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嘲笑う紅道化
遭遇と目覚め
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翌日の深夜、ルナとカレンは繁華街を散歩していた。
少しでもルナの緊張を解きほぐすために親好を深めよう、カレンはそう考えたのだ。
「日付が変わってからも、この街は賑やかね」
「賑やかすぎて、ちょっと怖いです……」
街を歩くと、二人は多くの人に声をかけられる。
ほぼ全てが客引きやスカウトマンであり、まともに受け答えようものなら面倒は避けられそうにない。
よく目立つカレンはそういったものに慣れているのか、微笑みながらもほとんど無言で歩き続けていく。
「あの人達も仕事なんでしょうけど、少し鬱陶しいわ。大体、この辺りは禁止のはずよ、あーいうの」
鬱陶しいのなら庶民的な格好をしたりすればどうかと言葉にしたくなったが、ルナは口を閉ざす。
彼女は、常に最高の自分でいたいのだ。
そしてそれは、庶民的な格好で目立たず散歩をする自分ではなく、一番自分が映える格好で堂々と道の真ん中を歩く自分なのだ。
「ルナちゃんも気を付けるのよ?油断すると、あなたのような可愛い女の子はすぐ拐われてしまうわ」
「そんなこと無いですよ。私みたいな女の子、誰も見てませんよ……」
「そう思っていられるのは今だけよ。今日あなたに声をかけようとした男、少なくないもの」
そしてそんな二人を後ろから見つめる黒い影。
力の弱い二人を守るため、という建前で面白半分でこっそり付いてきたクラリスだ。
カレンのことはクラリスもよく知っている、特にそのイタズラ好きな性格を。
その些細なイタズラに一挙手一投足を乱されるルナが面白くて、愛おしくて、たまらない。
そうとは知らない二人は、人通りの多い道を目的もなく歩いて回る。
他人と会話をするわけでも、飲食をしたり遊興施設を利用したりするわけでもないが、それでも二人は楽しそうだ。
その途中でふと、暗い路地裏で項垂れるサラリーマンにルナは気がついた。
「……どうしたの?」
「あそこに居る人……なんだか気になって……」
カレンもその人物に目を向ける。
明かりの届かない暗がりで、人が居るかどうかすら曖昧にしか分からない。
「酔っ払いじゃなくって?」
「だと思うんですけど……なんだか、違和感が……」
それを聞いたカレンは、戸惑うことなくその人物に近付いていく。
ルナは止めようかとも思ったが、急病人であったことも考え、救急車をすぐ呼べるようにしてからついていった。
「そこのあなた?大丈夫?」
カレンの眼も慣れていき、人が居ることは判別できるようになった。
小太りな中年男性と思われるその人物は、カレンの問いかけに答える様子はない。
「ねぇ、ちょっと――」
ピチャリ。
一歩踏み出し、もう一歩で手が届く位置に進んだカレンの足音が変わった。
すぐ後ろで見ていたルナは、その原因がなんであるか気付いてしまった。
「足元……そ、それ、血じゃ……」
「……っ!?」
カレンには色まではよく分かっていないが、微かに感じられるそれは血液の匂いであった。
カレンはドレスに血がつくことなど気にも留めず、さらに一歩を踏み出し、項垂れた男の肩を揺さぶる。
「ちょっと、どうしたの!?ねぇ、しっかり――」
思わず、呼吸が止まりそうになる。
近付いて初めて分かる、その男の惨たらしい死に様。
胸部からから下腹部まで切り裂かれ、それを力任せに広げられたようなあまりに猟奇的な殺害方法。
「何……これ……?」
カレンもルナも、一歩ずつ後退りしていく。
男の死体は、二人を恐怖させるには十分すぎる。
「ルナちゃん、すぐに警察を……。まさか散歩中に、こんな――」
震えながら振り返ったカレンの奥の、項垂れた死体の更に奥から、何者かが飛び出したのがルナにはすぐに分かった。
黒いジャケットに黒いズボン、黒い野球帽と手には血に染まったサバイバルナイフ。
その人物は、新たな獲物の出現に笑みを浮かべていた。
「カレンさん、危ないッ!」
「え――」
カレンが振り返ったときには、その男は目の前にいた。
そしてカレンの脇腹にナイフを突き刺し、そのままルナの目の前にまで飛び出した。
「あっ……!」
懐より取り出した、もう一つのナイフ。
それがルナの眼球に接触する寸前の刹那、そのナイフの刃が激しい音と共に折れ、彼方へと飛んでいった。
「こんな街中で殺人未遂?中々良い度胸のようね!」
その声に振り返ると、そこに居たのは拳銃を構えたクラリスだ。
いつものような笑みを浮かべず、人目を気にすることもなく発砲した辺り、彼女の余裕の無さが伺える。
「……そうか、なるほど。あの女以外の二人は……そうかそうか、ッククク!」
銃を向けられようとも男は臆せず、狂気的な楽しさを感じて笑う。
「素晴らしい夜だ。三人とも、私好みの女だよ。いずれまた会おうじゃないか、クッククハハハハハァッ!」
大声で笑っていた男の姿が瞬間的に変化し、すぐにその姿が虚空へと消えた。
その男が消える寸前の姿は、赤いズボンに赤いジャケット、赤いマントに赤いシルクハットまで身に付けており、白かったであろうシャツすらも返り血に濡れた、全身赤尽くめの異様なものであった。
「今のは、一体……。消えちゃった……?」
「う……ぐぅっ……」
異常存在との遭遇で放心していたルナは、カレンの苦しむ声にハッと気付く。
ナイフが突き刺さったままの傷を猛烈な痛みと出血が襲い、カレンはその場で倒れ、もがいていた。
傷は深く、背中側にまでナイフが貫通している。
「た、助けてください!人が二人、刺されました!場所は――」
事前に用意していたおかげで、救急車はすぐに呼ぶことができた。
その間も、ルナは持っていたハンカチで必死に傷口を押さえ、少しでも出血を止めようとしていた。
「抜い、て……痛く、て、堪らないの……」
「どうしよう、クラリス……。こ、このままじゃ、カレンさんがぁ……!」
それでも止まらない出血と、苦しみに悶えるカレン。
だが抜くわけには行かない。
下手に抜いてしまえば傷口は広がり、出血は更に増えてしまうだろう。
そうなれば、カレンは確実に助からない。
「まさか、あんなところにまだ、隠れてるなんて、ね……。私、驚いちゃった、な……」
「あまり喋らない方がいいわ。痛みが酷くなる」
出血は止まらず、必死で押さえるルナの両手は深紅に染まる。
少しずつ、少しずつ、カレンの体は弱っていく。
「お願い、カレンさん……死なないで!」
「大丈、夫……。このくらいで、人は死なない、の……。わた、しは……平気、だ、から……。そうよ、ね、クラリス……」
「えぇ、そうね。あなたは強い女よ、カレン」
言葉で少しでもルナを安心させようとするが、二人ともいつものようには口が回らない。
クラリスもどうにか応急処置に手を貸したいところだが、それはできない。
目の前から消えた赤い男の気配が、ずっと近くに残っているからだ。
だが姿が全く目に入ってはこない、すぐ近くに居るはずなのに、それこそ互いの呼吸が聞こえる位置に居るとすら思える気配なのにだ。
警戒を解いた瞬間、あの男はカレンの命を確実に奪うであろうことは容易に予測が出来てしまう。
「ギュンターに、伝え、て……。私は、一人の女とし、て、あなた、が……」
「そ、んな……だ、大事なことは!自分で伝えてくださいよ!」
「……ふふ、冗談よ、このくらいで、死ね……ない……」
意識が少しずつ、途切れかけていく。
その時だ、救急車のサイレンが聞こえてきたのは。
それは確実に近付いてくる、カレンは少しだけ微笑んだ。
「……命、繋がり、そう、ね」
「そうだよ!カレンさん、助かるよ!だから……伝えたいことは、ちゃんと……自分で……っ!」
「だから……それ、冗談……」
救急車が、二人のすぐ後ろで止まる。
中から飛び出してきた救急隊員が、負傷したカレンを担架に乗せて、車内へと運んでいく。
ルナも同乗を許され、カレンと一緒に病院へと向かった。
「気配が消えた……?」
二人を乗せた救急車がその場を去ってからすぐに、男の気配は消え去った。
間違いなく怪異ではあったが、それ以上のことは分からず終い。
本来であればもう少し調べるところだが、騒ぎを聞き付けた人々が集まっていたために断念し、クラリスも闇へと消えていった。
幸い、カレンに意識があったこともあり、口頭で伝えられた情報はすぐに活用され、応急処置はスムーズに進められたようだ。
「あの……大丈夫、ですよね……?カレンさん、助かりますよね?」
「大丈夫です、ご安心ください。急所は外れていますので、病院で手術をすれば問題ありません」
病院に到着してからすぐに、ルナは彼女と別れた。
薄暗い病院の中で、ルナはカレンの手術が終わるのを待っていた。
「ルナ……!カレンの様子は?」
連絡を受けたギュンターがルナのもとへとやって来た。
よほど焦って飛び出してきたのか、衣服があちこち乱れており、肩で息をしている。
「多分、大丈夫だって言ってました……」
「そうか……。彼女は強い女性だし、少し安心したよ。ところで、その手は……」
ルナはすっかり忘れていたようだが、その手は深紅に染まったままだった。
どこにも触れていないはずだが、乾ききっていないカレンの血液が、どこかに付着してしまった可能性はある。
「これ、必死に血を止めてて……それで……」
血に染まった手を見つめながら、上の空な様子で受け答える。
まだ乾ききっていないそれに対して、彼女の中に一つの欲望が生まれていた。
「ルナ……?どうしたんだ?」
この血を、口にしたい。
気付いた瞬間から香り始めた血の匂いは、なぜか甘く感じられる。
鉄の匂いや生臭さではなく、思わず口にしたくなるほど、甘美な香り。
「あ……あ……」
ルナは口を開き、その手を少しずつ近づける。
そして舌を伸ばして、ついに一度、それを舐めた。
「ぁっ……はぁっ……!」
血液は、何度も飲んでいたはずだった。
採取されてから時が経った、輸血用の血液だ。
それはただの血液の味でしかなく、一番最初に口にした時は思わず吐き出しそうになり、最近はようやく慣れてきたところであった。
だが、これは違った。
とろけるような甘さと、花のような香りがする。
ずっと、ずっと、ずっと、口にし続けていたくなるほどにそれは、美味しかった。
「まさか、こんな形で知るとは、な……」
両手を舐めるのが止まらない。
乾いてカサブタのようになりかけているものまで、付着した全ての血液を、カレンの血液を舐め取っていく。
ルナの手から赤黒い付着物がなくなり、元のような白い手に戻るのにそれほど時間はかからなかった。
「気分はどうだい、ルナ」
声をかけられ、ビクリと体が跳ねる。
そして綺麗になっている手を見つめ、ガタガタと震えながらギュンターに問う。
「私……今、何をしてました……?」
彼女は、否定して欲しかった。
夢中になってカレンの血液を舐めていた現実を。
だがそれは、叶わない。
ギュンターは目の前で起きていた現実を、淡々と彼女に伝えるだけだ。
「いや……そんな……私、私、美味しい、なんて……」
頭を抱え、酷い自己嫌悪に陥り、震える。
どこかで悪いと思っていながらも、どこかで割り切って口にしていたこれまでの血液とは、感じ方が全く異なっていた。
彼女は欲してしまったのだ、カレンの甘美な血液を。
もっと口にしたい、もっと飲みたい、吸い尽くしたい、と。
「落ち着きなさい、ルナ。初めて生き血を口にした時、吸血鬼は大体みんなそう感じるんだ。そして多くは、人の命を軽んじるようになる」
ギュンターは隣に腰掛け、穏やかな口調で続ける。
「でも、君は違う。美味だと感じた以上に、強い罪悪感を感じている。口にしている最中にはその余裕がなかったとしても、だ。……君なら大丈夫、しっかりと自制できる。人を殺めないで、生きていける。大丈夫だ、何も怖くない」
それからしばらくして、手術を終えた医者が現れた。
飄々とした語り口の、どこか軽薄さを感じる老外科医だったが、その口から告げられたのは手術の成功であった。
ルナとギュンターは、ようやく心から安堵する。
「カレンの意識が戻ったら、彼女に味の感想を伝えてやってくれ。彼女は変わり者で、そういうものを伝えると喜ぶんだ」
「本当に変わってますね……」
翌日、目覚めたカレンにルナは感想を伝えた。
甘くて、花のような香りがしたと、正直に。
どういうわけか、カレンは自分の血液が美味だと言われたことと、ルナが初めて人の生き血を口にしたこと、自分がその初めての相手であることを喜んでいた。
「今度は、私の体から直接吸ってね。きっと、天にも昇る極上の味がするわ!」
「……吸い尽くさないように、私も立ち合おう。遠慮なく吸ってみるんだ」
「は、はぁ……。ありがとう、ございます……?」
半ば困惑しているルナだったが、楽しげに笑う二人につられ、ようやく笑顔になることができた。
そしてその笑顔は、彼女達を狙っている男の視線に気付いていないが故のものであった。
少しでもルナの緊張を解きほぐすために親好を深めよう、カレンはそう考えたのだ。
「日付が変わってからも、この街は賑やかね」
「賑やかすぎて、ちょっと怖いです……」
街を歩くと、二人は多くの人に声をかけられる。
ほぼ全てが客引きやスカウトマンであり、まともに受け答えようものなら面倒は避けられそうにない。
よく目立つカレンはそういったものに慣れているのか、微笑みながらもほとんど無言で歩き続けていく。
「あの人達も仕事なんでしょうけど、少し鬱陶しいわ。大体、この辺りは禁止のはずよ、あーいうの」
鬱陶しいのなら庶民的な格好をしたりすればどうかと言葉にしたくなったが、ルナは口を閉ざす。
彼女は、常に最高の自分でいたいのだ。
そしてそれは、庶民的な格好で目立たず散歩をする自分ではなく、一番自分が映える格好で堂々と道の真ん中を歩く自分なのだ。
「ルナちゃんも気を付けるのよ?油断すると、あなたのような可愛い女の子はすぐ拐われてしまうわ」
「そんなこと無いですよ。私みたいな女の子、誰も見てませんよ……」
「そう思っていられるのは今だけよ。今日あなたに声をかけようとした男、少なくないもの」
そしてそんな二人を後ろから見つめる黒い影。
力の弱い二人を守るため、という建前で面白半分でこっそり付いてきたクラリスだ。
カレンのことはクラリスもよく知っている、特にそのイタズラ好きな性格を。
その些細なイタズラに一挙手一投足を乱されるルナが面白くて、愛おしくて、たまらない。
そうとは知らない二人は、人通りの多い道を目的もなく歩いて回る。
他人と会話をするわけでも、飲食をしたり遊興施設を利用したりするわけでもないが、それでも二人は楽しそうだ。
その途中でふと、暗い路地裏で項垂れるサラリーマンにルナは気がついた。
「……どうしたの?」
「あそこに居る人……なんだか気になって……」
カレンもその人物に目を向ける。
明かりの届かない暗がりで、人が居るかどうかすら曖昧にしか分からない。
「酔っ払いじゃなくって?」
「だと思うんですけど……なんだか、違和感が……」
それを聞いたカレンは、戸惑うことなくその人物に近付いていく。
ルナは止めようかとも思ったが、急病人であったことも考え、救急車をすぐ呼べるようにしてからついていった。
「そこのあなた?大丈夫?」
カレンの眼も慣れていき、人が居ることは判別できるようになった。
小太りな中年男性と思われるその人物は、カレンの問いかけに答える様子はない。
「ねぇ、ちょっと――」
ピチャリ。
一歩踏み出し、もう一歩で手が届く位置に進んだカレンの足音が変わった。
すぐ後ろで見ていたルナは、その原因がなんであるか気付いてしまった。
「足元……そ、それ、血じゃ……」
「……っ!?」
カレンには色まではよく分かっていないが、微かに感じられるそれは血液の匂いであった。
カレンはドレスに血がつくことなど気にも留めず、さらに一歩を踏み出し、項垂れた男の肩を揺さぶる。
「ちょっと、どうしたの!?ねぇ、しっかり――」
思わず、呼吸が止まりそうになる。
近付いて初めて分かる、その男の惨たらしい死に様。
胸部からから下腹部まで切り裂かれ、それを力任せに広げられたようなあまりに猟奇的な殺害方法。
「何……これ……?」
カレンもルナも、一歩ずつ後退りしていく。
男の死体は、二人を恐怖させるには十分すぎる。
「ルナちゃん、すぐに警察を……。まさか散歩中に、こんな――」
震えながら振り返ったカレンの奥の、項垂れた死体の更に奥から、何者かが飛び出したのがルナにはすぐに分かった。
黒いジャケットに黒いズボン、黒い野球帽と手には血に染まったサバイバルナイフ。
その人物は、新たな獲物の出現に笑みを浮かべていた。
「カレンさん、危ないッ!」
「え――」
カレンが振り返ったときには、その男は目の前にいた。
そしてカレンの脇腹にナイフを突き刺し、そのままルナの目の前にまで飛び出した。
「あっ……!」
懐より取り出した、もう一つのナイフ。
それがルナの眼球に接触する寸前の刹那、そのナイフの刃が激しい音と共に折れ、彼方へと飛んでいった。
「こんな街中で殺人未遂?中々良い度胸のようね!」
その声に振り返ると、そこに居たのは拳銃を構えたクラリスだ。
いつものような笑みを浮かべず、人目を気にすることもなく発砲した辺り、彼女の余裕の無さが伺える。
「……そうか、なるほど。あの女以外の二人は……そうかそうか、ッククク!」
銃を向けられようとも男は臆せず、狂気的な楽しさを感じて笑う。
「素晴らしい夜だ。三人とも、私好みの女だよ。いずれまた会おうじゃないか、クッククハハハハハァッ!」
大声で笑っていた男の姿が瞬間的に変化し、すぐにその姿が虚空へと消えた。
その男が消える寸前の姿は、赤いズボンに赤いジャケット、赤いマントに赤いシルクハットまで身に付けており、白かったであろうシャツすらも返り血に濡れた、全身赤尽くめの異様なものであった。
「今のは、一体……。消えちゃった……?」
「う……ぐぅっ……」
異常存在との遭遇で放心していたルナは、カレンの苦しむ声にハッと気付く。
ナイフが突き刺さったままの傷を猛烈な痛みと出血が襲い、カレンはその場で倒れ、もがいていた。
傷は深く、背中側にまでナイフが貫通している。
「た、助けてください!人が二人、刺されました!場所は――」
事前に用意していたおかげで、救急車はすぐに呼ぶことができた。
その間も、ルナは持っていたハンカチで必死に傷口を押さえ、少しでも出血を止めようとしていた。
「抜い、て……痛く、て、堪らないの……」
「どうしよう、クラリス……。こ、このままじゃ、カレンさんがぁ……!」
それでも止まらない出血と、苦しみに悶えるカレン。
だが抜くわけには行かない。
下手に抜いてしまえば傷口は広がり、出血は更に増えてしまうだろう。
そうなれば、カレンは確実に助からない。
「まさか、あんなところにまだ、隠れてるなんて、ね……。私、驚いちゃった、な……」
「あまり喋らない方がいいわ。痛みが酷くなる」
出血は止まらず、必死で押さえるルナの両手は深紅に染まる。
少しずつ、少しずつ、カレンの体は弱っていく。
「お願い、カレンさん……死なないで!」
「大丈、夫……。このくらいで、人は死なない、の……。わた、しは……平気、だ、から……。そうよ、ね、クラリス……」
「えぇ、そうね。あなたは強い女よ、カレン」
言葉で少しでもルナを安心させようとするが、二人ともいつものようには口が回らない。
クラリスもどうにか応急処置に手を貸したいところだが、それはできない。
目の前から消えた赤い男の気配が、ずっと近くに残っているからだ。
だが姿が全く目に入ってはこない、すぐ近くに居るはずなのに、それこそ互いの呼吸が聞こえる位置に居るとすら思える気配なのにだ。
警戒を解いた瞬間、あの男はカレンの命を確実に奪うであろうことは容易に予測が出来てしまう。
「ギュンターに、伝え、て……。私は、一人の女とし、て、あなた、が……」
「そ、んな……だ、大事なことは!自分で伝えてくださいよ!」
「……ふふ、冗談よ、このくらいで、死ね……ない……」
意識が少しずつ、途切れかけていく。
その時だ、救急車のサイレンが聞こえてきたのは。
それは確実に近付いてくる、カレンは少しだけ微笑んだ。
「……命、繋がり、そう、ね」
「そうだよ!カレンさん、助かるよ!だから……伝えたいことは、ちゃんと……自分で……っ!」
「だから……それ、冗談……」
救急車が、二人のすぐ後ろで止まる。
中から飛び出してきた救急隊員が、負傷したカレンを担架に乗せて、車内へと運んでいく。
ルナも同乗を許され、カレンと一緒に病院へと向かった。
「気配が消えた……?」
二人を乗せた救急車がその場を去ってからすぐに、男の気配は消え去った。
間違いなく怪異ではあったが、それ以上のことは分からず終い。
本来であればもう少し調べるところだが、騒ぎを聞き付けた人々が集まっていたために断念し、クラリスも闇へと消えていった。
幸い、カレンに意識があったこともあり、口頭で伝えられた情報はすぐに活用され、応急処置はスムーズに進められたようだ。
「あの……大丈夫、ですよね……?カレンさん、助かりますよね?」
「大丈夫です、ご安心ください。急所は外れていますので、病院で手術をすれば問題ありません」
病院に到着してからすぐに、ルナは彼女と別れた。
薄暗い病院の中で、ルナはカレンの手術が終わるのを待っていた。
「ルナ……!カレンの様子は?」
連絡を受けたギュンターがルナのもとへとやって来た。
よほど焦って飛び出してきたのか、衣服があちこち乱れており、肩で息をしている。
「多分、大丈夫だって言ってました……」
「そうか……。彼女は強い女性だし、少し安心したよ。ところで、その手は……」
ルナはすっかり忘れていたようだが、その手は深紅に染まったままだった。
どこにも触れていないはずだが、乾ききっていないカレンの血液が、どこかに付着してしまった可能性はある。
「これ、必死に血を止めてて……それで……」
血に染まった手を見つめながら、上の空な様子で受け答える。
まだ乾ききっていないそれに対して、彼女の中に一つの欲望が生まれていた。
「ルナ……?どうしたんだ?」
この血を、口にしたい。
気付いた瞬間から香り始めた血の匂いは、なぜか甘く感じられる。
鉄の匂いや生臭さではなく、思わず口にしたくなるほど、甘美な香り。
「あ……あ……」
ルナは口を開き、その手を少しずつ近づける。
そして舌を伸ばして、ついに一度、それを舐めた。
「ぁっ……はぁっ……!」
血液は、何度も飲んでいたはずだった。
採取されてから時が経った、輸血用の血液だ。
それはただの血液の味でしかなく、一番最初に口にした時は思わず吐き出しそうになり、最近はようやく慣れてきたところであった。
だが、これは違った。
とろけるような甘さと、花のような香りがする。
ずっと、ずっと、ずっと、口にし続けていたくなるほどにそれは、美味しかった。
「まさか、こんな形で知るとは、な……」
両手を舐めるのが止まらない。
乾いてカサブタのようになりかけているものまで、付着した全ての血液を、カレンの血液を舐め取っていく。
ルナの手から赤黒い付着物がなくなり、元のような白い手に戻るのにそれほど時間はかからなかった。
「気分はどうだい、ルナ」
声をかけられ、ビクリと体が跳ねる。
そして綺麗になっている手を見つめ、ガタガタと震えながらギュンターに問う。
「私……今、何をしてました……?」
彼女は、否定して欲しかった。
夢中になってカレンの血液を舐めていた現実を。
だがそれは、叶わない。
ギュンターは目の前で起きていた現実を、淡々と彼女に伝えるだけだ。
「いや……そんな……私、私、美味しい、なんて……」
頭を抱え、酷い自己嫌悪に陥り、震える。
どこかで悪いと思っていながらも、どこかで割り切って口にしていたこれまでの血液とは、感じ方が全く異なっていた。
彼女は欲してしまったのだ、カレンの甘美な血液を。
もっと口にしたい、もっと飲みたい、吸い尽くしたい、と。
「落ち着きなさい、ルナ。初めて生き血を口にした時、吸血鬼は大体みんなそう感じるんだ。そして多くは、人の命を軽んじるようになる」
ギュンターは隣に腰掛け、穏やかな口調で続ける。
「でも、君は違う。美味だと感じた以上に、強い罪悪感を感じている。口にしている最中にはその余裕がなかったとしても、だ。……君なら大丈夫、しっかりと自制できる。人を殺めないで、生きていける。大丈夫だ、何も怖くない」
それからしばらくして、手術を終えた医者が現れた。
飄々とした語り口の、どこか軽薄さを感じる老外科医だったが、その口から告げられたのは手術の成功であった。
ルナとギュンターは、ようやく心から安堵する。
「カレンの意識が戻ったら、彼女に味の感想を伝えてやってくれ。彼女は変わり者で、そういうものを伝えると喜ぶんだ」
「本当に変わってますね……」
翌日、目覚めたカレンにルナは感想を伝えた。
甘くて、花のような香りがしたと、正直に。
どういうわけか、カレンは自分の血液が美味だと言われたことと、ルナが初めて人の生き血を口にしたこと、自分がその初めての相手であることを喜んでいた。
「今度は、私の体から直接吸ってね。きっと、天にも昇る極上の味がするわ!」
「……吸い尽くさないように、私も立ち合おう。遠慮なく吸ってみるんだ」
「は、はぁ……。ありがとう、ございます……?」
半ば困惑しているルナだったが、楽しげに笑う二人につられ、ようやく笑顔になることができた。
そしてその笑顔は、彼女達を狙っている男の視線に気付いていないが故のものであった。
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