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神のいない山
壱
しおりを挟む唐突に身を翻した千代瀬が、俊敏な動きで包丁を掴む。
そしてそれを、狂乱した瞳を三日月に歪めると、勢いよく僕の頭上へ降り下ろした。
「――――、」
悲鳴を上げる間などなかった。
僕の目の前を、風のように掠めていった時政の脚。それは千代瀬の細い手首へと吸い込まれ、衝撃から宙へ投げ出された凶器を階段先まで吹き飛ばす。
そして、手首を押さえよろめいた千代瀬へ人差し指と中指を揃えて立て他の指を握り込む形(忍者が術を使う時の刀印を想像してもらうとわかりやすいかもしれない。)を作ると、立てた指を縦横に「リン・ピョウ・トウ・シャ・カイ・ジン・レツ・ザイ・ゼン」という言葉と共に振った。
『――あ゙ッ、あ、あ……!?』
千代瀬が苦しそうに呻きながら後退していく。
「は、え……」
息を吐く間もなく起きた一連の光景に、座り込んだ状態のまま身じろぐことすらできない。
『こ、の……! 九字切り、だと……!? お前まさか法師か……!?』
千代瀬の口から怨み言のように出た声は、酷く電波状況の悪い場所で流れるラジオのように聴きづらく、そのくせ、嫌に耳に不快感を残す音だった。
――勿論、そんなもの、清淑な千代瀬の声ではない。
そして、不快な“何か”がこぼした言葉。
――九字、切り……?
確か九字切りって、悪霊退散的なやつだよね……?
いつぞやの夏のバラエティー色の強い心霊番組で、胡散臭い霊能者が妙な奇声を上げながら似たような動作をしていたことを覚えている。
けれど、違う。
似ているけれど、時政の言葉や動きは、視聴者サービスのお遊びなんかとは全くもって比べ物にならない迫力を持っていた。
『グァアアア……ッ!! クソ……ッ! しかもこれただの神道術じゃねえ……! 何混ざっていやがんだ……!』
「ほう。やっぱわかんのか。ま、俺は我流もいいところだからな」
悶え苦しむ千代瀬の姿を何の感懐もないとばかりに見つめ、やおら乾いた音を立てながら踞る彼女の下へ近付いていく時政。
そして、小さく「ナウマク・サマンダ・バザラダン・センダ・ マカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カンマン」と唱えると、今度は親指を折り込むような形で組み、「オン・キリキリ」
すぐさま別の形へ変え、滑らかに、「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバ・ビキンナン・ウン・タラタ・カン・マン・オン・キリウン・キャクウン」と謎の言葉を口にしながら指を固く組み直すと、千代瀬へ向かって、
「……捕らえろ」
ゾッとする程温度のない声で命じた。
『グゥゥゥ……ッ! 不動金縛りか……! テメェ、んな術そこらの人間が使えるもんじゃねェだろうが……!』
「さぁな。ま、どんな邪推してくれても構わねぇが、少なくとも今はただのしがない探偵だぜ?」
とてもあの穏やかな若女将とは思えない形相で時政を睨み上げる千代瀬。しかしその身体は指の一本すらも動かず、地にだらん、と投げ出されている。
唯一動いているところといえば、汚ならしい暴言ばかり吐いている彼女の慎ましやかだった口くらいだろうか。……ああ、ギョロリと動く目もそうだ。
わからない。なんだこれは。なにがおこっているんだ。
千代瀬は動けないのか? 何故? 時政は今、一体何をした?
今の呪文は何? なに、なんで、なにが、
――ああ、ここは現実なのか……?
頭が悲鳴を上げている。キャパシティオーバー。逸そ気絶してしまいたい。
一歩。
たった一歩踏み込んだ非現実は、僕の許容範囲をあっさりと越えて、
僕の今まで生きてきた現実も常識も、何もかもをぐちゃぐちゃに掻き回したのだ。
いやだ。こわい。こわい。こわい。
気持ち悪い。頭が痛い。やだ。やだ。気持ち悪い。吐きたい。全部吐き出したい。
何を? 吐き出したい。痛い。頭。あれ? 僕いまどこにいるの?
気持ち悪い。きもちわるい。おなかがきもちわるい。ぐるぐるしてる。
いたい。あたまがいたい。ぐるぐる。ぐるぐる。ぼくなにしてるんだろうなにをすればいいんだろうきもちわるいここはどこぐちゃぐちゃぐるぐる
「うっ、お、え……!」
滲む視界のまま、涙を拭う事も出来ずえずく。
なんだろう。まるで酷い酔い方でもしたみたいだ。
何に酔ったんだ? 空気か? 非日常か?
もう自分が、起きているのか、夢を見ているのかすらわからない。
「……あ゙? おい、どうした」
そんな僕の様子に気付いたのか、千代瀬(と、呼べるのかわからないが。)と対峙していた時政が、怪訝そうに、心配の色を乗せて顔を覗き込んでくる。
だが、それに答えている余裕など今の僕にはない。
つらい。つらいんです。
なんでか知らないけれど、ひどく苦しいんです。
よくわからない感情が僕の中をぐるぐる渦巻いて、我が物顔で荒らしているんです。
たすけて。たすけてください。
こわい。さむい。ここはいやだ。出してください。
でも僕の中の『なにか』が出てはいけないというんです。
たすけてください。たすけてください。
どうしてぼくばかり。
そうだ。むかしからぼくばかりがびんぼうくじをひくんだ。
ひどいよ。ひとりにしないで、ていってるのに。
なんでいないの? なんでぼくはひとりなの? どこにいっちゃったの? どうしてかえってこないの? ひどいよ。ひどいよ。ひとりにしないで。
なんてひどいせかいなんだ。こんなことならもういっそのこと、
「しん、じゃいたい」
だれかの、いきをのむおとがきこえた。
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