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椎名

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神のいない山

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 ――四階非常階段。ぬるい風が足元から吹き上がるそこで、千代瀬はケタケタと笑いながら手摺に凭れ掛かっていた。
 無理に追い詰めれば落ちる、という意思表示だろう。包丁を手放す気配もない。


「おい、若女将。聞こえてんだろう? 呑まれるな。意識をしっかり持て!」

「嫌ですねえ、お客さん。私はちゃんとここにいるでしょう?」


 ニタニタ。ケタケタ。胸くそ悪い嘲笑が無人の廊下に広がる。


「……いい加減にしろ。お前の茶番になんて付き合ってらんねぇんだよ。――悪霊が」


 嫌悪を隠す事なく吐き捨てられた言葉に、心底愉快だと言わんばかりに千代瀬、――否、千代瀬の中に潜む『ナニか』が笑みを深めた。


「悪霊? 非現実的ですねえ。探偵ともあろうお人が。これが私の本性かも知れないでしょう?」


 着物の袖を持って、ドレスでも翻すように、可憐に、禍々しく舞う『ソレ』。
 想像以上に厄介な相手に、握り締めた拳に汗が滲んだ。


「……ハッ、だったら俺らが仕事に来た時点で何かしらの対策取んだろ。探偵なんかに来られて困るのは若女将さんなんだからよお。ああ、それとも、その包丁で“今日”、決行だったか? 邪魔者の始末は」


 精一杯の虚勢で笑みを作ってみせる。


(……あいつはもう逃げられただろうか)


 こんな時にでも思い出すのは、純朴な瞳を持つ少年の事。こんなにも誰かが気になるなんて、“彼”以来だった。

 ……俺達が犠牲にしてしまった、あの子以来。


「……やぁっぱり。貴方、普通の人間じゃないですねえ。でないと、――――俺に気付く筈ねぇもんなァ』


 ざわり。冷気。瘴気。肌が凍傷したかのようにチリチリと冷たい熱を訴える。
 増幅する邪気。吸い込む空気の全てがヘドロのように肺へ溜まっていく気がする。

 およそ千代瀬のものとは思えぬその声は、しかし確かに千代瀬の口から発せられていた。


「……お前が黒幕か」

『いやー、こいつイイ気、持ってやがるもんだからよォー。贄だってあったしなァ』


 ――贄。千代瀬と関連のある、ここ最近で死去した人物。それは……


「……チッ、一々悪夢なんて姑息な手ぇ使いやがって」

『あ゙ーん? そらこっちの台詞だぜ、探偵さんよォ。コソコソ、コソコソ嗅ぎ回りやがって。しかも俺が出られないよう結界まで張ってくれちゃってさァ』


 ニタニタと人を食ったような笑みを浮かべていたソレに、初めて笑み以外の表情が乗った。
 それも束の間。またも青ざめた唇を三日月に歪めると、


『まあでも、それなりに感謝してるぜェ? ――新しい贄も手に入りそうだしなァ』

「……あ゙?」


 ポツリと呟かれた言葉に、思わずヤツをめ付けた。


「ハッ、俺を殺ろうってのか? 相手の実力を見てから言うんだな」


 そっと懐に仕舞われている数珠へと手を伸ばす。
 裂かれた傷口がじりじりと熱を持ち始めていたが、まだ握るぐらいの力は残っているだろう。

 こちとら、生まれてからずっとテメーらみてぇな異形相手にしてきてんだ。
 確かに生半可な力がある分厄介だが、この程度の相手に摂り込まれる程、弱ったつもりもない。


 ……こんなヤツに殺られたんじゃ、あいつに顔向けできねぇだろうが。


 しかし何が可笑しいのか、ソレは愉しそうに愚者を見る目付きで俺を見て。


『ダァーレがお前なんて言ったよーォ。――――もう一人、思い当たる人間、いンだろォ?』


「――っ!!」


 咄嗟に叫んだ名は誰のものだっただろうか。

 霧がかった思考に浮かぶ二つの顔。



 ――『時政さん!』

 ――『時政先輩!』



 ニタリと笑う卑しい笑みに、

 彼の日の残酷な情景が重なった。
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