最果ての僕等 【月光浴】

コハナ

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「いらっしゃい。」
「‥。」
「御使いありがとう。中へどうぞ。」
「‥うん。」


出迎えたのは伊月だった。時雨ではなかったことにノラは胸を撫で下ろした。リビングに通されると買ってきた豆を伊月に渡した。


「ありがとう。寒かっただろう。」
「‥別に。」
「珈琲淹れるから座って。」
「‥うん。」

ノラをダイニングテーブルの椅子に座らせると、伊月はキッチンで珈琲の準備を始めた。


「昨日は見苦しい姿を見せて悪かったね。」
「別に。」
「ナースコール押してくれて助かったよ。ありがとう。」
「‥もう‥体はいいのかよ?」
「お陰さまでね。薬を変えてもらって楽になったよ。」
「ふーん。」


淹れたてのカフェオレをノラの前に置くと、伊月もノラの前に座った。


「君の勤務時間を全て予約するのは今日で最後にするよ。」
「え?」
「君の時間を全て買い取らなかったらこの前のような事は起きなかっただろうし。俺にも責任がある。」
「別に、あれはアイツが勝手に‥」
「ここに住む人達は自分の事で精一杯だ。明日何が起きてもおかしくない状況で生きてる。だから、君に危険が及ぶ可能性がある事は避けたい。」
「‥‥。」
「君が推しであることに変わりわないし、君の事をもっと知りたいのも変わらない。」
「‥‥。」
「時間は短くなってしまうが、明日からも頼むよ。」
「‥。」
「今夜は映画鑑賞がいいな。ノラ君は何みたい?」
「‥何でも。」


伊月がソファに座りテレビを操作し何を見ようかと迷っている。昨夜とは打って変わり執着するような態度からあっさり引き下がる行動にノラは内心戸惑っていた。2人でソファに並んで映画を見る。アクション、ミステリー、SF等様々なジャンルを見るがノラは伊月の行動が引っ掛かって内容が頭に入らずぼんやり画面を眺めていた。すると急に左肩に重みを感じ、目を向けると伊月が寄りかかり眠っていた。ノラは伊月を起こさないよう伊月を支えながらソファから降りて伊月を寝かした。ベッドルームから掛け布団を持ってきて伊月に掛けてやる。すうすうと寝息を立てて眠る伊月の顔をノラは床に座って眺めていた。こんなに間近で見たことはないが出会った当初より少し頬がこけた気がする。「ちゃんと食ってんのかよ。」と呟きながら伊月のこけた頬に触れる。すると、伊月がノラの手に頬を擦り付けるように動いた。安心しきって無防備に寝ている伊月の姿にノラの心臓は跳ね上がった。吸い込まれるように伊月の顔に自分の顔を近づけていく。するとピピピピッと仕事を終えるタイマーが鳴り出した。ノラは我に返り慌ててタイマーを止めた。振り返ると伊月は眠ったままでいる。ノラはカバンからメモ帳を取り出し、『明日金払って』と書くとメモをダイニングテーブルに置いてそそくさと伊月の部屋の部屋を出た。部屋のドアを閉めるとその場に座りこむ。伊月に何をしようとしたのか自分の行動に理解できない。まだ煩い心臓に嫌気が差す。自己嫌悪のまま事務所に戻っていった。


翌日、伊月の部屋に訪れると時雨が出迎えた。ノラが身構えていると、どうぞと時雨が部屋に招いた。無言で部屋に入りリビングに到着するが伊月の姿はなかった。


「部長は検査を終えて今はまだ眠っています。」
「‥じゃあ‥帰ります。」
「貴方に言付けを預かってます。」
「え?」


時雨はノラにメモを手渡した。半分に折られたメモを開く。


昨日は寝てしまって申し訳なかった。
昨日の分と今日の分を封筒に入れておきます。
今日もあの店まで行って珈琲豆を買ってきて欲しいんだ。新入荷した豆を100gお願いするよ。店は深夜までやっているから焦らず気を付けて行ってきてくれ。時雨にカードを預けてある。今日も検査のせいで麻酔が聞いて眠っていると思うがノラ君が戻ってくる頃には起きていると思う。そしたら一緒に珈琲を飲もう。


読み終わるとメモをたたんでカーディガンのポケットにしまった。「支払いはこちらで。戻って来たら部長に渡して下さい。」と時雨がクレジットカードをノラに手渡した。ノラは頷いてから受け取ると伊月の部屋を出ていった。ドアの閉まる音を聞くと、時雨が隣の寝室へ向かう。


「今お出掛けになられましたよ。」
「‥そうか。ありがとう。」
「痛みはどうですか?」
「大分いいかな。ノラ君が帰ってくる頃には治まっているだろう。」
「彼に説明しなくていいのですか?」
「ん?」
「彼との時間を短くしたり御使いを頼んだり‥不審に思っていますよ。」
「だろうな。でもやらなきゃいけない事があるから。悪いな時雨。またお前を巻き込んでしまうな。」
「私は大丈夫です。」
「ありがとう。頼む。」
「はい。」


時雨が寝室から出ていくと、伊月は鳩尾に手を当てて早く痛みが治まっていくのを待った。その頃ノラは珈琲店の前に立っていた。店に入り伊月に頼まれた豆を注文する。店主は「また来てくださって嬉しいですよ。」とノラに声を掛けるとノラは会釈をした。豆を用意するとノラに手渡す。受け取るとそそくさと店を出て行き、急ぎ足で伊月の部屋に戻ってきた。しかし、昨日の行動を思い出すと心臓は鼓動を早め顔が熱い。呼吸を整えて平常心を取り戻してからドアを叩いた。


「はい。」
「‥‥。」
「御使いご苦労様です。お入り下さい。」
「‥。」


ドアを開けたのは時雨だった。時雨に軽く会釈をしてから中に入った。伊月はリビングのダイニングテーブルでPCを叩いて作業していた。集中していてノラに気がつかない。時雨がノラから少し遅れてリビングに来ると伊月の肩を軽く叩いて作業を止めさせた。するとノラに気付き伊月がPCを閉じた。


「ノラ君、いらっしゃい。」
「‥邪魔なら‥帰るけど。」
「まさか。待ってたよ!今日も御使いありがとう。早速ノラ君の買ってきてくれた豆で珈琲を淹れよう。時雨が来るときにケーキを買ってきてくれたんだ。一緒に食べよう。」
「その人と食べれば。」


痒いところに手が届くように時雨がてきぱきと伊月の身の回りの世話や仕事のサポートする姿に面白くないノラは、ぶっきらぼうな態度で買ってきた豆を伊月に押し付けるように渡した。


「私はこれで失礼します。」
「ありがとう。気を付けてな。」


時雨はダイニングテーブルに散らかった書類を鞄にしまい、コートを手に取ると、伊月とノラに会釈をしてから部屋を出て行った。伊月はむくれた表情のノラを椅子に座らせるとキッチンに向かった。


「バタついていて申し訳ない。ノラ君が来る前に済ませておこうと思ったんだが、つい集中してしまった。」 
「ふーん。」
「色々と期日が迫っていてね。」


今まで伊月と過ごす時間は他人や他の物事が入る隙間もないくらい他愛がないが悠長な時間だった。でもここ最近はガラリと変わってしまった。やるべき事をこなす姿が残された時間が僅だと伝わってくる。それに時間を費やしたいはずなのに、無理矢理ノラと過ごす時間を確保しているように見える。伊月にまでお荷物扱いされているように思えて情けない。伊月はノラに背を向けて珈琲を淹れながら楽しそうに何か話しかけてくるがノラの耳には届かない。仕事がら数え切れない程余命患者と関わってきたが、何も感じっなかったのに伊月は違う。伊月にあと何回会えるのだろうかと考えるとノラの背筋が冷たくなるのを感じていた。短かくも濃い時間を過ごした日々が走馬灯のようにノラの頭を巡る。するとノラの眼から1粒の涙が零れた。


「え?‥何、これ?」
「ノラ君?どうした?」
「‥触んなっ!!」


伊月が淹れたてのカフェオレをテーブルに置くと涙を流すノラに気付く。ノラの肩に手を置き心配そうに顔を覗きこむがノラは伊月の手を払うと立ち上がりそのまま部屋を出た行った。伊月はその場で状況が飲み込めず立ち尽くしている。
ノラはそのまま事務所に駆け込むと、カーテンで仕切られた待機所にこもった。幸いにも待機所には誰もおらず、ソファベッドに飛び込むようにうつ伏せになった。事務所で仕事している羽柴がノラに気付くと、追いかけて待機所に入ってくる。


「ノラ!あんたまだ仕事中だろ!?」
「‥‥。」
「途中で投げ出してきたんじゃないだろうね!?」
「‥‥。」
「新人でもないのに何やってんだ!!早く戻んな!!」
「‥‥。」


返事もしないノラにしびれを切らし、羽柴がノラを引っ張り起こそうとするがびくともしない。そこへ事務所の入り口から「すいません。」とスタッフを呼ぶ声が聞こえた。ノラを引っ張りながら「はい。」と返事をするが、ノラが起き上がる気配の無い状況に苛立ち、ノラの頭を叩いてから事務所に出ていった。ノラは相変わらずソファベッドに顔をうづめている。


「8号室の伊月です。」
「伊月様。ノラが何か問題でも?」
「すいません。途中で私の具合が悪くなってしまって。ノラ君を驚かせたくなくて早く帰ってもらいました。その時お金を渡すのを忘れてしまって。お陰で具合が少し良くなったので支払いに伺いました。」
「そうでしたか!わざわざすいません。」
「いえ。あとこれノラ君に。幾つか入っていますので宜しければノラ君と召し上がって下さい。」
「ありがとうございます。」
「では、失礼します。」
「ご面倒おかけしました。」


伊月が去っていくと入れ替わりでナナが事務所に戻ってきた。


「誰?」
「8号室の伊月様。ノラをご贔屓してくださってる。」
「あー!質問責めの!?‥何で此処に?」
「途中で具合が悪くなって中断したけど、金を払ってないからってわざわざ持ってきてくれたんだよ。」
「ふーん。で、その箱は?」
「ノラにだって。幾つか入ってるから食べていいってさ。」
「えー!?何だろう?‥ケーキだ。しかも食べログで人気店じゃん!1個もーらい。」
「コラッ!ノラのだよ。まずはノラに食べさせないと。明日もあの子に伊月様が予約してるんだ。感想聞かれても答えられないだろうが。ノラを起こしてきな。‥起きるか知らないがね。」
「はーい。」


ナナが待機所に入るとノラはうつ伏せになって寝ていた。
ソファーベッドの空いた隙間にナナが腰掛けるとノラを突っついたり揺すったりして起こそうとした。しかしノラの反応は無い。


「‥だから言ったじゃん。深入りするなって。」
「‥‥。」
「‥伊月さんだっけ?好きなんだ?」
「は?!」


ナナの問いかけに驚いて思わずナナの方へ振り返った。


「何、その真っ赤な眼!泣いたの?らしくない。」
「‥うるせぇ。」
「近づき過ぎて怖くなった?」
「‥。」
「あんた感情死んでたからね。」
「は?」
「人間臭くなったって誉めてんの。」
「何だそれ。」
「悩め!苦しめー!」
「喧嘩売ってんの?」
「初めて芽生えた感情なのよ。もっと味わえばいいのよ。」
「‥面倒くせ。」
「ふふ。ショートケーキとチーズケーキとサバランとオペラどれがいい?選ばないとババアと全部食べちゃうわよ。」
「‥ショートケーキ」
「はいはーい。冷蔵庫入れとく。腐る前に食べなさいよ。」


ナナが待機所を出てくとノラはまたソファーベッドに顔を埋めた。


「‥い‥つき」


呟くように伊月は名前を口に出すと伊月の顔が頭の中を支配する。伊月に触れられた肩が熱くなり心臓が跳ね上がる。ナナが可笑しな話をするせいだと言い聞かせるが、体は熱くなる一方で鼓動は早いまま。ノラは平常心を取り戻そうとソファベッドに何度か頭を打ち付け、またうつ伏せになるとぎゅっと眼を瞑った。


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