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1巻
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「ありがとうございますぅ、クローディア様。あなたのおかげで無事に殿下との婚約が決定いたしましたぁ。まさか処刑されることになるなんて私も想像してなかったですぅ。せめて国外追放あたりだと思ってたのですが……人形令嬢に世間の風当たりは強かったみたいですねぇ」
今、なんて言った?
まるでアイシャ様のためにわたくしが罪人になるような言い方に違和感を覚える。
「ココだけの話ぃ、毒は私が自分で飲んだんですぅ! 殿下、まだあなたに未練があったみたいなのでしかたなくぅ? あなたを悪人に仕立てないと殿下が振り向いてくれなくてぇ。メイドたちに見られていたのは想定外でぇー、脅して偽の証言をもらったあと死んでもらいました!」
死んでもらいました? この女が殺したのか。エマを。私を陥れるために。この女が殿下と婚約したい、ただそのためだけにエマは死んだのか。たった……それだけのために。
私の中で何かがふつふつと膨れ上がる。これは「怒り」というものだろうか。
「あなたは礼儀に欠ける不真面目で幼稚などうしようもない方だと思ってはいましたが……それだけでなく、本当に相当なクズでいらっしゃるのね!」
思わず大きな声で言ってしまった。
「きゃあっ! クローディアさまぁ、怖い!」
辺りがザワつく。しまった、これも彼女の計算のうちだった。重罪人に慈悲を与えたが、強い言葉ではねつけられた被害者。わたくしは次期王太子妃の慈悲すら受け取らない自分勝手な女と認識された。
「殺せ! 殺してしまえ!」
そんな声が辺りから聞こえる。
「もう終わりだ。貴様のほうこそ、とんだクズのようだな」
そう言われ、無理やり処刑台に横たえられる。
わたくしの努力はなんだったのだろうか。
わたくしの人生はなんだったのだろうか。
こんなことのために努力してきたのか。国のためと教えられ、いつの間にか感情なんて消え去り、人形と呼ばれるようになったわたくしはゴミのように利用され、捨てられるのだ。
銀色の刃が迫ってくる――
第一章
体が重い。頭が痛い。わたくしは……そうだ、アイシャ様に嵌められて……
重い瞼をゆっくりと開ける。霞んだ視界の先にふわりと金色の髪が見える。
……似ている。殿下の髪色に……
段々と視界が鮮明になってゆくにつれ、朦朧としていた意識が一瞬にして覚醒した。
「クローディア……?」
――……殿下!
ガバッと起き上がり、辺りを見渡す。見覚えのある部屋。見覚えがあるというより、見間違いようのない場所。
……わたくしの、部屋? わたくしは、生きているの? いや、でも先ほど確かに……
そこまで考えたところで身の毛がよだつような感覚が襲う。殺された。わたくしは……殺されたのだ。重い刃が首を潰すかのように、わざと苦しみを与えながら死ぬように作られた処刑台で。
はっと首に手をやる。
傷が……ない?
そんなはずはない。確かに首は……
首を落とされた時点で助かりようもなかった。なら、この状況は? 混乱と、生々しく残っている首を落とされた感覚に体が震える。
さっと殿下のほうに目を移す。目の前にいるのは間違いなくジルベルト殿下だ。細く柔らかな金糸のような髪に、透き通る海に穏やかな森を足したような柔らかなエメラルドブルーの瞳。髪の一部が薄く空色味を帯びた白色に変色しているのは、王族のみに受け継がれるという象徴。
「クローディア、よかった。目を覚ましたんだね」
ここでもうひとつの疑問にぶつかる。
――何故殿下が私の部屋に?
「あの……殿下、どうして私の部屋に……?」
首を傾げながら殿下に問う。
「クローディア、覚えていないのか?」
「――何がですか?」
「君は倒れたんだ」
倒れたもなにも……首を見事に斬られたのだ。そもそも生きているはずがない。
「学園の始業式の後にね」
頭が真っ白になる。――始業式? 学園? わたくしはそんなものとっくに……
「殿下……失礼ですが……わたくしは……何者ですか?」
「君は、自分が何者か分からないのか?」
殿下はエメラルドブルーの瞳を揺らしながら問いかける。わたくしは……
「……クローディア・フィオレローズです。王国筆頭公爵家のフィオレローズ家の娘で……ジルベルト殿下の……」
――殿下の、婚約者。
もうわたくしはそう名乗っていい立場ではない。
「……『元』婚約者です」
元。そう名乗っていいのかすら分からないが、それでも何者か、と聞かれればこう答えるしかない。殿下は怒るだろうか。不敬だと、無礼だと罵るだろうか。約十年を共にしながら、こんな時彼がどんな反応をするか、想像もつかない。わたくしはしょせん形式だけの婚約者。全てを完璧にこなしながら、「人」に何ひとつ興味を持たない、中身のない人形。
「君は……」
ショックを受けたような顔をする殿下。あぁ……やはり。殿下の愛しのアイシャ様を殺害しようとした人間に婚約者と言われるのは気に触ったのだろう。たとえそれが「元」だとしても。
「……申し訳ありません、殿下」
「君は何を言っているんだ?」
殿下がわたくしのベッドに腰掛ける。そしてどういうわけか髪を撫で始めた。
「クローディア、君はまだ本調子ではないのだろう。一つ伝えておく。君は『元』などではなく、現在進行形で私の婚約者だ」
「殿下こそ何を……? あなたはわたくしに婚約破棄を言い渡して、その後……その……あと……」
そう言いかけてまたあの感覚が蘇り、首元に手を当て、反射的に自分の体をギュッと抱く。
ふと視線を部屋の隅に移す。
――うそ。
そこには確かにいた。見間違えるはずもない――エマが。
「エ……マ? あなた生きていたの⁉」
わたくしがそう言うと、エマはアクアマリンの瞳に困惑の色を濃く浮かべる。
「お嬢様、どうなさったのですか?」
――何かが……おかしい。言葉にできない、「何か」が。
混乱するわたくしに、殿下は小さな子供をあやすようによしよしと言いながら微笑んだ。
「クローディア、大丈夫だ。君は頑張りすぎだ。無理が祟ったのだろう。長居して悪かったね。今日はここでお暇するよ」
「……はい」
殿下が部屋を出ると、エマが近づいてきてそっとわたくしの額に手を当てた。
「お嬢様、まだ熱があるようですね……。ここ一週間の予定は全て殿下のご指示でキャンセルいたしました。今は、ご自身のお体の心配をなさってください」
全ての物事に対する理解が追いつかない。一人で考えたいこともある。エマにありがとうと言った後、一人で休みたいからと、少しの間部屋から出てもらうように告げた。
――とにかくこの状況の把握が最優先ね。
殿下が帰ってから一時間。わたくしはこの状況を整理するために机に向かっていた。
おかしな点は三つある。
一、エマが生きていること。
二、殿下とわたくしが婚約関係にあるということ。
三、今が恐らく学園の第二学年の始業式の時期であるということ。
――エマはあの時確かに死んでいた。あの傷は致命傷だった。どんな奇跡が起こったとしても、あの状態のエマが無傷で回復することなんてありえない。
そしてわたくしが殿下の婚約者であることは、殿下の反応からも明らかだった。先ほどの殿下はわたくしが説明したことに困惑の色を露わにしていた。
一番の問題は、今が学園の第二学年の始業式の時期であることだ。殿下は確かにわたくしが始業式で倒れたとおっしゃった。アイシャ様が学園に転入してきたのは第三学年の始業式。でも、今のわたくしの部屋には第二学年までの教科書しかなかった。今が第二学年の始業式の時期である可能性は否定できない。
ひとつの仮説が頭に浮かぶ。
わたくしは、時を遡った……?
そんなこと本当にありえるのかしら……? いいえ、確かにわたくしはあの時に死んだ。ということは……
「逆行転生……?」
逆行転生。庶民の感覚を知りなさい、と、昔庶民向けの小説をいくつか読まされた時にそんな単語があった。死んだと思ったら昔の自分に生まれ変わっていた、という話だ。信じがたいが、今自分に起きていることには共通点が多い。
「エマ」
部屋の外に待機していたエマを呼ぶ。
「はい、お嬢様。どうなさいましたか?」
「エマ、可笑しなことを聞くかもしれないけれど……あなた、今いくつ?」
「私ですか? 今年で十八ですよ?」
――‼
やはり。これで確信した。エマが殺されたのは彼女が二十歳の時。
受け入れたくない。非常に受け入れたくないが、どうやらわたくしは本当にしてしまったようだ。逆行転生とやらを。
でも、突然「わたくしは前世で殺されました。しかし生まれ変わってまた人生をやり直しているのです」なんて言っても誰が信じるだろうか。「人形令嬢、ついに狂った」なんて新聞の見出しになってもおかしくない。
それに、やり直しの人生でできそうなこともない。わたくし個人としては、前回の人生の問題点が思いつかないのだ。わたくしは謙遜なしでかなり真面目に気高く振舞ってきたはずだ。かつて読んだ小説では、転生した主人公は前世でヒロインを虐めていたり、性格が悪かったり、太っていたりと、改善点が非常に多かった。だがわたくしには改めるところが何もない。
結論。――何もできない。
それならばいっそのこと、アイシャ様に殺されるまでの二年間、未練なんてないほど充実した人生を送り、そして死のう。さすがに今回は、斬首は遠慮したい。いわゆる安楽死でお願いしよう。
そこで問題点がひとつ。
わたくしは平和に、自由に生きたい。しかしそれを大いに邪魔する存在、というか立場がある。
殿下の「婚約者」――この肩書きがある限り、わたくしには基本的に自由がない。それどころか、殿下の婚約者であることを妬まれて周囲に足を引っ張られ続けた。
前世では特に何も考えず、妃修業を言われるがままにこなしていたが、その結果得たものは何ひとつなかったうえに命を取られた。ハイリスクローリターンだ。こんなことをしていてはわたくしの残された二年間が全て無駄になってしまう。それは嫌だ。
そして知りたいことがもうひとつ。それはわたくしの「過去」だ。前世でエマが最期に少し語ってくれたようなことは、今でも何も思い出せない。やはりどう考えても、六歳以前の記憶が何ひとつとしてないのはおかしい。きっと何かあったのだ。わたくしの知りえない何かが。
やはり殿下との婚約破棄が重要だ。わたくしが自由に動くために。
「エマ、紙とペンを」
思い立ったが吉日だ。殿下に婚約破棄を申し出る手紙を書こう。普通ならお父様に相談すべきだが、基本公爵邸に帰ってこないお父様に相談なんてする時間はない。殿下に送る手紙と同時にお父様にも手紙を書こう。それでいい。
そう決めて手紙を書き、殿下とお父様に送った。しかし……帰ってきた返事はわたくしの望むものとはかけ離れていた。
「どういうこと⁉」
翌朝一番に届いた殿下からの手紙。それを読んだわたくしの声が自室に響いた。そこには長々と殿下の美しい文字でいろいろなことが書いてあった。
要約すると、「婚約破棄は了承しかねる。君以上に私の婚約者にふさわしい令嬢はいない。追伸:午後、君の様子を見に行く」。つまり、殿下が言うことはひとつ。
――婚約破棄は「しない」。
「どうして……。わたくしの代わりを見つけるのに一生かかるというけれど、二年以内にあなたは代わりを見つけるのよ……。それに見舞いに来るなんて、前世ではそんなことしなかったじゃない」
――どうにかして婚約破棄をしなければ……
一人頭を抱えるわたくしを、使用人たちが驚愕の目で見ていた。
◇◆◇
私の名はジルベルト・ルーン・サードニクス。サードニクス王国の王太子として生を受けた。
隣にいるのは、私の侍従であり乳兄弟のアランだ。少し癖の強い暗めの赤髪で、服をところどころ着崩している。
「殿下、先ほどのクローディア嬢、どう思いますか」
クローディア・フィオレローズ。彼女はこの国の筆頭公爵家の令嬢として生まれ、それにふさわしい容姿、教養を併せ持つ。しかし常に無表情で、全てを事務的にこなす噂通りの「人形令嬢」だった。そんな彼女が学園の始業式で倒れてから早三日。婚約者の義務として見舞いに行ったのだが……
「あぁ、明らかに何かがおかしかった」
人形令嬢と呼ばれるだけあり、彼女は一切の無駄を排した端的な言動に平坦な声、感情の動きを微塵も感じられない、眉ひとつ動かさない無表情が当たり前だった。今回の見舞いも、いつものように事務的な会話で終わるだろうと思っていた。
しかしどうだ。彼女は目を覚ました瞬間、大きく目を見開いた。そしてカタカタと震えていた。今までになかった感情らしきものが見て取れた。しかし――
「酷く、怯えていたな」
彼女に芽生えた感情、あれはどう見ても恐怖と混乱、そして怒りだった。一体、何に対してだ?
彼女は公爵令嬢という立場から、過去に何度か危うい目には遭っていた。しかし、どんなに命の危険に晒されても、いつも「大丈夫です」の一言で済ませていた彼女が怯えるほどの、何か。
悪い夢でも見ていたのか? いや、夢ごときが彼女が取り乱すきっかけになるとは思えない。
「アラン、しばらく彼女の様子を見てくれ。変化があればすぐに報告するように」
「りょーかいです。殿下」
「……相変わらず軽いな」
「いつものことでしょう? ジルベルト」
「はぁ……」
こんなにもチャラいくせに何故か仕事はできるのだ。相変わらず腹立たしい。
「……と、こ、ろ、で、ジルベルト」
アランの意味深な笑みに、また一つため息をついた。
「俺、ほんとに驚いたよ。社交界一の美人のクローディア嬢が、初めて表情を浮かべたんだもん。思わず俺ドキッとしちゃった。あはははっ!」
つい反射的にアランを睨んでしまった。
「げっ、そんな顔するなって! じょ、冗談だからっ!」
くそっ、本当になんでこんな奴が有能なんだ。アランのこういうところは本当に変わらない。
「ま、殿下にはいますものね、初恋の人が……」
「クローディアは私の正式な婚約者だ。そういった類の発言はよせ。それに私の初恋なんて、一体いつの話をしているんだ。そもそも存在しない人だと言っているだろう」
「夢で出会った少女、ハンナ。ねぇ……」
私が六歳の時、王宮の庭園で出会った少女。
年齢はきっと同じくらいだった。ウェーブがかった長い金髪は毛先に行くほど桃色がかっていて、宝石のように輝く瞳は角度によって色を変えた。実に不思議な少女だった。大輪の薔薇が咲いたような笑顔に、いつまでも聞いていたくなるような透き通った声。彼女は私にハンナと名乗った。
ハンナとの会話は非常に楽しかった。いつも王太子として周囲に一定の距離を置かれ、一人の人間として話しかけられたことなどなかった私は、彼女に小さな恋心を抱いた。
しかし、その後ハンナと会うことは一度たりともなかった。国王である父でさえ、そのような名前の令嬢は知らないと言う。見張りをしていた騎士に尋ねても、誰もそんな少女は見ていないというのだ。あんな特徴的な髪の令嬢を誰も知らないわけがない。この世界にグラデーションの髪なんて存在しない。彼女は自分の髪を地毛だと言っていた。
肩を落とす私に母上は「夢で天使様に出会ったのよ。あなたは幸運の王子ね」と言った。夢であったかはさておき、彼女はきっと天使だったのだ。それならあの不思議な雰囲気も頷ける。
「とにかく、彼女の周りには注意しておいてくれ。城へ戻るぞ」
「りょーかい!」
アランが明るく返事をした。
◇◆◇
午後、ついにその時は来た。
「お嬢様、殿下がお見舞いにこられました」
「エマ、お通しして」
するとしばらくして扉が開き、ジルベルト殿下とアラン様が入ってきた。
「クローディア、具合はどうだい?」
「ご心配なく」
「まだ熱があるようだが」
「殿下、お願いがございます」
殿下の問いを無視し、あえて冷たく響くような声で言うと、殿下の纏う気配が変わった。
「手紙にも書いたが婚約破棄はしないよ?」
まずい。先手を打たれた。……いや、わたくしは礼儀知らずの愛想の悪い令嬢を演出するつもりなのだ。ならばこの雰囲気で押し切れないかしら。
「いいえ殿下。わたくしは婚約破棄がしたいのです」
まさかわたくしに反論されるとは思っていなかった殿下は驚く。それでも表情をすぐに戻し、いつもの貼りつけたような笑顔でわたくしに問う。
「クローディア、君はこの婚約の意味を分かっているよね? この国の王太子である私と筆頭公爵家の令嬢である君との婚約は、生まれた時から決まっているようなものだ。君は王妃教育も受けてきた。この婚約は、君の家と王家の結びつきを強めるために必要なものなんだ」
唇を噛む。殿下は、これは政治的な婚約だと、一令嬢のわがままで破棄できるようなものでないと、貴族としての義務を突きつけてきたのだ。
しかし冷静に考えてみると、さまざまなものに縛られ、期待を裏切らずに生きてきたのに、その結果はご覧の通り。あんな恐ろしい結末を迎えるくらいなら――
「殿下、わたくしは自由になりたいのです」
「クローディア」
「どうして分かってくれないのですか! あなたはわたくしにとって足枷でしかないのです!」
カッとなる頭の片隅でどこか冷静に考える。この噴火するように突然湧き出す感情は、前世の最期に感じた「怒り」だった。そう、わたくしは怒っているのだ。
「足枷……?」
わたくしの言葉に殿下は困惑する。
「冷静になるんだ、クローディア。君らしくないじゃないか。今まで無自覚のうちに冷たくしてしまっていたかもしれないが、それでも君のことは常に気にかけていたつもりだ。一体なにが不満なんだ! 今日だって無理やり予定を空けて君のところに来たんだ」
「殿下にこそ何が分かるのです! わたくしは……!」
そこで言葉に詰まる。この状況を説明できる? 説明できたとして、信じてもらえるだろうか?
頭が痛い。まるで激しく殴られているようだ。ガンガンと繰り返し押し寄せる痛みに視界が歪む。
「……クローディア? アラン! 医師を呼べ! クローディア! どうした!」
零れる涙がわたくしの頬を濡らす。
突然ふっ、と体から力が抜け、わたくしは意識を失った。
ゆっくりと目を開ける。
そこは、白い場所だった。部屋というべきか、空間というべきかは分からないが、果てがなく地平線らしいものも見えない。あんなにも酷かった頭痛が治まっていた。
ふと足元を見ると、足は地に着いていなかった。いや、「地」なんてものはないのだろう。実に不思議な場所だ。
もしかして夢の中なのだろうか。それともここはあの世なのだろうか。
そう錯覚してしまうような雰囲気だ。
『……。……』
誰かが何かを呼んでいる。なんて言っているのかは聞こえない。だが、その「誰か」が呼んでいるのは自分だと、なんとなくだがそんな気がした。
「どなたですか?」
クローディアはそう問う。
『あら、やっと届いた。皆ー! 繋がったわよー!』
とても綺麗な女性の声がした。
『本当に? 僕も僕も!』
『儂が先だ』
続いて少年のような声や老人のような声がしたと思うと、聞き取れないほどたくさんの人の声がしはじめた。一体何人いるのだろうか。
「恐れ入りますが、お一人ずつ話していただけないでしょうか。聞き取れないので……」
私がそう言うと女性の声がした。
『そうね、ごめんなさい。皆、……ちゃんが困ってるじゃない。一人ずつ喋らないとだめよ』
謎の声がそう言うが、名前の部分が聞き取れなかった。ノイズのような音がする。もしかしてわたくしの名前が分からないのだろうか。
「あの……わたくしはクローディアと申します」
そうすると、うるさいほどだった声が一斉に止んだ。
『そうだったわ、クローディア。あなたに話があるの』
「わたくしに?」
『ええ。あなた、最近おかしなことが起きなかった?』
おかしなこと、と聞かれれば思い当たることはひとつしかない。
「死んだはずなのに、昔に戻って……」
『あら、理解が早くて助かるわ』
どういうことだろう。というかこの声たちは何?
「失礼ですが……あなた方は誰、というか……何?」
『紹介が遅れてすまないな』
『『『『『『『私たちは神だ』』』』』』』
まあ、声が揃ってる……じゃなくて‼ ……神? え? どういうことなの?
わたくしの頭はキャパオーバー寸前だ。
『前世でのお主にはずいぶんと可哀想なことをしたからな』
可哀想なこと?
『お詫びに、ではないが、君には幸せになってほしくてな。もう一度、君に人生をあげたのだ』
「え、ええ」
『でもそこで問題が発生してね。君、さっき頭痛くなったでしょ』
ええ、もう強烈に痛かった。
『普通は逆行転生なんてしないんだけど、無理やり転生させちゃったから。まだ君の魂と今の体とが馴染んでいなくて、拒絶反応みたいなのが起こっちゃったんだけど』
「……拒絶……反応」
『でも大丈夫よ! あと数日あれば馴染むわ』
「神様」
『『『『『『『何?』』』』』』』
あ、いけない。ここにいる数えきれないほどの声の持ち主は全員「神様」なのだ。
「えっと……その女性の声の神様」
『『『私?』』』
……なるほど。女神と男神でだいたい半分には絞れたようだ。
「もういいです。とりあえず質問をしてもいいですか?」
『『『『『『『答えられるものなら』』』』』』』
「わたくしは、何をすればいいのですか?」
『特に何もすることはないわ。私たちはあなたに何かをしてもらうために転生させたわけじゃない。ただ、自由に生きてほしいの』
自由に……
ひとつ素朴な疑問が湧く。
「あの……どうしてわたくしをそこまで気にかけてくださるのですか?」
『それ……た……い…』
突然酷いノイズに襲われる。
「すみません! 今なんとおっしゃいましたか!」
問うが、返答はない。ノイズと共に真っ白な空間が黒くなり始め、それが全てを飲み込んだ時、わたくしの意識は覚醒した。
「クローディア‼」
殿下がわたくしの名前を叫ぶ。どうやらわたくしが意識を失ってから、それほど多くの時間は経っていないようだ。
「……クローディア、大丈夫か」
「……はい」
先ほど聞こえた神々の声は、夢だったのだろうか。
「クローディア、今医者を呼んでいるところだ」
「大丈夫です、殿下。あと数日寝ていれば治ると思います」
神々の声が正しかったら、あと数日すればわたくしの体調は良くなる。
「そうかもしれないが、一応診てもらったほうがいい。学園ももう少し休んだらどうか?」
――学園! 忘れていた。そうだ、始業式に倒れてから数日寝込み、昨日起きた。その間学園のことなんて考えてすらいなかった。
今、なんて言った?
まるでアイシャ様のためにわたくしが罪人になるような言い方に違和感を覚える。
「ココだけの話ぃ、毒は私が自分で飲んだんですぅ! 殿下、まだあなたに未練があったみたいなのでしかたなくぅ? あなたを悪人に仕立てないと殿下が振り向いてくれなくてぇ。メイドたちに見られていたのは想定外でぇー、脅して偽の証言をもらったあと死んでもらいました!」
死んでもらいました? この女が殺したのか。エマを。私を陥れるために。この女が殿下と婚約したい、ただそのためだけにエマは死んだのか。たった……それだけのために。
私の中で何かがふつふつと膨れ上がる。これは「怒り」というものだろうか。
「あなたは礼儀に欠ける不真面目で幼稚などうしようもない方だと思ってはいましたが……それだけでなく、本当に相当なクズでいらっしゃるのね!」
思わず大きな声で言ってしまった。
「きゃあっ! クローディアさまぁ、怖い!」
辺りがザワつく。しまった、これも彼女の計算のうちだった。重罪人に慈悲を与えたが、強い言葉ではねつけられた被害者。わたくしは次期王太子妃の慈悲すら受け取らない自分勝手な女と認識された。
「殺せ! 殺してしまえ!」
そんな声が辺りから聞こえる。
「もう終わりだ。貴様のほうこそ、とんだクズのようだな」
そう言われ、無理やり処刑台に横たえられる。
わたくしの努力はなんだったのだろうか。
わたくしの人生はなんだったのだろうか。
こんなことのために努力してきたのか。国のためと教えられ、いつの間にか感情なんて消え去り、人形と呼ばれるようになったわたくしはゴミのように利用され、捨てられるのだ。
銀色の刃が迫ってくる――
第一章
体が重い。頭が痛い。わたくしは……そうだ、アイシャ様に嵌められて……
重い瞼をゆっくりと開ける。霞んだ視界の先にふわりと金色の髪が見える。
……似ている。殿下の髪色に……
段々と視界が鮮明になってゆくにつれ、朦朧としていた意識が一瞬にして覚醒した。
「クローディア……?」
――……殿下!
ガバッと起き上がり、辺りを見渡す。見覚えのある部屋。見覚えがあるというより、見間違いようのない場所。
……わたくしの、部屋? わたくしは、生きているの? いや、でも先ほど確かに……
そこまで考えたところで身の毛がよだつような感覚が襲う。殺された。わたくしは……殺されたのだ。重い刃が首を潰すかのように、わざと苦しみを与えながら死ぬように作られた処刑台で。
はっと首に手をやる。
傷が……ない?
そんなはずはない。確かに首は……
首を落とされた時点で助かりようもなかった。なら、この状況は? 混乱と、生々しく残っている首を落とされた感覚に体が震える。
さっと殿下のほうに目を移す。目の前にいるのは間違いなくジルベルト殿下だ。細く柔らかな金糸のような髪に、透き通る海に穏やかな森を足したような柔らかなエメラルドブルーの瞳。髪の一部が薄く空色味を帯びた白色に変色しているのは、王族のみに受け継がれるという象徴。
「クローディア、よかった。目を覚ましたんだね」
ここでもうひとつの疑問にぶつかる。
――何故殿下が私の部屋に?
「あの……殿下、どうして私の部屋に……?」
首を傾げながら殿下に問う。
「クローディア、覚えていないのか?」
「――何がですか?」
「君は倒れたんだ」
倒れたもなにも……首を見事に斬られたのだ。そもそも生きているはずがない。
「学園の始業式の後にね」
頭が真っ白になる。――始業式? 学園? わたくしはそんなものとっくに……
「殿下……失礼ですが……わたくしは……何者ですか?」
「君は、自分が何者か分からないのか?」
殿下はエメラルドブルーの瞳を揺らしながら問いかける。わたくしは……
「……クローディア・フィオレローズです。王国筆頭公爵家のフィオレローズ家の娘で……ジルベルト殿下の……」
――殿下の、婚約者。
もうわたくしはそう名乗っていい立場ではない。
「……『元』婚約者です」
元。そう名乗っていいのかすら分からないが、それでも何者か、と聞かれればこう答えるしかない。殿下は怒るだろうか。不敬だと、無礼だと罵るだろうか。約十年を共にしながら、こんな時彼がどんな反応をするか、想像もつかない。わたくしはしょせん形式だけの婚約者。全てを完璧にこなしながら、「人」に何ひとつ興味を持たない、中身のない人形。
「君は……」
ショックを受けたような顔をする殿下。あぁ……やはり。殿下の愛しのアイシャ様を殺害しようとした人間に婚約者と言われるのは気に触ったのだろう。たとえそれが「元」だとしても。
「……申し訳ありません、殿下」
「君は何を言っているんだ?」
殿下がわたくしのベッドに腰掛ける。そしてどういうわけか髪を撫で始めた。
「クローディア、君はまだ本調子ではないのだろう。一つ伝えておく。君は『元』などではなく、現在進行形で私の婚約者だ」
「殿下こそ何を……? あなたはわたくしに婚約破棄を言い渡して、その後……その……あと……」
そう言いかけてまたあの感覚が蘇り、首元に手を当て、反射的に自分の体をギュッと抱く。
ふと視線を部屋の隅に移す。
――うそ。
そこには確かにいた。見間違えるはずもない――エマが。
「エ……マ? あなた生きていたの⁉」
わたくしがそう言うと、エマはアクアマリンの瞳に困惑の色を濃く浮かべる。
「お嬢様、どうなさったのですか?」
――何かが……おかしい。言葉にできない、「何か」が。
混乱するわたくしに、殿下は小さな子供をあやすようによしよしと言いながら微笑んだ。
「クローディア、大丈夫だ。君は頑張りすぎだ。無理が祟ったのだろう。長居して悪かったね。今日はここでお暇するよ」
「……はい」
殿下が部屋を出ると、エマが近づいてきてそっとわたくしの額に手を当てた。
「お嬢様、まだ熱があるようですね……。ここ一週間の予定は全て殿下のご指示でキャンセルいたしました。今は、ご自身のお体の心配をなさってください」
全ての物事に対する理解が追いつかない。一人で考えたいこともある。エマにありがとうと言った後、一人で休みたいからと、少しの間部屋から出てもらうように告げた。
――とにかくこの状況の把握が最優先ね。
殿下が帰ってから一時間。わたくしはこの状況を整理するために机に向かっていた。
おかしな点は三つある。
一、エマが生きていること。
二、殿下とわたくしが婚約関係にあるということ。
三、今が恐らく学園の第二学年の始業式の時期であるということ。
――エマはあの時確かに死んでいた。あの傷は致命傷だった。どんな奇跡が起こったとしても、あの状態のエマが無傷で回復することなんてありえない。
そしてわたくしが殿下の婚約者であることは、殿下の反応からも明らかだった。先ほどの殿下はわたくしが説明したことに困惑の色を露わにしていた。
一番の問題は、今が学園の第二学年の始業式の時期であることだ。殿下は確かにわたくしが始業式で倒れたとおっしゃった。アイシャ様が学園に転入してきたのは第三学年の始業式。でも、今のわたくしの部屋には第二学年までの教科書しかなかった。今が第二学年の始業式の時期である可能性は否定できない。
ひとつの仮説が頭に浮かぶ。
わたくしは、時を遡った……?
そんなこと本当にありえるのかしら……? いいえ、確かにわたくしはあの時に死んだ。ということは……
「逆行転生……?」
逆行転生。庶民の感覚を知りなさい、と、昔庶民向けの小説をいくつか読まされた時にそんな単語があった。死んだと思ったら昔の自分に生まれ変わっていた、という話だ。信じがたいが、今自分に起きていることには共通点が多い。
「エマ」
部屋の外に待機していたエマを呼ぶ。
「はい、お嬢様。どうなさいましたか?」
「エマ、可笑しなことを聞くかもしれないけれど……あなた、今いくつ?」
「私ですか? 今年で十八ですよ?」
――‼
やはり。これで確信した。エマが殺されたのは彼女が二十歳の時。
受け入れたくない。非常に受け入れたくないが、どうやらわたくしは本当にしてしまったようだ。逆行転生とやらを。
でも、突然「わたくしは前世で殺されました。しかし生まれ変わってまた人生をやり直しているのです」なんて言っても誰が信じるだろうか。「人形令嬢、ついに狂った」なんて新聞の見出しになってもおかしくない。
それに、やり直しの人生でできそうなこともない。わたくし個人としては、前回の人生の問題点が思いつかないのだ。わたくしは謙遜なしでかなり真面目に気高く振舞ってきたはずだ。かつて読んだ小説では、転生した主人公は前世でヒロインを虐めていたり、性格が悪かったり、太っていたりと、改善点が非常に多かった。だがわたくしには改めるところが何もない。
結論。――何もできない。
それならばいっそのこと、アイシャ様に殺されるまでの二年間、未練なんてないほど充実した人生を送り、そして死のう。さすがに今回は、斬首は遠慮したい。いわゆる安楽死でお願いしよう。
そこで問題点がひとつ。
わたくしは平和に、自由に生きたい。しかしそれを大いに邪魔する存在、というか立場がある。
殿下の「婚約者」――この肩書きがある限り、わたくしには基本的に自由がない。それどころか、殿下の婚約者であることを妬まれて周囲に足を引っ張られ続けた。
前世では特に何も考えず、妃修業を言われるがままにこなしていたが、その結果得たものは何ひとつなかったうえに命を取られた。ハイリスクローリターンだ。こんなことをしていてはわたくしの残された二年間が全て無駄になってしまう。それは嫌だ。
そして知りたいことがもうひとつ。それはわたくしの「過去」だ。前世でエマが最期に少し語ってくれたようなことは、今でも何も思い出せない。やはりどう考えても、六歳以前の記憶が何ひとつとしてないのはおかしい。きっと何かあったのだ。わたくしの知りえない何かが。
やはり殿下との婚約破棄が重要だ。わたくしが自由に動くために。
「エマ、紙とペンを」
思い立ったが吉日だ。殿下に婚約破棄を申し出る手紙を書こう。普通ならお父様に相談すべきだが、基本公爵邸に帰ってこないお父様に相談なんてする時間はない。殿下に送る手紙と同時にお父様にも手紙を書こう。それでいい。
そう決めて手紙を書き、殿下とお父様に送った。しかし……帰ってきた返事はわたくしの望むものとはかけ離れていた。
「どういうこと⁉」
翌朝一番に届いた殿下からの手紙。それを読んだわたくしの声が自室に響いた。そこには長々と殿下の美しい文字でいろいろなことが書いてあった。
要約すると、「婚約破棄は了承しかねる。君以上に私の婚約者にふさわしい令嬢はいない。追伸:午後、君の様子を見に行く」。つまり、殿下が言うことはひとつ。
――婚約破棄は「しない」。
「どうして……。わたくしの代わりを見つけるのに一生かかるというけれど、二年以内にあなたは代わりを見つけるのよ……。それに見舞いに来るなんて、前世ではそんなことしなかったじゃない」
――どうにかして婚約破棄をしなければ……
一人頭を抱えるわたくしを、使用人たちが驚愕の目で見ていた。
◇◆◇
私の名はジルベルト・ルーン・サードニクス。サードニクス王国の王太子として生を受けた。
隣にいるのは、私の侍従であり乳兄弟のアランだ。少し癖の強い暗めの赤髪で、服をところどころ着崩している。
「殿下、先ほどのクローディア嬢、どう思いますか」
クローディア・フィオレローズ。彼女はこの国の筆頭公爵家の令嬢として生まれ、それにふさわしい容姿、教養を併せ持つ。しかし常に無表情で、全てを事務的にこなす噂通りの「人形令嬢」だった。そんな彼女が学園の始業式で倒れてから早三日。婚約者の義務として見舞いに行ったのだが……
「あぁ、明らかに何かがおかしかった」
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「酷く、怯えていたな」
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彼女は公爵令嬢という立場から、過去に何度か危うい目には遭っていた。しかし、どんなに命の危険に晒されても、いつも「大丈夫です」の一言で済ませていた彼女が怯えるほどの、何か。
悪い夢でも見ていたのか? いや、夢ごときが彼女が取り乱すきっかけになるとは思えない。
「アラン、しばらく彼女の様子を見てくれ。変化があればすぐに報告するように」
「りょーかいです。殿下」
「……相変わらず軽いな」
「いつものことでしょう? ジルベルト」
「はぁ……」
こんなにもチャラいくせに何故か仕事はできるのだ。相変わらず腹立たしい。
「……と、こ、ろ、で、ジルベルト」
アランの意味深な笑みに、また一つため息をついた。
「俺、ほんとに驚いたよ。社交界一の美人のクローディア嬢が、初めて表情を浮かべたんだもん。思わず俺ドキッとしちゃった。あはははっ!」
つい反射的にアランを睨んでしまった。
「げっ、そんな顔するなって! じょ、冗談だからっ!」
くそっ、本当になんでこんな奴が有能なんだ。アランのこういうところは本当に変わらない。
「ま、殿下にはいますものね、初恋の人が……」
「クローディアは私の正式な婚約者だ。そういった類の発言はよせ。それに私の初恋なんて、一体いつの話をしているんだ。そもそも存在しない人だと言っているだろう」
「夢で出会った少女、ハンナ。ねぇ……」
私が六歳の時、王宮の庭園で出会った少女。
年齢はきっと同じくらいだった。ウェーブがかった長い金髪は毛先に行くほど桃色がかっていて、宝石のように輝く瞳は角度によって色を変えた。実に不思議な少女だった。大輪の薔薇が咲いたような笑顔に、いつまでも聞いていたくなるような透き通った声。彼女は私にハンナと名乗った。
ハンナとの会話は非常に楽しかった。いつも王太子として周囲に一定の距離を置かれ、一人の人間として話しかけられたことなどなかった私は、彼女に小さな恋心を抱いた。
しかし、その後ハンナと会うことは一度たりともなかった。国王である父でさえ、そのような名前の令嬢は知らないと言う。見張りをしていた騎士に尋ねても、誰もそんな少女は見ていないというのだ。あんな特徴的な髪の令嬢を誰も知らないわけがない。この世界にグラデーションの髪なんて存在しない。彼女は自分の髪を地毛だと言っていた。
肩を落とす私に母上は「夢で天使様に出会ったのよ。あなたは幸運の王子ね」と言った。夢であったかはさておき、彼女はきっと天使だったのだ。それならあの不思議な雰囲気も頷ける。
「とにかく、彼女の周りには注意しておいてくれ。城へ戻るぞ」
「りょーかい!」
アランが明るく返事をした。
◇◆◇
午後、ついにその時は来た。
「お嬢様、殿下がお見舞いにこられました」
「エマ、お通しして」
するとしばらくして扉が開き、ジルベルト殿下とアラン様が入ってきた。
「クローディア、具合はどうだい?」
「ご心配なく」
「まだ熱があるようだが」
「殿下、お願いがございます」
殿下の問いを無視し、あえて冷たく響くような声で言うと、殿下の纏う気配が変わった。
「手紙にも書いたが婚約破棄はしないよ?」
まずい。先手を打たれた。……いや、わたくしは礼儀知らずの愛想の悪い令嬢を演出するつもりなのだ。ならばこの雰囲気で押し切れないかしら。
「いいえ殿下。わたくしは婚約破棄がしたいのです」
まさかわたくしに反論されるとは思っていなかった殿下は驚く。それでも表情をすぐに戻し、いつもの貼りつけたような笑顔でわたくしに問う。
「クローディア、君はこの婚約の意味を分かっているよね? この国の王太子である私と筆頭公爵家の令嬢である君との婚約は、生まれた時から決まっているようなものだ。君は王妃教育も受けてきた。この婚約は、君の家と王家の結びつきを強めるために必要なものなんだ」
唇を噛む。殿下は、これは政治的な婚約だと、一令嬢のわがままで破棄できるようなものでないと、貴族としての義務を突きつけてきたのだ。
しかし冷静に考えてみると、さまざまなものに縛られ、期待を裏切らずに生きてきたのに、その結果はご覧の通り。あんな恐ろしい結末を迎えるくらいなら――
「殿下、わたくしは自由になりたいのです」
「クローディア」
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カッとなる頭の片隅でどこか冷静に考える。この噴火するように突然湧き出す感情は、前世の最期に感じた「怒り」だった。そう、わたくしは怒っているのだ。
「足枷……?」
わたくしの言葉に殿下は困惑する。
「冷静になるんだ、クローディア。君らしくないじゃないか。今まで無自覚のうちに冷たくしてしまっていたかもしれないが、それでも君のことは常に気にかけていたつもりだ。一体なにが不満なんだ! 今日だって無理やり予定を空けて君のところに来たんだ」
「殿下にこそ何が分かるのです! わたくしは……!」
そこで言葉に詰まる。この状況を説明できる? 説明できたとして、信じてもらえるだろうか?
頭が痛い。まるで激しく殴られているようだ。ガンガンと繰り返し押し寄せる痛みに視界が歪む。
「……クローディア? アラン! 医師を呼べ! クローディア! どうした!」
零れる涙がわたくしの頬を濡らす。
突然ふっ、と体から力が抜け、わたくしは意識を失った。
ゆっくりと目を開ける。
そこは、白い場所だった。部屋というべきか、空間というべきかは分からないが、果てがなく地平線らしいものも見えない。あんなにも酷かった頭痛が治まっていた。
ふと足元を見ると、足は地に着いていなかった。いや、「地」なんてものはないのだろう。実に不思議な場所だ。
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そう錯覚してしまうような雰囲気だ。
『……。……』
誰かが何かを呼んでいる。なんて言っているのかは聞こえない。だが、その「誰か」が呼んでいるのは自分だと、なんとなくだがそんな気がした。
「どなたですか?」
クローディアはそう問う。
『あら、やっと届いた。皆ー! 繋がったわよー!』
とても綺麗な女性の声がした。
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『儂が先だ』
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「……拒絶……反応」
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