白夏ー僕が殺した彼の話ー

リョウ

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3・蓮の花は人を魅了する

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水には近づくなと彼が言った。

「何で?」

聞くと彼が答えた。

「落ちたら困るだろう?」

「落ちないよ」

僕はそう答えて蓮池の周りをクルクルと歩いた。水の縁ギリギリを歩く。それは綱渡りに似ている。バランスを崩すと水の中に落下してしまう。

この池はどれ位の深さだろうか? いや、あまり深くないのは分かりきっている。だって蓮が咲いているのだ。蓮は地面にちゃんと根を張っている。だからせいぜい50センチとか、それ位しか水深はないのだろう。けれど池の水は暗くて中が見えない。だから深さが分からないんだ。もしもこの池に落ちたとして、僕の予想とは違い水深が深かったらどうだろう? 僕は池に沈んでいくのだろうか? ズブズブと? 池の底は案外、底なし沼みたいに深いのかもしれない。



沼。僕はそれも彼に教わった。池も沼も湖も区別はないんだということを。全部同じものを、大きさや雰囲気で呼び分けているだけ。それらをまとめて池沼と呼ぶと彼は教えてくれた。池沼だって。初めて聞く言葉に僕が驚いて「先生みたいに物知りだ」というと彼は微笑んだ。「そうだね、じゃあ将来は本物の先生になろうかな?」なんてそう言っていた。僕は彼なら先生がよく似合うと思った。





僕はクルクルと池の周りを歩く。ちょっとふらついた。

「わ!」

悲鳴を上げると彼が僕の腕を掴んだ。

「危ないなー」

彼は僕を自分の方に引き寄せた。

「ありがと!」

笑顔で言うと、彼は意味ありげに笑った。そして意地悪にこう言った。

「君が落ちたら、蓮の茎が折れちゃうよ」









水の音が聞こえた気がした。

綾人はベッドから抜け出すと窓に向かう。

白く煙る朝もやの向こうをじっと見つめる。



この先に池がある。それが分かっているから、水音の幻聴を聞くのだ。

忘れられない水の上の花。

綾人は思う。

きっと自分が死ぬのは水の中だ。水の中で犯した罪は水の中で償おう。

彼は? 彼はもうすでに償ったのだろうか? あの水の中で?

花は可憐な姿で咲いていた。

黒い水の中から、あんなにも美しい花が咲く。

犯した罪の中から、償って美しい花を咲かせる。



綾人は時計を見る。午前6時すぎだった。綾人は着替えて、そっと部屋を抜け出した。

寮から出ると、林の方に向かって歩き出した。



林を抜けると池に出る。綾人は池を目指して進んだ。

昼ともなると汗が滴り落ちるほど暑いが、早朝はまだ涼しく、歩いても暑さを感じなかった。10分ほど歩くと池のほとりに辿り着いた。



蓮池。池はみんなにそう呼ばれていた。正式名は他にあったが、学園の生徒たちは単に蓮池と呼んでいる。

蓮。それは花蓮のことだ。綾人は背丈ほどに伸びた蓮の花を見渡した。大きな緑の葉と、高く茎を伸ばして咲く花。この蓮池の花は儚い位の白だった。



綾人は一番手前にあった蓮の花を覗き込んでみた。微かな香りがする。ミントのようなレモンのような、少しとがった香りだと思った。

蓮の花は夏の短い期間にだけ咲く。7月中頃から8月中頃にかけて。花は早朝花びらを開き、午後の3時すぎには閉じてしまう。

同じように水面に咲く、よく似た花に睡蓮がある。睡蓮はその性質から眠る蓮と名づけられた。二つの花はよく似てはいたが見間違う事はない。睡蓮が水面に浮かぶように咲くのに対して、蓮はヒトの背丈程にも背が伸びる。葉も同じだ。だから池に来た事がある人間は間違えるという事がない。



人間の背丈ほどに伸びた蓮の花と葉は、人を魅了する。見渡す限りに幻想的な風景が目の前に広がるのだ。

その光景は綾人の心にも焼き付けられていた。



学園に入学して初めて蓮池を見た。それまでの季節とはまるで違う風景に胸が突き動かされた。それはさながら天上の国だと思った。仏教で、お釈迦様が座る台座のモチーフ。それが蓮だ。その美しさ気高さは、下界とは違う世界の物に思えた。だから綾人は夏になるとこの蓮池に通っていた。去年も、そして今年も……。



綾人は蓮池の周りをゆっくりと歩き出した。池の大きさはさほどではない。道があるわけでもなく、柵があるわけでもない。ただ雑木林の中を池に沿って歩く。花を見ながら歩くので、池の中に落ちないように気をつける。



半周あたりで綾人は立ち止まった。そして池を見渡す。大きな丸に近い緑の葉と、白い花。綾人はゆっくりとその場にしゃがみこんだ。そして花を見上げてみる。白い蓮は青空に浮かんで見える。

「去年ここで……」 

綾人は呟いて目を閉じた。去年の光景が浮かぶ。もみ合う二人。水の音。蓮の茎を折り、暴れて沈めた人。

ズクンと胸が痛んだ。綾人はTシャツの上から胸を押さえる。

「僕は悪くない、悪くないハズだ。悪いのは彼であって僕じゃない。僕じゃ……」



許してと請われた。それを冷たく断り、更に暴力に訴えた。最初に悪いことをしたのは彼の方だった。だから自分が悪いんじゃない。仕返しや復讐は正義だ。だから自分は悪くない。



綾人は必死にポケットを探る。そこからノートを引っ張り出した。ページを捲ると目的の文字を探し出す。

『彼はもういない。死んでしまった。けれどそれは僕が悪いんじゃない。彼のせい、自業自得なんだ』

その文字を読んで綾人は落ちつきを取り戻す。



「そうだ……僕が悪いんじゃない、このノートもそう言ってくれてる……」

綾人は呟くとノートをまたポケットにしまった。



綾人は考えた末にノートを持ち歩く事にした。危険だと分かってはいたが、どうしてもノートを開きたくなった時に、その場にノートがない事の方が怖かった。だから綾人はノートを持ち出し、この蓮池に来ていた。この蓮池が去年のあの場所だから、持って来ずにはいられなかった。



綾人は顔を上げた。白い花が見える。可憐で清楚な花。黒い水の中から、こんなに白い花が咲く。

「僕は悪くない……」

綾人は白い蓮に自分を重ねて見ていた。







「綾ちゃんどこ行ってたの?」

寮の廊下を歩いている時に一意に捕まった。

「え、うん、ちょっと散歩に……」

「なーんだ、一緒に朝ごはん食べようと思って部屋に行ったのにさ」

「ああ、ごめん」

綾人はそう言うと一意を見つめた。

「それで? もうご飯は食べたの?」

「うん」

「そっか、じゃ僕も朝ごはん食べてくるよ。そしたら何かして遊ぼう」

「わーい、やったー!」

一意は嬉しそうに廊下で跳ねた。

「一応、夜ちゃんと清春にも声かけておくね! 談話室に集合って事で!」

「ああ」

返事をしてから振り向くと自室に向かった。

夜彦は来るのだろうか? 団体行動はしたくないと言っていたが。綾人は少し不安を抱きながら部屋に戻った。





談話室には清春と一意が来ていた。

「夜彦は?」

「なんか一人で絵を描くって言ってたよ」

「……そう」

気にはなったが、綾人はそれ以上、夜彦の事は聞かなかった。二人の向かい側の椅子に綾人が座ると、一意が言った。

「なんかこうして誰も居ない寮の中に三人で居ると、去年を思い出すね」

「……そうだな」

短く清春が答える。綾人はそんな清春を見つめた。

少し茶色の髪の理知的な顔の少年。その整った顔が少し憂いを帯びている。清春はきっと今の言葉で、去年はここにいた望森の事を思い出したのだろう。清春と望森は仲が良かった。少なくとは綾人は、望森と一番仲が良かったのは清春だったと思っている。



「昼飯何食べようか?」

「ええ? さっき朝ごはん食べたばかりなのに、もう昼飯の話?」

「なんだよ、良いじゃないか、どうせする事もないし、一番の楽しみは飯だろう?」

望森の話題を避けようと清春は昼の話をしだしたのだと思った。綾人はそれに合わせる。

「イチイが一番好き嫌いで我がまま言うもんね」

「なんだよ、綾ちゃん、俺が子供みたいな言い方じゃん」

ふくれた顔の一意に清春が言う。

「お前は子供だろう。見た目も中身も」

「なんだよ、バカにすんなよ。俺がこの中じゃ一番大人だと思うぜ」

面白そうに清春が目を光らせる。

「へー、大人なんだ? どこがどの辺が?」

挑発するように言われて一意は立ち上がった。

「いいか、俺にはな……」

もったいつけてから一意は言った。



「俺にはなんと、彼女が居るんだ!」

「ええ!?」

それには二人とも驚いた。一番彼女という存在が似合わない、まだ早いと思える一意に彼女が居る。二人ともそんな事を考えた事もなかった。

「ほ、本当に?」

綾人は信じられないという思いで聞いた。すると一意は二人の反応に満足したのか、胸を張って言う。

「ああ、もちろん本当だよ。ま、遠距離だけどな」

清春が落ち着きを取り戻して、指をさしながら言う。

「お前だけがそう思い込んでるんじゃなくてか?」

「あったり前だろう! ちゃんと恋人同士なんだよ!」

「……えっと念のため聞いておくけど相手は人間?」

「綾ちゃん!」

「……変態オヤジとかでもないんだな?」

「清春!」

綾人と清春の二人は顔をつき合わせて、小声でこそこそ話す。暫しの間の後、清春は一意を見つめると真顔で言った。

「妄想だな……」

「だから違うってばー! ナメてんのか? 二人とも!」

一意が必死になって怒鳴る。その様子に綾人は微笑みながら謝罪する。

「ごめん、ごめん、冗談だよ」

「もう!」

一意は再び椅子に座りなおした。そんな一意を見ながら、当然のように清春が聞く。

「彼女っていくつ? 遠距離って言ってたけど、どこにいるの?」

その問いに一意は片手で頬杖をつきながら目を背ける。

「内緒」

「内緒だぁ? やっぱり嘘なんじゃないのか?」

一意は清春を睨む。

「こういう話は内緒なもんなんだよ。簡単にペラペラとは話せないもんなんだ!」

清春は黙り込む。

「……まあ、言いたくないならいいけどさ……」

自分から自慢しておいて、詳しく聞かれると黙りこむ。ずいぶんと勝手な気もしたが、けれどそういうものかもしれないと、綾人は思い直した。

誰もがみんな、友達の知らない秘密を持っている。多少の秘密を聞かされて知っていても、それがすべてではない。きっと清春や夜彦も、望森と自分がそうだったように、みんなそれぞれの秘密を持っているんだ。



「昼飯さ、焼きそばとかどう?」

一意の発言に清春が頷いた。

「良いんじゃない? 簡単だし、みんなでわいわい食べられるし」

「夜ちゃんの分も作ってあげようよ」

「あいつ団体行動はパスって言ってたじゃんか」

そう言う清春に綾人は答える。

「でもご飯は別じゃない? 夜彦が料理できるとも思えないよ」

「じゃ、混ぜてやるか」

そう言いながら清春は席を立った。

「じゃ、買出しに行こうぜ。昼なんてあっという間に来ちゃうからな。2、3日分買い込んでおこうぜ」

「賛成」

そう言って綾人も立ち上がる。

「豚肉にキャベツに海老も買おうよ!」

張り切って言う一意に、清春は首をかしげる。

「海老って普通焼きそばに入ってるか?」

綾人は考えながら答える。

「あんまり入ってないような気がするけど、でもそれはそれで美味しそうだね」

「じゃ、買うか?」

「わーい!」



三人は町まで買出しに出かけた。

町のスーパーまではバスで25分、自転車で15分の距離だった。寮には共用の自転車が数台あり、三人はその自転車で買い物へと向かった。田舎道とはいえ、ちゃんと道路は舗装されていて自転車での買い物は快適だった。多少の暑さはあるが、緑が多いので道のりは快適と言える。



先頭に清春、次に一意、そして綾人の順に自転車は一列になって進んでいる。その時、真ん中に居た一意が声を上げた。

「ね、あそこの林の中に居るの、夜ちゃんじゃない?」

一意は自転車を止めると、左手を伸ばして指をさした。その先で座り込んでいる人影が見える。綾人と清春の二人も自転車を止めて片足で立つ。

「昼飯の話、しておいた方がいいよね?」

「そうだな、じゃ綾人伝えてきてよ」

「え? 僕が?」

「ああ、よろしく、俺らは先行ってるからさ、スーパーセブンハートの中で待ち合わせな」

「よろしく、綾ちゃん」

二人は自転車を再び漕ぎ出した。綾人はそんな二人の姿を呆然と見送ると、仕方なく自転車を道路脇に止めた。

「しょうがない……」



何でよりによって自分が? そう思ったが、単純に一番後ろにいたから頼まれただけだと気付いた。

(まさか、僕が夜彦とあんまり二人っきりになりたくないって思ってるとは、考えてないだろうからな……)



綾人は雑木林の草を踏みしめて、木々の間へと入っていった。

近づいてみると、夜彦はクロッキー帳に絵を描いていた。集中しているのか、綾人が近づいた事にも気づかない。

「夜彦」

呼ぶと驚いた顔で振り向いかれた。

「綾人か、どうしたんだよ、こんなとこまで散歩か?」

「いや、清春たちと買出しに行く途中だったんだ。昼飯作るから、夜彦もあとでおいでよ」

「へー、昼か。何の予定?」

「焼きそば」

「また簡単なもんだな」

「まあ、作るのが僕達だしね」

夜彦は笑う。

「じゃあ後で行くよ。1時位に食堂に集合って感じで良いのか?」

「うん、それとここ数日の買出しもするから、もし僕らと同じメニューで良いなら、後で食材費、ワリカンにするけどどう?」

夜彦は暫く悩んでいたが、やがて頷く。

「うん、じゃあ混ぜてもらう。毎回コンビニ弁当も飽きそうだしな」

「了解。でも料理は次からは交代だからな」

「ああ、いいよ」

綾人はそのまま自転車まで戻ろうとして、ふと立ち止まった。

「今何の絵を描いてたの?」

聞くと夜彦はクロッキーを開いて見せた。

「花?」

綾人が呟くと夜彦は頷いた。

「あれだよ」

夜彦は指をさした。その先を追っていって綾人は気づく。

「サルスベリ……」



視線の先に細かな花を咲かせた木があった。幹のツルツルとした細めの木。それが4、5本立って花を咲かせている。花の色は赤、白、ピンクとある。その細かな花に綾人の記憶が甦る。この木の事を去年教えてくれた人。今はいない人……。

「さすが、綾人はちゃんとこの樹の名前を知ってるんだな。俺なんか名前も知らずに描いてたよ」

「……」

僕も知らなかった。去年、彼に聞くまでは。そう思いながら綾人は黙って百日紅を見つめていた。去年と同じように花は咲く。蓮も百日紅も他の花もみんな。そしてその同じ場所に自分は居るのに、彼は居ない。



綾人は胸を押さえた。苦しい。早くこの場から立ち去りたい。

「綾人?」

いぶかしむ夜彦に背を向ける。

「買い出し、行ってくるから」

自分の顔を見せないようにしながら、綾人は早足で林の中を進んだ。すぐ先に道路に止めた自転車が見える。日の光の下で輝く自転車。早くこの暗い、日の当たらない林を抜けてそこに向かおう。早く。闇に呑まれてしまう前に。あの光の下に。何故だか綾人は焦るように、自転車を目指して歩いていた。









買い出し後。綾人は自室に戻るとノートを開いた。

このノートには本音が綴られている。誰にも言えない事を誰かに言いたくて、でも言えなくて、その気持ちをノートに書く事によって昇華している。読む事によって安堵している。キリスト教の告解と同じかもしれない。



昼食は予定通り焼きそばを作り、四人で食べた。夜彦は団体行動は苦手だと言っていたが、結局夕飯だけは四人で毎回食べることになった。夜彦も料理が得意ではなかったからだ。さすがに毎食、コンビニのお弁当やおにぎりと言うのは嫌だったのだろう。

四人の生活がそうやって続いた。

各自が適当に毎日をすごす。綾人、清春、一意は比較的一緒に。夜彦だけは別に。けれど毎日の夕食だけは四人一緒に作り食べる。そんな毎日だった。





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