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神のいない山
弐
しおりを挟む「な、に……なん、――――ッ!? なっ、なんで私、こんなもの……っ!」
激しく動揺しているのか、所持していた凶器を視界に入れると、突然、穢らわしい物でも払うように放り捨てた千代瀬。見開かれた瞳には、純粋な驚愕だけが表されている。
なんだ? この反応は。
まるで、今初めて自分が包丁を持っていた事に気が付いたみたいな――
「アンタ、夜中に出歩くクセあったろ。二ヶ月くらい前から」
然り気無く僕の頭をソファーの影へ押し込んだ時政は、平然と立ち上がり未だ動揺を隠せない千代瀬へと向かった。
と、時政さん!? 居場所、見付かっちゃっていいの!?
あ、でも、押さえ込まれたってことは、お前は隠れていろ、て意味……だよね。
……はい。役立たずは大人しくしてます。
「起きたら全然別の場所で寝てた、て事、あったんじゃねぇの? ここ最近は特に」
「し、知りません! そんな、私、本当になにも知らな……っ」
冷淡に尋問する時政へ怯えを見せる千代瀬。
その姿は、後ろめたい事が暴露した危機感というよりも、本当に、不可解な行動をしていた自身への困惑と恐怖だけのように見える。
だが、もしも時政の推測が誠ならば、不審者は美岬館の若女将自身となり、今回の件は傍迷惑な身内騒動と片付けられてしまう。
(結局、千代瀬さんの夢遊病が原因、て事……?)
そんな簡単な結末の筈がない。時政は確かに言ったのだ。
――――これは人知を超えた事件だ、と。
「ああ。だろうな。けど心当たりはあるだろう? 例えば、気が付いたら野外に出ていたり、……そうだな、――三つ葉のクローバーを手にしていたり?」
三つ葉のクローバー。核心に近付くキーワードの一つ。
「や、やめてくださいっ! ふざけないで! わ、私、は……っ、わたっ」
「じゃあ質問を変えよう。スカビオサの花言葉は?」
「え……?」
……あ、そういえば花言葉がどうこう、て言ってたっけ。結局聞きそびれてたや。
でも、何で今?
思わず、未だ僕の頭に手を置き彼女の死角へ追いやっている時政へ、怪訝な視線を送ってしまう。
「え、えっと……『私は全てを失った』……?」
「ああ。そうだな。他にも、哀しみの象徴、死者を送り出す花、て意味もある」
おどおどしくもはっきりと答えた千代瀬に、時政は泰然と頷いた。
……そうか。だから清海野はあんなにスカビオサを。
全部、圭司さんへの餞だったんだ。
でも、じゃあ――――
「……なら、――三つ葉のクローバーの花言葉は?」
「――っ」
千代瀬の息を呑む音が聞こえた。
四つ葉ではなく三つ葉。それが意味するのは。
「知り、ません……知りません知りません!」
突然、狂ったように否定を繰り返した千代瀬は、逃げるように数歩、足を後退させた。
やはり、何かに怯えている――?
――目の前の時政ではない、何かに。
「いや、アンタは知ってる筈だ。どこで聞いたのかは知らねぇがその意味を」
「いや……いやっいやッ! やめて、知らない!! 私は知らない!!」
綺麗に整えられていた髪を振り乱しながら拒絶する千代瀬に、僕の中で新たな戸惑いが生まれる。
いくら何でも異常じゃないか……?
知ってるにしろ知らないにしろ、ここまで頑なに拒絶を示す必要があるだろうか。
「と、時政さん。なんだか様子がおかしいですよ……」
未だ彼女へ対峙する時政へ、小声で呼び掛けると。
「ああ。そろそろボロを出すぜ」
――ぼろ……?
「わたっ、私は……っ、ただ、圭司さんが……!」
――圭司
彼女の幼馴染みであり、想い人であり、そして彼女の不注意により亡くなった不幸な少年。
何故、ここで彼の名が――?
「――やっぱりな。そいつの姿を使ったか」
「……え?」
使った……? なにが……?
「アンタの言う圭司は偽者だ。本当はわかってんだろう? 憎しみに呑み込まれるな!」
そう、時政が一喝した瞬間。
「――――ふふ、ふふふ。面白い事を仰いますねえ、お客様。――いいえ、ハッタリばかりの探偵さん?」
「……ッ」
――ゾクリ。
突然、それまでの癒される愛らしい千代瀬でもなく、怯え震える千代瀬でもなく、
――鳥肌が立つ程うつくしい、禍々しさを纏った千代瀬が、そこにいた。
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