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「お嬢様。お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
三回のノックと形式的な呼びかけ。それはまだあの冷たい牢獄に入る前、まだアリアが恵まれた暮らしを送れていたときの朝の始まりだった。
「どう、して…?」
アリアは体を起こした状態で自分の眼前に広がる光景を信じられずにいた。とうとう自分が狂ったのかとも考えた。
自分は先ほど、確実に元従者に殺されたはずだ。心臓を一突きにされて。しかし、胸元に手を当ててもあの血に濡れた感覚はなく、ほのかに心臓の鼓動が感じられた。
「どうして?都合のいい夢でも見ているの…?」
それならば、これ以上にない幸福だとアリアは思った。死にたくない、生きていたい。今わの際の願いを神が叶えたのだろうか。ほのかに感じる優しい鼓動と、自分から感じられる人間のぬくもりに、アリアはぽろぽろと自分の瞳からとめどなく溢れる涙をぬぐうこともせずにただ茫然と虚空を見つめた。
自分は生きているのだろうか、それとも死んだ後に夢でも見ているのだろうか、それすらもわからずアリアはただナイフも刺さっていない胸が痛むのをどうすることもできなかった。
「お嬢様?…お嬢様!どうかなされましたか!!?」
「おい、お嬢の部屋の前で何騒いでんだ?」
「ヴィノス!お嬢様が何も反応を返さないのです。こんなこと…今の一度だって…」
普段ならすぐに返答を返してくれるアリアの反応がない事を不審に思ったメイドが悲鳴に似た叫び声をあげる。
すると、その声を聞きつけたのか、アリアの命を終わらせた男の声が聞こえてきた。
アリアはその声に反応するかのように視線を声のするドアに向ける。
「はぁ?お嬢が?おい、お嬢!聞こえてんなら返事しろ!」
ドンドンと荒々しいノックが聞こえるが、アリアは声を出そうとしてもかすれた息しか出てこない。自分の命を奪った人間を本能的に恐れているのか、アリアの心拍数は異様なほどに早くなっていく。そんなアリアの状況を知らないのか、ノックはどんどん荒々しくなっていく。そしてとうとう、開けるぞという声とともに扉が開けられた。
「…?なんだ、起きてんじゃん。なら返事くらいしろよな。」
「ヴィノス!お嬢様になんて口のきき方をしているの!…お嬢様、どこかご加減でもお悪いのですか?」
メイドは早々にアリアに駆け寄ってきて、アリアの身を案ずるように背に手を添える。優しくポケットからハンカチを取り出してアリアの頬に流れる涙を拭ってくれて、一方ヴィノスは目の前に立って覗き込むようにアリアの顔を不躾に見る。その探るような視線が居心地悪く、アリアはそっと視線を外す。
「な、んでもないわ…水を、貰えるかしら…」
「…わかりました。少々お待ちください。」
メイドはアリアの指示通り、部屋に備え付けてあるポットからカップに水を注ぎ、アリアに渡した。それを受けとり水を飲むと、混乱しているアリアの頭の中が少し整理がついた。水を飲む感覚も、手に伝わるカップの重みも何もかもが生前と変わらない。
「…変なことを聞くようだけれど、ヴィノス。今日は何日かしら?」
「ん?15日だけど…?本当にどうしたお嬢。昨日は入学式だなんだって騒いでただろ。」
「…入学式。」
入学式、15日、その言葉から思いつくのはアリアが狂った原因であるリリーとであう高等学園の入学式の日だ。
「つまり、私は15歳…?」
「な~に今更なこと言ってんだ?お嬢気でも狂ったのか?」
気でも狂った、もしかしたらそうなのかもしれない。そうでもないと説明のつかない状況だ。時を遡ってしまうだなんて。
でも、それならばと思考をすぐに切り替える。アリア・クラレンスは死んだ。間違いなく、今自分の目の前にいるヴィノスの手によって。でも、まるで神が最後のチャンスというように時間を遡ったのだ。それならば、夢でも、狂気でもどちらでもいい。今度は絶対に死なないように、前回のような過ちだけは犯さないように。
「死ななければ、どうでもいい。生きていられるだけで…」
アリアは静かに決心を固めた。しかしそれは小さな呟きだったからか、メイドは何も反応しない。ただ泣いていたアリアの心配だけをしていた。アリアはベッドの上から動かず、ヴィノスは何かを思案するように何もしゃべらない。その空間が居心地悪いのか、あわあわと右往左往している。
そういえば、このころはまだ従者たちも自分に優しくしていてくれたな、とアリアは思った。優しかった従者たちが当たり前となっていて、前回のアリアは気が付かなかった。ただ愛した人しか見ていなくて、嫉妬と欲に狂って人の道を違えて、気づけば何もなくなっていた。
「お嬢様、体調がお悪いのでしたら、入学式など行かなくてもよろしいのではないのでしょうか…」
「いいえ、そんなわけにはいかないわ。それにもう大丈夫よ。心配かけてごめんなさい、ミーシャ。」
メイドにそう伝えれば、メイドは心底驚いたような顔をした。何かおかしなことでも言ったかと、首を傾げれば、ヴィノスがクスクスと笑った。いったいなんなんだとヴィノスに視線を向ければ、ヴィノスは咳払いをする。
「ヴィノス、私は何かおかしなことを言ったかしら?」
「あぁいったな。お嬢は今まで俺以外の使用人の名前なんて呼んだことなかったじゃねぇか。」
言われてみればそうだったと、アリアは思った。確かに前回では、名前は憶えていてもその名前を口に出すことは、その人物を解雇するときのみだった。そんなアリアが本人の名前を呼んで、しかも謝罪を述べたということは何も知らないメイドやヴィノスにとっては大変珍しく、アリアらしからぬ行動だった。
メイドはやっと混乱から落ち着いたのか、今度はひどく嬉しそうな顔でヴィノスを見る。
「ほら見なさい。貴方でなくてもお嬢様は名前を呼んでくれるのよ。」
「あーうるせぇ、はいはいよかったな。」
このメイド、ミーシャは前々からアリアに名前を呼ばれるヴィノスに嫉妬していた。年齢も近いことからずるいずるいと事あるごとに伝いていたのだ。自分の仕える美しき令嬢の事をミーシャは自慢に思うと同時にあこがれの的であるのだ。
「ミーシャ、このままでは入学式に遅刻してしまうわ。着替えを手伝ってくれない?」
「はい!もちろんですお嬢様!!ヴィノス。貴方は出ていきなさい。」
「わかってるって。」
アリアは目の前で繰り広げられる、もう手に入らないと思っていた平和な日常に対して、安心したように息を吐き出した。
三回のノックと形式的な呼びかけ。それはまだあの冷たい牢獄に入る前、まだアリアが恵まれた暮らしを送れていたときの朝の始まりだった。
「どう、して…?」
アリアは体を起こした状態で自分の眼前に広がる光景を信じられずにいた。とうとう自分が狂ったのかとも考えた。
自分は先ほど、確実に元従者に殺されたはずだ。心臓を一突きにされて。しかし、胸元に手を当ててもあの血に濡れた感覚はなく、ほのかに心臓の鼓動が感じられた。
「どうして?都合のいい夢でも見ているの…?」
それならば、これ以上にない幸福だとアリアは思った。死にたくない、生きていたい。今わの際の願いを神が叶えたのだろうか。ほのかに感じる優しい鼓動と、自分から感じられる人間のぬくもりに、アリアはぽろぽろと自分の瞳からとめどなく溢れる涙をぬぐうこともせずにただ茫然と虚空を見つめた。
自分は生きているのだろうか、それとも死んだ後に夢でも見ているのだろうか、それすらもわからずアリアはただナイフも刺さっていない胸が痛むのをどうすることもできなかった。
「お嬢様?…お嬢様!どうかなされましたか!!?」
「おい、お嬢の部屋の前で何騒いでんだ?」
「ヴィノス!お嬢様が何も反応を返さないのです。こんなこと…今の一度だって…」
普段ならすぐに返答を返してくれるアリアの反応がない事を不審に思ったメイドが悲鳴に似た叫び声をあげる。
すると、その声を聞きつけたのか、アリアの命を終わらせた男の声が聞こえてきた。
アリアはその声に反応するかのように視線を声のするドアに向ける。
「はぁ?お嬢が?おい、お嬢!聞こえてんなら返事しろ!」
ドンドンと荒々しいノックが聞こえるが、アリアは声を出そうとしてもかすれた息しか出てこない。自分の命を奪った人間を本能的に恐れているのか、アリアの心拍数は異様なほどに早くなっていく。そんなアリアの状況を知らないのか、ノックはどんどん荒々しくなっていく。そしてとうとう、開けるぞという声とともに扉が開けられた。
「…?なんだ、起きてんじゃん。なら返事くらいしろよな。」
「ヴィノス!お嬢様になんて口のきき方をしているの!…お嬢様、どこかご加減でもお悪いのですか?」
メイドは早々にアリアに駆け寄ってきて、アリアの身を案ずるように背に手を添える。優しくポケットからハンカチを取り出してアリアの頬に流れる涙を拭ってくれて、一方ヴィノスは目の前に立って覗き込むようにアリアの顔を不躾に見る。その探るような視線が居心地悪く、アリアはそっと視線を外す。
「な、んでもないわ…水を、貰えるかしら…」
「…わかりました。少々お待ちください。」
メイドはアリアの指示通り、部屋に備え付けてあるポットからカップに水を注ぎ、アリアに渡した。それを受けとり水を飲むと、混乱しているアリアの頭の中が少し整理がついた。水を飲む感覚も、手に伝わるカップの重みも何もかもが生前と変わらない。
「…変なことを聞くようだけれど、ヴィノス。今日は何日かしら?」
「ん?15日だけど…?本当にどうしたお嬢。昨日は入学式だなんだって騒いでただろ。」
「…入学式。」
入学式、15日、その言葉から思いつくのはアリアが狂った原因であるリリーとであう高等学園の入学式の日だ。
「つまり、私は15歳…?」
「な~に今更なこと言ってんだ?お嬢気でも狂ったのか?」
気でも狂った、もしかしたらそうなのかもしれない。そうでもないと説明のつかない状況だ。時を遡ってしまうだなんて。
でも、それならばと思考をすぐに切り替える。アリア・クラレンスは死んだ。間違いなく、今自分の目の前にいるヴィノスの手によって。でも、まるで神が最後のチャンスというように時間を遡ったのだ。それならば、夢でも、狂気でもどちらでもいい。今度は絶対に死なないように、前回のような過ちだけは犯さないように。
「死ななければ、どうでもいい。生きていられるだけで…」
アリアは静かに決心を固めた。しかしそれは小さな呟きだったからか、メイドは何も反応しない。ただ泣いていたアリアの心配だけをしていた。アリアはベッドの上から動かず、ヴィノスは何かを思案するように何もしゃべらない。その空間が居心地悪いのか、あわあわと右往左往している。
そういえば、このころはまだ従者たちも自分に優しくしていてくれたな、とアリアは思った。優しかった従者たちが当たり前となっていて、前回のアリアは気が付かなかった。ただ愛した人しか見ていなくて、嫉妬と欲に狂って人の道を違えて、気づけば何もなくなっていた。
「お嬢様、体調がお悪いのでしたら、入学式など行かなくてもよろしいのではないのでしょうか…」
「いいえ、そんなわけにはいかないわ。それにもう大丈夫よ。心配かけてごめんなさい、ミーシャ。」
メイドにそう伝えれば、メイドは心底驚いたような顔をした。何かおかしなことでも言ったかと、首を傾げれば、ヴィノスがクスクスと笑った。いったいなんなんだとヴィノスに視線を向ければ、ヴィノスは咳払いをする。
「ヴィノス、私は何かおかしなことを言ったかしら?」
「あぁいったな。お嬢は今まで俺以外の使用人の名前なんて呼んだことなかったじゃねぇか。」
言われてみればそうだったと、アリアは思った。確かに前回では、名前は憶えていてもその名前を口に出すことは、その人物を解雇するときのみだった。そんなアリアが本人の名前を呼んで、しかも謝罪を述べたということは何も知らないメイドやヴィノスにとっては大変珍しく、アリアらしからぬ行動だった。
メイドはやっと混乱から落ち着いたのか、今度はひどく嬉しそうな顔でヴィノスを見る。
「ほら見なさい。貴方でなくてもお嬢様は名前を呼んでくれるのよ。」
「あーうるせぇ、はいはいよかったな。」
このメイド、ミーシャは前々からアリアに名前を呼ばれるヴィノスに嫉妬していた。年齢も近いことからずるいずるいと事あるごとに伝いていたのだ。自分の仕える美しき令嬢の事をミーシャは自慢に思うと同時にあこがれの的であるのだ。
「ミーシャ、このままでは入学式に遅刻してしまうわ。着替えを手伝ってくれない?」
「はい!もちろんですお嬢様!!ヴィノス。貴方は出ていきなさい。」
「わかってるって。」
アリアは目の前で繰り広げられる、もう手に入らないと思っていた平和な日常に対して、安心したように息を吐き出した。
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