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8話 覚めない夢
しおりを挟む「綾乃大丈夫?」
「うん……。」
自分の部屋のベッドに腰掛ける私の隣には夢人さんが寄り添ってくれている。私は彼にもたれかかり目を瞑る。何が夢で現実かが分からなくなっていた。今は夢なのかな。夢でも現実でもいいや、夢人さんが傍にいてくれるなら。
「どこにも行かないで。」
「いかないよ。綾乃が夢を見続けてくれるなら。ずっと傍にいる事ができるよ。」
夢人さんの存在を確かめるように私の膝に置かれていた手を握る。暖かくて彼は確かにここに存在している。どうしてあの時いなくなったのか、そんな事どうでもよかった。また戻って来てくれた。夢人さんの青い目が細められて顔を近づける。ちゅっと触れるだけのキスをした。幸せだった。
悠太さえいなければ。
悠太が私の様子を信じられないものを見る目で見ている。何故か悠太には夢人さんが見えていない。
あの後力無く地面に座り込んでしまった私を家に連れて帰ってくれたのは悠太だった。部屋に入るとそこには夢私の行動を見て顔を青ざめている。頭がおかしくなったとでも思っているのだろう。
「もう、帰って。大丈夫だから。」
私には夢人さんが居る。今この場で悠太は必要なかった。今は優しいかもしれないけど、またいつ殺意を向けてくるか分からない。そんな人に側にいてほしくなかった。
「こんなの大丈夫じゃないだろ!綾乃さっきから誰と話しているんだ?そんな状態の綾乃を一人で置いておけないだろ!」
「やめてよ!触らないでッ!!やめて!!!いやっ!」
「ッう、嫌だっ!離さない!!!」
夢人さんをすり抜けて悠太が私の肩を掴む。また、夢人さんが消えてしまう。悠太のせいで。悠太に触れられると夢人さんを見る事が出来なくなる。悠太のせいで夢から覚めてしまう。
私は悠太の手から抜け出そうと暴れるが、悠太が私を抱きしめて離さない。恋人だったとは言え、殺され続けた男に触れられるのは嫌悪感しか抱かなくて、私は暴れるのを止めない。
「離してっ!夢人さん!夢人さん!!!消えちゃやだ!!!いやああああっ!」
「誰なんだよそれ!頼むからいい加減目覚ましてくれよ!!」
全身の骨が折れそうなほど強く抱きしめられる。私がどれほど強く拒絶しても悠太の力には敵わない。叫んでも、暴れても、泣いても悠太は離してくれなかった。そのうちに私は疲れてしまって、抵抗するのをやめた。
「どうして……。」
どうして私の邪魔ばかりするの。私の事は放っておいてくれていいのに。血の繋がりもないただ身体を重ねただけの、言ってしまえば他人の私の事をどうしてこんなにも気にかけるのだろうか。
私の問いかけにもならない小さな言葉は悠太にはしっかり届いていた。
「綾乃が好きだから……、愛してるからっ!」
こんなにも心に響かない愛の告白はあるんだろうか。悠太の口から紡がれる言葉は驚くほど私には響かなくて、早く終わってくれないかなと何もない天井を見つめた。落ち着いて目だけで部屋を見渡してみた。片付けをしてない部屋は散らかり放題で、机の上には空になった2本のペットボトルが置いてあった。
部屋のどこを見渡しても夢人さんの姿は見当たらず、悠太が私に触れている事で夢から覚めてしまっているのかもしれないと思った。
「俺ーー、綾乃が、ずっと心配で。最近様子変だったし、連絡しても、既読にならないし。大学にも来ないし……本当はよくないってわかってたけど、心配で鍵、開けてもらって。そうしたら、いないしめちゃくちゃ探した……。また、居なくなっちゃうんじゃないかって。必死で探したっ。やっぱりまた薬飲んでるんだろ?もう止めて病院行こう?俺も一緒に行くから……。もう一人にしないから。」
あーしんど。
「ごめん。ごめんな、またおかしくなってるって分かってたのに。忙しくて……、後回しにしちゃってた。俺今すごい後悔してる。俺がもっと一緒にいてあげてたらよかったな……。綾乃ごめん。もっと俺が頼れる男だったらよかったのに。これからはもっと頼れるように、綾乃がまたおかしくならないように、ずっと一緒にいるから。綾乃、愛してる。」
長々とした演説は「愛してる」で締めくくられたようだった。私もだいぶ落ち着いて、この現状から逃げ出す方法を考える余裕ができた。元に戻ったふりすればいい。
「ありがとう、悠太。私またおかしくなってたね。」
「ーー!綾乃、大丈夫なのか?ごめんな、俺が綾乃を一人にしたせいで。」
ほら、単純な男はすぐに騙される。
私を抱きしめる腕の力を緩めて、顔を覗き込んでくる。私はにこりと笑ってみせると悠太は安心したようなため息を吐いた。
最低な女と罵られてもいい。私は壊れてしまっているんだろう。何度も何度も何度も何度もこの男に殺されて、おかしくなってしまった。
悠太の目を見て言う。
「ありがとう、アイシテル。」
「よかった……、明日、一緒に病院に行こう。ちゃんともう一度見てもらおう。」
悠太が私ももう一度強く抱きしめる。肩越しに部屋の隅に夢人さんが立っているのが見えた。面白く無さそうな顔をして立っているけど、もう少しだけ待ってほしい。
明日朝一で私を病院に連れていくと、悠太は家に泊まる事になった。私は大人しく悠太に合わせて今までの私を振る舞う。笑って、頷いて、笑って。返事をして、笑って、頷いて。抱きしめられて、抱きしめ返して。一緒のベッドに入り、眠る。後ろから抱きしめられて横になる。
「おやすみ、綾乃。愛してる。」
「おやすみ、アイシテル。」
電気を消して月明かりに照らされる夢人さんの姿。
「僕以外にその言葉を言わないでほしいのに。」
少し拗ねたように腕組みをして私たちを見下ろしている。そんな夢人さんを見ると口元が緩んでしまう。
私は悠太が完全に眠りに落ちるのを待って腕から抜け出した。目は覚めない。さっき悠太の飲み物に睡眠薬を混ぜたから。
「夢人さん。」
「嫉妬で死んじゃうかと思ったよ。」
眠っている悠太をよそに夢人さんの腕の中に飛び込む。暖かくて心地がいい。胸に顔を埋めて深く息を吸うとふわっと甘ったるい匂いが鼻をくすぐった。私の頭を優しく撫でて夢人さんは言った。
「じゃあ、行こうか?」
どこに?なんて事は聞かない。どこにでもない所へ行くんだと分かっていたから。夢人さんは私の手を優しく引いて部屋の外へ連れ出してくれる。靴も履かずに私はただその手を引かれて歩く。足の裏でひやっとした地面を踏んで部屋の外、マンションの階段、上へ、上へと上がっていく。薄暗い階段を夢人さんと一緒に一歩一歩登っていく。
「さぁ、ついたよ。」
マンションの屋上の扉を開けると風にぶわっと吹かれてびっくりして夢人さんの後ろに隠れた。普段は鍵がかかっていて入れないはずの屋上、初めて足を踏み入れた。
「わぁ、綺麗……。」
都会の夜景に劣らないほどここからの景色も綺麗だった。人々が寝静まって静かな世界、街頭とぽつぽつと夜更かししている部屋の電気。大きな月が私たちを照らしている。私はフェンスの側に寄って町を見下ろす。下から噴き上げる風が前髪を揺らして階段を登って少し暑くなった体を冷ましてくれる。私に覆い被さるように夢人さんはフェンスを後ろから掴み一緒に見下ろす。
「高いね?」
「うん、すごく高い。」
「もっと近くで見ようか。」
フェンスの端にある出入り口のような所、普段は鍵がかかっているのだろうか、その鍵は外れて簡単に出入りできるようになっていた。私たちはそこからフェンスの向こう側に立ってみて次は町じゃなくて下を見下ろした。1歩前に出たら落ちてしまうような所に立つ、夢人さんの手をぎゅっと握っていると不思議と恐怖はなかった。
真下には街頭もなく、ただ真っ暗な飲み込まれそうなほど深い闇が広がっていた。
「綾乃。」
名前を呼ばれて夢人さんを見上げる。月の光に照らされて青の瞳が発光して見えた。その瞳の美しさに私は息を呑む。まるでサファイアのようにキラキラと光を反射しているように見える瞳は人間のものとは思えなかった。
思わず目を奪われていると、夢人さんは私の髪を一房掬い取って口付けた。目が合うと心臓が飛び跳ねた。
「夢人さん……?」
その瞳に見つめられると心臓がドキドキと高鳴る。胸の奥が熱くなり背筋がぞくっとした。ちくはぐな感情が声に乗って震えてしまう。夢人さんは目を細め優しく微笑んで私の腰に手を回して抱きしめる。目を閉じて頭の中に響く警報に蓋をする。私はこの人とずっと一緒にいたい。
「愛してる。僕の綾乃。」
「私も、愛してる。」
「ずっとずっと僕だけの綾乃ーー。」
危ない逃げろと頭の中で音がする。心は夢人さんの愛を受けて満たされる。考えるのをやめて心に従った時、私は夢人さんの首に手を回して顔を近づける。何も考えずにこの人の事だけを愛すれば楽だった。痛みも苦しみも苦悩も怒り、世の中の全ての嫌な事を捨てて退屈で辛い事放り投げて、夢人さんの事だけを想う。
「僕と一緒に落ちてくれる?」
「うん。どこまでも落ちてあげる。」
デジャヴ。前にも同じ夢をみた気がする。
愛する人の腕の中、甘い香りに包まれて思考する事をやめた。とても幸せだった。この人とならどこまででも落ちて行ける。
自分の全てを彼に預けようとした時屋上の扉がバタンと大きな音を立てて開く。息を切らしながら必死の形相で私を見て叫ぶ。
「綾乃ぉ!!何してんだよ!!!」
フラフラと私達がいる目の前のフェンスまで駆け寄ってくる。薬のせいでまだちゃんとは動けないらしい。ゼエゼエと息を切らしてフェンスにしがみつき、私に声をかける。
「ッはぁ、ーーはぁ、止めろよっ!なんだよお前!綾乃から離れろ!!」
今回の悠太は夢人さんを認識できているらしく、薬のせいで虚をになっている目で彼を睨みつけている。その憎悪に満ちた目はもう見飽きるほど見ていた。フェンスをガシャガシャと乱暴に揺らし、夢人さんに私から離れろと叫ぶ。
「綾乃ッ!そいつから離れろ!!どうしてッ!そんなやつと一緒にいるんだよ!!」
「私は夢人さんを愛しているの。」
「なんでだよっ!さっき、俺に愛してるってーーっ!」
「そんなの嘘だよ。」
そう伝えると悠太はひどく傷ついた顔をした。それを見ても何も私は心が痛まない。もう彼を愛していないんだなと、心残りはひとつもなくて安心した。
必死に私を呼び戻そうとする悠太を夢人さんは笑って、見せつけるように私の頬に唇を落として意地悪に言う。
「悠太くん、ごめんね。やっと見つけた僕の運命の人間だから。」
「なっーー、綾乃っ!お前早く目を覚せ!早くこっちにこい!」
「目ならずっと前から覚めてる。」
私はちらりと横目で悠太を一目見てから、夢人さんの顔を両手で包み触れるだけのキスをした。
「おい!!お前綾乃に何したんだよ!!!お願いだから、綾乃、お願いだから!そいつから離れてくれ!」
顔を青くして必死に私に叫び続けている悠太。フラフラな体でフェンスをよじ登ろうとして何度も失敗している。うまく体に力が入らないらしい。通常の2倍の量の薬を飲み物に混ぜたのだから、今起きているのも不思議だった。
「そいつをよく見ろ綾乃!そんなやつと一緒にいちゃだめだ!」
「何言ってるの……?」
悠太の言っている事がわからなかった。きっと私が行ってしまわないように時間を稼いでるだけだろう。
「綾乃、そろそろ行こっか。」
「なぁ、やめろーー!連れて行かないで!」
フェンスをガシャガシャと揺らしている悠太の手には血が滲んでいた。それでもやめないで必死に私を呼び止めようとする。
「私は夢人さんと行く。」
さよなら、悠太。夢から覚めたらまた会おう。
いつかみた夢のように夢人さんに抱きしめられて私は落ちる。違っていたのは悠太の耳を裂くような叫び声と黒い羽。その瞬間は短いはずなのにゆっくりと感じられた。
「ありがとう僕を選んでくれて。」
「愛してしまったから。」
強く抱きしめられて落ちる。幸せだった。夢から覚めたくなかった。一生この人の腕の中で守られて夢を見ていたい。この夢から覚めなければいいのにーー。
「大丈夫だよ。一生、この夢は覚めない。」
「ーーえ?」
私の心を見透かしたように夢人さんが呟いて、私が思わず顔を上げて彼を見るとその背中越しに地面が見えてーー、来るはずの衝撃に備えて体を固くして目を瞑った。
しかしいつまで経ってもそれは来ず、代わりにふんわりとした柔らかい感触が頬を撫でた。
「目を開けてみて。」
「……なに、これーー。」
目を開けてまず頬に触れた物が目に入った。それはふわふわとした艶のある黒い羽だった。
この羽は一体どこからーー?
私達は抱き合ったまま横になっていた。夢人さんは私を優しく見つめている。そしてその後ろには羽。大きな黒い翼が夢人さんから生えていた。その羽を触ってみるとふわふわと柔らかかった。夢人さんがくすぐったそうに息を漏らす。
「くすぐったいよ。」
「ご、ごめん。触り心地よくてつい。」
「綾乃にならずっと触られたいかも。」
笑いながら私の額に唇を落として、私たちを覆っていた羽がどかされる。あたりは暗くどこかの森の中にいる事がわかった。夢人さんが私の体ごと状態を起こして座る。森の中も気になるけど夢人さんの羽も気になる。今までずっと夢人さんの夢を見てきたけど羽が生えてる事なんて初めてだった。大きくで夢人さんの髪の色と同じ綺麗な黒い羽。
「ようこそ僕の世界へ。」
「どう言う事?これもまた夢?」
「夢でもあるし、現実でもある。僕が君を夢の世界へ連れてきたと言うのが近いのかもしれない。」
「ーーっ!」
夢人さんは軽々私を抱き上げ、大きな羽を羽ばたかせてゆっくり空へ浮かぶ。いきなりの事で驚いて夢人さんの首元に強く抱きついてしまう。落ちるのは何度も経験したけど浮かぶのは初めてだった。
「見てみて、あれが僕の家。」
太陽が沈む方角。沈みかけた太陽に照らされて大きな黒い城のシルエットが見えた。
「夢人さん、どういうーー」
「僕の本当の名前はモルペウス。君がたまたま僕の夢を見たから、僕は君と出会い惹かれ合った。これって運命ってやつだよね?」
「もる、ぺ……?」
また変な夢を見ているに違いない。現実ではあり得ない事ばかりだった。
だけど、目の前にいるのは羽は生えてるけどまぎれもなく私が愛した夢人さんで、これが現実でも夢でもどうでもよかった。
「今まで言わなくてごめんね。羽が生えてる男は嫌?」
「そ、そんな事ない!ちょっと、びっくりするけど、ゆめひ……もるぺ、うすさん?の事は好き。」
「ふふ、今まで通りでもいいよ。綾乃につけてもらった名前実は気に入っていたんだ。」
夢人さんはそのまま羽を動かして城の方へ進んでいく。城の近くは荒廃とした土地が広がっていた。さっきいた森は遠くに小さくなって見えていた。
「これからの事は城についてから話そうね。」
どこか楽しそうな夢人さんに抱かれて、知らない土地の知らない城に向けて空を進む。夢なのか現実なのかもわからないままーーどうかこの夢が一生覚めませんようにと願って、居心地のいい彼の腕の中に身を委ねた。
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