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#19 戦う気持ち
しおりを挟む一郎太が死んだ。
やってきた侍所の所員から聞かされて一日が過ぎ、二日が過ぎた。遺体に対面していないからだろうか、いまいちアバルはその実感を得られないでいる。理由は遺体の損傷がひどいためで、遺族にも許されなかったそうだ。他の殉職者とともに専用の墓地に埋葬されたと聞く。
「一郎さん、一郎太が、死んじゃったよ」
一郎太になついていた子どもたちがようやく泣きつかれて眠ってくれたのでアバルも眠ろうかと思ったが眠ることができない。喉の渇きのせいかと思い水を求めたが失敗だった。いよいよ目が覚めてしまい、アバルは一の堂に向かう。一郎さんの欠片の入っている壺の前に腰をすとんと下ろした。
「会ってないからかな、死んだって言われてもなんか全然実感わかなくて。涙が全然出てこないんだ。俺、薄情だよな……」
当たり前だが一郎さんからの返答はない。だが、今はむしろそれがありがたかった。アバルは壺に寄りかかるようにして吐き出す。
「俺がもっと早く一郎太にアザゼルの話をしていたら……!」
「『していたら死なずに済んだと? 笑わせる』」
例によってお堂の扉は閉じたままだ。そんな予感はあったのだが、よりにもよってどうして今という思いがアバルの口をついた。須王の姿をした悪魔を、アバルは嘲笑する。
「最近はずいぶんおとなしくなってたじゃんか。須王が使ってたあれもおまえのだろ、自分が本体だなんだ言ってて、実はやばかったのはおまえの方だったってオチ?」
「『ふん、元気そうではないか。その程度の稚拙な挑発でいちいち腹を立てるほど、オレは気短でも小物でもないぞ』」
アザゼルをわざと怒らせて自分はこの悪魔にどうされたかったのだろう。ともかくもアバルのたくらみは失敗した。アザゼルはつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。みっともなく逆上するさまを嗤ってやるつもりだったのに。
アバルは声を荒げる。
「空気の読めないやつだな、一人にしろって言ってんだよ……!」
「『できんな』」
アザゼルが駄々っ子に向けるようなため息をついた。それからアバルのかたわらに膝をつくのへ、アバルは須王の体であることも忘れて胸倉をつかむ。
「おまえに――『須王』にみっともないとこ見せたくないんだよ! 暗い顔を見せたくねえんだ! こんなふうに――弱ってるとこなんて」
「『だから、だ。決まっておろう』」
「え?」
向かい合ったアザゼルの瞳はアバルの知っている冷たい氷色ではなくて世界の善きも悪きも清きも濁きもまるごと飲んでしまうような澄んだ黒色をしていた。
「……? 須王……?」
「だからだよ、アバル」
黒は須王の色だ。席をゆずるようにアザゼルから須王へと切り替わったというのか。
肯定するように須王が笑む。
「わかるよ、みっともないとこみせたくないって気持ち、オレにも。いつもそうやってアバルがオレたちを守ってくれてたのも知ってる。でも、オレはいつまでもアバルに守られていなきゃいけない子どもじゃない」
須王の手がアバルの、胸倉から離れた手をつかまえた。もう一つの手をさらに重ねて包むようにする。
「それでもオレが今子どもなのは事実だからできることは少ないけど、弱ってるアバルを見ても失望しないだけのカイショウはあるつもりだ」
「須王……」
「アバルはいつもオレたちをなでてくれる。大丈夫だって笑ってくれる。でも、それだけでオレたち、アバルのことが好きなわけじゃないぞ。アバルはいつもオレたちに言ってくれるよな、家族なんだからって」
一人で悲しまないでほしい。
須王が言う。
「アバルが悲しいときはオレたちも一緒に悲しみたいし、アバルがしてくれるように、オレたちだってアバルにしたいんだぞ」
須王が心もち背伸びをするようにしてアバルの髪をなでた。「よしよし」と声に出して言うので、アバルは須王に悪いと思いながらもふきだしてしまう。ふきだして、ぱたりと床に落ちたものに気づいた。
(……あ)
ぱたぱたと雨のふりはじめのように続く音を聞くうち、アバルはくしゃりと顔をゆがませる。こらえきれずに嗚咽がもれだすころ、須王が黙ってアバルの頭を自分の両腕で抱え込むようにした。
「保護者」としての体面を守ってくれるつもりらしい。理解して、アバルはまたふきだしたくなる。大丈夫大丈夫。いつものようにおどけようとしたけれどあきらめた。
(今だけだ)
あきらめて、アバルはすがるように須王の寝間着をつかみ、それから、腕を回す。
アバルにとって幸運だったのはここが一の堂であることだった。初めてアバルは人前で子どものように声をあげて泣いた。
*
「うん、知ってる。アザゼルだろ」
まるで道具の置き場所か町で店の場所でも答えるような調子で須王はあっさりと自身のなかにある悪魔の存在を肯定した。
「もともとはカナンっていう国の王さまだったけど神々のゴウマンなやり方にカンニンブクロノオが切れて友だちのルシフェルってやつとハンランを起こしたんだって」
「ルシフェル?」
神話時代、神々と決別し「天国」からくだった13の精霊の筆頭にあたる名前だ。かれはすべての神たる主に背いた罰としてほかの精霊ともども主の愛の証である翼を失い、自ら「悪魔」を名乗るようになったという。いまさらだが、神話は真実であり須王にとりついた悪魔は本物のアザゼルなのだ。
「え、何? 余計なこと言うなって? でもおまえ、アバルに何にも話してないんだろ? ちゃんと話しておかないとアバルだって混乱するじゃん」
アバルには見えない「もう一人」に須王が抗議をする。話がまとまったのか、須王が再びアバルを向いた。
聞いてほしい、と真剣な面差しで続ける。
「吸血鬼をつくってるのはアスモデウスっていうやつだ。あいつはたぶん、洛土――水穂国の人間全部を吸血鬼にするつもりなんだ」
「アスモデウス……?」
アザゼル同様「13の精霊」のうちの一体であったと記憶している。須王の話は現実離れが過ぎてにわかには信じがたいが、アバルはすでにアザゼルを名乗る悪魔に遭遇し、洛土には吸血鬼という化け物がはびこっている。
アバルは深呼吸を挟んでからたずねた。
「何のために?」
「わからない。でも、はっきりしてることはある。このままじゃだめだってことだ。アスモデウスにこれ以上好き勝手させるわけにはいかない」
「だけど須王、相手は洛土中を吸血鬼にしようとしてるやつなんだろ。須王一人でどうにかしようなんて思ってないよな?」
本音は「気持ちはわかるが子ども一人にどうこうできる相手ではないだろう」なのだが、アバルは須王の抱く正当な怒りに配慮して言葉を選んだ。アバルにも須王の怒りはわかるからだ。現に洛土はめちゃくちゃにされ、多くの人が命と夢を失った。
だから、と須王が凛と顔を上げた。
「だから、アバルの協力がほしい。アバルの精気がほしいんだ」
「俺の?」
「そう、アバルの。アバルじゃなきゃ嫌なんだ、……オレが」
最後を強調するように須王は一音一音を区切って発声する。弱き大衆のため悪に立ち向かわんとする勇者のようだったのが顔を赤くして、途端に一人の少年になってしまった。
「えっと……?」
アバルは須王の強調の意図をはかりかねて首をかしげる。セリフだけを聞くなら「はっはっは。俺じゃなきゃ嫌だなんてそんなに俺のことが好きか愛いやつめ☆」なのだが、ニュアンスがちょっと違うような気がする。というか文脈的にこの場合は家族愛的なほのぼのしたものではなくて。
「え!?」
思わず目をむいたアバルの前、須王の顔色が見る見るうちに熟れていく。つられてアバルまで頬に熱が集中するようだった。これはやっぱりそういうことなのだろうか。
つまり、性の対象として。
でも、どうして。いつから?
一度両手で顔を覆うように視界をさえぎって、それからアバルはゆっくりと両手をおろしていく。変わらずそこには須王が緊張のおももちで正座をしていて、やっぱり顔は真っ赤なままだった。
なのに視線はけしてアバルからそらそうとはしない。本気なのだ。
(ええええ……?)
困った。アバルはなるべくそれを顔に出さないように意識してぱちぱちとしばたたく。けれど時間稼ぎにもならない。困った。頭の中は「困った」でいっぱいでまるでそれ以外の言葉がすべて封じられたみたいだった。
アバルはさらにしばたたく。
何か、何か気の利く言葉はないか。須王を傷つけないように、かつ早まらないように押しとどめることのできる言葉は。
(困った)
必死に探してはみるものの、しかし許容量を超えていろいろなものがパンクしている頭はエラーを吐き出すばかりである。困った、困った、困った。
(ていうかアザゼルは? アザゼルはそれでいいのか……? ていうか結局そうなるのか……!)
一秒が経過し二秒が経過する。答えはまだ出ない。ついに十秒に達する頃、須王がくすっと笑った。困らせてごめん。
「だいじょうぶだ、アバル。アバルがオレたちをそういう対象に見てないことはみんな知ってるぞ。だからオレたちは安心してアバルのそばにいられるんだ」
「……う、」
「一回ちゃんと言っておきたかったんだ、オレが。アバルが覚えてなくてもいいって思ってたけど、それってすげーさびしいことなんだってわかったから」
ということはやっぱりアバルが今まで夢だと思っていた須王との交合は現実におこなわれていたものだったのか。アバルがたずねるのへ、須王がしゅんとする。
「ごめんなさい。でも、あのときはどうしてもそうしなきゃいけなかった。アザゼルがアバルに言ったことは本当なんだ」
「アザゼルが俺に言ったこと?」
どれのことだろうか。いろいろ言われた気がする。首をかしげたアバルに須王が言った。
「『オレ』はアザゼルがこの体に入った時点で吸収されて消えるはずだった。それが約束だったから。でも、アバルと出会った。アバルと出会って、からっぽだったオレは『須王』になった」
「……須王が謝ることじゃない」
アバルはかぶりを振る。
もとよりアザゼルは須王と同じことを言っていた。それをずるずるとアバルが私情で引き延ばして、結果がこうなっただけの話だ。いくら好意があったとて、須王だって本意ではなかったろう。むしろそうせざるをえないのっぴきならない状況にまで追い込んでしまったアバルにすべての非がある。謝らなければならないのはアバルの方だ。
ざわりと堂内の火影が大きく揺らめく。それともざわついたのはアバルの心だったのだろうか。
――もっと早く一郎太にアザゼルの話をしていたら
ぐ、とアバルは拳を握った。そのまま須王に向かって頭をさげる。
「わかった。須王、頼む」
ただ、と確認をした。
「いいのか? 須王は、それで……」
だってアバルの了承は須王の「アスモデウスを許すことができない」という怒りに対するもののみで、須王の気持ちに応えるものではない。須王がつらいだけではないかと思ったのだが、須王は首を横に振った。
「アバルがオレの気持ちを知ってくれて、そのうえでいいって言ってくれる。それだけでオレはうれしい。褒めてくれたらもっとうれしい。吸血鬼を倒したら、よくやったって。そうしたらもっと頑張れる」
「須王……」
へへ、と笑う弟がいじらしくてアバルは須王の頭を胸に寄せた。ぎゅうっとしぼられるような心のせつなさは須王と出会ったばかりの頃にも感じたものだが、あのころにあったのは須王という子どもに対するあわれみだとか義務感をともなった庇護欲ばかりだった。
よかった、と須王がつぶやく。
「いらないって言われたら、嫌われたら、どうしようと、思った……」
「そんなこと、言うわけねえだろ……!」
弱々しく震える声に心をぐちゃぐちゃにされるようだった。どれほどおそろしかっただろうと思う。どれほどの勇気をかき集めて須王はアバルの協力を求めたのだろう。
否、本来であればアバルから須王に頼むべきだったのに自分がもたもたしていたせいで、自分の都合ばかり考えていたせいで、須王に言わせてしまった。
なんてみっともない。
アバルは強い悔いの気持ちから自ら須王に口づけて行為をうながす。
「一緒に頑張ろう、なんて言えない。須王まで失ったらきっと俺はどうにかなってしまう。それでも、須王。俺は一郎太の無念を晴らしたいと思う。だから、そのために須王に必要なものが俺にあるなら、全部やる」
全部使ってほしい。
言いながら須王のひとみをのぞきこむ。須王がうなずいて、やがて堂内にある数か所のあかりが音もなく消えた。
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