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潤の麒麟

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 屋敷外へもうかつに出られない状況の中、一博は潤の安否を案じて悶々と過ごした。
 屋敷内をうろつく英二にもイライラし、きつい言葉で怒鳴りちらした。
 だが英二は、こうしてまたひとつ屋根の下に居られるだけで、かなり満足な様子だった。

「兄貴。そんなに心配するなって。月笙はきっと大丈夫だよ。うん、大丈夫」などと、根拠もクソもない呑気な返答をよこすだ。
「オマエにとっちゃ、一時、同盟を結んだだけの仲だし、しかも恋敵だからな。けどオレにとっちゃ潤は……。潤は……。必要不可欠なビジネス・パートナーなんだぞ」
 英二の態度に苛立ちをつのらせていったが、今回は英二を追い出すわけにもいかない。
 しかもいつまで篭城すれば安全かも見当がつかないありさまだった。

 神龍とのパイプ役は潤ひとりだった。
 一博が知っていたのは、倉庫の所在地と、例の豪華マンション、監禁されていた中島興産ビルだけである。むろん今、その三箇所はもぬけのカラである。
 海外の堂口(支部)はおろか、日本国内の他のアジトすら全く知らされていない。
 潤の行方を捜そうにも手がかりさえない。しかも……。
 一博救出劇の関与について、潤がうまく取り繕っているとすれば、下手に動くことでかえって危機に陥れかねないというジレンマもあった。

 一博の焦りとは無関係に、二週間が無為に過ぎていった。

       
 
 八月も末の三十日、朝から日差しがじりじり肌を刺す昼下がりだった。
 気温はさらに上昇し、温度計を見るのもいやになる。
「今までは、潤が細かいことを全部引き受けてくれていたから、うまく回ってたが……」
 気まま、わがままな一博のスケジュール管理は勿論、組の全ての状況を把握し、幹部に適切な指示を出していた。
 各種の掛け合いにも、自ら出かけて巧みに交渉し、こちらの有利にことを運んでくれた。

 一博だけでなく、組の構成員全員が、潤ひとりに頼りきった体制になっていた。
 今さらながら、潤のありがたみが身に染みた。
「どうアクションを起こせばいいんだ。無事なら何か連絡をよこすだろうに」
 一博は離れ座敷の太い柱を思い切り蹴飛ばした。
 太い檜の柱に振動が伝わり、天井からぱらぱらと埃が舞い落ちる。
 今度は壁を拳で何度も殴った。
 壁に大きくヒビが入り、拳が痛みを訴える。

 田丸総本部長が、「組長、こんな荷物が届きました。絵を買われたんすか? 爆弾にゃ見えねーし。直接ここまで運んで来ましたが」と、かなり大きな額縁のような形の荷物を運んで来た。

 差出人の名は、神龍貿易公司とあった。
 手がわなわなと大きく震える。
「もういい。ここに置いて向こうへ行け」と、田丸を早々に追いやった。

 何が入っているか、皆目見当がつかない。
 動悸がさらに速まった。
 梱包を解く間ももどかしく、バリバリ引き裂いた。
「ひッ」
 短い悲鳴とともに、畳にしりもちをついた。
 足ががくがくと震え、立つこともできない。
 一博はそのまま固まった。
 立派な額に収められていたのは……。

 刺青の入った背中の皮の標本だった。
 見間違うはずもないあの麒麟。

 刺青愛好家は、密かに刺青の入った皮を収集し、コレクションする。
 そのオークションさえあると聞く。
 だが、あくまで入れ墨を背負った人間が、老衰なり病死なり、あるいは事故死なりして亡くなってのちに『買う』のである。
 だがこの場合……。

 ミスター・Kの、秋霜烈日たる制裁に、目の前が真っ暗になった。


 もうこの刺青の持ち主はこの世に居ない。
 全ては遅すぎた。
 一博は己の無力さを呪った。

「どうしてなんだ!」
 悔し涙は何度も流してきた。
 だが心の底から湧き上がる涙は初めてだった。
 一博は号泣しながら部屋の中をくるくると歩き回った。
 畳の上を転げまわり、床に伏し身も世もなく痛哭する。

 悔しい、虚しい、悲しい。
 言い表せない思いが、身体の中を絡まった絹糸のように交錯した。
『九腸寸断の思い』とはこのことだろうか。

「なんで……なんでこんなことになっちまったんだ」
 あの潤は失われてしまった。


 永久に……。






 頼りになって、誠実で、思慮深く、いつも冷静で……。
 一博の全てを笑って受け止めてくれた潤。
 浅慮のまま暴走する一博の手綱をさばくことができた唯一の存在。

 今ならわかる。
 お互い、外見も内面も全く正反対であるがゆえに惹かれあった。
 パズルのピースのようにピタリとはまって、互いに補いあってきた。


「わァああああああ」
 自分の分身が失われた痛みに、一博は畳を激しくかきむしり、獣のような声をあげる。
 爪がはがれ、指が血まみれになっていったが、かまわずバリバリと爪を立て続けた。

「組長! 大丈夫ですか」
 田丸総本部長や舎弟たちが、慌てて駆けつけてきた。
「来るなッ! 向こうへ行ってろッ」
 障子をピシャリと締め切って、潤であったものと座敷に籠もった。



 室内は、見る間に室温が上昇していく。
 だが、一博は二年前のあの日の寒さを感じていた。
 体中を悪寒が走り、指先が凍え、震えた。


 救出されたあと、寒さに震え、潤にすがったあの日。
 潤の肌は温かかった。
 だがあのときも潤は自分を拒絶した。
 本心をひた隠しにして……。

 そして心を打ち明けられたとき……。
 今度は一博が突き放した。
「オレはバカだった」
 すべてがすれ違いばかりだった。

 傲慢だった。
 悔いても悔やみきれない。
 こんな結末を迎えるなんて……。

 一博は声が枯れ、涙が枯れるまで泣いた。

       

 どのくらい痛嘆の涙を流し続けただろう。
 いつのまにか意識は途切れ、涙はもう出なかった。
 一博は、額から潤のものを取り出し、そっと畳の上に置いた。
 傍らに横たわり、静かに触れてみる。

 和紙の台紙に、美しい飾りピンでとめられたそれは……。
 まるで羽を広げた蝶の標本だった。

 こんなに綺麗だったんだ。
 刺青の美しさ、官能性に魅入った。

 オレもおそろいの入れ墨を彫っておきゃ良かった。
 今になって、刺青否定派だったことを後悔した。
 昔のヤクザ映画じゃあるまいし、古臭い。この時代に、墨を入れて何の得がある。温泉やジムで締め出しを喰らうのが関の山だと考えていた。
 いくら琢己に勧められても『おやっさん。オレだって極道として生きる覚悟はちゃんとできているんですから。そんなもので意気込みを示さなくたって……』と、ついに墨を入れることはなかった。

 ごく最近になって、流行のタトゥーを腕や肩にいれていた。
 飽きれば簡単に消せるような浅い機械彫りで、デザインも今風の奇抜でいかにもな図柄だった。
「和彫りの良さが今さらわかっても遅いな」
 一博は薄く笑った。



 遠いあの日、勇壮な龍と凛呼とした麒麟がせめぎあう姿を垣間見た。
 すべてはあのときから始まった。
 自分はその美しさに魅せられていたのに気付いてはいなかった。
《対の麒麟が、食みあい、絡み合う》
 そのさまを思い浮かべ、一博は己の股間に手をやった。

「潤。潤」
 一博は潤の名を呼び、己を高みへと導いた。
 今まで幾度となく繰り返してきたセックスは、すべて虚しいものに思われた。
 今、潤がここにいて……。
 潤とのセックスだったら……。
 妄想は存在しない仮定だからこそ美しい。
 一博はありえないような絶頂を迎えた。
「待ってろよ。潤。オレも……オレもすぐいくからな」


 何度果てただろうか。
 一博は体内の精という精を吐き尽して、そのまま意識を失った。
 それはあの龍と麒麟の渡り合いを見たあの日以来だった。

      



 あくる日の晩まで、食事も取らぬまま離れ座敷にいた。
 運ばれた食事にも手をつけず、明かりも点けず横になったままである。

 突然、携帯がのどかなユーモレスクのメロディーを奏で始めた。
 ふたつ持っている携帯のうち、その番号は私用で、曲は潤からのコールのときにだけ流れるよう設定されたものだった。

 潤が電話を?
 震える手で携帯を開いた。
 だが……。
 淡い期待は、すぐさま木っ端微塵に打ち砕かれた。
「わたしだよ。一博くん。あの『バースデー・プレゼント』気に入ってくれたかね」
 それはまぎれもなく、あの悪魔の声だった。

 そういえば、昨日はオレの二十七回目の誕生日だった。
 ミスター・Kの残虐性を再認識させられた一博の怒りは、怒髪衝天、抑えがたくなっていった。
「よくも潤をッ! オマエも男ならオレとさしで勝負しろ! 潤の仇を討ってやる!」
 一博は、こういうシーンでお決まりの台詞を口にした。
「その度胸があるなら例の倉庫に来なさい。きっかり零時にね。ふふふ。何人でも連れてくるといい。まあオマエのことだ。サツを連れてくるなんて恥ずかしい真似はしないと信じているよ。くく」
 そこで電話は一方的に切られた。

「くそ~! 待ってろ! 一人で行ってやる!」
 一博は携帯を庭の敷石に叩きつけた。

       

 飛んで火にいる夏の虫。
 今までの一博なら、それなりの下準備をなし、その上での度胸だった。
 だが、今度ばかりは違う。

 もうどうだっていい。
 悲壮憔悴しきった一博は、冷静な気持ちを失っていた。
 命はくれてやる。けど、ただじゃない。

 一博は誰にも知られぬよう屋敷をあとにした。
 真夏にロングコートは目立つ格好だったが、この際やむをえない。
 エナメルのコートの下にはさまざまな武器が隠してあった。
 自分の愛車のアルファロメオGTVになら、自動小銃まで積み込めるが、車庫まで行って車を出そうとすれば、舎弟たちに見咎められて止められる。
 仕方なく軽装備での出陣である。
 それでも、手榴弾まで用意していた。

 レンタカーのクラウン2000スーパーDXを転がしながら、一博は、派手なラストシーンを思い描いた。

 昔のヤクザ映画によくあったな。一人で乗り込んでいって派手にやりあうやつ。
 重傷を負いながらも、相手の組の組長を追い詰め、最後にはしとめるが、自分も死ぬという、陳腐なラストシーンを思い浮かべた。
 
 遠くから狙撃されておしまいはいやだな。
 どうせならド派手に殺しまくって、自分も蜂の巣になるとか、あちこちぶっ刺されておしまいとか……。
 とにかく最後はドカンと、壮絶にいきたいよな。
 自らの幕引きが、男らしく華々しくあることばかり考えていた。
 今まで何度かあったピンチは、あまりにも情けない状況で、男らしい死に方とおよそ縁遠かった。
 だが、今度こそヤクザらしい死に方ができるのではないか。
 最後の締めくくりとしては上等だと、一博は思いたかった。





 だが皮肉なことに、またも一博の思い通りにことは運ばなかった。


 件の倉庫のまわりは静まり返っていた。
 暗い波が岸壁に打ち寄せる音だけが、鼓膜に響いてくる。
 車を降り、倉庫を目指して歩く途中で狙撃されないかと気を配ったが、杞憂だった。

 やつらは多人数なんだから、姑息な手段に出る必要なんてないよな。
 乾いた笑いがこみ上げてくる。

 すべてを清算する。自分でもよくわからない自分の感情にも……。

 ひどく爽快な気分だった。
 潤の仇を討つことも重要だったが、自分の人生の幕引きをいかに演出するかが最も重要な課題である。

 この生に自分で決着をつける。そして……。

 潤のところへいこう。
 どのみちふたりがゆくところは地獄だ。
 地獄でまたコンビを組んで悪さをしよう。
 そんな感傷的な気分にさえなっていた。

 もう何も考えなくていい。
 一博は、銃を両手に握り締め、倉庫の扉を開いた。
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