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英二の危機、母との軋轢  ※ 流し読み可 ※

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 釈光寺琢己組長に、事件は、次のように報告された。
 矢波組組長矢波幸太郎が一博を拉致し、護衛の舎弟たちが犠牲になった。
 祐樹らが救出に向かったが、潤以外命を落としたと。
 琢己も、潤の言葉を信用しないわけにはいかない。
『祐樹は男として立派に死んだ』と、我が子を信じるほうを選んだ。
 真相を知るのは、一博と潤。
 祐樹の母典子も今となっては固く口をつぐむしかなかった。

 関西側も、取り敢えずダンマリを決め込んだ。

      


 一博が、弟英二からの電話で呼び出されたのは、一九九九年八月六日、今にも雷雨がきそうな昼下がりだった。
 遠雷を耳の片隅で聞きながら、英二を待たせている、スナック&喫茶『アケミ』に入った。
「こんなときだけ兄ちゃんに頼みごとするのはどうかと思うけど」
 英二は、高校時代ラグビーで鍛えた逞しい体を小さくしながら切り出した。
「うちの父ちゃん、貿易会社に務めてるだろ。父ちゃん、この年になっても海外出張が多くてさー」
「あ、ああ。そうだったっけ」
 一博は、義理とはいえ父親の顔を即座に思い出せない自分に苦笑した。

 子供の頃から、義父倉前正雄は出張がちだった。
 東洋人特有の、のっぺりした特徴のない顔。
 やぼったい黒ぶち眼鏡。
 無口で気が弱く、母親のいいなりだった。
 そんな義父を、こんな覇気の無い男にだけは絶対になるまいと、反面教師にしていた。

「父ちゃんが、こないだ上海に出張で行ったきり行方不明になっちまって」
「それで? そんなつまらないことを報告に来たのか。オレは忙しいんだ」
 一博は突き放すように言った。
「い、いや。そのことじゃなくて……。オヤジもいないし、他に相談するあてが無くって……」
 英二は、ますます体を小さくして、もごもごと言い訳をした。
「じゃ。なんだ? 早く用件を言えよ。忙しいんだからもう行くぞ」
 鹿のように善良な目を見ると、つい冷たくあたってしまう。
「実は……。オフクロが、倒れたんだ」
「え?」
 コーヒー・カップを持つ手が、ビクリと動いた。
 思わず動揺する自分が情けなかった。

「ずっと隠してたんだ。拡張型心筋症でさ。心臓移植が必要なところまで来ちゃっててさ。日本じゃドナーがなかなか見つからないから、アメリカに行ってって思うんだけど。その……。費用が五千万円くらいかかっちゃうんだ」
「そんなに要るのか。金持ちでなきゃ死ねってかァ」
「母ちゃん、看護士として皆にすごく好かれてるからさ。いま勤めてる敬愛病院のスタッフや患者さんが、たくさんカンパしてくれてさ。おまけに『白衣の天使倉前房枝さんを救う会』まで立ち上げてさ。ネットとか街頭で募金活動してくれたんだ。で、もうあと五百万くらいまでになっているんだ」

 周りの人間をそれほどまでに動かすとは……。
 他人にそんなに愛情を注ぐくらいなら、なんでオレには……。
 恨み言が口をついて出そうになった。だが、実際に言葉に出たのは、
「で、残りをオレになんとかしろと?」だった。

「難しいとは思うけど、早くしないと、母ちゃんやばいんだ。ここまでお金の準備ができたんだ。あと少し。なんとしてもアメリカに送り出したいんだ」
「わかった。オレがなんとかする」
 言いおいて一博が店を出ると、外は吹き降りだった。ずぶ濡れになりながら、待たせていた車に向かった。

「若、申し訳ありません」
 運転席から、田丸章次が転がり落ちるように飛び出してきた。
 荒城浩介が死んで以来、運転手を務める若い衆である。ズブ濡れになりながら田丸は一博に傘をさしかけ、素早くドアを開けた。


       

 一博は、あちこち頭を下げて金をかき集めた。
 琢己に頼めば快諾してくれそうだったが、自分でなんとかしてやるという気持ちがあった。

 これでおふくろもオレのことを見直すだろうな。
 一博の胸に、ほんの僅かだが心地良い風がそよいだ。


 十二月二十四日、アメリカユタ州のDYホスピタルから、一博宛にクリスマス・カードが届いた。英二経由だった。
 簡潔な文だったが、房江が、精一杯感謝の意を表していることは想像できた。

 ついにあの母に自分を認めさせた。
 もっと大きくなって、もっと認めさせてやる。
 一博は、さらに欲を出した。

       
 明けて二〇〇〇年一月六日の午後八時過ぎ、一博は同じ店で、半年ぶりに英二と顔を合わせた。
『アケミ』という店は、一博の組の幹部内海実が朱美という若い女に経営させていて、昼は喫茶、夜はスナックという形態で、繁盛していた。
 朱美はちょっとした美人で、時々組の者を連れてやって来る一博に、露骨に誘いをかけてくる。
 どうせ、内海の指図だ。オレの歓心を買おうって魂胆は見え見えだと思いながらも、内海の顔を立てて『アケミ』を利用してやっていた。

 一博と英二は、店の一番奥まった席に陣取った。

「兄ちゃん。オフクロ、今週から職場復帰するんだ。まだ夜勤は無理だけどね。免疫抑制剤も量も減ったし。オフクロはやっぱ仕事していないと元気が出ないらしいよ」
 英二は満面の笑みで報告した。
「オフクロに、あの金は返さなくていいと言っとけ」
「ほんとにありがとう。兄ちゃん」
 英二は人の良さそうな顔に満面の笑みを浮かべ、感謝の気持ちを体中で表している。

「母ちゃんすごく喜んでたよ。ホントはここに一緒に来るはずだったんだけど。兄ちゃんがどう思うかと……」
「もういい。オフクロの話はもうすんな」
 雲行きが変わりそうな一博に、英二は慌てて話題を変えた。

「オレ、臨床心理士と、言語聴覚士の資格も取ったんだよ。そのうち助産士の資格も取るかもね。ふふ」
「オマエ、いったいいくつ資格を取るんだ? それも助産師って? それって昔の『産婆』だろ? マジかよ~」
 
 たわいもない話が続いた。
 だが……。
 歓談の最中でも、一博の胸中に、あの病院での夢が、喉に刺さった魚のトゲのようにわだかまっていた。

 だがこうして話している英二は、そんなそぶりなど全く感じさせない。

 爽やかな好青年――倉前英二の一生など、容易に想像がつく。
 心の優しい可愛い女の子を射止めて、明るい家庭を築き、休みには公園で子供たちとキャッチ・ボール。
 共稼ぎでコツコツ貯めて、資金が貯まったら、郊外に小さな庭つきの一戸建てを買って、花をいっぱい植えて……。分相応を弁えて、地味に真面目につつがなく一生を終えるのだろう。
 一博には理解できない、退屈な人生を送りそうに見える、この英二が……。

 他のふたつは確かに夢だった。だから、英二が自分に口付けをしたのも、夢だったに違いないと納得しているものの、心の隅に滓のようにわだかまる思いがあった。

 飲めない酒を、ちびちびと飲む英二を見ながら、『こいつが、ンなわけないよな』と、ひとりごちた。
「でさ……高齢化社会に見合った福祉のありかたとしてはさ……」
 英二は、将来について、社会について、目を輝かせながら饒舌に話しつづけた。
 青臭い理想論が一博をいらだたせたが、その夜だけはじっくり聞いてやることにした。
「こうして兄弟二人で飲むのもいいな。また近々電話するから。今度は、高級なクラブに連れて行ってやるぞ」
 したたかに酔った一博は、英二に肩を支えられて店を後にした。

 凍りつくような夜風が熱い頬に心地よい。
 運転手の田丸章次が、こちらに向かって、くの字に腰を曲げて挨拶し、黒く光るベンツのドアを開けて待っている。
 リムジンで送り迎えされ、たくさんの人間に頭を下げられる。一博は自分の境遇が誇らしかった。

 この姿を、オフクロにみせつけてやりたいな。
 思いながら車へと歩みを進めた。
 と、そのときだった。
 スナックのある雑居ビルと、隣の倉庫との間の路地から突然、ドスを持った男が三人、一博目掛けて突進してきた。
「関西は安目を売らんのじゃー!」
 矢波組の報復だった。
 一博は一人目の攻撃をよけ、男を蹴り上げて倒した。
 だが、酔っていたためその動きに日頃の切れは無かった。
「まずった」
 続いて突進してきた男の攻撃をかわしきれなかった。
 刃が一博の体に吸い込まれるように突き立てられる。
 ……と思われたが……。
 英二が男との前に立ちはだかっていた。
 英二は凶器が刺さったまま派手に転倒した。
「よくも、英二をッ」
 一気に酔いも吹っ飛び、男の喉を自分のドスでかき切った。
 男は倉庫の壁に激突し、そのまま動かなくなる。もうひとりの男も、田丸ともみ合いになっているところを、背後からチャカで撃ち殺した。

「章次、何をぐずぐずしている。早く病院に運べ。早く」
  一博の腕の中の英二はまだ息があったが、出血がひどく顔面が蒼白である。
「英二。死ぬな。英二~」
 夜の街を疾走する車内、必死に弟の名を連呼し続けた。
「兄ちゃん。オレ、兄ちゃんの役に立った?」
 英二が苦しい息の下から声を絞り出す。
「あ、ああ。助けてくれてありがとう。英二。けど死んじゃダメだ! そんなこと、この兄ちゃんが許さないからなッ!」
「オレ……兄ちゃんに嫌われてないか、迷惑がられてないかってずっと思っていたんだ」
 英二は苦痛に顔をゆがめながらも微笑んでみせた。
「何を言っているんだ。オレの可愛い弟じゃないか」
「弟……。そうだね。でも……弟じゃなきゃ良かったって、いつもオレは思ってたんだけどさ」
「え?」
「オレ、兄ちゃんのことを……」
 そこで英二の言葉は途切れ、そのまま意識は戻らなかった。
        
      

 搬送先の病院にかけつけた母房江と十年ぶりに再会した。
 房江は、こんなときでもキリリとして美しかった。髪を無造作に後ろに束ねたほつれ毛にさえ、年齢に似合わぬ強烈な色香がある。
「なんてことしてくれたの!」
 房江は金切り声で一博を叱責した。
「オマエはなんという疫病神なの! 英二が死んだら……死んだら……どうしてくれるの?」
 そっぽを向く一博に、房江が追い打ちをかける。
「お金のこと、手術の後に聞いたから、突っ返すこともできなくて。英二が、『父さんが退職金の前借をした』と言うから、それを信じたのよ」

 一博は唇をかんだ。アメリカからの房江の礼状は、英二が書いたに違いない。
「一博、オマエが死ねば良かった。英二なら、この先、どれだけ他人様のお役に立てたか……」
 房枝は一方的にまくし立てた。

 頭の中を、過去のことが次々にフラッシュ・バックする。
 雪の夜に裸足で閉め出されたこと。包丁を手に追い回されたこと。死ぬ寸前まで風呂の湯に何度も顔を浸けられたこと。体中にタバコの火を押し付けられたこと。
 そのときの狂気に満ちた、それでもなお、美しかった母の顔……。

「オレだって、オマエなんかのために、苦労して金をかき集めたわけじゃない。けなげな英二の気持ちについほだされただけだ」
 病室のドア横の壁を思い切り蹴った。
 房枝は一瞬ギクリとした表情をみせたが、すぐまたきつい目で睨み返してきた。

「一博。アンタって子は……」
 房枝が、一博の頬を思い切り叩いた。
「殴るぞ」
 一博が威嚇してやろうと手を上げた、そのとき。
 後ろからその腕をつかむ者がいた。
「お、おやじ?」
 そこには、倉前正雄の姿があった。

 記憶の中の義父とは違う。
 一博は父の強い目に狼狽した。

「あ、あなた。無事で……。今までいったい何処に……」
 房枝は夫の出現に一瞬動きを止め、すぐさま口汚くののしり始めた。
 ののしりながら、大粒の涙を流しつづける。それは、一博が初めて見た房枝の涙だった。
「すまないね。房枝。実はちょっとしたトラブルに巻き込まれてね」
 正雄は妻に、今まで行方不明になって連絡さえ取れなかったいきさつを、くどくどと説明し始めた。

 こんな男でも、自分の妻のピンチには男気をだすんだな。
 一博は妙に感心しながらその場を足早に立ち去った。

      

 緊急手術を受けた英二は危機を脱し、集中治療室から出られた。
 だが、意識は戻らない。
 大量出血で、一時期、脳に十分な血流が確保されず、脳に大きなダメージを受けていた。一生植物人間状態かもしれない。医師たちの見立ては、絶望的なものだった。


 毎日房江のいない時間を見計らって、病室を訪ねるものの一向に変化はなかった。何本もの管につながれた英二の姿を見れば心は滅入るばかりだった。

 英二は俺のために死にそうだ。
 どうしていいかわからず、叫びだしたくなる。

 体重は減り、頬がげっそりと痩せこけて、顔の骨格が浮き出てきた。
 空手の稽古には通っていたが、身が入らない。自分でも体の切れが悪くなったと思うようになった。
 

 そのまま二〇〇〇年も秋へと季節は流れた。





        


 激痩せした一博は、顔のラインもシャープになり、以前のような女性っぽさは影をひそめて、まさに精悍な青年といった趣である。
 反面、危うさ、はかなさは、瞭然として明らかになった。すぐポキリと折れてしまいそうで、周囲の者に、この秋の枯れ葉とともに虚しくなるのではという恐れさえ抱かせた。

 まずいな。これは……。
 琢己は、事務所内の会長室でひとり考えていた。

 かつての組長室は極道色一色で、組の名を入れた提灯が多数飾られ、正面には、金縁の額に入った仰々しい代紋が飾られていたが、今は、一般企業の社長室のような体裁に変化していた。

 潤の薦めによるものだった。
 絶大な信頼を置く潤の言葉に、昔かたぎな琢己も『今日びそんなものかもな』と、比較的素直に従った結果である。

 会長室には、必要以上に巨大な琢己専用デスク以外に、あとふたつ机があった。
 ひとつは機能性を重視したシンプルなデザインで、琢己の秘書的役割を担う若頭補佐日向潤のものだった。
 潤は琢己を代理して掛け合いなどに出かけることも多く、今日も空席である。

 いまひとつは、潤のデスクよりやや大きく、若頭井出平強兵の席だった。
 だが名誉職のようなもので、先代の大本組長時からの若頭井出平がそのまま役職についていた。
 七十二才になった井出平に実権はなく、席を暖めるのも月のうち一、二回で、挨拶を兼ねて出勤といった具合だった。

 琢己は、自分の体格に合うようオーダー・メードした革張りの椅子に体を預け、くつろいでいた。
 モンテクリストAと銘の入ったプレミアムシガーを、専用の葉巻箱から取り出し、先をフラットカットする。ゆっくりと葉巻を回しながら、スペイン杉でできたシガーマッチで火をつけた。

「まずい。一博をこのまま放っておくのは問題だな」
 独り言を言いながら、火をつけた葉巻を大理石の大きな灰皿に置いた。もみ消さずとも、そのまま火はゆっくりと消えていく。

 弟の英二が亡くなれば、一博は、関西神姫会のヘッドである野々村一茶会長のタマ取りを画策するだろう。
 大々的に全面戦争に突入することは、時期的にまずい。今は平和共存の道をゆく時期だ。
 危機感を抱いた琢己は、翌日事務所に顔を出した潤に相談した。

「坊ちゃんは、肉親の愛に飢えてられるのです」
 潤は明快な言葉で切り出した。
「私も家族のぬくもりを知らずに育ち、オヤジさんに拾われてなんとかかんとか半人前になりました」
 魅力的な三白眼で、琢己を見上げながら続けた。
「私だって、自分を捨てた親を恨みました。けど、怨むといっても、相手の姿形の想像すらつかないのじゃ、漠然とし過ぎていて。今はそのほうが良かったと思うんです」
「うむ。それはこのオレも同じだからな。よくわかる」
「組長。私は思うんですが、坊ちゃんの場合、なまじ実の母親がいるだけに、余計辛いんですよ。自分を認めて欲しい。少しは自分のほうを向いて欲しい。愛して欲しいってね」
 潤は琢己の情愛を一博に注いでやるよう暗に勧めた。
「そうだな。一博には支えが必要だ。そしてその力をコントロールしてやることもな」
 我が子を哀れに思う琢己の気持ちは『一博をコントロールしてやらねば、とんでもない方向に突っ走ってしまう』という気持ちとともに、次第にいびつな欲念へとその形を変えていった。
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