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4章: 波のまにまに愛を求めて
4-4 思い出したくもない。
しおりを挟む幼い頃から、兄は完璧だった。
「まぁ、また100点取ってきたの?ハジメは偉いわね~!」
リビングで答案を広げ、優しい笑顔で兄の頭を撫でる母。嬉しそうに笑う兄。幼い僕は、その様子を指を咥えて見ている。見慣れている光景の筈だが、それでも僕は彼が羨ましかった。
「レイもハジメを見習いなさいよ~?さぁ!レイもお勉強しましょう!」
パンっと手をたたき、母は笑顔で小学校高学年用の参考書を本棚から取り出した。「うんっ!」と元気よく返事をする僕。そこに、父がやってくる。
「おいおい、まだレイにその範囲は早いんじゃ無いのか?レイはまだ小学2年生だぞ?」
母は笑顔で返す。
「あら、そんな事ないわよ。ハジメだってレイと同じ頃にはこの参考書も解けてたんだから。レイだって、やればできるもんね~。」
そういって、母は僕の頭を優しく撫でた。手のひらの暖かな感触が嬉しかった。でも、僕はその時ぎこちなく笑うことしかできなかった。
「ふーん、まぁ頑張れよ。」
ただそう言って、父は部屋を出ていった。
僕は参考書を開き、母の解説を聞きながら問題を解き始める。
母に褒められる為なら、何でもしたい。そしていつか、自慢の兄に追いつきたい。
でもいつも、ある「壁」がそれを阻む。毎回毎回、それで上手くいかなくなる。いつ来るか分からない、だが必ずいつか訪れるその「壁」に、僕はびくびくと恐怖しながら、ページを進める。
そして勉強開始から1時間ほど経って、どれだけ解説されても理解できない部分が出てきた。
ーーーあぁ、まただ。
具体的に、何がわからないのかが分からない。当時の僕には、分からない原因を説明できる語彙力と文章力がなかった。もっとも、説明出来るだけの能力があれば、僕は勉強であんなに苦労する事はなかったが。
同じ解説を繰り返し、次第に曇る母の顔。僕は焦った。
ーーーあぁ、またこの感じか。
焦れば焦るほど、霧を掴むように理解は遠のく。母からの圧力を感じる中、その場で足踏みをしてしまう事が恐ろしくて、終いには理解したフリをして先に進んでみる。しかしそれで上手く行くはずがない。むしろ理解しないままに進んだので更に解けなくなる。
ますます曇る母の表情。冷や汗をかく僕。
ーーー何度これを繰り返せば良いのだろう。
まずいこのままでは。またアレがきてしまう。僕は進まないペンをせわしなく無理矢理動かして、ただ意味のない数字を羅列してみる。だが、当然わからない。参考書を凝視する僕の視界の隅に、隣にいる母のテーブルの上に乗った手が映り、それが僕を更に焦らせる。
失望混じりのため息が聞こえる。心臓がキュッと縮み上がり、体が硬直した。そして遂に、言われてしまうあの言葉。
「おかしいわね。ハジメはすぐに出来たんだけど。」
投げやりに放たれたその言葉に、全身が針で貫かれた様な痛みを感じた。
母がそれをわざと言っていることを、僕は知っている。母はその言葉が僕に効く事を知っている。でも、母はそれで僕を傷つけたいわけじゃない無い。母は僕に頑張ってほしいのだ。頑張って欲しいから、そうして兄の背中をちらつかせている。
ただ問題は、母が「僕がまだ頑張っていないと思っている」事なのだ。僕の精一杯のこの場での努力は、努力として母に認められていないという事だ。僕の頑張りが感じられないから、そうして暗に発破をかけているのだ。
でも僕は目の前の問題を理解しようと額に汗を浮かべ、脳味噌を掻き回す思いで必死に努力している。しかし、そんな僕を冷酷に母は突き放す。「お前よりもハジメの方が優秀だ」と言って。
そんな不条理への悲しさと、ではこれ以上何をすれば良いのかという困惑で、僕はそういう時にどうしようもない無力感に襲われる。そして「あぁ、またか」とこの状況に失望する。
兄は出来ているのに僕は出来ない。僕は頑張っているのに母は認めない。僕は母をがっかりさせている。どうして出来ない。何故頭は理解してくれない。ペンはどうして進まない。何で僕は勉強をしている?あと何度このやり取りを繰り返す?いつになったら母に怒られずに済む?
問題が解けない悔しさや、劣等感や、絶望感、母に再び怒られることへの恐怖がごちゃ混ぜになって注がれていき、みるみる内に溜まっていく。溢れないように、零れないように、そんな感情など無いように、頑張ってはみるものの、結局は我慢出来なくなってしまう。
そうしてまた、僕は泣いてしまった。
表面張力いっぱいのバケツから、ついに水が溢れてしまう様に、抑え込もうとしても涙は溢れてしまう。これで何度目だろうか。「何回やるんだ」「何度も繰り返すな」そんな事を自分に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、僕の涙は止まらなくなっていく。
「もー、また泣いてるの?本当に負けず嫌いね。ホラ、もう一回ここ解いて。」
面倒臭そうにそう言う母。
違う。単に悔しいというだけの単純な感情ではないのだ。本当は「負けず嫌い」という一言で、片付けてほしく無いのだ。でもそれを言語化できる能力も、権限も、僕には無い。
嗚咽しながらも、僕はそれに従いペンを握る。視界が滲み、落ちる涙で問題用紙がくしゃくしゃになっても、関係ない。解かなくては。理解しなくては。努力している姿をもっと見せなくては。また、母に怒られてしまう。また、母に失望されてしまう。
だがそんな状態では、まともに勉強できるはずがない。
そしてまたいつものように、母は黙って立ち上がって部屋から出ていった。こういう時は、僕が落ち着くまで暫く僕に一人で問題を解かせるのだ。
出て行く時の沈黙と、部屋のドアを不機嫌そうに強く閉める音が、何よりも心を抉る。
それらの音に追い立てられるように、溢れる涙を拭いながら、僕は目の前に広げられた難解な文章題を何度も何度も、嗚咽混じりの震えた声で繰り返し口に出して読んだ。そんな事をしても、わからないものはわからないと理解しているのに。
「どうすれば良い」「何をすればわかる」「これをあと何回繰り返せばいい」
止めどなく湧き上がる自問自答は、その答えを得る事なく次々と僕の嗚咽へと変換されていく。
「ここの問題はね、こうやって解くんだよ。」
突然、いつの間にか近くに来ていた兄が、そう言って僕の隣に座った。僕は兄の顔を見る。ゆっくり「大丈夫、大丈夫。」と言って、兄は僕の背中をさすった。背中に触れた温もりが、少しだけ僕の気持ちを落ち着かせる。でも、優しくされた嬉しさと、彼に勝てないでいる自分のやるせなさが混ざり合って、再び僕は涙を流す。それを見て、彼は自分の袖で僕の頬に伝う涙を拭った。
「ほら、見て。ここに書かれてる問題文がポイントだよ。」
優しい口調で淡々と説明をしてくれる兄と、しゃくり上げながらそれを聞いている僕。涙で滲んだ問題文と、無惨に意味もなく書き連ねられた数字の羅列。過呼吸気味でぼんやりとした頭に、入ってこない彼の声。
思い出したくもない、幼い頃の記憶。
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