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本編
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久しぶりに王城に呼ばれての茶会で、私はいつもと違う部屋に通された。
王太子の婚約者に対してどことなくよそよそしい侍女達に何かありましたわねと察する。
女か、金か。
最近ルー様に気に入った女がいることは知っている。なにか悪いことが告げられるに違いないと身構える。
公爵令嬢と王太子の婚約、そうそう解消されることは無い。しかし、私の面子が潰されるのは想像にかたくない。
人権なんて考えのまだ存在し無い世の中で、面子を潰されることはたとえそのような身分でなくとも奴隷に落とされることと大差ない。
虐げられ、搾取され、最後はゴミと捨てられる。
自分だけでなく一族丸ごと。
そして間違いなく領地に住む人々も多種多様な不利益を受けるだろう。
ルー様のために私一人がそういう目にあうのは構わない。しかしたとえルー様のためでもそれに一族や領民を巻き込む訳には行かない。
それが公爵令嬢というものだ。
現れたルー様はつい一週間前に会ったときよりもずっと大人びているように見えた。酷く険しい表情もまた愛おしい。
一通りのお決まりのやりとりの後、今日も麗しいルー様が述べたのはそんな予想をすっかり上回る衝撃的な言葉だった。
「私はもう君と一緒にいることができない。君の慈善活動は王国の財産をドブに捨てているに等しい。弱者へ慈愛を振りまき王家の権威を高めることは王太子である私の婚約者の義務のひとつであるが、君の振りまく慈愛は度を越しており、もはや見過ごすことはできない。王家は貧民のためにある訳では無い。必要以上の配慮によって君は王家の権威を貶めたのだ。これ以上、私の側に君を置くことは王国のためにも良くない。従って、婚約を破棄する。」
予め考えていた面子を保つための慎ましいお願いごとなんてものは吹き飛んだ。
目の前が暗くなる。全ての音が遠ざかる。今まで生きてきた様々な光景が目の前を通り過ぎていく。初めて会ったとき、はにかむように微笑んでいた王子殿下、茶会の席で自分の成果を誇る王太子殿下、恥ずかしそうにしながら劇場に自分を誘うルーカス様。つい一週間前、結婚式の準備の打ち合わせをしたルー様。18年のなかで特に鮮やかなのはルー様と過ごした時間。嵐のように荒れ狂う心の濁流に流されて輝ける太陽はいまや遠く星のよう。
愛人を持とうとしていることは把握している。それで私が彼と別れることになるだなんて想像もしなかった。
すぐにどうにかなることでは無いだろうがこうなったルー様が止まらないことを私はよく知っていた。
冷たい氷のようなエメラルドの瞳に秘められた意志は断固としたもので。私の予想していた内容に反して婚約破棄を望んでいた。
話してくれれば慈悲なんてすぐに引っ込めてその通りにしたのに。なんて、もう遅いよね。殿下が心から望むなら王妃に求められる慈悲深さなんてすぐにでも投げ捨てたのに。
これまでそんなことは一言も言わなかった。前に会ってからたった一週間ですっかり愛人に染められて見知らぬ男になってしまった。
いや元々そういう人だったのかもしれない。ただ私が鈍かっただけで。
パリン
私の手にあった真っ白な陶磁器製のカップが地面に落ちて粉々に砕ける。
持ち手に薔薇の咲いたそれは見る影もない。
気がつけば侯爵邸の自室にいた。もう何も頑張れない。もう何もしたくない。もう何も見たくない。裏切りに身を引き裂かれる感覚はまだ体に残っている。
そして、これから先に待つ運命に思いを馳せれば心は深海へと沈んでいく。星も見えない、水底へと深く、深く。音のない世界で自分の鼓動だけが響き続ける。
しばらくして婚約が破棄になったと聞かされた。表立っては愛人の存在に私が耐えきれず辞退した、つまり解消という形になったらしい。
そして新しい婚約者を一族から斡旋することに成功したとも。
一族を守るため、賢明な判断だと思う。
その頃にはすっかり心も落ち着いて、静かに自分の運命を受け入れることが出来ました。
婚約破棄という醜聞は社交界において重い意味を持つ。相手が王太子となれば尚更。
王太子という将来の最上位者から嫌われた令嬢の末路に希望はない。
しかし、一族からの少しばかりの温情はあった。
ローザリアは新興貴族の金持ちな子息と結婚する。公爵令嬢から男爵夫人。悍ましいほどの転落は社交界をしばらくの間騒がせて、その後次第に忘れられていった。
社交界に出ることも無くなった男爵夫人がその口撃に直接晒されることなく過ごせたのは、せめてもの救いである。
再びローザリアの名前が社交界で話題になるのはそれから25年後。
醜聞ではなく、その一人息子が救国の英雄となり、王女と結婚して王になったことがきっかけだった。
王太子の婚約者に対してどことなくよそよそしい侍女達に何かありましたわねと察する。
女か、金か。
最近ルー様に気に入った女がいることは知っている。なにか悪いことが告げられるに違いないと身構える。
公爵令嬢と王太子の婚約、そうそう解消されることは無い。しかし、私の面子が潰されるのは想像にかたくない。
人権なんて考えのまだ存在し無い世の中で、面子を潰されることはたとえそのような身分でなくとも奴隷に落とされることと大差ない。
虐げられ、搾取され、最後はゴミと捨てられる。
自分だけでなく一族丸ごと。
そして間違いなく領地に住む人々も多種多様な不利益を受けるだろう。
ルー様のために私一人がそういう目にあうのは構わない。しかしたとえルー様のためでもそれに一族や領民を巻き込む訳には行かない。
それが公爵令嬢というものだ。
現れたルー様はつい一週間前に会ったときよりもずっと大人びているように見えた。酷く険しい表情もまた愛おしい。
一通りのお決まりのやりとりの後、今日も麗しいルー様が述べたのはそんな予想をすっかり上回る衝撃的な言葉だった。
「私はもう君と一緒にいることができない。君の慈善活動は王国の財産をドブに捨てているに等しい。弱者へ慈愛を振りまき王家の権威を高めることは王太子である私の婚約者の義務のひとつであるが、君の振りまく慈愛は度を越しており、もはや見過ごすことはできない。王家は貧民のためにある訳では無い。必要以上の配慮によって君は王家の権威を貶めたのだ。これ以上、私の側に君を置くことは王国のためにも良くない。従って、婚約を破棄する。」
予め考えていた面子を保つための慎ましいお願いごとなんてものは吹き飛んだ。
目の前が暗くなる。全ての音が遠ざかる。今まで生きてきた様々な光景が目の前を通り過ぎていく。初めて会ったとき、はにかむように微笑んでいた王子殿下、茶会の席で自分の成果を誇る王太子殿下、恥ずかしそうにしながら劇場に自分を誘うルーカス様。つい一週間前、結婚式の準備の打ち合わせをしたルー様。18年のなかで特に鮮やかなのはルー様と過ごした時間。嵐のように荒れ狂う心の濁流に流されて輝ける太陽はいまや遠く星のよう。
愛人を持とうとしていることは把握している。それで私が彼と別れることになるだなんて想像もしなかった。
すぐにどうにかなることでは無いだろうがこうなったルー様が止まらないことを私はよく知っていた。
冷たい氷のようなエメラルドの瞳に秘められた意志は断固としたもので。私の予想していた内容に反して婚約破棄を望んでいた。
話してくれれば慈悲なんてすぐに引っ込めてその通りにしたのに。なんて、もう遅いよね。殿下が心から望むなら王妃に求められる慈悲深さなんてすぐにでも投げ捨てたのに。
これまでそんなことは一言も言わなかった。前に会ってからたった一週間ですっかり愛人に染められて見知らぬ男になってしまった。
いや元々そういう人だったのかもしれない。ただ私が鈍かっただけで。
パリン
私の手にあった真っ白な陶磁器製のカップが地面に落ちて粉々に砕ける。
持ち手に薔薇の咲いたそれは見る影もない。
気がつけば侯爵邸の自室にいた。もう何も頑張れない。もう何もしたくない。もう何も見たくない。裏切りに身を引き裂かれる感覚はまだ体に残っている。
そして、これから先に待つ運命に思いを馳せれば心は深海へと沈んでいく。星も見えない、水底へと深く、深く。音のない世界で自分の鼓動だけが響き続ける。
しばらくして婚約が破棄になったと聞かされた。表立っては愛人の存在に私が耐えきれず辞退した、つまり解消という形になったらしい。
そして新しい婚約者を一族から斡旋することに成功したとも。
一族を守るため、賢明な判断だと思う。
その頃にはすっかり心も落ち着いて、静かに自分の運命を受け入れることが出来ました。
婚約破棄という醜聞は社交界において重い意味を持つ。相手が王太子となれば尚更。
王太子という将来の最上位者から嫌われた令嬢の末路に希望はない。
しかし、一族からの少しばかりの温情はあった。
ローザリアは新興貴族の金持ちな子息と結婚する。公爵令嬢から男爵夫人。悍ましいほどの転落は社交界をしばらくの間騒がせて、その後次第に忘れられていった。
社交界に出ることも無くなった男爵夫人がその口撃に直接晒されることなく過ごせたのは、せめてもの救いである。
再びローザリアの名前が社交界で話題になるのはそれから25年後。
醜聞ではなく、その一人息子が救国の英雄となり、王女と結婚して王になったことがきっかけだった。
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