月の目覚めの時

永田 詩織

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1. 見えない先-1

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  ロベルトとリイナは、夜明けと共に家を抜け出した。
  扉を開けると、目映い光に目が眩んだ。何度か瞬きをして目を慣らしてから、ロベルトは顔を上げる。
「わあ…っ」
  朝日に照らされた美しい景色に、彼は歓声をあげた。
  山の向こう側から太陽が顔を覗かせ、辺りを赤く染めている。ずっと月の国で暮らしていたロベルトにとって、こんな風に朝を迎えるのは、不思議な気分だ。夕焼けとはまた違った風景に、ロベルトは胸を熱くした。
「貴方、朝日は見た事がなかったの?」
「ない。これが初めてだ。いつも起きる時には日は昇っていたし、そもそも、月の国には太陽なんてなかったから…」
  後から出てきたリイナに聞かれ、ロベルトは首を横に振る。リイナはふうんと呟くと、彼の隣に並んで顔を覗き込んできた。
「じゃあ、山で明朝を迎えるのも初めて?」
「…うん」
「そう。それなら、こんな事もした事はないわね」
「…え?」
  不思議に思って振り返ったロベルトに、彼女は笑いかける。それから、両手を広げると、大きく息を吸い込んだ。
「…?何やっているんだ?」
「見て分からない、深呼吸よ。貴方もやってごらんなさい」
「…うん?」
  訳が分からぬままに、言われた通りにする。そして、肺にスウッと冷たい空気が入り込んできて、ロベルトは目を丸くした。
「…!美味しい…」
「でしょう?山の空気は、澄んでいるのよ。…町と違って」
  ハッとしてリイナの方を見やると、彼女はじっと遠くの町を見つめていた。
  __確か、リイナは昔あの町に住んでいたんだって言っていたよな…。
  辛い思い出ばかりが詰まった町を眺めるのは、どんな気分なのだろう。その気持ちを想像してみて、ロベルトは押し黙る。
  __俺だったら…嫌だな。
  月の国が、忘れたくなる程嫌な場所だったとしたら、きっと彼は遠くへと逃げ出していただろう。二度と見る事さえ叶わない、とても遠いところへと。
  けれど、実際はまったく違うわけで、ロベルトにとってあそこは幸せな思い出の沢山詰まった場所だった。つい先日まで、ずっと帰りたいとばかり考えていたのだ。
  だが、今の彼には、これからどうすればいいのか分からなくなってしまった。勿論、彼は帰らなければいけない。それが義務であり、彼の今の役目なのだから。
  __だけど…俺、帰りたくない。今は、帰りたくないよ…。
  暗い思考の海に沈みかけた時、声がして、ロベルトは我に返った。
「何を考えているの?」
「え…あ…、…リイナが昔住んでいた町って、此処から近いなって…」
「…ええ、そうね」
  思わず本音を漏らしてしまったロベルトに、リイナは顔色を変えずに町の方を見やった。彼女の無表情を見つめているうちに、その理由を聞きたくなって、ロベルトは問いかけた。
「あのさ…どうして、リイナはこんな近い場所で暮らしているんだ?」
「…どういう意味?」
「えっと…その、此処からじゃ、あの町がよく見えすぎるだろう?苦しくならないのか…?」
「…」
  少しの間、彼女は黙り込むと、こちらを振り返った。
「よく、分からないわ」
「…は?」
  目を丸くするロベルトに、リイナは首を傾げる。
「わたしにもよく分からないの。ただ…」
「ただ…?」
  彼女は朝日が眩しそうに目を細め、呟いた。
「母さんと父さんと暮らした大切な思い出が詰まった場所だから…ずっと見ていたいのかもしれない」
「え…?」
  予想もつかなかった彼女の言葉に、ロベルトは言葉を失う。
  __大切な、思い出…?
  辛い思い出ではなく、大切な思い出だと彼女は告げた。その事を繰り返し考え、ロベルトはポツリと呟く。
「リイナは…強いんだな」
「え?」
「だって、俺にはそんな事、絶対に出来ないよ…きっと、怖くなってすぐに逃げ出す」
「…」
  すると、リイナは少しだけ考え込むと、首を横に振った。
「違うわ…そういうわけじゃない」
「でも…」
「わたしがここにいるのは、きっとあの頃の思い出にすがってしまいたいから。少しだけ辛かったけれど、それでも幸せだった、あの日々に…」
  本当ならば、もう前を向いて歩き始めなければいけない。けれど、まだ決心がつかないのだと彼女は語った。
「たぶん…たぶんだけどね。貴方は、故郷を思う事を恐れている。だから、貴方はわたしが強いと思った。けれど、わたしが恐れているのは、目に見えるあそこじゃないのよ。もっと別の、形のないもの…」
「…」
「…つまり、恐怖の大きさ、辛さの度合いは、感じるその人によって違うって言いたいの。意味、分かる?」
「えっと…」
  少しだけ混乱してきたロベルトは、問いかけられて目を泳がせる。見かねたリイナは言葉を探すように、顎に手を当てて考えながら続ける。
「その…貴方は、わたしの感じる恐怖を、わたし程は恐れない。その代わり、別の事に恐れを感じるわ。だけど、わたしはその事は怖くない。つまり…そういう事」
  だから、人の恐怖に優劣なんてない。何故なら、そんなものは存在しないからだ。
  恐怖は痛み、そして、苦しみ。辛い事は人それぞれ違っていて、だから、決して比べる事なんて出来ない。
  そう語るリイナの言葉を、ロベルトはじっと聞き続けた。
理解できるような、できないような、そんな話に彼は感じた。   もしかしたら、彼女の言っている事は合っているのかもしれない。けれど、確信は持てない。今の彼には、その答えが存在しないのだ。
  __ひょっとすると、リイナもそうなのかもな。
  時々、自信の無さそうに言い淀む彼女は、迷っているように思えた。
  ならば、ロベルトも同じように答えを探してみよう。そう思った。きっと、二人で探せば、答えは見つかる筈。
  けれど、口に出すのは気恥ずかしくて、ロベルトは心の中でそう誓った。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
  不意にそう催促され、ロベルトはいまだに目的地を知らない事を思い出した。
「…なあ、リイナ。俺達、何処に向かうんだ?」
「さあ、何処でしょうね。何処に行きたい?」
  逆に問い返され、思わず耳を疑った。
「ええっ!?決まっていなかったのか!?」
「そんな訳ないじゃない。冗談よ、冗談」
  リイナはけろりと笑って、悪びれた様子もなく言った。
「ただ、わたしにもよく分からないのよ。彼らははっきりとした事を言わないから、実際に行ってみないと、何処にたどり着くか分からないし」
「彼ら?」
  まるで誰かに導かれるような言い方に、ロベルトは眉をひそめた。リイナは頷くと、首を傾げる。
「そういえば、あの人達も同じ反応だったわね。貴方達“月の民”は、精霊に詳しいんじゃないの?」
「え…せいれい?」
「そうよ。例えば、木々や草花に宿る魂。彼らを、わたし達“月の忘れ人”は精霊と呼ぶの。他にも、風や火、水の中にも沢山のいのちが宿っているわ」
  そう言って、彼女はスッと手を伸ばした。
 そこから波紋が広がるように風が沸き起こったかと思うと、リイナの指先に光が灯る。
「…!」
 次に目に飛び込んできた情景に、ロベルトは息を呑んだ。


  ふわふわ、ふわふわとあちらこちらで光の玉が揺れる。
  淡い光を放つそれは蛍のようで、それでいて強い存在感を持つ不思議な生き物のようだった。
  恐る恐る、ロベルトは手を伸ばしてみる。玉に触れた途端、それは形を変えて鳥の姿になった。
「わっ!?なんだ、これ…」
「あら、貴方は鳥なのね。わたしが触れると、蝶になるのよ」
 そう言って、リイナも同じように触れてみせた。そして、本当に蝶へと姿を変えた玉を見て、ロベルトは目を丸くする。
「本当だ…!」
「他にも沢山の種類の精霊がいるけれど、彼らが姿を変えてくれるのは、この蝶だけなの。人によって、何に変わってくれるかが違うのだけれど、これだけは同じね」
 リイナは蝶に笑いかけると、空に手を掲げて、それを放った。それと同時に蝶はもとの玉の姿へと戻り、彼女の周りを漂い始める。
「…これが、精霊?」
「そうよ。見るのは初めてなの?」
「ああ…リイナは、いつもこんなのを見ているのか?」
 鳥から玉に戻った精霊を目で追いかけながら、ロベルトは尋ねる。
  赤、黄、青、緑…。その光景は、いつか見た摩灯籠の灯を思い出させた。
「いつもではないわ。こうして、姿を見せてくれるように語りかけた時にだけ、見えるのよ。でも、声はいつも聞こえているわ」
「声…?」
 そもそも、精霊は言葉を話すのだろうかと驚いていると、リイナはいたずらっぽく笑った。
「なんだ、そんな事も知らなかったの。なら、良かったわね」
「どうして?」
「だって、彼ら、ずうっと貴方の話をしているのよ。すっかりお気に入りみたい。でも、かえって騒がしいかもね」
「え…っ」
「わたしだったら、夜も眠れないかも。ひっきりなしに話しかけてくるから」
 楽しそうに笑ってから、リイナは目を細めてロベルトを見た。
「きっと、彼らに好かれているのね。優しい人の証拠よ。精霊は、声の大きな人と怖い人が嫌いだから。その点、貴方のお付きの二人はダメね」
「え…ノルンとヒースの事?あの二人は怖くないよ…ただ…」
 そこで、ロベルトは俯いてしまった。嫌な気持ちが喉を塞いで、言葉が上手く出てこない。
彼らの為に何かを言う事すらも出来ないのかと思うと、ロベルトは寂しくて仕方がなかった。
「…少し、歩きましょうか」
 リイナはポツリと呟いて歩き出した。その後を精霊が追いかけるようについていくのを見つめながら、ぼんやりと思う。
 __この先、俺はどうすればいいんだろう。こんな気持ちでは、国には帰れない。兄様に、どんな顔をして会えば…。
「ロベルト、置いていくわよ!」
 リイナに呼ばれ、ロベルトは我に返った。だいぶ離れた場所に彼女がいるのを見つけ、慌てて追いかける。
「ご、ごめん…」
「…」
  隣に並んだロベルトは、リイナが何も答えない事に不安を覚え、彼女の顔を窺った。不意に手を握られ、彼は飛び上がる程驚く。
「な、なに…」
「ロベルト、あそこを見て」
  唐突に遠くを指差され、戸惑いつつもそちらを見やる。そこには、平坦な道が広がっているだけで、その向こうは森で覆い尽くされていて、先は見えなかった。
「あの森は、薄暗そうじゃない?この先も、貴方には何が広がっているか分からないでしょう」
「う、うん」
「でもね、森の途中には、明るい陽だまりのような広場があるの。そして、ずっと抜けた先には、とても素敵な光景が…待っているかもしれない」
「え…」
 訳も分からずリイナを見ると、彼女も同じように、真っ直ぐロベルトを見返した。
「今の貴方と、同じよ」
「…!」
  目を見開くロベルトに、彼女は笑いかける。
「きっと、貴方はとても長い長い洞窟の中にいるの。終わりが何処にあるのか、まったく見当もつかない暗闇の中に」
「…」
「今、貴方は苦しいかもしれない。辛くて、くじけそうかも。でもね、そうして抜け出した先に待つのは、ひょっとすれば、とても素晴らしい景色かもしれないのよ」
「リイナ…」
 だからと、リイナはもう片方の手を差し出して、言った。
「一緒に、あの向こうの景色を見に行きましょう?」
「…!」
  少しの間、ロベルトは言葉もなくリイナを見つめた。それから、ぐっと手を握り締める。
「ああ、行こう…!あの先に、どんな景色が待っているか、確かめに!」
 そうして、二人は手を取り合って歩き始めた。
 __リイナは、あの景色を見に行こうと言った。俺の待ち受ける未来を見に行こうとは言わなかった。
 けれども、それは彼女がくれた小さなきっかけのように思えて、ロベルトの世界は少しだけ開けたように感じられた。
  __このきっかけを、大切にしよう。この旅が、俺に何かをもたらしてくれる事を祈って…。
  右手に確かなぬくもりを感じながら、彼は一歩一歩を踏みしめて歩み続けた。


  *   *


  入ってみると、森の中は思っていたよりも明るかった。
  しんと静まり返った朝の森に人の気配はなく、時折遠くの方から鳥の鳴き声が反響して聞こえてくる。
  なんとなく、ロベルトは息をひそめて辺りを窺った。その時、耳に小さな笑い声が届いて、不思議に思い、周りを見渡す。けれど、そこには誰の姿もなくて、ロベルトは首をかしげる。
「…あ、これでいいかしら。ロベルト」
  不意にリイナに名を呼ばれ、彼は振り向く。
「はい、これ。茂みは蛇がいるかもしれないから、この枝で確かめながら歩いてね。…どうしたの?」
「今、誰かの笑い声が聞こえなかったか?」
「…?どういうこと?」
  ロベルトは、今さっき体験した事を説明した。ふむふむと頷いたリイナは、安心させるようにロベルトに笑いかける。
「それはきっと、風の精霊達よ。わたしは“そよ風の乙女”って呼んでいるんだけどね。あの子達は、噂好きなのよ。きっと貴方の事、何処かで聞いてちょっかいを出したくなったんでしょう」
「そうなんだ…」
  言われてみれば、先程声が聞こえた時、少しだけ風を感じた気がする。
  それにしても、精霊とは奇妙な存在だ。姿を見せず、声すら聞いた事すらないのに、時々こうして存在を感じさせたりする。それでも嫌な気がせず、ロベルトは彼らを好きになる自信があった。
「俺も、精霊と話せるようになりたいな…」
「あら、出来ると思うわよ」
  いつの間にか溢れていた言葉に、リイナが思いもよらず反応した。ロベルトはびっくりして、彼女を見つめる。
「え…出来るのか?」
「ええ…教えてあげるわ。その代わり、貴方もわたしに何か教えてよ」
「何かって?」
「そうね…じゃあ、貴方達が使うという、不思議な力の事を」
  不思議な力と言われ、一瞬何を指しているのか分からず、目を瞬かせた。それから、それが魔術である事に思い至り、彼は頷く。
「ああ、いいよ、勿論」
「本当?なら、歩きながら話しましょう。野宿出来る場所には、まだ程遠いから」
  そう言って、リイナは先に歩き出した。その後を追って歩きながら、ロベルトはどう説明すれば良いか考え始める。
  リイナも同じだったのだろう。しばらく沈黙の続いた後、最初に切り出したのは、リイナだった。
「わたしが初めて精霊と話したのは、四歳の頃だったらしいわ。わたしはよく覚えていないんだけど、その時、母さんが傍にいてね。突然、歌い始めて、びっくりしたようよ」
  きっかけは、なんだったのか。母と遊んでいた幼いリイナは、不意に宙を見つめ、何かを追いかけるように手を伸ばしたという。
「母さんが言っていたわ。あの時、幼いわたしは精霊の姿を見ていたんだって。幼子は、簡単に精霊の姿を見る事が出来たそうよ。それで、彼らに触れて、わたしは導かれるように歌ったの」
「…歌」
  まるで、魔術を操るようだと思いながら、ロベルトは呟いた。
「それから…わたしが覚えている中で最初に彼らと言葉を交わしたのは、九歳の時。あの晩の事は、今でも忘れられないの…」
  辛くて、苦しくて、リイナは一人で森の中で泣いていた。その時、声がしたのだという。小さくて、優しく温かみのある声。泣くのを止めたリイナは、顔を上げて、歓声をあげた。
『わあっ、綺麗!』
   いつの間にか、彼女の周りには色とりどりの光の玉が浮かんでいて、それはまるで、彼女を包み込んでいるかのようだったらしい。
  その時、リイナはある事に気付いて彼らに語りかけた。
『もしかして、わたしに話しかけてくれたのは、貴方達?』
「…それで、精霊達はなんて答えたんだ?」
  瞳を輝かせて聞くロベルトに、リイナは何もと首を振った。
「その代わり、歌を聞かせてくれたわ。こんな歌をね。
わたしの思いよ 鳥となって
あの人のもとへと届けておくれ…」
  その時、ロベルトの頭の中に反響するように声が流れ込んできた。
(わたしの思いよ 鳥となって
あの人のもとへと届けておくれ
鳥ならば 山も海も越える事が出来るでしょう
鳥ならば 幾千の道も越える事が出来るのでしょう
だから届けて あの人のもとへ…
届けて 愛しきあの人のもとへ…)
  それは、紛れもなくリイナの声だった。
  それと同時に、温かな気持ちが伝わってくる。初めて精霊と触れ合った時の喜び。歌を通してお互いの意志疎通をはかれた時の驚きと嬉しさ。そして、なによりも、幸せそうなリイナの笑顔__。
  その全てが流れ込んできて初めて、ロベルトは理解した。
「これは…魔術だ」
「え?」
  目を丸くするリイナを見て、無自覚でやってのけた彼女に思わず苦笑を覚える。
「リイナ、歌はね__いや、言葉は、魔術にとって大切なものなんだ」
「どういう事…?」
  リイナに問いかけられ、今度は自分の番だと、お腹に力を入れた。
「魔術はね、俺達が言葉に思いを乗せて、強く願う事で成せる力なんだ。だからこそ、君は彼らと語り合いたいと強く願う事で、その力を__魔術を使う事が出来たんだよ」
  恐らく、彼女が使った魔術は、歌を用いて相手と意志疎通を図るもの。きっと、遠く離れた場所でも、彼女は思いの化身を飛ばす事が出来るのだろう。
「なら、もし、困った事があったら、俺に思いの化身を飛ばしてよ。駆け付けられないかもしれないけど、それでも、話を聞く事は出来るから」
  リイナは一瞬だけ目を見開くと、すぐに目元を和らげた。
「ありがとう…貴方も言うようになったわね」
「あ、いや、たいして役には立てないかもしれないけどさ」
  慌てて付け加えるロベルトに、リイナは首を横に振った。
「ううん、大丈夫。それでも嬉しい」
  そう言って微笑むリイナを見て、ロベルトは不思議な気持ちになった。
  __なんだろう…リイナの雰囲気、前よりも柔らかくなった?
  少し前は、たまに一人で考え込んだり、何かを思い出すように、悲しそうな顔をして遠くを見つめていた。それが、今はよく笑うようになり、自分の事も少しずつ話してくれている。
  __まるで…何かが吹っ切れたような…。
  リイナも、ずっと何かに苦しんでいたのだろうか。そして、もうすぐその苦しみから解放されようとしているのだろうか。
  __リイナ…俺もいつか、君のように笑える日が来るって…信じてみるよ。
  不意に、リイナの顔がすぐ傍にある事に気付き、ロベルトは驚いて仰け反った。
「うわわっ」
  そのまま後ろに倒れかけたところを、リイナは腕を掴んで引き戻してくれる。
「全く…何をやっているのよ。人の顔を見るなり、そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「だ、だって、いきなり目の前にいたら、誰だって驚くだろう!」
「あら、何度も呼んだわよ。気付かなかった?」
  え、と言葉を漏らして、ロベルトは記憶を探った。そういえば、ずっと考えていたから、リイナの声に気付かなかったのかもしれない。だから、ロベルトは素直に謝る事にした。
「ごめん。気付いていなかったみたいだ…」
「分かれば、よし。それはそうと、目的地に着いたわよ」
「えっ、目的地!?」
  もう着いてしまったのかと驚いていると、彼女は笑って違うと首を振った。
「目的地は目的地だけど、今のは今日の目的地って事。説明不足で悪かったわ」
  それから、彼女は木々の向こうを指差した。
「あっちよ。行きましょう!」
  そう言われ、ロベルトは草木をかき分けながら木々を抜ける。そこで見た風景に、彼は大きく息を呑んだ。
「…凄い」
「ね。とても綺麗な湖でしょう?」
  ロベルトは何度も頷き、その素晴らしい景色に見惚れていた。その時、遠くの方で水飛沫があがるのを見て、彼はあっと声をあげる。
「今の、魚だよな!」
「ええ。ここには、とても美しい魚が棲んでいるの」
「へえ…」
  熱心に湖を覗き込むロベルトをよそに、リイナは手慣れた様子で荷を広げる。そこから必要なものだけを取り出して、今度は天幕を張り始めた。
  そこでようやく、ロベルトはリイナの様子に気付き、慌てて彼女のもとへ駆け寄った。
「ごめん!つい、見とれちゃって…何か手伝うよ」
「あら、じゃあお願いしようかしら。貴方の分の天幕はまだ張れてないから、自分でやっておいて。それから、火をおこしておいてくれる?」
「え…いいけど…まだ昼間だぞ?」
  火をおこすには、まだ早すぎる時間ではないか。そう首を傾げるロベルトに、リイナはニコッと笑った。
「今から、狩りと釣りに行ってくるわ。ついでに、夕食の材料も探さなくちゃね」
「…えっ!?釣りって、まさかあの魚を釣っちゃうのか…?」
  先程まで見つめていた美しく光る魚達を思うと、悲しい気持ちになってくる。
「でも、あれはとても美味しいのよ。今のうちに、ちゃんと滋養をとっておかなくちゃね」
「…」
  美味しいと聞いた途端、昼食が待ち遠しくなる自分が悲しかった。
「そんな顔しないの。食べる、食べられるは、自然の摂理なのよ。いちいち気にしていたら、生きていかれなくなってしまうわ」
 リイナは顔をしかめてみせて、ロベルトをたしなめた。そんな彼女を見ていると、まるで母親と相対しているような気分になる。
 __あの一家にとって、リイナはそんな感じなのかもな。
 なんとなくそう感じながら、ロベルトは頷いた。
「そう…だな。その代わり、食事の時に感謝を捧げる事にするよ」
「それが一番ね。…さて、それじゃ、行ってこようかしら。明日中にはこの森を抜ける予定だから、余分に確保しておかないと」
「あれ、町には下りないのか?」
 言って、ロベルトはハッと気付いた。その表情から察したのか、リイナは苦笑を漏らして、頷く。
「お察しの通り、わたし達は町に下りる事は難しいの。でも、もうすぐ行った先の港町には向かうわ。あそこは隣国と近いおかげで、そういった考えが薄いの」
「隣国?」
 隣に国があるという概念を持たないロベルトにとって、それはとても新鮮な言葉だった。
「そうよ。そういえば、説明していなかったわね。夕餉の時に教えてあげるわ」
「ああ、分かった。行ってらっしゃい!」
  そう言って、二人はひとまず別れた。


  その後、ロベルトとリイナは空になった鍋を囲みながら、話を再開した。
「まずは…ここ、わたし達が暮らす国はソーシャというの。“西の果て”という意味で、ソーシャがこのアバレス大陸で最も西に位置する事からの由来よ」
 そう言って、リイナは地面に木の棒で図を描き始めた。大きな楕円の中に、三つの様々な形をした図形を描く。
 そのうちの一番大きな四角を指差して、彼女は続けた。
「ここが、アバレス大陸。で、ここがソーシャ」
「…小さな国なんだな」
「そうね。でも、それはソーシャだけじゃないのよ。他にも色んな国が密集して、この大陸が出来ている。で、さっき話に出た、問題の国なんだけど…」
 リイナは腕を伸ばすと、ソーシャと書かれた丸の横に少し大きめの楕円形を描いた。
「ここが、ロウゼン帝国。様々な民族で結集されている大国よ」
「…!色んな民族で?どのくらい?」
「そうね…。少し前は、十数くらいだったんだけど、最近になって、あちこちに侵略するようになったから…だいたい三十ぐらいかしら」
「さ、三十!」
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