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第四章

第113話 善巧方便

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 ない……ないッ……! トイレがっ――

「ない……」

 襲い来る便意と向き合うこと幾星霜……いや、本当のこと言うと、どのくらい時間が経過したのか、さっぱり分かっていない。ただ、体感だと物凄く長い時を歩んでいる気がする……。水の尽きた砂漠で、ありもしないオアシスを探しているような感覚だ。

「ぐぅっ……皇帝ともあろう者が、なんと惨めな姿だッ……!」

 ギュルギュル鳴る腹部を両手で押さえ、纏わりつく冷や汗すら拭うこともできず、波打つ便意に媚びを売るかのようにずり足での移動……。人が出歩いてないのが唯一の救いだ。こんな姿、他人には見せられない……

 しかし、人が出歩いていないということは、全員自分の店ないし家に閉じこもってるということだ。帝国兵が蔓延ってる以上、こちらの呼びかけに答えることはないだろう。

 つまり、今の僕が探すべきは――『公共のトイレ』だ!

 公共のトイレなら許可を取る必要もなく自由に使える……! 普段の僕なら使わないが、幸い今は見てる者もいない。見つけさえすれば僕の勝ちッ! そして済ませた暁には、あの不遜な男を見つけ出しっ――今度こそ必ず殺してやるッ!

 そんな湧き上がる殺意で便意を掻き消していると、まるで引き寄せられてきたかの如く希望の光が舞い込んでくる。

「はっ……はははっ……あった……!」

 どの世界でも公共のトイレは大して変わらないようで、真四角で男女半々に分かたれた外観は外からでも見間違えようがなかった。

「ふっふっふ……僕の勝ちだ……! 待ってろっ……すぐに済ませて――」

 人は勝利を確信した時が一番危険。そんなこと分かり切っていたはずなのに……。僕はこの状況から解放されたいがために、すぐさまトイレへと駆け込んでしまう。だが、お察しの通り――

「なっ⁉ バカなっ……扉が全部……閉まっている……⁉」

 扉は全て閉まっていた。それ即ち使用中ということ。だが、そんなこと有り得るのか……? いや、有り得ないッ! ただでさえ出歩けるような状況じゃないんだ! 使うなら自分の店のトイレを使うはず! つまり、誰もいない! いないに決まってるッ!

 ガチャガチャッ――

 しかし、無慈悲にも鳴り響く鍵の掛かった音……

 ガチャガチャッ――

 隣も……

 ガチャガチャッ――

 その隣も……

 ガチャガチャッ――

 一番奥……最後の扉でさえも……

「くそっ……! 誰も居ないはずなのにッ……何故、閉まっているんだァ……‼」

 頭に血が上り、怒りに任せて扉を叩く。すると中から――

「入ってま~す」

 聞き覚えのある気の抜けた声が聞こえてくる。

「その声は……ダンかっ⁉ 何故、貴様がここにッ……!」
「何故って、そりゃあ……う〇こしたいからに決まってんだろ? 可笑しなこと聞きやがる……」

 姿は見えずとも、ほくそ笑んでる姿が目に浮かぶ……! こいつ、まさかッ……!

「先回りしたな……⁉ 僕に使わせないためにィ……!」
「人聞きの悪いこと言うなよ~? ここは己の生理現象と向き合う神聖な場所。みんな静かに、その時を待ってるんだ。邪魔するつもりなら他を当たりな。ま、探しても無駄だろうがなぁ~?」
「くそっ……! この卑怯者がァァ……!」

 そう言いつつも僕は別のトイレを求め、敢え無く撤退。

 あの場に留まっても事態は好転しない。無理やり抉じ開けようにも、力を使おうとすれば自然と力む。そうなれば恐らく終わる……色々と。

「奴に先回りされる以上、もう公共のトイレは使えない……! ぐぅっ……どうすれば……!」

 先ほど油断した所為もあってか、正直もう限界が近づいていた。
 今や腹部に当てていた両手も、尻を塞いでいる始末……最早そこに恥も外聞もなかった。

 ある種、無敵とでも言える境地。
 そんな精神に達した今だからこそ、視界の端に入ってきた一筋の希望に目が奪われる。

 身を隠せそうな草むらと、大きな樹影を落とす一本の木――

 街の景観用に残されたものか、はたまた植えられたものなのか……。いや、そんなことはどうでもいい。
 今大事なことは僕の足が自然とオアシスへと誘われ、草むらの中心でベルトに手をかけていたということだ。

「そう。もう我慢する必要はない……どうせ誰も見てないんだから。――そんなこと思ってんじゃねえだろうな?」

 一瞬、僕が放った言葉だと錯覚してしまった。だが、すぐにそれは違うと気付く。こんな人の神経を逆なでするような奴は一人しかいない……!

「なんでッ……何で貴様が居るんだよぉぉおおぉお……!」

 悶えながら見上げると、そこには――木の枝に座り、幹に寄りかかるダンの姿があった。

「言ったろ? 『今は、オレがお前を見てやる』って。ほら、さっさとやれよ。見ててやるからさ?」

 さっき言った台詞と同じとは思えない程の悪魔っぷり。
 ニュアンスでこうも変わるのかと恐ろしささえ感じてしまう。

「貴様は一体っ……何がしたいんだぁ……⁉」
「別に~? オレはただ、お前が下らねえ肩書き捨てるのを見たいだけさ」
「肩……書き……?」

 ダンは後頭部で手を組み、木の幹に仰け反りながら理由を語り始める。

「お前が皇帝だったのは昔の話だ。そんなもんに囚われて生き辛いんだったら、皇帝なんて肩書き、さっさと捨てちまえっつってんの。なーに、お前の歳なら漏れそうになって野糞するくらい、別に不思議じゃねえから安心しろって」

 今にして思えばダンはこの時、手を差し伸べていたのかもしれない。しかし、今の僕は――

「ふざけるなッ……! 皇帝たる僕がっ……そんな、はしたない真似できるわけないだろッ⁉」

 どうにも意地を張ってしまい、その手を振り払ってしまう。
 そして、外しかけていたベルトを締め、逃げるように草むらから飛び出した。



 もう完全に限界……便意はすんでの所まで襲来し、今や皇帝たる堂々とした姿は見る影もない。
 半泣きのまま何とか出すまいと肛門を絞めるも、ほぼ諦めの境地。刻々とその時は迫っていた。

 そんな僕が最後に向かった場所、それは――

「あら、坊や。さっきはありがとうね。何か欲しいものでもあるのかい?」

 先ほど助けた老婆の店だった。

 あんな態度を取ったにもかかわらず、優しげに語りかけてくれる老婆。きっとこの人ならトイレを貸してくれる。そう思ってきたはずなのに……

「………………」

 『トイレを貸してほしい』……そんな一言さえ出てこなかった。ただ半泣き状態で見つめ、もじもじするだけ……実に情けない。

「もしかして……うん、いいよ。うちので良かったら使っていきなね?」

 だが老婆は何も言わずとも僕の状況を察し、包み込むような笑みと共に店内へと手招きする。

 僕はというと……また礼の一つも言えず、無言で頷き、その厚意に甘えることしかできなかった。
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