仔犬だと思ってたのに

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#7 王子様だったんですね

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 机に座っていた。見慣れた自室の机だ。
 参考書とノートと筆記用具とこっそり持ち込んだスナック菓子があって、俺が解いていたのは数学だった。
「ん?」
 ふと我に返って、俺はノートに書かれた数字の羅列を追う。俺は今この瞬間までここにいてこの問題に取り組んでいたはずだった。紙面に並ぶ数字はほかでもない、俺の字だ。
 なのに、まるでうたた寝か白昼夢でも見てたみたいな時間のギャップに戸惑っている。しかも二~三分とかそんなレベルじゃないやつ。ここまで書いてきた数字の次の数字が出てこない。保存期限の切れた記憶がログ処理のためにデリート食らったレベルのやつだ。
 なんで?

(疲れてんのかな)

 思うけど、部活は引退してひさしいし、三年生は二月から自由登校になってる。息抜きと称して部の後輩たちを冷やかしにいくことはあるけど、今日は朝から家にいるはずだ。今更じたばたしたってしょうがないから、徹夜もしてない。
 なのにこの空白感と違和感はなんだろう。それだけじゃない、この部屋も下手したら半年ぶりくらいに帰ってきたような感じがある。感慨深いような気持ちで、俺は机を撫でる。

「ワン!」

 部屋のドアから入ってきたのは仔犬だった。首輪のない真っ白な仔犬。抱き上げてやるとやわらかくて、クンクン鳴きながら鼻づらをおしつけてくる。
 あれ、うちに犬なんかいたかな。
 ちらりと頭の隅で思ったけど、俺を見つめてくる仔犬のまるい目がかわいいから許した。
「ん? おなかが空いたのか?」
 仔犬を抱きながら部屋を出て台所に入る。冷蔵庫を開けるけど牛乳が入ってない。母さんもねえちゃんも、この時間は仕事だ。何かついでに買ってくるものがあるかもしれない。母さんに聞こうと思ってスマホを探すけど、いつもならベッドの枕元か机にあるはずのスマホが見つからない。

「おっかしいなあ。あとはトイレか、…また洗濯機の中か」
「ユースケ」

 敷布団をめくったり壁とベッドの隙間をのぞきこむ俺の後ろ、声が呼んだ。声変わり前の少年の声。ふりむくと、白い髪の子どもが立っていた。
 白っていうか……プラチナ? 目が赤い。それも、ただ赤いだけじゃなくて、夕焼けの光みたいに金がかっている。たぶんだけど十歳前後じゃないだろうか。背は高くないが、かといって弱々しい感じはまったくしない。長袖だからわからないけど少なくとも顔はしっかり日に焼けてるし、まっすぐに俺を見る視線は彼の意思の強さを表すように据わってる。実際の顔だちよりも大人びて見えるのはそのためだろう。
「ユースケ」
 少年がはっきりと俺の名前を口にする。ユースケ。もう一度呼ぶと、硬さのあったひとみからこわばりが解けた。心を許した人間にだけ見せる隙。甘え。
 まるで俺の何かを確かめるみたいに、少年は遠慮がちに俺の名前をくりかえす。拒まれることをおそれながらおずおずと頭をさしだす仔犬みたいな行為に、俺の心臓がキュンと音をたてた。なにこのめっちゃいじらしい生き物。

「“グローリア”」

 口が勝手に動いた。胸奥の切ないような感情に押されるように、体が少年に近づいていく。腕を伸ばす。
「グローリア」
 今度こそ少年がおどろいたように俺を見た。泣きだしそうな顔。気難しそうに唇をつきだして、己の感情にあらがおうとするように目をそらす。そのまま、そうして小さくうなずいたから、俺はおもむろに彼を抱いて頬ずりをした。


        *


「はー…グローリアかわいい…癒される……髪やわらかい」
「そうなんだ」
「腕にすっぽりフィットするこの感じがいいんだよなーって、グローリア、ちょっと厚くなったか? 心なしかヒゲがじょりじょりするような? 昨日の今日で早くない? 肩も突然たくましくなったような気が? あれ? 喉仏もある?」
 俺はグローリアを身体検査よろしくまさぐる。こうやって両腕で抱え込んでるといつもなら嫌がって逃げ出そうとするのに、今日はおとなしく俺にされるままだ。むしろ嬉しそう?
「ユースケ、くすぐったい」
「あ、ごめん」
 グローリアの甘えるような声にびっくりして、俺は思わず謝ってしまう。なんで? とグローリアが言った。耳元。俺が知ってるより低くかすれた大人の男みたいな声でくすくす笑う。

「もっと触っていーよ」
「えっ」
「うん。どうぞ?」

 言いながら、グローリアが俺の手をとった。手首の皮のうすい内側を音を立てて吸った後、印をつけるように軽く歯を立てる。強弱をつけて二回。それからいたわるように舐めて同じ場所を吸う。まるで愛撫のようなそれに、俺は顔が熱くなるのを感じた。
「ユースケ、真っ赤」
 グローリアが笑う。

「そんなふうに簡単にかわいい反応されると、困る」

 ちっとも困ってない声で言って、俺の胸上によりかかるように体勢を変えた。大人用の剣を振り回す小さな手が俺の胸を探るように動きだす。ゆっくり、ゆっくり。俺に害意のないことを教えるような手つきがまもなく、服の上から俺の乳首を探り当てた。何度も豆が潰れて、そのたびに皮の厚くなった指が、見つけだした俺の乳首をこねるようにつぶす。
 服の乾いた布が、グローリアの指の動きに合わせて何度も乳首の上を摩擦する。くすぐったいなと思っていると、グローリアが興味深そうに夕焼け色の目をきらめかせた。俺の胸から手を離す。掻き足りないというか物足りないというかおかしなむずがゆさが残った。
 体にこもった熱を吐き出すように俺は息をつく。“もっと”。不満をうったえるように下半身がみじろいだ。
「どこを、どうしてほしい?」
 俺の不満を見透かすようなタイミングでグローリアが言う。

「“もっと”、どうさわってほしい?」

 若い雄のような眼。甘えてくれと俺の肌に鼻を寄せる。
 そんなこと言っても俺は女の子じゃないし、年だってグローリアより全然上で。年長者は年少者を守るものだって、じーちゃんにも散々言われてきたし。
「いや、……待った、」
 自分の声に起こされるように、俺は目を開く。

「俺のグローリアはそんな破廉恥なことは言わない!」
「あはは、おはよー」

 俺がグローリアだと思っていたのはミシェルだった。つるつるした生地のローブを素肌に直接はおっただけの無防備な格好でにこにこと笑っている。十中八九ノーパンと見た。ミシェルの髪の色より深いワインレッド。ローブの裾や袖に入っている刺繍は素人目にも手が込んでて、それ系の展示会や専門店に並んでいそうな代物だ。
 とりあえずはっきりしてるのは、俺が今までグローリアだと思ってたグローリアは夢で、途中から中身がミシェルに替わっていたということだ。俺は自身の、丸出しになった肩と腹を見る。部屋着のようなのだが、上着に加えてなぜかズボンも股下まで不自然にさげられていた。光沢は気になるけど、生地の肌触り自体は悪くない。これがちゃんとセットされていたなら製作者の意図した着心地を味わうことができただろうに。
 他人事のように考えながら、「で」と俺はミシェルに説明を求める。

「なんで俺はこんなバカでかい部屋の冗談みたいに広いベッドに寝かされてて、こんな間抜けな格好をしてるんだ?」

 たぶん軽く二十畳以上はあるぞ、この部屋。下手したらベッドもワンルームくらいあるかもしれない。ほかには水差しを置いたテーブルしかないところを見るに、私室はまた別にあるのかもしれない。
 ミシェルがにっこりと笑った。
「本当は睡眠の魔法かけて最後までいただいちゃおうかと思ってたよ。むしろ味見で済ませたこの鉄壁の理性を褒めてほしいな」
「さらっと怖いこと言うな!」
 味見って何。
 つっこみたい気持ちはあったけど、俺はあえてスルーする。その謎が解かれたところで十中八九俺に得る物はない。

「カプリースがワイゼン兵に襲われたところは覚えてる?」
「覚えてるよ」

 敵影をみとめた途端、魔法攻撃がはじまったんだ。門がやぶられて兵士がなだれこんできた。とにかくワイゼン兵を中にいれないことを最優先したけど、状況はよくわからないし周りは混乱してるしいつまで待っても伝令も指示もないしで、ぶっちゃけ俺ここで死ぬかもって思いましたよね。
 ミシェルがうなずいた。
「カプリースを襲ったのはロマネ・ワイゼン王の弟テオドール・チャールだ。目的はあの小さい魔王様を奪うこと。作戦は失敗、テオドールは地位の剥奪と幽閉が決まった。そしてあの場からユースケ、きみをさらったのは僕だ」
「…俺、死んだって思ったんだけど」
 でかい炎が間近にっていうか、あの時点でほぼ呑まれてたよな。熱いって思う間もなく俺の意識は暗転した。そこからこの状況ってことは、ミシェルが助けてくれたんだろう。

「また助けられたな。ありがとう」

 グローリアが初めて力を使ったときと、今度と。ミシェルには二回分の恩ができたわけだ。
「なんだよ」
 変な顔をしていたのでたずねると、ミシェルが眉をハの字にした。素で困ってるみたいだった。

「怒らないのか? 僕のこと、嫌いになっただろ?」
「なんで」
「だって、…きみをさらった。あの子から引き離した。カプリースを襲ったのだって僕が裏から手を引いていたかもしれないじゃんか。カプリースに忍びこんでたし」
「引いてたのかよ」
「引いてない!」

 ミシェルがあわてたように首を横に振る。体が動くようだったので、俺はだらしないままだった上下を直した。ふと、左足が軽いことに気づく。敵兵の攻撃を避けたときにひねってしまったやつだ。じーちゃんがいたら「この未熟者め!」って絶対尻叩かれた。
 俺は左足を指さす。
「これも、ミシェルが?」
「…う、うん」
「魔法ってすごいな。ありがとう」
 やりづらい。
 ミシェルがため息まじりに言った。

「あんまりそう素直にされるとさ、悪いこと、できないじゃん」
「なんだよ、する気だったのか?」

 身構えると、ミシェルが俺の頬に片手をそえる。指先に耳のつけねをくすぐられて、俺は小さく悲鳴をもらした。皮の薄いところは普通にだめだろ。
「体だけでもって思ったんだよ。ユースケが起きて、もし僕のことを敵だって責めたら、無理やり僕のものにしちゃおうと思ってた」
 そういえばそんなようなことを最初に言ってましたね。
 でも、ミシェルはそうしなかった。律儀に俺の目が覚めるのを待って何が起きたのかを教えてくれた。俺の意思を尊重しようとしてくれただろ。俺はいわば捕虜なわけだし、ミシェルにそんな義理はないはずなのに。

「なあ、カプリースがどうなったか、聞いてもいいか? 俺はどれくらい寝てた?」

 ミシェルの手が俺から離れる。相当上等なベッドなんだろう、野郎二人が身動きしてもきしみひとつ聞こえない。
 ミシェルがベッドから降りた。
「三日。ある程度きみも想像がついていると思うけど、無事ではない。魔王様は確実に無傷だと思うけどね。カプリースが国境村としての機能を完全にとりもどすには、早くてもふた月はかかるだろう。それから、ユースケ、」
 ミシェルがローブを脱ぐ。やっぱりノーパンだった。風呂で初めて会ったときも思ったけど体育会系ないい体をしている。
 どうするのか見てると、ミシェルはその場で着替えをはじめた。ベッドの下に用意してあったようだ。
 シャツに袖を通しながら、ミシェルが続けた。

「ロマネ・ワイゼンはマリー・カンタビレに宣戦布告することを決めた」
「は?」

 俺はあっけにとられる。だって宣戦布告ってようするに戦争するってことだろ。なんでそんなことになってるんだ?
「マリー・カンタビレに手を出してたのは、王弟の人なんだろ」
 で、その人は今回のたくらみの後に失脚した。それで話は終わったんじゃないの?
 ミシェルがかぶりを振る。

「そういうわけにはいかないさ。今度のことはこれまでとは被害の規模が違う。はっきりとした侵略行為だ。叔父周辺の失脚程度じゃとうてい償いきれないし、マリー・カンタビレにとったら叔父の行為そのものがすでに宣戦布告なんだ。けじめはつけないと」
「…たしかカプリースは何回か攻撃されてたんだよな。なんで今までは放っておいたんだ?」
「政治が何かをするにはね、ユースケ、理由が必要なんだ。全員が納得するものじゃなくていいしどんなにわざとらしくてもいい、とりあえず体裁が整う理由。それからタイミングだ。これが結構重要な要素になってくる」
「…今まではその二つがなくて、今はそろってるってこと?」
「そう」

 ミシェルの着替えが完了した。同じタイミングでドアがノックされる。ミシェル様、と声は言った。
「身内の削り合いでこっちもずいぶん疲弊している。国王の本音としてはすぐにでも内政の安定と国力の回復に手をつけたいところだろうけど」
 質素なシャツに黒のズボン。戦場で履くような頑丈そうなブーツ。最後にローブと同じワインレッドのロングコートをはおると一気に雰囲気が変わる。

「なんか、王子様みたいだな」

 感想を言うと、ミシェルがきょとんとした。
「“ミシェル・オクタヴィア・チャール”」
 体幹を活かしたきれいな所作で、舞台役者みたいな一礼をする。
「上二人の兄とは腹違いで、ロマネ・ワイゼン国王の第三王子を名乗っている。とはいっても、僕自身には王族の血は流れてないし王位継承権も放棄してるけどさ」
 なにやら複雑な生い立ちをしているようだ。姿勢を戻してミシェルが言う。
「すぐに戻ってくるから、何か食べるものを持ってくるよ。何しろ三日ぶりだからね、消化にいいものを選ぶつもりだけど、何か希望は?」 
「…あ、」
 言われて、俺は自分の空腹に気づく。とりあえず片っ端から挙げていくと、ミシェルが「了解」と片目を閉じた。


       *


(ミシェルがロマネ・ワイゼンに俺をつれてきたのはわかったけど…)
 ミシェルが出て行った部屋の中、俺は一人で考える。ミシェルの曰くには、この部屋はミシェルの私室の一つということだ。好きに使っていいと言うので、俺はとりあえず水差しをとった。陶器のカップにそそぐとほんのりと柑橘系のにおいがする。

(そう、問題はなぜ俺がここに連れてこられたのかってことだ)

 カプリースを攻めたロマネ・ワイゼンの偉い人の目的はグローリアだったらしいけど、俺がここにいるってことはミシェルたちは違ったんだろう。だけど、どうして俺なんだろうか。グローリアをほしがった人とミシェルたちは何が違うんだろう。
(わかんないといえば、こっちも謎なんだよなあ)
 ミシェルに言われた通り水差しのあったテーブルのひきだしをのぞくと、腕時計が入っていた。破損はないみたいだ。秒針だけが動いていて、針の示す時間は依然変わっていない。あのとき一度動いたきりのようだ。

(なんで動いたんだろう)

 着ている服にポケットがなかったので腕時計を装着する。カプリースは気になるだけど、助けてもらった恩がある以上ミシェルを裏切るようなことはしたくない。受けた恩は必ず返せ。それがうちの家訓だ。
 部屋の窓には俺の世界でいうところのガラスはなくて、細く切った木を網目のようにして組んだものがはめこまれていた。隙間からさしこんでくる光にさそわれるように、俺は窓際に近づく。乾いた風。手をかけると障子のようにスライドする。
 外はちょうど日が暮れるところだった。バルコニーのようになっている向こう側には街がひろがっている。ところどころに見える崩れた建物や配給らしい列に生々しい内乱の痕跡がうかがえるようだ。
 街の西側は勾配のゆるやかな山になっていて、街はそれへ寄るように建物を並べていた。東側には地平へ伸びるような川があって、その向こうには平原が見える。夕暮れの光は山の端からきらきらと、平原にむかって噴きだしていた。紅蓮。巨大な星が山に墜落して火事をおこしているような光だった。

 ――おれが守る。あんたのことは、おれが、絶対に

 俺は目をすがめる。夕焼けのひかりは同じ色のひとみをもった子どもを思い出させた。
 強い子ども。強くなろうとしていた子ども。あの子はこの先もっと強くなるだろう。
 そのとき、あの男がどんな判定をくだすのか。
 金の髪。厳格に俺たちを見つめる碧色のひとみ。カプリースに着くまで頑として脱ぐことのなかった全身鎧。じーちゃん以外で初めて見た、背筋が寒くなるくらいしずかできれいなたたずまい。

(結局あいつ、見つかったのかな)

 非常時にはこの人に従うようにって言われてた人が、あのとき、誰も先頭に出てこなかった。アーサーなんか国内最強の王国騎士団最強だ。あの肩書が前線にいるかいないかで絶対空気違ったと思うんだけど。
 それとも俺たちが知らなかっただけで、別の場所がやられてたんだろうか。で、上は全員そっちに回ってたとか?
 ミシェルはカプリースの受けたダメージについて“国境村としての機能を完全にとりもどすには早くてもふた月”と言っていた。それが基準として早いのか遅いのか俺にはわからないけど、戦争を決めた以上、わざわざ敵の態勢がととのうのを待つことはしないだろう。

「あー、…くそ」

 空に向かってため息をつく。
(俺ひとりが戻ったところで何の足しにもならないだろうけど…)
 嫌なやつもいるし嫌な思いもさんざんした。訓練には全然ついてけないし、見張りの相方は毎回いなくなるし、アーサーのことは気に入らない。マリー・カンタビレっていう国にも別に思い入れはない。
 でも今すごく、カプリースに帰りたい。

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