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3章: 幽子先輩と、僕の話
3-8 狂気のバット投げ(挿絵あり)
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突然の事で、僕はそこで立ち尽くしていた。が、すぐに思い直し、さっきまで杖代わりに使っていた金属バットを思い切り振り上げた。
「おっと!何の為に彼女をこうして捕らえてると思ってるんだ?」
男は幽子先輩を盾にする形で、手に持っているナイフを彼女の首元に近づけた。
「くっ・・・!」
僕は動きを止める。よく見るとその刃には血が付着している。恐らくそのナイフでさっき先輩の脚を刺したのだろう。出て来た時は全く気づかなかったが、どうやら彼は僕たちを待ち伏せしていたようだ。
「君がそんな物騒なものずっと持ち歩いてるからだよ。ふふふ、野球でもするつもりだったのかな?」
「・・・ずっと、僕達を観察していて楽しかったか?」
それを聞いた男は目を見開き、また笑った。
「アハハ!やっぱり君って只者じゃないよねぇ?どうして俺が君たちをずっと観察していたって分かったの?」
カマをかけてみただけだ。この事態が能力者によるものかもしれないと推測を立てた時点で考えていた、犯人の目的の単なる候補のうちの一つだった。だがこうして外に出してもらえたのは運が良かった。あのままトンネルの中に閉じ込められたままだったら、なす術なく僕は死んでいた。
「ずっと見てても、最初こそ取り乱してたものの君はずっと冷静だった。ずっと何かを考えて、このトンネルから抜け出す手立てを考えていたようだった。大抵のやつらは発狂してヒステリックを起こして、仲違いし始めたり、無気力になったりするのに。キミたち、ちょっとおかしいよ。狂ったようにずっと入り口に向かって歩き続けるしさ。」
男は更に首元のナイフを先輩に押し付ける。
「だから、興味が湧いたんだよねぇ。取り敢えずそれ、降ろしなよ。俺は君たちとちょっとお話ししたいと思ってわざわざ来たんだよ。なんせ君達みたいな獲物は初めてだからねぇ。」
「・・・・・・」
先輩を人質に取られている以上、従わざる負えない。僕は大人しく振り上げていたバットを降ろした。
「そうそう、いい子だね。」
満足そうに頷く。余裕そうに見えるが、僕の一挙手一投足に常に注意を払っている。下手な動きはしない方が良いだろう。
「で、君どうしてバットなんか持ってきたの?明らかに何かに警戒してのことだよねぇ。まずはそこから知りたいな。」
さっそく僕は口籠った。なんと返していいものやら。
「それは・・・そこの彼女と出かける度にロクな目に遭わないから、だな。今回もなんか起きると思って一応持ってきたけど、こんな事になるならもっと武器らしいものを持って来れば良かったよ。」
「はぁ?それだけ?」
男は彼女を拘束する力を強めた。先輩は苦しそうな声を上げる。
「じゃあ、今回みたいなことを何回も君達は体験してきたってコト?そんなわけないでしょう。」
予想通りの反応だ。だから正直に言おうか迷ったのだ。下手に嘘だと思われて彼を刺激するようなことは避けたかった。
「今回みたいな事は初めてだけど、危険な目に例外無く遭ってきたのは本当だよ。お前が羽交締めにしてるその女子は災厄を呼び寄せるんだよ。僕だって信じられないけどね。」
「ふーん。信じられないなぁ。」
僕は必死で弁解した。男は幽子先輩の顔を覗き込む。
「でも君も、ずいぶんと冷静だったよね。なんなら、最初笑ってたじゃない?あはは、頭がおかしくなったのかと思ったよ~」
(元からおかしいだけ・・・)
「まぁつまり、この女の子と一緒にいると危険な目に遭うから、君はあんな状況でもそれなりに冷静でいられたし、この子も冷静だったって事だね?」
どうやらこの男は、他にも自分のような特殊な能力を持った者の存在を知らないようだ。僕がそこそこ冷静でいられたのはそれを知っているからというのが最も大きな要因だったが、それを今先輩がいる目の前では正直に言えない。
「なるほど~、ウンウン・・・。よくわからないけど、まぁ分かったかな。」
男は納得したように1人頷き、僕の方に向き直った。
恐らく、この男は自分の支配欲と強い好奇心だけで動いている。わざわざ疲れ果てた僕達を待ち伏せし、抵抗されても問題なさそうな彼女の方を選んでそれを更に用心深く傷つけ、丁寧に人質まで取って僕達との対話を求めたのがその証拠だ。そこまで慎重な性格をしているのにそうまでして、彼は僕達に抱いた好奇心を解消しようとしたのだ。
そして、その好奇心がある程度満たされたという事は、と僕は嫌な予感がした。
「ま、中々楽しかったよ君達。でももう『飽きた』かな。それじゃ・・・」
そう言ってナイフを先輩の首元に食い込ませる。このままでは、彼女は死ぬ。
そう、思ったのだがーーー
僕は見てしまった。
「アハハハハハハハハハハ!!!」
「ーーー!?」
突然笑い出した僕に、男は動きを止めた。
「・・・はは、どうしたの、急に。頭おかしくなっちゃった?それとも小賢しい時間稼ぎかな。」
そんなつもりはない、と僕は首を振るが、抑えきれずまた笑ってしまう。今までの緊張からの反動で、笑いが止まらなくなってしまっている。僕は文字通り、お腹を抱えてまた大笑いした。
僕は男の注意を引きたくて、わざと笑ったのではない。兎に角この状況がおかしくって堪らなくなって、思わず笑ってしまったのだ。本来なら笑えない状況だが、僕は笑わざるおえなかった。「あんなもの」を見ては。
ーーーあぁダメだ。気が狂いそうだ。
此処はまさに、狂気の沙汰だ。
「頭?ああ、確かにおかしいな。僕もお前も。おかしくって可笑しくって、しょうがないよ!」
笑い過ぎて酸欠で、頭がぼんやりする。思考がうまくまとまらない。でも不思議と、悪い気分じゃない。
「でもって、そこの女も凄くおかしい!」
面白くてしょうがない。だってーーー
「ーーー見てみろよ、その女の顔!」
僕は指差す。再度、男は羽交締めにしている彼女の顔を覗き込んだ。彼は目を見開く。
「ーーー・・・おまえっ、なんで笑って・・・」
彼女は、こんな状況でもずっと笑っていた。脚を刺され、見知らぬ男に拘束され、首元にナイフが食い込んで尚、音無幽子は口の両端を吊り上げて笑っていたのだ。ニヤニヤと、まるで楽しいという感情が抑えきれず顔に出てきてしまったかのような、不気味な笑み。それを見て、僕も釣られて笑ってしまった。とにかくこの状況は狂ってる。加害者も被害者も、狂っている奴しかいない。何もかもが混沌だ。笑わずにはいられない程に。
なんだかもう、どうでも良くなってしまった。
僕は、降ろしていたバットを握り直し、男の顔「付近」に目掛けておもいきりぶん投げた。
「ーーーーーーなっ・・・!」
ぐるぐると回転しながら2人に向かって飛ぶ金属バット。月光の光を反射しながら直線の放物線を描く。
突然のことに驚き目を見開く男。
幽子先輩はその飛んでくるバットの軌道から、さっと頭を逸らす。そしてちょうど躱したタイミングで、バットは男の顔面を真芯で捉えた。
鈍い金属音が夜の山中に響いた。
「が・・・あぁ・・・!」
彼女を思わず手放した男は、鼻血を流しながら両手で顔を覆い痛みに悶える。僕はその一瞬の隙を見逃さない。
男に向かって迅速に間合いを詰めた僕は、鋭く息を吐き、彼の顔面めがけて渾身の右ストレートを放った。
白川コウの一件を乗り越えてから、僕は一つ学習した事がある。
会話ができるやつより、会話ができないやつの方が何倍も怖い。
そんな相手と対峙した僕は、一つの恐怖を乗り越えていた。相手が獣で無く人であるなら、僕は戦える。あの猛獣に比べれば、この男は恐れるに足らない。何より今僕の脳は、先ほど大笑いしたことにより分泌されたアドレナリンで水浸しだ。とにかく今は、とてつもなく気分が良い。今はただ、狂気に身を浸していたい。
僕のパンチを喰らった男は、少しよろめいたが、未だ倒れるには至っていない。やはり体力を削った今の僕の突きでは、人1人をノックアウトするに足る威力を出す事は出来ない。
それならば、と僕は奴の股間目掛けて脚を思い切り蹴り上げた。ぐにゃり、と柔らかい感触を右脛に感じる。股下からの衝撃で、彼の体は少し宙に浮いた。
「はぅぅ・・・!!」
男は情けない声を上げてその場にうずくまった。
金的蹴りというのは、どれだけ身体を鍛えた一流の格闘家でも、まともに喰らえば耐えることはできない。無論、使った方は反則負けだが、まともに貰った格闘家は強烈な苦しみに襲われそのまま試合が続行不可能になる程だ。
地面に丸くなり、苦痛に悶えながらも、歯を食いしばり僕を睨みつける男。
「虫如きが・・・クソ・・・殺してやる・・・!」
ーーーまだだ。まだ彼には意識がある。手にはナイフが握られている。目にはまだ敵意がある。完全に彼の意識を奪わなくては。
僕は彼の元にゆっくりと歩み寄り、そして彼の顔面を思い切り踏みつけた。
「ぐぅ・・・!」
鈍い音。しかしまだ彼には意識がある。更に追撃を加える。
「がっ・・・」
まだ意識がある。更に僕は彼の頭部に蹴りを加える。
「うぅ・・・」
まだだ。反撃される可能性がある。
「・・・・・・」
僕は彼の頭部を踏みつけ続ける。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
次第に踏みつける度に感触が変わって来る。最初は硬かったものが、少しずつ柔らかく。だが構わない。僕の呼吸は荒くなる。頬は上気する。しょうがない。これはしょうがない。楽しくてしょうがない。彼が起き上がって来れば、再び僕達は危険にさらされるのだから。
「ははっ、死ね。」
口角が吊り上がる。夢中で脚を振り上げ、気づくと僕はそう呟いていた。
「もういいっ!!」
突然の声に、はっと我に帰った。
幽子先輩の声だった。地面に横たわり、足を抑え、脂汗を滲ませ苦痛に顔を歪めながら僕を見つめている。
「ーーーもういい。それ以上は、殺してしまうよ。」
僕は再び男を見下ろした。彼は完全に気を失っているようだ。頭部からは僅かだが血も流れている。
冷静になり、微塵も身動きせずうつ伏せになっている男を見て、波が引くように狂気が急速に薄れていった。そしてそれと同時に、今まで感じてきた恐怖とは別の種類の恐怖に僕は襲われた。
確実に、僕は今人を殺そうとしていた。笑いながら、頭の中にある甘美な暴力的思考に流されるまま、彼の頭を踏みつけ続けた。
ーーー楽しかった。
その事実が、僕を恐怖に凍り付かせる。これでは、まるで僕の足元で気を失っているこの狂人と、全く同じではないか。僕はただ、身を守る為に暴力を行使したのに、いつの間にか目的は入れ替わっていた。まるで僕の中の何かに、突然スイッチが入ったように。
自分の靴元が、血で塗れているように見えた。
「帰ろう。」
気づくと先輩がいつの間にかすぐ後ろに立っていた。脚を引きずり、その脚からは大量の血を流している。血色もかなり悪い。まずは救急車を呼んで彼女を助けなくては。このままでは彼女は失血死してしまう。
僕は少し離れたところに転がっていたバットを彼女に手渡した。芯の部分は先ほどの攻撃でやや凹んでいる。
「・・・取り敢えず簡易的に止血した後、救急車がこれる道まで出ましょう。それまで先輩、我慢してください。」
彼女に肩を貸し、僕達は山道をゆっくり下る。夏の夜の山中は虫やら鳥やらの鳴き声で、五月蝿いぐらいに賑やかだ。トンネルから出た時は、清々しく感じたこの山の空気も、今はただの湿気を帯びた熱帯夜の空気としか感じられない。とにかく蒸し暑くて、湿気と汗で服が体に張り付くのが不愉快である。
片手で彼女を支え、もう片方の袖で額の汗を拭った。
「それにしても、さっきは酷いじゃないか。私に向かってバットを投げつけるなんて。溜まりに溜まった鬱憤があのバットの投擲に篭っていたように感じたよ。」
彼女は僕を見た。
「違います。僕はあの男に向かって投げたんです。先輩に向かって投げたわけじゃないです。」
本当かねぇ、と先輩は笑う。
「・・・先輩って、イカれてますね。もう僕、2度と先輩の誘いに乗りませんから。絶交ですから。マジで。」
彼女はトンネルでも、男に羽交締めされていた時も、こうして今のように笑っていた。とても先ほど脚をナイフで刺された人間とは思えない。いい加減もう、彼女の笑顔を見るのはうんざりだ。
「あはは。もう大丈夫だよ。誘ったりしないさ。」
バットで体を支え、脚を引きずりながら彼女は答える。本当かよ、と僕は内心呟いた。次第に僕達は道に近づく。
近づく救急車のサイレンの音が、暗い夜の山中にこだましていた。その音を聞いたことによる安心感と共に、この先のことを考えて気が重くなる。警察への説明もそうだが、どうせまたその時に両親を呼び出されるだろう。それが何よりも、僕にとっての苦痛だ。なんと言って説明すれば良い。まったく本当に、彼女の誘いに乗るとロクな目に遭わない。
「もう・・・誘わない・・・二度とね・・・。」
もうすぐ道に出られるという時、僕に支えられる先輩は、うわ言のようにそう呟き、そして気を失ってしまった。
「先輩・・・?幽子先輩!」
からん、と彼女の手に握られていた金属バットが、音を立てて地面に横たわった。
「おっと!何の為に彼女をこうして捕らえてると思ってるんだ?」
男は幽子先輩を盾にする形で、手に持っているナイフを彼女の首元に近づけた。
「くっ・・・!」
僕は動きを止める。よく見るとその刃には血が付着している。恐らくそのナイフでさっき先輩の脚を刺したのだろう。出て来た時は全く気づかなかったが、どうやら彼は僕たちを待ち伏せしていたようだ。
「君がそんな物騒なものずっと持ち歩いてるからだよ。ふふふ、野球でもするつもりだったのかな?」
「・・・ずっと、僕達を観察していて楽しかったか?」
それを聞いた男は目を見開き、また笑った。
「アハハ!やっぱり君って只者じゃないよねぇ?どうして俺が君たちをずっと観察していたって分かったの?」
カマをかけてみただけだ。この事態が能力者によるものかもしれないと推測を立てた時点で考えていた、犯人の目的の単なる候補のうちの一つだった。だがこうして外に出してもらえたのは運が良かった。あのままトンネルの中に閉じ込められたままだったら、なす術なく僕は死んでいた。
「ずっと見てても、最初こそ取り乱してたものの君はずっと冷静だった。ずっと何かを考えて、このトンネルから抜け出す手立てを考えていたようだった。大抵のやつらは発狂してヒステリックを起こして、仲違いし始めたり、無気力になったりするのに。キミたち、ちょっとおかしいよ。狂ったようにずっと入り口に向かって歩き続けるしさ。」
男は更に首元のナイフを先輩に押し付ける。
「だから、興味が湧いたんだよねぇ。取り敢えずそれ、降ろしなよ。俺は君たちとちょっとお話ししたいと思ってわざわざ来たんだよ。なんせ君達みたいな獲物は初めてだからねぇ。」
「・・・・・・」
先輩を人質に取られている以上、従わざる負えない。僕は大人しく振り上げていたバットを降ろした。
「そうそう、いい子だね。」
満足そうに頷く。余裕そうに見えるが、僕の一挙手一投足に常に注意を払っている。下手な動きはしない方が良いだろう。
「で、君どうしてバットなんか持ってきたの?明らかに何かに警戒してのことだよねぇ。まずはそこから知りたいな。」
さっそく僕は口籠った。なんと返していいものやら。
「それは・・・そこの彼女と出かける度にロクな目に遭わないから、だな。今回もなんか起きると思って一応持ってきたけど、こんな事になるならもっと武器らしいものを持って来れば良かったよ。」
「はぁ?それだけ?」
男は彼女を拘束する力を強めた。先輩は苦しそうな声を上げる。
「じゃあ、今回みたいなことを何回も君達は体験してきたってコト?そんなわけないでしょう。」
予想通りの反応だ。だから正直に言おうか迷ったのだ。下手に嘘だと思われて彼を刺激するようなことは避けたかった。
「今回みたいな事は初めてだけど、危険な目に例外無く遭ってきたのは本当だよ。お前が羽交締めにしてるその女子は災厄を呼び寄せるんだよ。僕だって信じられないけどね。」
「ふーん。信じられないなぁ。」
僕は必死で弁解した。男は幽子先輩の顔を覗き込む。
「でも君も、ずいぶんと冷静だったよね。なんなら、最初笑ってたじゃない?あはは、頭がおかしくなったのかと思ったよ~」
(元からおかしいだけ・・・)
「まぁつまり、この女の子と一緒にいると危険な目に遭うから、君はあんな状況でもそれなりに冷静でいられたし、この子も冷静だったって事だね?」
どうやらこの男は、他にも自分のような特殊な能力を持った者の存在を知らないようだ。僕がそこそこ冷静でいられたのはそれを知っているからというのが最も大きな要因だったが、それを今先輩がいる目の前では正直に言えない。
「なるほど~、ウンウン・・・。よくわからないけど、まぁ分かったかな。」
男は納得したように1人頷き、僕の方に向き直った。
恐らく、この男は自分の支配欲と強い好奇心だけで動いている。わざわざ疲れ果てた僕達を待ち伏せし、抵抗されても問題なさそうな彼女の方を選んでそれを更に用心深く傷つけ、丁寧に人質まで取って僕達との対話を求めたのがその証拠だ。そこまで慎重な性格をしているのにそうまでして、彼は僕達に抱いた好奇心を解消しようとしたのだ。
そして、その好奇心がある程度満たされたという事は、と僕は嫌な予感がした。
「ま、中々楽しかったよ君達。でももう『飽きた』かな。それじゃ・・・」
そう言ってナイフを先輩の首元に食い込ませる。このままでは、彼女は死ぬ。
そう、思ったのだがーーー
僕は見てしまった。
「アハハハハハハハハハハ!!!」
「ーーー!?」
突然笑い出した僕に、男は動きを止めた。
「・・・はは、どうしたの、急に。頭おかしくなっちゃった?それとも小賢しい時間稼ぎかな。」
そんなつもりはない、と僕は首を振るが、抑えきれずまた笑ってしまう。今までの緊張からの反動で、笑いが止まらなくなってしまっている。僕は文字通り、お腹を抱えてまた大笑いした。
僕は男の注意を引きたくて、わざと笑ったのではない。兎に角この状況がおかしくって堪らなくなって、思わず笑ってしまったのだ。本来なら笑えない状況だが、僕は笑わざるおえなかった。「あんなもの」を見ては。
ーーーあぁダメだ。気が狂いそうだ。
此処はまさに、狂気の沙汰だ。
「頭?ああ、確かにおかしいな。僕もお前も。おかしくって可笑しくって、しょうがないよ!」
笑い過ぎて酸欠で、頭がぼんやりする。思考がうまくまとまらない。でも不思議と、悪い気分じゃない。
「でもって、そこの女も凄くおかしい!」
面白くてしょうがない。だってーーー
「ーーー見てみろよ、その女の顔!」
僕は指差す。再度、男は羽交締めにしている彼女の顔を覗き込んだ。彼は目を見開く。
「ーーー・・・おまえっ、なんで笑って・・・」
彼女は、こんな状況でもずっと笑っていた。脚を刺され、見知らぬ男に拘束され、首元にナイフが食い込んで尚、音無幽子は口の両端を吊り上げて笑っていたのだ。ニヤニヤと、まるで楽しいという感情が抑えきれず顔に出てきてしまったかのような、不気味な笑み。それを見て、僕も釣られて笑ってしまった。とにかくこの状況は狂ってる。加害者も被害者も、狂っている奴しかいない。何もかもが混沌だ。笑わずにはいられない程に。
なんだかもう、どうでも良くなってしまった。
僕は、降ろしていたバットを握り直し、男の顔「付近」に目掛けておもいきりぶん投げた。
「ーーーーーーなっ・・・!」
ぐるぐると回転しながら2人に向かって飛ぶ金属バット。月光の光を反射しながら直線の放物線を描く。
突然のことに驚き目を見開く男。
幽子先輩はその飛んでくるバットの軌道から、さっと頭を逸らす。そしてちょうど躱したタイミングで、バットは男の顔面を真芯で捉えた。
鈍い金属音が夜の山中に響いた。
「が・・・あぁ・・・!」
彼女を思わず手放した男は、鼻血を流しながら両手で顔を覆い痛みに悶える。僕はその一瞬の隙を見逃さない。
男に向かって迅速に間合いを詰めた僕は、鋭く息を吐き、彼の顔面めがけて渾身の右ストレートを放った。
白川コウの一件を乗り越えてから、僕は一つ学習した事がある。
会話ができるやつより、会話ができないやつの方が何倍も怖い。
そんな相手と対峙した僕は、一つの恐怖を乗り越えていた。相手が獣で無く人であるなら、僕は戦える。あの猛獣に比べれば、この男は恐れるに足らない。何より今僕の脳は、先ほど大笑いしたことにより分泌されたアドレナリンで水浸しだ。とにかく今は、とてつもなく気分が良い。今はただ、狂気に身を浸していたい。
僕のパンチを喰らった男は、少しよろめいたが、未だ倒れるには至っていない。やはり体力を削った今の僕の突きでは、人1人をノックアウトするに足る威力を出す事は出来ない。
それならば、と僕は奴の股間目掛けて脚を思い切り蹴り上げた。ぐにゃり、と柔らかい感触を右脛に感じる。股下からの衝撃で、彼の体は少し宙に浮いた。
「はぅぅ・・・!!」
男は情けない声を上げてその場にうずくまった。
金的蹴りというのは、どれだけ身体を鍛えた一流の格闘家でも、まともに喰らえば耐えることはできない。無論、使った方は反則負けだが、まともに貰った格闘家は強烈な苦しみに襲われそのまま試合が続行不可能になる程だ。
地面に丸くなり、苦痛に悶えながらも、歯を食いしばり僕を睨みつける男。
「虫如きが・・・クソ・・・殺してやる・・・!」
ーーーまだだ。まだ彼には意識がある。手にはナイフが握られている。目にはまだ敵意がある。完全に彼の意識を奪わなくては。
僕は彼の元にゆっくりと歩み寄り、そして彼の顔面を思い切り踏みつけた。
「ぐぅ・・・!」
鈍い音。しかしまだ彼には意識がある。更に追撃を加える。
「がっ・・・」
まだ意識がある。更に僕は彼の頭部に蹴りを加える。
「うぅ・・・」
まだだ。反撃される可能性がある。
「・・・・・・」
僕は彼の頭部を踏みつけ続ける。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
次第に踏みつける度に感触が変わって来る。最初は硬かったものが、少しずつ柔らかく。だが構わない。僕の呼吸は荒くなる。頬は上気する。しょうがない。これはしょうがない。楽しくてしょうがない。彼が起き上がって来れば、再び僕達は危険にさらされるのだから。
「ははっ、死ね。」
口角が吊り上がる。夢中で脚を振り上げ、気づくと僕はそう呟いていた。
「もういいっ!!」
突然の声に、はっと我に帰った。
幽子先輩の声だった。地面に横たわり、足を抑え、脂汗を滲ませ苦痛に顔を歪めながら僕を見つめている。
「ーーーもういい。それ以上は、殺してしまうよ。」
僕は再び男を見下ろした。彼は完全に気を失っているようだ。頭部からは僅かだが血も流れている。
冷静になり、微塵も身動きせずうつ伏せになっている男を見て、波が引くように狂気が急速に薄れていった。そしてそれと同時に、今まで感じてきた恐怖とは別の種類の恐怖に僕は襲われた。
確実に、僕は今人を殺そうとしていた。笑いながら、頭の中にある甘美な暴力的思考に流されるまま、彼の頭を踏みつけ続けた。
ーーー楽しかった。
その事実が、僕を恐怖に凍り付かせる。これでは、まるで僕の足元で気を失っているこの狂人と、全く同じではないか。僕はただ、身を守る為に暴力を行使したのに、いつの間にか目的は入れ替わっていた。まるで僕の中の何かに、突然スイッチが入ったように。
自分の靴元が、血で塗れているように見えた。
「帰ろう。」
気づくと先輩がいつの間にかすぐ後ろに立っていた。脚を引きずり、その脚からは大量の血を流している。血色もかなり悪い。まずは救急車を呼んで彼女を助けなくては。このままでは彼女は失血死してしまう。
僕は少し離れたところに転がっていたバットを彼女に手渡した。芯の部分は先ほどの攻撃でやや凹んでいる。
「・・・取り敢えず簡易的に止血した後、救急車がこれる道まで出ましょう。それまで先輩、我慢してください。」
彼女に肩を貸し、僕達は山道をゆっくり下る。夏の夜の山中は虫やら鳥やらの鳴き声で、五月蝿いぐらいに賑やかだ。トンネルから出た時は、清々しく感じたこの山の空気も、今はただの湿気を帯びた熱帯夜の空気としか感じられない。とにかく蒸し暑くて、湿気と汗で服が体に張り付くのが不愉快である。
片手で彼女を支え、もう片方の袖で額の汗を拭った。
「それにしても、さっきは酷いじゃないか。私に向かってバットを投げつけるなんて。溜まりに溜まった鬱憤があのバットの投擲に篭っていたように感じたよ。」
彼女は僕を見た。
「違います。僕はあの男に向かって投げたんです。先輩に向かって投げたわけじゃないです。」
本当かねぇ、と先輩は笑う。
「・・・先輩って、イカれてますね。もう僕、2度と先輩の誘いに乗りませんから。絶交ですから。マジで。」
彼女はトンネルでも、男に羽交締めされていた時も、こうして今のように笑っていた。とても先ほど脚をナイフで刺された人間とは思えない。いい加減もう、彼女の笑顔を見るのはうんざりだ。
「あはは。もう大丈夫だよ。誘ったりしないさ。」
バットで体を支え、脚を引きずりながら彼女は答える。本当かよ、と僕は内心呟いた。次第に僕達は道に近づく。
近づく救急車のサイレンの音が、暗い夜の山中にこだましていた。その音を聞いたことによる安心感と共に、この先のことを考えて気が重くなる。警察への説明もそうだが、どうせまたその時に両親を呼び出されるだろう。それが何よりも、僕にとっての苦痛だ。なんと言って説明すれば良い。まったく本当に、彼女の誘いに乗るとロクな目に遭わない。
「もう・・・誘わない・・・二度とね・・・。」
もうすぐ道に出られるという時、僕に支えられる先輩は、うわ言のようにそう呟き、そして気を失ってしまった。
「先輩・・・?幽子先輩!」
からん、と彼女の手に握られていた金属バットが、音を立てて地面に横たわった。
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