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第4部
act.7-燈亜
しおりを挟む偶然出くわしたそれは、誰がどう見てもいわゆる修羅場というやつだった。
壁ドンと呼ぶにはあまりにも強引に映る状況と、なんとか制止しようと懇願する悲痛な声。
広い肩越しに、涙で濡れた瞳と視線が交わった瞬間。
全身の血が、ぐわあっと沸騰するような感じがして。
「ひかるさん、ひかるさ……ひかる、」
気付けば、ぼくは腕のなかに彼を掻き抱いたまま、夢中でその名前を呼び続けていたのだった。
***
そういえばあの日も学校が早く終わって、うきうきしながらスタジオに向かったんだったな。
あれからそんなに時間は経っていないはずなのに、ずいぶん昔のように感じられることに驚く。
思えば、ぼくたちの関係性も以前とはすっかり変わっていて――結果、こうしてためらいなく二人の間に割って入ることが出来るくらいになったわけだけれど。
ずびずびと鼻をすするひかるさんにハンカチを手渡し、その背中をできる限り優しく撫でながら、ぼくは数十分ほど前の出来事を反芻する。
あのとき、思わず叫んだ声に振り向いたハルトさんは、闖入者の姿を認めるとひどく驚いた顔をした。
そして――次の瞬間、笑みを浮かべたのだ。
まるで、テレビCMのモデルかなにかのように、それはそれは完璧な表情で。
きっとこの先、ずっと忘れることはないだろうと思ってしまうくらい鮮明に、ぼくの目に焼き付いた光景。
「トモア」
ぼんやりとした頭のなかに、控えめな、けれどもひどく心配そうな声が響く。
我に返ったぼくは、ハルトさんの姿を追い払うように大げさに首を振った。
「なんですか?」
「いや……その、気にすんな、って言われても無理だよな。ごめん、」
ぼそぼそと呟いたひかるさんの顔は、まるで救いを求める迷い子のように、ひどく不安そうに映る。
ああ、こんな時、なにか気の利いたひとことが言えたならいいのに。
そうは思っても、嫌でも目に入ってくる傷痕に思考を遮られてしまう。
まっしろな肌に色濃く残された、生々しい刻印。
それは、潔く退いた態度とは対照的に、ハルトさんの強い意思――まだ諦めたわけではない、という――の表れのように思えた。
「ひかるさんが謝る必要は全然ないですよ。それより、傷を消毒しないと」
逡巡するような間のあと、ひかるさんはすこしだけぎこちなさの残る笑顔を作った。
痛々しい姿とは正反対のその表情が、ぼくの心臓をぎゅっと鷲掴みにする。
「トモア……ありがとう」
ぽつりと、でもはっきりと耳に届いたその言葉は、砂糖をまぶした菓子のようにあまくて、とてつもなく優しい。
ここ最近のひかるさんは、こんな風に物言いが素直に感じられることが多くなった。
纏った空気みたいなものもずいぶんとやわらかく変化して、それと同時に、なんだかものすごく可愛らしくなって。
それは惚れた欲目を差し引いても確かなことみたいで、特にほなみさんなんかは事あるごとにカワイイカワイイと連呼しているのだから間違いない。
スバルさんに言わせれば、ぼくと出会ったことで変わったそうなのだけど――ともかく彼は、以前よりも更に輪をかけて愛らしく、そして日を追うごとにどんどん綺麗になっていった。
受験を控えている身で頻繁に会うことが難しいだけに、他の男に取られはしまいかと要らぬ心配をしていたことは否定できない。
だからこそ、拝み倒してショウちゃんに補習の日程を変更してもらったのだが、我ながらその判断は大正解だった、というわけだ。
ただ、もう少し早く着いていたら、と、その点だけが悔やまれる。
「救急箱、取ってきますね」
本当は、ずっと傍にいてあげたい。
そんな名残惜しさにわざとゆっくり立ち上がれば、見透かしたように制服の裾を引っ張るイタズラな手。
見下ろした先にある仔猫のような眼差しに、ぼくは否応なくその場に留まるしかなくなってしまう。
屈み込んでそっと頬に指を伸ばすと、相変わらずまっしろな、意外と男らしい骨ばったおおきな手が重なった。
たまらなくなってもう片方を添えれば、応えるようにゆっくりと瞼が伏せられて。
最初は触れるだけだったつもりが、どんどん長く、深くなっていくキス。
とろけそうにあまくてやわらかくて、ぼくはいつの間にか夢中になって、どんどん彼に溺れてゆく。
このまま酸欠になって死んじゃっても構わないかも、なんて思うくらいに。
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