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第五章 懊悩編
懊悩編46話 贖罪の旅へ
しおりを挟む私の息子、天掛波平は死んでいた。自室のリクライニングチェアに座ったまま、眠るように死んでいた。
管理人が慌てて119番に通報し、駆けつけた救急隊員が波平の体を調べたが黙って首を振った。
蘇生処置すらする必要もない状態だったのだろう。
お気の毒ですがお亡くなりになっています、と小声で報告された。
死後硬直が始まっているか、死斑が確認出来た、という事か………
死後間もなくであれば遺体を冷凍保存し、臓器を私の体に移植出来ていたかもしれない………
そう考えた直後に私は嘔吐した、胃の中身でなく胃そのものを吐き出すような勢いで激しく嘔吐した。
自分のおぞましさに吐き気を抑えきれなかった。
疎遠だったとはいえ息子が死んでしまったというのに………
………私は…………私は息子の死を悲しむより先に、息子の遺体の臓器を自分に移植出来ないかと考えたのだ!
………おぞましい…………私は本当に人間なのか!
救急隊員が慌てて私をベットに寝かせて、吐瀉物を吸引してくれた。
彼らの目には、突然息子を失った父親がショックのあまり嘔吐したと映っただろう。
事実は違う。自分が醜悪な怪物である事に気が付き、おぞましい魂の放つ腐臭に耐えきれなかったのだ。
意識が遠のき、視界が白んでゆく。
…………もうなにもかも嫌になった…………このまま目が覚めないでいい…………覚めないでくれ…………
「………ここは……」
「………目が覚めたようね。ここは共生会病院よ。意識を失った貴方は二日間も眠り続けていたの。」
それは別れた妻の風美代の声だった。………意識が覚醒してゆく………そうだ!波平は!
「波平はどうなった!」
風美代は目に涙を浮かべながら首を振った。
「……………波平はもうどこにもいない。………いないの。」
「………そうか。………死因は………自殺か?」
自殺だったら私のせいだ。父親として波平になにもしなかった。金だけ出して放逐したのだ。
………病魔に冒された私も遠からず波平のいるところへ行く事になるかもしれない。
そうなったら………許してもらえるとは思えないが、後悔の気持ちだけは伝えたい。
「………自殺でも他殺でもないわ。死因は渇死よ。」
「渇死だと!? 渇き死にしたというのか? 砂漠じゃあるまいし、どうしてそんな事に!」
風美代は泣き崩れて、返事をしてくれなかった。私よりも風美代の方がよほど憔悴しているようだ。
当たり前か………私のような醜悪な怪物と違って、風美代は人間なのだ。
病室のドアが開き、白衣姿の雨宮が顔を見せる。
「天掛、意識が戻ったのか。良かった。」
「………意識が戻らん方が幸せだったかもしれんがな。だが雨宮、手当してくれた事には感謝する。」
「………波平君は気の毒だった。…………もう手の施しようがなかったんだ。」
どんな名医だろうと死者を甦らせる事など出来ないのだ、雨宮に責任はない。………責任があるとすれば私だ。
「………私より風美代が消耗しきっている。雨宮、頼めるか?」
「ああ、すぐに看護師を呼ぶ。風美代さんは不眠不休で食事も録にとっていないみたいだから、点滴を受けてもらって休んでもらおう。」
雨宮の呼んだ看護師二人が風美代を両脇から支え、病室から連れだしてくれた。
………風美代はずっと泣いていた。………私はこんな状況でも涙が出ない。まさに怪物だな、呆れたものだ。
「いろいろ面倒をかけたな。面倒ついでに風美代の事を頼む。体もだがメンタルケアも必要だろう。」
「ああ、僕は医者だ。常に患者さんに寄り添う。それが仕事だ。」
「私以外の患者には是非そうしてくれ。」
「………やっぱり天掛は常人じゃないね。傑物なのは分かっていたけど、驚くほどしっかりしている。」
「………サイコパスはこんなものだ。常に自分の事しか考えん。こんな状況で涙も出んとは自分でも驚きだ。」
「精神科医でもないのに勝手に診断を下すものじゃないよ。天掛はサイコパスじゃない。両手を見れば分かる。」
私は両手を見てみた。どちらにも包帯が巻いてあった。
「怪我をしているのは分かったが、これがどうしたんだ?」
「拳を強く握り締めすぎて、爪が手のひらに刺さっていたんだ。涙を流すばかりが悲しみの表現じゃない事ぐらいは知ってるさ。」
「………私の意識が戻ったら警察を呼ばなきゃいけないんじゃないか? 事件性は低そうだが、事情聴取は必要だろう?」
「うん、その様子なら聴取可能だろう。これから呼ぶ事にしよう。」
「その前に聞いていいか?」
「構わないよ。波平君の事が聞きたいのかい?」
「ああ、波平の死因は渇死で間違いないのか?」
「間違いない、極めて珍しいケースだ。普通、人間は意識的に渇き死ぬなんて出来ないんだ。自殺するなら他の手段がいくらでもある。だから自殺じゃないよ。無論、他殺でもない。」
部屋は密室状態で、波平は椅子に拘束されていた訳ではないのに渇死か。確かに事件性はないな。
「考えられる可能性は?」
「………推論の域を出ないんだけど、波平君はなんらかの理由で椅子に座ったまま意識不明の状態になったんだと思う。検視のカルテを見せてもらったんだけど、胃の中は空っぽだった。」
「私が部屋に入った時に、サイドテーブルの上には食べ終わったコンビニ弁当があった。という事は波平は意識不明の状態で何日かは生きていたという事か。人間は餓死するより渇死する方が早い。意識不明のまま何日か経過し、水分が不足し死に至った、か。」
私がもう少し早く波平に会いに行っていれば………死なせずに済んでいたという事か………
「ただ、分からない事があるんだ。」
「分からない事? なんだ?」
「波平君が何故、意識不明になったかが分からない。………脳にも、体のどこにも異常がなかったんだ。健康な人間が突然、植物人間状態になったなんて症例を僕は聞いた事がない。医学じゃ解明出来そうにない心霊現象じみた話だよ。」
魂が抜けて生き霊にでもなったとかなら、まだいい。私を祟り殺して構わんから………姿を現してくれ。
「植物人間状態か………例え植物人間状態になっていたとしても望みはあった。私の父、翔平がそうだったように。」
「そうだったね。交通事故から二年後に奇跡の復活を遂げた天掛翔平氏の事は、当時の医学界でも話題になった。同じ奇跡が波平君にも起こっていたかも………すまない、君を責める気はないんだ。」
「かまわん、むしろ誰かに思いきり罵倒してもらいたい気分でな。誰しも自分が思っているほど利口ではないものだ。だが私の場合は度が過ぎる。…………私は今までなにをやってきたのだ? バカ丸出し、とんだ道化もいいところだ。…………つくづく自分が嫌になった。病魔に冒されて幸いだったかもしれん。ウンザリするほど嫌気がさした人生を終わらせてくれるのだからな。」
「………ヤケを起こさないでくれ。君にはまだ助かる可能性があるんだ。………この間はああ言ったけど、君がよければ僕が君の主治医になるよ。必ず助けるなんて気休めは言えない。だが医者として、仮初めの友情だったにせよ長い付き合いの友人として………全力を尽くす事は約束出来る。」
………私はとことん人を見る目がなかったようだ。
ボンクラのお坊ちゃまだと思っていた雨宮圭介は立派な医者だったらしい。
「わかった、やってくれ。………違うな………頼む、私の主治医になってくれ。」
人に頭を下げる事がなにより嫌いな私が、素直に頭を下げる事が出来た。
雨宮は笑顔でゆっくりと頷く。
「天掛、君は………短い間に驚くほど変わったね。」
「死病に冒され、余命は僅か。その上息子も失った。………人生観も変わるさ。だが本当に変わるのはこれからだ。雨宮、私が生き長らえる可能性は薄い。だがな、権力亡者としては死なん。死ぬにせよ亡者ではなく生者として死にたい。血の通う心を取り戻してから………死ぬつもりだ。」
死を迎えるのは生者の特権だ。亡者の私に死を迎える権利はない。
権利は与えられるものではなく、勝ちとらねばならない。ならば残された時間は、私が私を取り戻す為に使いたい。
私は心の旅に出よう。許される事はない贖罪の旅に。………罪深きにせよ、せめて人間として死ぬ為に………
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