように感じることはなかった。景色に色なんてなく、淡々としたモノクロの映像を見ているようだった。でも今は、ほんの少しだが景色に色がついて見えるような気がする。

「お嬢様、もうすぐ学園ですよ!」

 窓の外を見る。立派なレンガ造りの大きな建物が見える。かつて三年間通った建物が。
 前方の門に視線を移せば、見慣れた姿があった。

「……殿下?」

 わたくしは馬車を降りた。すると、わたくしに気づいた殿下とアラン様がこちらに歩いてきた。どうしてだろう――前世ではこんなこと一度もなかったのに。

「おはようございます殿下。本日はどうして門に? どなたか待っていらっしゃるのですか?」
「おはようクローディア。君を迎えに来たんだ。久々の登校で緊張しているかと思って」

 緊張はしていないが……婚約を破棄したいのに、朝からエスコートなんて。どうやら外堀から埋める作戦のようだ。どうしても王家と公爵家との繋がりを手放すわけにはいかないのだろう。
 一瞬断ろうと迷ったが、学園では身分は関係ないとはいえ、殿下は王族。貴族の本能で断れなかった。パッと手を取られ、校舎までの道をゆく。

「……クローディア、今日はいつもと雰囲気が違うね」
「分かりますか?」
「あぁ。君のことならどんなことでも分かる。その髪型、すごく似合っているよ」
「あら、嬉しいですわ」

 分かりきったお世辞なんて何ひとつ嬉しくない。それでも、他人が今のわたくしたちを見れば、仲睦まじいと思うのだろう。

「殿下、お顔が少し赤い気がしますが、もしかして体調が悪いのでは? もしそうでしたら医務室へ行かれることをおすすめいたします」
「……大丈夫だ。気にするな。体調が悪いわけではない」

 でも、少しずつ赤みが増しているような気がする。やはり体調が悪いのでは……

「失礼します」

 そう言うと、わたくしは殿下の額に手を当てた。

「っ……⁉」

 あら、やはり少し熱いわ。というかどんどん熱くなるようだ。

「殿下、やはり熱が……」

 そう言いかけた瞬間、額に当てた手をパッと離され、殿下が後退った。

「ク、クローディア……その……突然触るのは……」

 そこでハッとする。わたくし、なんてはしたないことを!

「申し訳ありません……」
「いや、謝ってほしいわけではないんだ!」

 なんだか今日の殿下は変だ。
 そうこうしているうちに始業の予鈴のベルが鳴る。

「殿下、授業が始まりますわ。そろそろ教室に移動しないと」

 殿下とわたくしの教室は別である。この学園は階級や実力に関係なく、クラス分けはランダムで行われる。

「そ、そうだな」

 そう言うと、殿下は少し赤い顔のまま、早足で自分の教室に向かって行った。
 教室に入ると、すでに他の生徒たちは席に着いていた。予鈴は鳴ったが、まだ授業は始まったわけではないので大丈夫だ。わたくしは適当に席に着く。

「あら、クローディア様ですわ」
「始業式から仮病でジルベルト殿下に媚を売って……また学園に来れるなんて豪胆ね。恥ずかしくないのかしら」
「恥ずかしくないからあんな大胆に倒れられるんでしょう?」
「人形ですものね」

 くすくすと笑いあう声が聞こえるが、昔からなので慣れている。やはりわたくしの地位に妬みを抱くものは多い。年頃の令嬢なら特に。だがそんなことをいちいち気にしていても仕方ない。聞こえないふりをして教科書を準備する。

「皆さん、おはようございます」

 始業のベルと共に教師が入ってきた。一限目は魔法の授業だ。

「本日は野外演習場でこの一週間の成果を披露するテストを行います。クローディア嬢、休んでいたあなたには少し厳しいかもしれませんが、例外は認めませんので」

 教師がニヤリと笑いながらわたくしを指さすと、他の生徒たちもまた下品な笑みを浮かべてこちらを見る。この学園の教師もまた貴族で、わたくしの才能や地位を妬み、憎悪を燃やす者も少なくない。

「では外へ」

 教師のその一声で、生徒たちは一斉に教室を後にした。
 外に出ると、説明もなしにすぐにテストが始まった。休んでいたわたくしに対する配慮など欠片もない。学園内では身分の差は関係ないと定められているため、たとえ男爵家の子息であろうが公爵家の子息と対等に話すことができる。それを利用して、彼らはとことん虐めを働くのだ。

「次! ジュリア・デニス!」

 そう呼ばれた女生徒――デニス侯爵家の令嬢であるジュリア様はわたくしを一瞥すると、勝ち誇ったような笑みを浮かべて位置についた。
 彼女が呪文を唱えると両手から三メートルほどの竜巻が生まれ、目の前の藁でできた案山子かかしをボロボロに切り刻んだ。
 途端、拍手が巻き起こる。わたくしたちの年齢からすればかなり優秀だと言えるだろう。

「ジュリア・デニス。素晴らしい魔法でした! あなたはとても優秀な生徒で私も誇らしいですよ」

 教師が満面の笑みでジュリアを褒める。それから私に視線を向けるとニヤリと笑った――完璧なお前の鼻をあかしてやろう。その視線はそう語っていた。
 前世でのわたくしなら特に何も思わなかっただろう。もちろん今世でも気にしていない。気にするだけ無駄だ。
 しかし、今世のわたくしには秘密がある。逆行転生という秘密が。これが何を意味するのかというと――「その授業、前世で受けました」。彼らのくだらない企みの裏をかいたようで胸がすく。
 まあ、前世のことがなくとも、教科書の内容はすでに一学年の時点で頭の中に入っているのだが。

「次! クローディア・フィオレローズ! できなければやめてもいいのよ? 授業を受けていないのだから恥ずかしいことではないわ。まぁ、休んだ理由はさておきね」

 相変わらずよく回る口ですこと。
 わたくしは位置についた。そして片手を上げ、軽く振り下ろした。
 途端、ゴオオォォォという凄まじい轟音とともに巨大な火柱が空高くまで上がる。次にその炎を消すように巨大な水の柱が出現する。水は飛沫となってキラキラと光を反射し、虹を出現させながら消えた。案山子かかしはもちろん、灰すら残すことなく――
 わたくしは自由に生きる。いちいちこんな嫌がらせに付き合っている暇はない。余命は二年。いかに楽しむかが肝心である。ということで、今世は嫌がらせにも手加減はなしだ。これでも本気ではないのだが、本気を出せば学園が崩壊の危機に晒されるため、それなりの出力だ。

「無……詠唱……」

 何か聞こえてふと横を見ると、腰を抜かす教師と、唇を噛むジュリアの姿があった。

「ジュリア様、そんなに噛むとせっかくの唇が荒れてしまいますわよ? わたくしのリップクリームをお分けしましょうか?」

 王妃教育で培った、それっぽく聞こえる最高の皮肉をプレゼントした。
 非常にスッキリとした。こんな感覚は初めてだ。
 転生してから、わたくしの心は少しずつ軽くなりつつある。地につくばる教師にも皮肉の一礼をプレゼントし、席に戻った。


 一通り午前の授業を終え、昼食を食べるために中央庭園へ向かう。この学園の象徴といえる、立派で美しい庭園だ。中央庭園の隅、茂みを抜けたここは基本的に静かで人の気配もほとんどないため、前世からお気に入りの昼食スポットだ。

「ふぅ、分かっていたとはいえ、教師も生徒もとことんやってくれるわね」

 一人ベンチでため息をつく。一限目以降も酷いものだった。作法では妙に厳しい採点。ダンスではパートナーに足をわざと踏まれ、引っ掛けられ。

「皆わたくしを追い落とすために必死のようね。他にやることないのかしら」

 黙々と昼食を食べる。この場所以外に落ち着けるところは、今のところ学園にはない。唯一の楽園だ。誰も進んでこんな端には来ない。
 小さな薔薇のアーチに、二人が座るほどのスペースしかない丸いテーブル。その横には小さな池があり、小さな魚がゆらゆらと泳いでいる。ここは心が安らぐ。喧騒から離れた自分だけの空間だ。
 紅茶を口に含み一息つく。午後からは、またあのろくでもない教室でろくでもない授業を受けなければならない。
 ――めんどくさいわ。いっそのこと医務室で休んでやろうかしら。
 いや、そんなことをしても根本的な解決にはならないし、また仮病だのなんだのと言われるのもめんどくさい。今世こそ学園生活を楽しみたいなんていう夢は捨てるべきなのか……
 そんなことを考え始めた時、わたくしのすぐ後ろの薔薇の植木がガサッと音を立てて揺れた。

「やあクローディア。私も一緒にいいかい?」

 ――なんで殿下がここにいらっしゃるの!
 いや、学園内だからおかしくはないのだが、今まで誰にも知られなかったわたくしだけの隠れ場所がどうしてバレているのか。偶然なのだろうか。

「それはよろしいですが……ひとつお聞きしても?」
「あ、あぁ」
「どうしてわたくしがここにいるとお分かりに? 今まで誰にも知られなかったので……」

 殿下の肩がビクッと跳ねた。

「それは……だな、そ、そう! 散歩をしていたらクローディアが見えたから、気になって来てみたんだ!」

 ……嘘、だろう。そんな丸分かりな嘘をどうしてつくのだろうか。まぁ何かしらの事情があったのかもしれない。ここはそういうことにしておこう。

「それはそうと、庭園の隅にこんなに美しい場所があったのだな。今まで気づかなかった」

 殿下が呟く。殿下と小さな薔薇の庭園……絵になりすぎだ。指に小鳥を止まらせれば大抵の令嬢は恋に落ちるだろう。恋愛に興味はないが、あんな大胆な嫌がらせを受けるのも頷ける。わたくしはとんでもない方と婚約しているようだ。早く破棄しなければ、平穏な学園生活が脅かされてしまう。いや、もう脅かされているが。

「久々の学園はどうだい?」

 殿下がわたくしに問う。

「非常に楽しませていただいておりますわ」
「……本当に?」
「ええ」
「ならいいのだが……。以前のように嫌がらせを受けているのではないかと思ってね」

 正直全然楽しくはないのだが、無駄に心配させる必要はない。わたくし一人が我慢すれば済むこと。

「ご心配いただきありがとうございます。ですが、見ての通り大丈夫ですので」

 殿下がせっかく心配してくれたのに、少し冷たく言ってしまった気がして申し訳なくなる。いや、別にいいか。冷たくして婚約破棄してもらえれば。

「そういえば殿下、体調はいかがですか?」
「体調?」
「はい。朝は熱がおありのようでしたので……」

 殿下が固まる。

「クローディア、すまないが今朝のことは忘れてくれ。私は熱もなかったし体調も悪くなかった。少し動揺しただけだ」
「そうですか……」

 殿下がそう言うなら、これ以上踏み込む理由はない。昼食を食べ終わる頃にはアラン様が殿下を呼び戻しに来て、そのまま不思議な昼食の時間は終わりを告げた。


 殿下は去ったが……殿下が来たのとほぼ同じ頃から、茂みの奥で何かの気配がしていた。一瞬は警戒したものの、その気配に敵意を感じなかったためそのままにしていた。しかし、さすがにこの長時間ずっと茂みの中から動かないのは不自然だ。

「どなたなのかは知りませんが、わたくしに用があるのなら出てきてくださいますか」

 声をかけた瞬間、茂みががさっと音を立て、ほんの数秒の後、一人の令嬢が姿を現した。

「あの……」
「……? あなたは確か……」

 メアリ・スピネル伯爵令嬢だ。身長は低めで、背中ほどの薄茶色の髪に淡い翠色の瞳をしている。大人しめの印象の令嬢だ。なんの用だろう。

「メアリ様、どうかなさいましたか?」
「私の名前をご存じだったのですか……! ありがとうございます!」
「は、はぁ……」

 この子大丈夫かしら。少々変わっているようだ。

「えっと……あの……」
「落ち着いてください。わたくしは逃げませんから」
「はい! えっと、クローディア様。その……本日の髪型、とても素敵だと思います‼」

 メアリ様は顔を真っ赤にして照れながらそう言った。
 髪型……褒めてくれたわ! エマの言った通りね!

「お褒めいただきありがとうございます。本日の髪はわたくしの大切なメイドが結ってくれたのです。とても嬉しいですわ」
「とても器用で素敵なセンスを持ったメイドなのですね」

 なんだかとても誇らしい気分になる。胸が高鳴り、頬が自然とほころんだ。わたくしはきっと、「嬉しい」のだ。エマのことを認めて、褒めてくれる方がいることに。

「ええ! エマは……わたくしにとってとても大切なメイドです」

 そう言った瞬間、最後にいつ動いたか分からないほど動いていなかった頬の表情筋が、斜め上に大きく動いた。動いたのだ。もしかしてこれは「にこっ」なのではないだろうか?
 わたくし、今笑った? 笑ったかしら!
 メアリ様は、わたくしの顔をぽっと頬を染めて眺めている。

「メアリ様、わたくしは今笑っていましたか?」

 どうしても気になって、少し前のめりに聞く。もし笑っていたのなら、前世のように「人形」と呼ばれなくなるかもしれない。自由への第一歩を踏み出せたかもしれない。
 じっとメアリ様を見つめる。そんなわたくしにハッとして、メアリは答えた。

「はい……とても、とても素敵に笑っておられました」

 やった! やったわ! わたくしはついに笑えたのね!
「笑う」という行為は、他の人にとってはできて当たり前のことだろう。だが、わたくしにとっては違う。笑おうと思っても、何に対して笑えばいいのか、どこが面白いのかが分からなかった。そんなわたくしにとって、笑えたことは大きな自信であり喜びだった。

「私、クローディア様のことを誤解していました」
「誤解?」
「はい。クローディア様は他の人との交流をあまり好まれない方だと思っていました。話しかけようとしても、拒絶されているように感じてしまって……」

 やはり。これもエマの言った通りだ。
 フッ。もうわたくしは無敵ですわ! 笑えたのよ。わたくしは笑えたのよ! もうこれで友人がいない寂しい公爵令嬢なんて言われないはず。

「ごめんなさいメアリ様。意識はしていなかったのですが、やはりそう見えていたのですね」
「いえ! 今のクローディア様は、なんというか……柔らかくなられました。わたくしは今のクローディア様のほうが好きです!」

 ドキッとする。エマ以外の方に好き、と言われたのは初めてだ。

「それで、その……今度、昼食をご一緒させていただけませんか⁉」

 来たわ! ついにわたくしに友人と言える方ができたのではないか、と胸が高鳴る。

「ぜひご一緒させてください。わたくし、メアリ様とお話してみたいです」

 メアリ様は花を咲かせたような笑顔を浮かべ、「ありがとうございます!」と言った。
 この笑顔は私のお手本ね。素晴らしい笑顔だわ。
 初めてできた友人とこれからどんな時間を過ごそうか、期待に胸がふくらんだ。


 メアリ様とお友達になってから数日、相も変わらず受けるさまざまな嫌がらせを適当に受け流し、時に反撃をしていたある日。
 なんだかクラスの皆の様子がいつもと違う。わたくしに向ける視線が妙に鋭いのだ。
 席に着くと、置いていたはずの教科書が数冊ない。忘れたかしら、と一瞬考えたが、前日エマが欠かさず確認をしているし、今朝は確かにあった。
 教科書がないことに気づいた私の様子を見て、何人かの令嬢がくすくすと笑う。
 ――なるほど。わたくしの様子が違うことに気がついて、新しい手を打ってきたというわけだ。それにしても古典的な手を使うものである。
 教科書は切り刻まれ、遠く離れた教室のゴミ箱に捨ててあった。他人の教科書を切り刻んで捨てるなんて、箱入り令嬢がよくこのようなことを思いつき実行したものだ。普段被っている猫はどこに行ったのか。

「教科書はまた買わないといけないわね」

 金銭的には全く問題はないが、何度も繰り返し捨てられては困る。ほとんどの令嬢は結託してわたくしを蹴落とそうとしている。教科書の内容はもう全て覚えているとはいえ、そう何度も忘れ物をすると体裁が悪い。

「どうなさったんですか? クローディア様」

 教科書のことを考えながら歩いていたら、メアリ様がいつもの笑顔で声をかけてきた。
 そう、今世のわたくしは孤独じゃない。メアリ様がいる。
 それだけで少し穏やかな気持ちを取り戻せるような気がする。談笑しながら歩いていると、ふとメアリ様が口を開いた。

「そういえば、もう少ししたら定期考査ですね」

 ――定期考査!
 あぁ、忘れていた。というか思い出したくなかったことだ。この学園には年に三回、学期末にテストがある。このテストは進級だけでなく、将来の進路――嫁ぎ先や職業選択にも深く関わる。学園内の評価ではなく、貴族としての評価になるのだ。
 わたくしは前世では毎回全教科満点で一位だった。完全実力主義の学園で、筆頭公爵家の令嬢で、王太子の婚約者で成績優秀だなんて、妬みの種になることは火を見るよりも明らかだ。
 ――でもどうすればいいの。
 好成績を残せば妬まれ、それなりに手加減すれば馬鹿にされ蔑まれる。打つ手がないではないか。何もできない。どれを取ってもいい未来はないじゃない!
「テスト」という単語を聞いてから、頭の中は思考で溢れて、メアリ様との会話にほとんど集中できずにいた。そのままメアリ様と別れ、邸に帰った。
 方針も決まらぬまま、テストの一週間前になった。まだ悩んでいる。いい成績を取ることは苦ではないし、何も考えずに問題と向き合えばテストはまず満点だ。でも、それではいけない。ただの前世の繰り返しになってしまう。

「クローディア」

 声をかけられて振り向くと、数日ぶりに見る殿下がいた。
 学園の廊下なのだから会うことは不思議ではないが、何故か会いたくなかった。

「何の御用ですか」
「用がないと自分の婚約者に話しかけてはいけないのかい?」
「いいえ、ただテスト前ですので勉強に集中したいだけです」
「そうか。でも君なら今回も満点が取れるだろう?」
「念には念を。妥協はしません」

 ハッとする。つい流れで満点を取る宣言をしてしまった。そんなつもりは微塵もなかったのに。

「クローディア、一緒に勉強しないか?」
「する必要がありますか?」
「クローディアに教えてほしいんだ。王族がいい加減な成績を取るわけにはいかないからね。こんなことを頼めるのは君しかいないんだ」
「ご心配なさらずとも、殿下は私に次いでいつも二位ではないですか」

 殿下の成績なら問題なんてないはず。どうしてわざわざそんなことを頼むのだろうか。
 殿下は非常に優秀な方だ。そんな殿下がわたくしに教えを乞う理由などないはずだ。わたくしより専属の家庭教師のほうが手間も省けて都合もいいだろうに。
 婚約者である手前、二人で勉強しても咎められることはないが、婚約破棄をしたいわたくしからすればいい気分ではない。

「殿下、専属の家庭教師の方にお願いされるほうがよろしいのでは?」
「家庭教師と君とを比べてみると、私は君のほうが優秀だと思うんだ。優秀な人に教わりたいと思うのは自然なことだろう?」

 そう言われると断りにくい。元からあまり外出しないわたくしは基本的に暇だ。時間があり余っている。今世はこのあり余る時間を友人と過ごす時間に使おうと決めたのに、初っ端から殿下に計画を邪魔された。

「わたくし、教えるのは上手くないと思います」
「やってみないと分からないだろう?」
「下手だったら?」
「その時はその時だよ」

 その時はその時って……どうなさるのよ。

「週末はどうだ。一日使えるし、王宮ならそれなりのもてなしもできる」
「……分かりました」

 わたくしが半ばため息をつくかのように返事をすると、殿下は満面の笑みで「待っている」と言い、去っていった。


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