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 〈 第一章 僕のこと① 透編〉

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 終業式を終えると、皆、一斉に制服のワイシャツからネクタイをもぎ取った。これから始まる2ヶ月もの夏休みを迎えるにあたり、拘束の象徴とも呼べる邪魔な枷を剥ぎ取ることは、これからの自由を満喫する為の、一種の荒々しい儀式にも似ている。
 10代の若者達、それも窮屈な寮生活を強いられている中高生にとっては尚更のことだ。
 僕、綿貫透も襟元を開放すると、それだけで一瞬にして全てが解放され、非日常のスイッチが入る気がした。そこには野放図な夏休みという蠱惑めいた響きの他に、甘美な意味合いが多分に含まれてもいた。
 中都市から大分奥まった片田舎に、僕の通う興堂院はあった。全国でも有名な中高一貫の名門校で、偏差値の高さもさることながら、預かる生徒達の家柄が超一流なことでも名を馳せていた。戦前からある有数の男子校で、戦後やむなく学寮制の撤廃を余儀なくされたが、復興とともに寮制を復活させていた。今は全寮制ではなく通学の生徒も全体の2割ほどはいたが、なにせ田舎である。いくら名門とはいえ、自宅から通える生徒学生は少数派だった。また諸般の事情や両親が海外赴任中である子供達を預けるには、格式の高い名門校の寮は格好の預けどころであった。
 2ヶ月の夏休みは一般的にみて、かなり長い部類だろう。しかし人格形成において、家族との絆や愛情を重んじる学校としては、逢えずにいた時間を埋め合わせる意味合いで、2ヶ月の休みを設定していた。そのため授業時間はみっちりと長く、内容はえげつなく濃く深く、生徒は勉強漬けの日々を送っているのだか。
 僕も諸般と遠方という2つの事情を抱えており、中学1年から高校1年の現在まで寮生活を送っている。快適とまではいかないが、そこそこ満足はしている。
 
 
 講堂をでて寮に向かう道すがら、僚友の遠藤くんが声をかけてきた。
 「綿貫が飛び出していかないなんて、珍しい!」
 「珍しいって、、帰省は明日の予定なんだ」僕は応えながら、もしかしたら、もう少し延びるかもしれないけど、と心の中で呟いた。
 「俺も明日組だ。佐々木と橘もだってさ。で、今晩飲もうって話になってさ。お前もこいよ」
 僕は「ああ」と返事しながら、やはり今日行けば良かったかなと、早くも軽い後悔をしていた。荷造りはとっくに済んでいて、これからの2ヶ月分の衣類や勉強道具、必需品類は先遣隊として、【新しい実家】に送ってある。身一つでいつでも出発できる状態だ。そう、あとは向かうだけだ。後ろ髪を惹かれる訳も人も、この土地にはいない。一刻も早く行きたいという想いが本音だ。ただ、そう、ちょっと迷っていてね。迷っている理由が、会いたくて堪らない【新しい実家】で待つ人の存在なのだけど。そう、今日だって断腸の思いで出立を明日に延期したのだから。僕って奴は、つくづく阿呆なんだと実感してしまうね。
 寮の2人部屋に戻ると、入れ替わりに、これから帰省する同室の小島くんが「健闘を祈る」と、片目をつぶってみせた。
 ケントウヲイノル
 小島くんは何を示唆しているのだろうか?今の僕にピッタリの言葉じゃないか?僕はギクリとして、彼のでて行ったドアを眺めた。よっぽど今から帰ろうかと誘惑にかられたが、当初の目的を思い起こし、何とか踏み留まった。ベッドに見をなげだすと、愛しい人の顔が浮かんでくる。すぐに帰らないのは、今回が初めてだから、気にかけてくれれだろうか?淋しい、1分でも1秒でも早く会いたいと願ってくれるだろうか?
 気にして貰うために我慢しているなんて、ほんとに僕はどうしようもないなと我ながら呆れてしまう。
 いつの間にかうとうと眠っていたらしい。ドンドンと扉を叩く音で目が覚めた。
 「みんな集まってるぞ。はやく来いよ」
 寝っ転がったままの僕に「なんだ、まだ着替えてないのか?俺の部屋で始めてるから」と、遠藤は言うと、今度は隣の部屋をノックしていた。どうやら居残り全員に声をかけるつもりらしい。僕はのろのろと起き上がると、制服を脱ぎ、ポロシャツとジーパンに着替えた。この上下服も【新しい実家】で僕を待つ人から、無理やりもぎ取った戦利品だ。僕の衣類のほとんどは、その人から略奪したものばかりだ。彼は僕に新品を着せたがるが、僕は彼が袖を通した服しか着たくなかった。こんなに遠くの寮生活を送っているのだから、彼の温もりや匂いが恋しくなるのは当然だろう?僕は案外、危ないヤツなのかな、、。

 遠藤くんの部屋は僕の3つ先にある。校舎は明治時代に建てられた建造物で、県の重要文化財となっている。幾度かの補強や修理を行ないながらも、奇跡的に現役で使われている。昔ながらの学び舎って何かいいよね。対して寮は最近立て直しされたばかりで、ビジネスホテルばりに、無味乾燥な造りだ。味も素っ気もないためか、昔の寮生達のように愛着を感じている者は皆無で、皆はこの仮の住処をホテルと呼んでいる。休日ともなれば、余程の事情でもない限り(試験前とか外出禁止の受刑中であるとか)、外出届けをだし、さっと街にくりだしてしまう。それが長期休暇ともなれば尚更だった。ホテル自体も早速閉館し、寮生を追い出しにかかる。大抵の寮生達は蜘蛛の子を散らしたように消えてしまうが、帰り渋りをしている輩もいるのが世の常だ。僕だって【彼のまつ実家】がなければ、行先もなく途方にくれてしまうことだろう。生家には死んだって寄り付きたくはないからね。まあ、僕のことはさておき、そんな帰り渋りしている者達は、大人びた格好をして、別荘やリゾート地などへ繰出して、家族との接触を最小限にしているらしい。何せ御曹司ばかりが集まる学校で、金は持っている子供達である。ついでに付け加えるなら、お金の他に、一族が抱える問題をも内包している子供達である。普通の高校生よりは良い意味でも悪い意味でも大人びてしまうのだろう。
 寮ホテルはゆったりとした2人部屋である。それぞれの部屋にバス・トイレ完備なんて、まさにホテル。いくら田舎で敷地が広いからといって、子供達にこんな贅沢をさせていいのかと疑念を抱くほどだ。まあ、多額の料金は親から徴収できるのだから、運営には問題ないのだろうが。

 遠藤くんの部屋には、佐々木くんと橘くん、今野くんがいた。
 「もうこんなに飲んでいるとは」
 すでに十数本ビールが空いていた。
 僕は呆れてウィスキーを差し入れると、ベッドに腰をかけた。ウィスキーは前回帰省した時、こっそり寮に持ち込んでいたのだ。未成年はお酒を買えないし、付き合いも大切だからね。その辺は大目にみて貰いたいかな。
 「お、サンキュ」「ウィスキーは久しぶりだな」と喜々としている。お前ら未成年だぞ。今からそんなでどうする。僕は心の中で突っ込みを入れた。
 「綿貫が直行しないなんて珍しい」
 向かいのベッドで寝そべっている橘くんが、揶揄するように笑った。どこか小馬鹿にしている口調に、僕はカチンとなった。橘くんは同じ1年生だが上背も身幅もあるイケメンで、とても同い年には見えなかった。事実、私服でいると大学生に間違われるという。それを上手く利用して、酒場をうろついたり、歳上の女性と遊んでいたりと、華やかな噂が絶えない男だった。
 「どういう意味?」
 「いつも至上最短時間で去っていくもんな。そりゃ珍しいよ」
 佐々木くんが悠々とした調子でビールをぐびりと飲んだ。
 げっ!そんな風に見えてたの?僕は。
 至上最短時間、、まあ事実なんだけど。そんな悪目立ちしていたとは。
 「そうそう、いつも1等賞だ。ダッシュがすげー。陸上部が褒めてたぜ」
 今野くんがトロンとした瞳になっていた。随分出来上がってるらしい。
 「すきっ腹で飲んでるの?悪酔するよ。何か腹に入れないと」
 僕は辺りを見渡したが、酒以外に何もない。まあ野郎共の飲み会なんてこんなものだ。僕は溜息をつくと「食堂に何か残ってないか探してくるよ」と仕方なく立ち上がった。
 「綿貫ーいいな、いい。惚れるぜ」
 今野くんが意味不明なことを喚いてから、「肉が食いたい」と現実的な希望を申告してきた。
 「はいはい。お肉ね」
 部屋をでると一緒にでてきた遠藤くんに「いつから飲んでるの?」と呆れて聞いた。
 「終業式が終わってすぐだから、3時間ってとこ」
 遠藤くんもほろ酔い加減だった。僕は酔っぱらい達に絡まれそうな嫌な予感がした。食料を調達したら、さっさと自室に引き上げよう。君子危うきに近寄らずだ。
 期待に反して、食堂にはキレイさっぱり何もなかった。これから2ヶ月もの長期休暇に入るのだから、当然と言えば当然だろう。腐らせる訳にいかないもんね。
 全く徹底した合理主義な寮である。夏休みと冬休み、およそ長期的休みは、準備のための猶予を1日残し、次の日から問答無用とばかりに、則座に閉寮となる。人件費光熱費諸々の諸経費削減はもとより、なかなか帰省したがらない子供達を強制送還するためである。実際、高校生ともなれば実家は懐かしい反面、窮屈な場でしかない。ことに親の監視下を逃れた寮生活を送っている者達には、苦行以外の何物でもない。海外赴任の親元ならば、喜んで観光気分で行くらしいが、そうでない者達は、友人たちと旅行にいくなど、自衛手段に余念がない。くどいか資産家のご令息ばかりである。お金には不自由はしていない。
 確かに僕のように、いそいそと実家に帰るものなどいないだろうな。中学の1年坊ならいざしらず、もう高校生だ。身勝手な10代の輩は、自分独自の生活や遊びが全てであり、家族などは1週間も付き合えばうんざりしてしまう程度のものなのだから。
 「缶詰とか保存食もないとは、見事だ」
 戸棚という戸棚をあけながら、うーむと僕は唸った。徹底した仕事ぶりに感動すら覚える。
 「さっきのさ、気にするなよ」
 遠藤くんの気遣いに、僕の頰がぴくりと引き攣った。
 「何が?」
 「小島が心配してたんだ。最近、綿貫が溜息ばかりついるし、あんまり眠れてないみたいだって。悩み事?」
 僕は「はあ」と大きな息をついた。小島くんとは、先程の僕の同室の友人だ。
 「それで、いよいよ終わりなのかって、みんな興味津々だ」
 面白がるような声が背後から聞こえ、僕は戸惑いながら振り返った。橘くんだ。
 「もし終わりなら、綿貫の争奪戦が勃発するな」
 「それは、、由々しき事態だな」
 「憂うべき面倒事の始まりだ。しっかし、ほんとに何も残してないのね。おい遠藤、ジャンケンで負けた奴が食いもん調達しようぜ。これ軍資金」
 ひらりと橘くんが一万円札を翻した。僕は、おお、と感嘆の声を心の中であげた。さすがご令息達。持ってるお金の桁が違う。
 「いいの?なら俺が買ってくる。提供者に行かせる訳にいかんしな」と笑うと、万札を引ったくり走り出てた。
 「義理がたいヤツ」
 遠藤くんの後ろ姿に微笑んでる橘くんに、僕は素直に疑問をぶつけた。
 「よく、分からないんだけど。いよいよ終わりとか、、争奪戦とか、」
 「別にそのままだよ。毎回、頰を上気させて真っ先に帰省する綿貫が、今回に限って溜息ばかりついて、帰省を渋ってる。彼女との仲がマズくなってると考えるのは当たり前だろ?破局したなら今が最大のチャンスだ。だから争奪戦さ、男も女も虎視眈々だ」
 橘くんは尻ポケットから煙草を取り出すと、カッコいい仕草で火をつけた。外にでようぜ、と促され屋外への扉を開けた。
 外にでるとむっとした熱気が満ちていた。真夏のギラリとした太陽が西に傾いている。一本どう?と勧められたが、僕は唇を噛みしめてクビを横に振った。頰を上気させてのくだりが気に掛かっていた。頰を上気させて、頰を上気させて。そんな風に見えていたとは。失態だ!
 「まだ始まってもないのに、破局もないよ」
 「ふーん。争奪戦が回避できるのは何よりだな。お前、3年のあのグループ入り、断ったときも大変だったしな。一挙に始まったら、庇いきれねーよ」
 「――あのときは、ありがとう」
 僕は項垂れながらお礼を言った。3年のあのグループとは、全校屈指の財閥の御曹司達、数人の集まりだった。みな見目麗しく、バイセクシャルを公言している彼らは、乱交パーティーをよく行っているという。仲間同士でも全てが関係性にある、ぶっとんだグループだ。そのグループに、何故か僕は目をつけられてね。その、何度か襲われ危うい目にあってたんだ。よく助けてくれたのが、体格も腕っぷしもイケメンの橘くんだったんだけど。
 「あいつらは脅しておいたから、大丈夫だろうけど」
 「そう?かな?」
 「ああ、綿貫財閥を敵にしたら、どうなるか位は予想できるだろうし」
 証拠写真や音声はバッチリだから、手出しはできないさと、これらの事をさらりとやってのける橘くんには頭が上がらない。カチンとくる言動が多いけど、それは僕がどんくさいからだし。
 「で、破局じゃないなら、決戦か決行といったとこか?」
 なんて鋭いヤツなんだろうと、僕はのんびり煙草をふかす橘くんが、少し怖くなった。橘くんは片頬だけで笑うと、種明かしをしてくれた。
 「簡単さ。中学から4年の付き合いだ。お前、荒稼ぎしてるだろう。合コンで。他にもネットで稼いでいるみたいだし、で、みんな思ったわけだ。綿貫の彼女は金のかかる女だって。同年代のコンパはバイト参加だから、きっと年上だろう。一途な様子だが最近は意気消沈だ。上手くいってないか破局したか、とまあ、こんな風に考えてるってわけ」
 はぁーと、僕は大きな溜息をつくと、そんなにも分かりやすいのかと情けなくなった。
 「あまり干渉したくないけどさ。金遣いの荒い女はよした方がいい。いい機会なんじゃね」
 「稼いでいるのは僕自身のためだよ。貢いだことはない」
 僕は名誉のために憮然として応えると口を噤んだ。
 僕達の学校は学力家柄ともに超一流名門であるため、近隣女子学生の憧れてき存在だ。嫌味じゃないよ。客観的事実なんだ。更にこちらも男子校であるから、自然と合同イベントや親睦会とか、何かと交流の場が多い。いや積極的に機会を増やしていた。さすがに未成年であるためお酒は飲めないが、出会いの場会をコンパと称しては、頻繁に行っている。
 僕はそうした合コンには全く興味はない。僕が来ると女子の参加率が跳ね上がるから、出てくれと懇願され顔をだすだけだ。ようするに客寄せパンダだ。理解不可能だけど、僕は女子の間では【美貌の王子】とか呼ばれてるらしい。アホくさい話だ。つまらないコンパには出たくないと断り続けていたら、僕を広告塔にしたい輩が、それじゃバイトとして参加してくれ、と持ちかけてきた。一参加につき五千円から一万円払うからって。貯蓄に励んでる僕の足元を見ての提案だったが、僕は素直に乗ることにした。お金が欲しかったからね。恥しらずな僕。
 バイト代に差があるのは女の子達のグレード、ランクによるものだ。基準は分からないけどさ。彼女たちが知ったら泣くんじゃないか?と少し同情心をみせたら、「女のほうが露骨だよ」と、にべもなく返されてしまった。まあ、そうかもね。で、これが結構な稼ぎになってるんだよ。僕は有能な黒子だからね。この黒子役っていうのが案外難しいんだ。黒子には黒子として守るべき鉄則があってさ。会費を払わず逆にバイト代を貰う黒子の鉄則は、その1、女の子に僕のスマホのテレナンバーやメルアドの類を教えないこと。勿論聞いてもいけない。ライン交換などもってのほかだ。勝手に押し付けてくる子もいるけど、丁重にお返しする。その2、お持ち帰りはしないこと。その3、目立つことはしない。その4、早々に消え去ること等などだ。つまりは他の男子にとって、人畜無害な透明人間になることだ。これってかなり大変なんだよ。でも、僕は優れた黒子であり広告塔だった。どんなに積極的に攻撃されても、どれ程可愛い子にも、一切態度が揺るがないことから、男達の僕への信用は篤かった。それ故に意中の人がいるのは、一目瞭然でもあったんだろうな。
 橘くんは、ふうっと煙を吐くと「なら、いいけどさ」と言って、携帯式灰皿で煙草を消した。
 「変なのに引っかかってなきゃさ。口に出さないけど、みんな心配してたんだぜ。その気になりゃ、選り取りみどりなのにさって」
 その言葉は僕じゃなく、そっくり僕の想い人に与えられるものだろう。僕はほろ苦い思いになった。変なのは僕で、引っ掛けようと躍起になってるのは僕なんだから。
 「橘くんみたいに、モテるイケメンには分かんないよ。僕の気持ちは」
 透の言葉に橘が驚いて、取り出そうとした煙草を、落としてしまった。
 橘は呆れ果てていた。
 眼の前の少年は自分の美しさに無頓着すぎる。向けられている称賛に気付きもしないのだろうかと、呆然としてしまった。綿貫透のすらりとした伸びやかな肢体、男性にしては白いすぎる滑らかな肌、高くまっすぐな鼻梁と格好のいい小鼻。長い睫毛に覆われた涼し気な榛色の瞳。形のよい唇は紅を必要ともせぬ瑞々しい赤味を帯びており、小さな顔は、天然ウェーブの柔らかい薄茶の髪が取り巻いている。麗しい容貌だけでなく、控えめで温厚な人柄や、熱心な勉強家であること等、彼の美点の枚挙にはいとまがない。だが本人には自覚がないのだ。女生徒だけではなく男子学生をも心踊らせてしまうことに。全く気付きもせず、関心すらないのだ。
 しかしこの外見こそが、透が自分自身を忌み嫌う元凶であり、原罪としての己の存在を痛感させるものだった。透は自分の容姿が嫌いだった。だからこそ無頓着で、ましてやこの容貌に焦がれる存在があることなど、思いもよらなかったのだ。
 綿貫透は綿貫雄一郎と美沙子との間の戸籍上の長男である。戸籍上とことわるのは、美沙子夫人が結婚半年足らずで透を出産し、明らな不貞を示していたからだ。いつから裏切られていたのか。政略結婚とはいえ、結婚の決まった時点で精算すべきであろう。雄一郎は怒りを堪えるのに必死だったという。しかも透の外見が雄一郎に似ていぬばかりか、国籍すらも疑う赤子であったから、尚更始末が悪かった。同じ人種であれば似てはいなくとも、何とか誤魔化せるだろうが、明らかに欧米人の顔つきの赤ん坊である。家の恥は歴然としていた。美沙子夫人は詰問に対して、ただ涙ばかりで相手については沈黙を貫き通し、婚家先に戻ることなく、産後半年足らずで交通事故で亡くなった。困ったのは雄一郎だった。名義上の妻の家で養育する申し出もあったが体裁が悪い。仕方なく引き取ることにしたが、当然の如く1片の愛情など抱けるはずもなく、ただただ息子の存在は恥辱としてあるだけだった。見れば思わず手を挙げてしまいそうな透をひたすら無視し、視界の他に追いやるしかなかった。雄一郎は雄一郎で己を律することに懸命だった。忌々しさや憎しみ、悲しみは勿論、他人からの哀れみや嘲りなどを受け、自分を抑えるのに精一杯だった。当然そうした事情は幼い透本人にも、自然に伝わってしまうものである。
 両親に見捨てられた赤ん坊は、幸いにも雄一郎の16歳年下の弟により救済された。当時、中学3年生の弟が、深い愛情をもって養育してくれたのだった。
 透が自分の容姿に無関心なのも、常々鏡を見ようとしないのも、また女性に対して幻滅を覚えるのも、こうした出来事に起因していた。

 「田町と何かあった?」
 無造作に投げかけられた質問だったが、僕はぎくりと一瞬息が詰まった。
 「別に、、」と応える声が固くなるのは、どうしようもなかった。隣のクラスの田町くんは、コンパで知り合った女の子と交際していたが、最近別れてしまった。僕のせいだった。よくコンパに顔をだす可愛らしい子で、黒子役の僕とも比較的親しかった。
 その田町くんの彼女から、集まりの連絡を受けたのは中間試験の直前だった。試験後に打ち上げでもする相談かなと?と訝しみながら、指定の場所に向かうと、田町くんはおろか、他の友人の姿一人すらなく、彼女が1人きりで僕を待っていた。彼女は悪びれずに「ゴメンネ。2人だけでお話がしたかったの」と、田町くんなら喜びそうな上目遣いで、僕に媚をうってきた。ゾッとしたね。さすがに鈍い僕でも、彼女の意図が読めた。踵を返して帰ろうとする僕を、「相談があるの」と引き止め、その相談が【僕と友達になりたい】というのだから。呆れて物も言えなかった。正直、吐き気がしたね。
 彼女の狡猾なところは、僕を「好きだ」と言明しないことだった。僕は努めて冷淡に「今だって友人だろう」と突き離したが、彼女は喰い下がってきた。
 「だったら試験が終わったら遊びにいかない?」
 僕の女性不信は実母から始まり、こうした女性達の度重なる自分勝手な振るまいにより、かなり重度になっている。彼女はこうも言った。「付き合ってる人がいないなら、別にいいでしょ」とも。
 「君は田町くんと交際してるんだろう?なら他の男と出かけず彼と行けばいい」というと、田町くんとは付き合っていない。あちらが勝手に付き纏ってくるのだと、伏し目がちに流し目を僕に送ってきた。気持ち悪い。私ってモテテ困っちゃうわ、的な事を言いたいのだろうか。自意識過剰だ。
 それから、お友達として会って欲しいと頼んでいるだけだと、訳の分からない理屈で僕に迫ってくる。
 全くとんでもない。こんな女と一緒に出かけでもしたら、無いこと無い事無いこと無いことばかり吹聴されてしまうに決まってる。更には一緒にいたという変な事実だけが独り歩きしてしまうだろう。全く恐ろしい話だ。
 「僕は誤解を招く行動は、避ける主義なんだ」と言うと、「じゃあ田町くんとは別れる、それならいいでしょ」と仰天することを言い出した。君、付き合ってないって言ってたよね?
 僕は呆れを通り越して茫然となった。こうした輩には毅然とした態度で挑むしか無い。
 「君が田町くんと別れても、僕は個人的に会うつもりはない。友人としてもね」突っぱねると、今度は泣き出して「自信過剰、自惚れや」等など散々悪態をつかれた。
 運の悪いことに一部始終を目撃されていて、その日のうちに噂はあまねく駆け巡り、田町くんはあっさりと振られたらしい。
 田町くんは僕のせいで振られたとなじり、あまつさえ彼女に対して薄情すぎると僕を罵った。オイオイ、彼氏の乗り換えや、二股を企んでいた彼女を庇うのか?酔狂だなと、心の中で毒ついたが、表面上は無言を貫いた。こうした連中には何を言っても無駄だからね。無用な軋轢を避けるためにも、ただただダンマリを通すに限る。
 「どうせ振られた事もないんだろ」冷たい奴だと、捨て台詞を残して田町くんは去っていった。僕は憮然としたが、多分に加害者めいた気持ちにさせられたのは、否めなかった。
 一方で田町くんを襲った憂うべき事態、つまり失恋は、僕にとっても他人事じゃなかった。僕が最も怖れる未来に重なり、憂鬱な気持ちになってしまっていた。
 「お前、不器用だよな。適当にあしらっておけばいいのにさ。あんな女」
 橘くんは面白そうに言うが、僕にはそんな芸当など到底できそうにない。僕が黙ったままでいると「この夏は正念場か?」と、茶化すように笑った。全くもって何て鋭いヤツなんだろう。僕はひょいと肩を竦めると「そうかも」と、生真面目に応えた。
 そうだ。この夏は僕にとって楽しくも辛い夏になるだろう。懊悩し苦しむ夏であるだろう。僕があまりにも真剣な顔をしていたのだろうか。橘くんからからかう様子が消え、代わりに嘆息まじりに称賛された。なんで?
 「つくづく一途なんだな」
 うん、僕もそう思う。こんなに一途な男ってそうそう居ないんじゃないかな?ストーカー寸前だ。


    ……………………………


 翌日、僕は待ちきれずに始発の新幹線に飛び乗っていた。笑いたければ笑うがいい。僕の根性や我慢はたったの半日しか保たなかった訳だ。僚友相手に強がっても、また己の忍耐を試すのも、実に馬鹿馬鹿しくなったのだ。僕はまだ高校1年生の16歳で、自由になれる時間は、たったの2ヶ月しかないのだから。変な意地を張ってみても、しかも相手には絶対伝わっていない意地など、なんの意味があるだろうか。
 嗚呼、僕はなぜ昨日、終業式後すぐ出発しなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。夏休みに入った瞬間に、僕は帰るべきだったのだ。これから2ヶ月の間、離れるクラスメイトや僚友達に、慌ただしく別れの挨拶とエールを送り、身一つで飛び出すべきだったのだ。僕の旅立ちを祝うかのように真っ青な空、眩しい太陽が、僕を【新しい実家】へと誘っていたというのに。僕のバカ。
 友人たちは頰を上気させた僕をみて、「彼女のところか?」と囃し立てるに違いない。しかし僕は笑って応えない。だが浮かれた調子から愛しい人に直行するのは隠しようがないんだ。だって僕はまだ16歳だからね。
 僕はメモにある東北の片田舎の住所へと、逸る気持ちを抑えられない。此処に最愛の人が住んでいるのだから。荷持はとっくに届いているはずだ。ああ荷持に遅れをとるなんて。荷持が主人の僕よりも先に彼の地に着くなんて。そんな理不尽が許されようか。僕は目覚めと同時に走っていたよ。新幹線が鈍亀みたいに遅く感じた。もっと速く、飛ぶように僕を運んでくれ。
 全く僕はどうかしていたね。
 息せき切って駆けつけた僕を見て、いつものように劇的な再会になった筈なのに。僕は自らその権利を放棄してしまった。子供扱いされるのが嫌という理由で、それだけの見栄で。僕はバカだ。だが弁解させて貰えるなら、もう僕は子供じゃない。僕は高校生になったんだ。中学生とは違うんだ。
 まあ、他にもちょっと理由はあったんだけど。この前の春休みに少し不味い事をしちゃったからね。相手は気づいているのかどうか、、うーん、、怪しいな、、、嗚呼、気づいて欲しかったのか、知らないままでいて欲しいのか、一体どちらなんだろう。気付いてて知らんぷりされるのも辛いけど、それで気不味くなるのも嫌なんだ。
 僕は東北へ向かう新幹線の中で足踏みをしていた。そんな事をしたって速く着くはずないんだけど。逸る心がそうさせるんだ。ああ、どうして昨日発たなかったのだろう。僕の阿呆。
 そして僕はとうとう、やってきた。
 小さな駅の改札をぬけると、直ぐにタクシー乗り場へと向かう。【新しい実家】はとんでもない山奥にあり、公共交通機関ではかなりの時間のロスが発生するらしい。
 「迎えにいくから連絡して」と言われてたけど、僕は一刻も早く逢いたいんだ。待ってる時間も惜しいくらいにね。それに、突然、僕が現れたらびっくりすると思わないか?
 タクシーはうねうねと続く山道を、見事なハンドルさばきで進んでいった。僕はメーターがどこまで上がるのか、カチンと音をたてる度にハラハラしていた。地図に書いてある大杉が見えてきたので、僕はタクシーを止めて貰った。この地図とおりならば後は徒歩で10分くらいのはずだ。僕は料金を支払いお礼を言ってタクシーを降りた。
 残り徒歩10分の道順を、地図を頼りに僕は小走りで急ぐ。概略図は完璧な出来で、僕は探偵社の仕事ぶりの、いつもの有能さに満足をする。もっとも一面に広がる田園や畑を前に、迷いようがないことも知る。緩やかな起伏を超えれば、もう家はすぐ其処だ。
 
 僕は勢いよくドアを開けた。すると逢いたくて仕様がなかった顔は、僕を認めるととても驚いてから、大好きな笑顔に変わった。両手を大きく広げて僕を出迎えてくれる。
 「お帰り、トォニィ」
 僕は迷わず腕の中に飛び込んだ。
 僕は愛してやまない壮介を抱きしめ返しながら、【新しい実家】をざっと眺め渡した。二百坪程の草地に柵が巡らしてあった。家自体は小ぢんまりとして、部屋は2か3部屋といったところかな。僕は嬉しくなった。大きな家は好きじゃないから。
 「明日か明後日か、いつ来るのかと待ちわびていたよ。用事は済んだのかい?遅くなるかもしれないと言っていただろう?」
 壮介が僕を抱きしめて髪を撫でながら、優しく微笑んだ。
 「明日だなんて、そんな悠長なことしてられないよ。夏休みはたったの2ヶ月しかないんだから」
 2、3日寄り道するから、遅れるかもしれないと知らせておきながら、随分と勝手な言い草だと思ったが、、、目を瞑ることにした。ごめんなさい。反省してます。
 壮介は嬉しそうに僕を抱きしめ、この4ヶ月の間に、また背が伸びた僕を驚いて眺めている。今は同じ目の高さになった。今度の冬休みには僕は彼を追い越しているだろう。その辺も悩みの種なんだけど今は考えない。4ヶ月ぶりに逢えた喜びを噛みしめたいから。たったの4ヶ月と笑うかい?でも本当に長くて長くて辛かったんだ。どうして4ヶ月も離れていられたか不思議でしょうがないほどに。嗚呼、僕は学校に戻れそうもないよ。
 ふいに、僕は壮介の長い脚の後ろから、ひょっこり顔を覗かせている瞳と目があった。
 「叔父さん、犬を飼ったの?あれ?犬じゃないみたいだ」
 成犬のシェパード位の大きさの4足歩行の動物が、くりくりとした黒い瞳で、僕を見上げていた。
 「ロバだよ。2歳の甘えん坊さんだよ」
 僕は首を傾げた。動物の成長速度は人を遥かに凌駕している。2歳ならば確かに人間ならば幼児だが、ロバであるなら身体の大きさはもう少し大きいのではないだろうか。果たしてロバは何才で成獣となるのか知らなかったが。
 僕は犬にしては大きすぎ、ロバにしては小さすぎるような体格の子を、撫でてやりながら「小さいね」と疑問を持って壮介を見やった。
 「生まれつき、そういう質らしい」
 「じゃあ、これ以上は大きくならないの?」
 「そういう事になるね。今が最大Maxの大きさだ」
 僕は慎重にロバの足をみる。肉球はなく蹄であることを確認し、確かに犬ではないことを認める。
 「いいね。いいんじゃない。個性的で」
 「おかげで牧舎じゃなく、家の中で飼えるしね」
 壮介が嬉しそうに笑った。ロバが甘えるように鼻ヅラをズボンに押し付けている。僕は何となくムッとした。みっともないけど、小さなロバに焼き餅を焼いたんだ。だから誤魔化すため、慌てて「可愛いね。利口そうな瞳をしている」って、にっこり微笑んだ。始め様子を伺っていたロバが、警戒を解いて僕に寄ってきて小首を傾げた。これには参ったね。本当に可愛いんだ。
 「名前は分かるかい?トォニィ」
 当ててごらんと言わんばかりの壮介。でも壮介は何も分かっちゃいない。僕が彼について知らない事は、自慢じゃないけど本当に少ないと思うよ。これじゃ完璧にストーカーだね。
 「多分、、プラテーロじゃない?」
 事もなげに言うと、壮介は心底吃驚した顔をした。ふう、やれやれ。僕をみくびらないでね。
 「だって叔父さん、ヒメネスの詩集、大好きでしょ」
 ヒメネスの代表作でもある詩集。彼のロバへの愛情が満ち溢れている作品で、僕も大好きな詩集。その溺愛していたロバの名前はプラテーロ。
 種明かしをすると壮介は愉快そうに静かに笑った。僕はそうした壮介の静かな物腰がとても好きだ。
 「でもこの仔は銀灰色じゃないね。柔らかい栗色の毛だ」
 よろしくと両手でプラテーロの顔を挟むと、ぽわぽわの毛に頰を寄せた。プラテーロも僕に身体を擦り寄せてくれる。
 「仲良くやれそうで良かった」
 壮介の心底安心した様子に、僕は少しばかり憮然とした。
 「僕が小さなプラテーロを虐めるとでも?」
 壮介は苦笑を漏らすと、僕にうがいと手洗いを促した。
 僕はまたも、ざっと家を検分する。広い土間にダイニングキッチン、左横にはトイレと風呂場と洗面所があり、奥には部屋が2つあるだけの小さな家だ。部屋は両方とも畳敷の和室だった。僕はますます気に入った。
 ひゅんひゅんとヤカンが音をたてていた。僕は台所の戸棚にカップをとりにいき、お気に入りのカップが、ちゃんと置いてあるのに嬉しくなる。次いで壮介の好きな大きめのマグカップを取り出し、お茶の準備をする。壮介、今日は紅茶の気分なのかな。ティーポットと茶葉缶がテーブルに置かれていた。オレンジペコにダージリン、フレーバーティーも何種類かある。壮介はハーブティーは好まないから、貰い物かもしれない。
 「紅茶はどれがいい?」
 壮介は何でもいいよ、と応えながら林檎をざくざく切っている。プラテーロの分だろう。
 「ねぇ、僕がプラテーロを虐めるって、本気で心配したの?」
 僕は先程の由々しき疑惑の追求にかかった。壮介は面白そうに片眉をあげた。
 「君は気に入らない客人を追い出す名人だからね」
 「、、それは自称、叔父さんの恋人だけだよ。自称の、、」
 声が低くなるのはどうしようもなかった。全くその通りだからね。だが名誉のために言わせて貰えるなら、その女性達は下心満載で、壮介も本気には見えなかったからだ。真剣に大切な人なら僕への説得を試みたろうし、甥の邪険な行動を叱責もしただろうから。でも後ろめたいのは事実だ。
 「僕が叔父さんに逢えるのって、期間限定なんだもの。水入らずで過ごしたいって思うのは、いけないこと?」
 これは、自称恋人を追い出すときの常套句だ。壮介はこれに弱い。
 「それはボクも反省しているよ。気詰まりな寮生活から解放されて、我が家に着けば、見知らぬ女性がいたなんて、ボクだって堪らないから。配慮が欠けていたよ。謝るよ。いい子のトォニィ」
 それから壮介は、学校はどうだったと、いつもと同じ質問を穏やか眼差で尋ねた。僕も、別に変わらないよと、いつも通りの返答をする。
 そんな事より、僕は【新しい実家】を隅から隅まで検分したくて堪らなかった。
 早々にお茶を切り上げると、壮介を引っ張っぱりながら、家中をぐるぐると見回る。
 ダイニングキッチンは、この家の半分以上を占めるほど広く板張りだった。これはプラテーロのためだろう。僕たちは玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるが、プラテーロは足を拭くだけだ。だから常に拭き洗いができるよう、丈夫で厚手の板張りにしたのだろう。隙をみると藁をこんもりと積んだ処があり、どうやら彼の寝床であるらしい。奥に畳敷きの二間続きの6畳の部屋があり、仕切りの襖が外されていた。
 ちょっと心臓がどきりとした。
 産まれた時から壮介と一緒に眠っているけれど、最近はそうして寝るのが面映いんだ。いや、違うな。恥ずかしいというより、複雑で危険な心境なんだ。僕の劣情がね、、まあいい。夜のことは夜考えよう。今悩んでも始まらない。昨日それで失敗したばかりじゃないか。おかげで、ここでの滞在が1日も減っちゃったばかりだ。
    台所は使いやすいシステムキッチンになっている。和室の畳も新しい。井草の香りが心地良く漂っている。バスもトイレも新品だ。結果、外壁を除く全ての内装及び家具は、新しくリフォームされていた。
 次いで外にでる。午前のまばゆい光が僕らを迎えてくれた。ここは小高い丘に位置しているらしく、辺り一面をぐるりと見渡せた。遠くに山々が連なっている。ぐるーり一面、山に囲まれている。みごとな盆地だ。
 「凄いね、ぜんぶ山だ」
 僕の呟きに、壮介がプラテーロを放してやりながら楽しそうに笑った、
 「夏は暑くて冬は寒いらしいよ」
 プラテーロが早速、小走りに走っていき、すぐ戻ってきた。敷地の境を示す柵がまるく設置してあり、その向こう側も何もない草地だった。
 「盆地特有の気候だよね。どうして此処に決めたの?」
 僕は敷地の草地が、全て芝生に変えられていることを確認する。プラテーロのためだ。間違って毒草を食んでしまわないように、予防処置を行ったのだろう。壮介はそういう人だ。これだけでも随分散財しているな。壮介の現在の資産については、修正が必要だろう。いつも僕は壮介の生活を陰ながら心配している。そして、いざというときは、助けになりたいと本気で思っている。
 「忘れていた債権があってね。この土地とロバがボクに残されていた」
 「他の金目のものは?持っていかれちゃったの?」
 僕の顔は幾分か呆れ気味だったかもしれない。
 「何しろ忘れていた債権だったから。でもこの仔に出会えた」
 忘れていた債権、、僕は溜息を押し殺した。良くいえば大らかなのだろうが、悪くいえばズサンでだらしない、という事だろうか。人の長所と短所が1つ処なのは不思議なことだ。
 「馬やロバは他にもいたの?それでこの子だけ引き取ったの?」
 質問が多いね、と壮介は笑って「あばら家に小さなロバが、1頭繋がれていただけだった。可哀相に随分と痩せていて心配したんだよ」と眉を寄せた。恐らく使いものにならない小さなロバは、見捨てられたのだろう。生き物を放置するなんて許せない。壮介が現れなかったらプラテーロは死んでいたかもしれなかった訳だ。
 お金に対して人はシビアだ。この土地も市街地から離れすぎてるし、アクセスが非常に不便だ。資産価値はないと踏まれ残されたのだろう。実際、ここら一帯は広大な空き地と化していた。畑や牧場として活用されている処は1つもない。見渡す限り空き地、空き地が続いている。
 「ここでプラテーロに逢えるなんてね」
 壮介が感慨深そうに目を細めた。
 全くと僕は頷いた。本当に君はラッキーだったよ。プラテーロ。債権者が壮介なんて。なんて幸せものなんだ。
 「雪はどうかの?」
 「積雪量はあまりないそうだ。銀世界はとても美しいらしいよ」
 無邪気に壮介が応える。
 それならば、と僕はまた考えを巡らす。冬に訪れたら温室が出来ているに違いない。必ずあるだろうと、頭の中で先ほどの資産の修正をする。
 壮介は頭はとても良いのだが、いかんせん商才がない。金銭感覚も恐ろしくない。
 実家から持ち出したお金で、倉庫賃貸事業を興し、成功して失敗した。陰りをみせた時に、さっさと売却か撤退をしておけば良かったものを、いつまでも保有していたから、泡のように消えてしまった。山っ気の強い人で、辛うじて残ったお金を株に注ぎこんだ。これは前回の失敗を教訓として、機を逃さず素早く売却したらしい。おかげで一財産となり現在にいたる。
 それにしても、、、こんなに田舎だなんて調査報告書になかったな。と興信所の鈴木さんに、次回からはもっと詳細な記述を求めようと誓った。プラテーロについても記載はなかったし。まあ、ペットだからと軽く見做されたのかもしれないな。僕は経済状況と女性関係については、特に詳しくと言っていたから。だが僕は壮介については全てを把握しておきたいんだ。殊に寮生活なんて、目の届かない処にいる間は。
 プライバシーの侵害だと、壮介は怒るだろうか。だが彼は知らないのだ。僕がどれほど恐れているかを。僕が愛してやまない壮介の隣に、見知らぬ女性が居座ってしまう恐怖を。
 過去、壮介には幾人かの恋人がいた。モテるのは当たり前だから、仕方ない。結婚に発展しそうな人もいたんだ。思い出すのも恐ろしいが2人はいた。その悉くを僕がぶち壊した。酷いことをしたっていう自覚はあるよ。僕には何の権利もないのに、申し訳ないと頭では思っている。頭では反省しているけど、感情では安堵している自分を情けなくも思うよ。
 この件について壮介は、どちらも不問にしてくれた。僕は幼かったし頼れるのは壮介だけだったから。そうした窮状を汲んでくれたんだろう。酷い態度の僕に、実に寛大だったと感心しているよ。全く僕は嫌な子供だったから。
 恋人と紹介された女性の荷持を窓から放り投げ、泣きわめく女性と僕とどっちが大事なのと詰め寄り、幼い僕は勝利をものにしていた。その頃から、子供の独占欲と呼ぶには、深い意味合いの感情が既に潜んでいたと思う。
 壮介が30才をすぎても独身なのは、一重に僕の責任だ。責任を取れと言われたら、僕は喜んでとるつもりだ。それこそが僕の最大の願いなのだから。
 幼い頃、どうして壮介が父親じゃないんだろうと落胆した。だけど、そのうち親子じゃなくて良かったと、つくづく思うようになった。
 今では、忌むべきハーフの身体的特徴間も、血の繋がりの一切を否定するものとして、僕の中で受容できるまでになった。血のゆかりの無いことに、安堵し歓喜すら覚える。血縁の問題はそのように僕の中で昇華された。
 そして今、、僕は新たな悩みに苦しんでいる。これが1番難しいかもしれない。
 壮介は男の僕を受け入れてくれるだろうか?女性じゃない男の僕をだ。ああ僕が女の子であったなら、年の差や諸般の事情をもろともせず、果敢にアタックしていたことだろう。しかも過去の例において、壮介は豊満な身体つきの女性を好んでいるということだ。加えて僕は育てて貰ったという、有り体にいえば、オムツを代えて育てて貰ったという、微妙な立場にある。
 壮介は僕を愛してくれている。それは疑いようもなく、深い深い愛情だ。だがそうした家族の愛が、恋情へと転換するのは可能なのだろうかと、僕は懊悩する。このまま育てば、僕の身長は間違いなく壮介を超すだろう。ゲルマン人の血が混じっていそうな僕の成長は、吉どでるか凶となすか。壮介は自分より上背のある僕に、抵抗感を抱くだろうか。彼は女性のように扱われるのを嫌うだろうか。まあ常識的に考えればそうだろうけど。
 ああ僕の理性の抑制は、どこまで保たれるだろう。
 小さい頃は無邪気に壮介のベッドに潜り込んでいけた。思うさまに壮介の胸に腕に甘えることができた。だが今は拷問にも等しい。貪りつきたい衝動を抑えるのに必死なのだ。
 実は、、この前の春休み、眠っている壮介の唇にそっとキスしてしまってね。どうにも抑えようがなく、吸い込まれるように唇を重ねていた。壮介の唇は思ったより柔らかくて、そして乾いていた。どれほど僕は乾いた唇を、僕の舌で湿らせてあげたかったことか。そうっと身を離すのに、どれほどの理性を総動員し努力が必要だったか、分かるかい?それはもう必死だったよ。よくキスだけで我慢できたものだと、我ながら感心したくらいだ。
 壮介は気がついただろうか。知っていて知らんぷりをしていてくれるのか。全く気がつかなかったのか。気付いて欲しかったのか、知らないままの方がいいのか。僕の思考はぐるぐると同じ処を空回り続けている。
 解っているのは、この夏休みで何かが変化するだろうということだ。僕の我慢も限界だからさ。回避って事も考えたけど、僕の我慢はご存知の通り、半日も持たなかった。壮介に逢いたくて堪らなかったからね。ただ、何ていうのかな。少し距離を置きたかったのも本当なんだ。頭に血が登りすぎてるから。僕は壮介に関しては重症だよ。
 これは同室の小島くんの影響も、多分にあると思う。彼は俗に言うプレイボーイで、交際する彼女のサイクルが異様に早い。早すぎる。高校に上がってからも、既に3人目だ。わずか3ヶ月で3人。夏の終わりには新しい彼女に変わっているだろう。そのうえ彼は実戦派だ。つまり手をキチンとだして、頂戴してるってこと。ここまでくると脱帽だよ。中学で初体験を済ませている彼は、実にスマートに事に及んでいる。男性なら必聴ものだ。そうした話を夜な夜な聞かされていたら、僕の抑圧された理性が崩壊するのも、致し方ないと思わないか?
 まあ彼のせいばかりとは言えないけどな。僕は健全な青少年だし、健全な肉体的成長を遂げているんだから。遅かれ早かれ欲情の問題が起こるのは、分かりきっていた。
 そう僕は健全な男だし、季節は解放的な夏だ。
 橘くんの言うように、この夏は勝負の、もしかしたら玉砕の夏になるかもしれない。
 僕は溜息をついて草むらに横たわった。壮介とプラテーロが戯れていた。甘えてじゃれるプラテーロに、僕は再び軽い嫉妬を覚える。全くもって大人げない。壮介はせがまれるままプラテーロと追いかけっこをしていた。まるでヒメネス青年詩人そのものだ。
 壮介の染めてはいない薄茶の髪が、光を浴びて金色に輝いていた。僕ほどではないが、彼も全体的に色素の薄い肌をしている。ピンと張った琴の糸のように清々しく、そしてたおやかだ。涼しげで茶目っ気たっぷりの瞳は、心の内を雄弁に物語り、器用な゙長い指は家事を万能にこなす。それは僕という育児で立証ずみだ。品の良い清楚な物越しからは、育ちの良さが伺われる。壮介は全てにおいて優雅だ。感情を荒立てることなど、まずない。だが、彼は一度だけ実家に背いた。其のために家を勘当され、僕と壮介とが別離に涙したあの事件。
 政略結婚の憂き目には、僕という結果で痛いほど味わっているというのに、魔の手を壮介に及ぼそうとしたのだから。そしてまさか彼があんな暴挙にでるとは、夢にも思わなかったのだろう。
 壮介は屋敷の金庫から大金を盗み出し、十歳の僕の誘拐を試みたんだ。その日のことは、よく覚えている。
 あと、もう一歩だったんだ。あともう少しのところで僕らは捕まっちゃったんだ。もう少しだったのに、、でも結局は連れ戻される羽目になっただろうと今は思うけどね。だってやったのは壮介なんだ。持ち金で事業を興し、失敗した彼なんだ。遅かれ早かれ、僕はあの家に戻され、寮に放り込まれるのは必至だったろう。
 壮介は勘当された。僕は彼との面会も許されなくなった。しかしそれで僕が黙って言いなりになると思うかい?僕は辛抱強いんだ。それが壮介と僕との大きな違いだ。例えば僕は壮介に恋人が出来ても、夏休みなり冬休みまで待つ。辛抱して待つ。それから行動を起こすんだ。お相手に僕という試金石を試すんだよ。僕込みで受け入れられるかってね。でも今まで誰1人突破できた人はいない。それはそうだろう。僕は全く嫌なヤツに変貌したからね。壮介に呆れられるくらい嫌なヤツに。でも壮介は怒らなかった。どうしてだったのかな。僕を子供と見なしていても、たしなめる位は普通するだろうに。それもしなかったんだ。壮介の女性関係以外は、すべてにおいて従順で大人しい僕の変貌に驚いたのだろうか。だが世間一般では、所詮ただの叔父と甥だ。強行突破もあり得ると覚悟してたんだけど、壮介はしなかった。あっさりと僕を選ぶんだ。いつもいつも。本気そうに見えた人でも、あっさり僕を優先させるんだよ。それで僕はますます増長したってわけ。結婚しても僕に絶対脅かされるって感じていたのかな。実際、僕はそうしかねなかったから。僕は怖い人間だ。自分でもそう思うよ。壮介のことになると抑えが効かなくなりそうで。異常だと思うけれど、どうしようもないんだ。
 話がずれちゃったけど、とにかく僕は辛抱強いってことだ。壮介と離され逢うことも許されなくなった僕は、寮に入ることにした。それも難関の名門校にね。あの家に僕が居ること自体、体裁が悪いことは、双方痛感していたから、戸籍上の父親は快諾したよ。その時に、合格したら壮介と逢うことの許可を取り付けたんだ。超難関校に受かる訳ないと思って約束したんだろうな。まさか合格して、堂々と壮介に逢えるようになるとは、考えてなかったみたい。そんな顔だったもの。落ちたら適当な学校の寮に入れるつもりだったみたい。
 壮介の勘当はそのままだけど。
 あの家と縁が切れるなら何も解く必要はないからね。僕だって勘当されたいくらいだ。でも僕は不祥事を起こす訳にはいかない。やっぱり浮気の子だからって言われるから。僕はどうでもいいけど壮介が傷つくんだ。だから僕は成績は常に上位を保っってる。行ないだって品行方正だ。これでも優等生で通っているんだよ。
 




 




 
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