月の目覚めの時

永田 詩織

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2. 兄弟と孫

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「ん…」
  眩しい光に、ロベルトは身動ぎした。うっすら目を開けると、窓から暖かな朝日が彼を照らしている。
「朝…なのか…?」
  少し違和感を覚えて首を傾げていると、陽気な声が聞こえてきた。
「なーに寝ぼけた事言っているんだよ。調子はどうだ、ロベルト?」
「え、ああ、ソウマさん。おはようございます!お陰様で、落ちつきました。熱もないと思います」
「どれどれ…」
  彼は手を伸ばすと、ロベルトの額に触れた。
「うん、大丈夫だ。けど、くれぐれも無理はしないようにな。特に、今日一日は、な」
  念を押されて、神妙な顔で彼は頷く。すると、ソウマはロベルトの髪をくしゃくしゃにすると、楽しそうに笑った。
「そう神妙な顔すんなって。こうは言ったが、若いうちにいっぱい経験するのも良いってもんだ。まあ、また怪我でも熱でも出したら、俺に言えや」
「は、はあ」
  なんと答えて良いものかと、付き合いの浅いロベルトは悩んでしまうところだ。そんな彼にお構い無く、ソウマは元気よく伸びをして立ち上がった。
「さーて、朝飯食いに行くぞー。今日はリイナの手料理だからな、楽しみだ!」
  何気なく言われたその言葉に、ロベルトはブッと吹き出しかける。
  __リイナの手料理…!?想像出来ないけど…でも、気になる…!
  そわそわし始めたロベルトを温かい目で見つめながら、ソウマは一瞬遠い目をした。
「ただ…今日はじっちゃんが帰ってきているからなー…そこは心配…って感じだな」
「え、ソウマさん?何か言いました?」
「いや、なんでもない。さー、飯食い行くぞー」
「ちょ、引っ張らないで下さいよ…っ。行きます、行きますから!」
  なんだかんだソウマに急かされながら、ロベルトは期待に胸を高鳴らせて朝食の場へと向かった。


「…だから、文句があるんだったら食べるなって言っているでしょっ!!」
  部屋に入って一番に聞こえた怒鳴り声に、ロベルトはビクッと首をすくめた。
  慌てて見回すと、リイナがこちらに背を向けて、凄まじい剣幕で誰かに怒鳴っている。その相手はというと__。
「別に文句は言っとらんじゃろうっ!わしはただ、この煮付けは味が薄すぎると言ったんじゃ!あと、この野菜の切り方が雑過ぎる。それから、これは…」
「…」
  それを文句というのだと、ロベルトは内心突っ込んでいた。怒り狂うリイナの気持ちも分からなくもない。ただ、妙齢の老人に時折お玉を振りかざすのは、とてもまずい事に彼は思えた。
「…で、ここが居間。食事したり、寛いだりするのが主だけど、たまーに大事な話をする時、そこの食卓で向かい合っているな」
「…ソウマさん」
「ん、どうした?」
「…あれ、止めなくていいんですか?」
  そう尋ねてロベルトが指差す先には、いまだに怒鳴り合いを続けるリイナと老人の姿がある。
「ん?ああ、いーのいーの。いつもの事だから」
  放っておけば勝手に止めるさと、気楽に笑うソウマだが、そこまで軽い気持ちになれないロベルトがいる。
  リイナがお玉を振り上げるたびに、ロベルトはハラハラしてしまうが、そのたびに老人が素早く阻止して、何度も彼はホッと胸を撫で下ろす。それを繰り返している内に、いつの間にか疲れてしまったのか、リイナが深くため息をついて、に腰を下ろした。
「おー、今日はリイナの負けか。お前もよく付き合うよなー、じっちゃんの小言に」
「…なんだ、貴方達来ていたの。立ち聞きとは、趣味の悪い」
「全くじゃ。居るなら居るで、さっさと挨拶せんかい!礼儀がなっとらんな!」
「いやいや、今の状況でそれ出来る人いないでしょ。ねえ?」
  ソウマに賛同を求められて、ロベルトはこくこくと頷く。全くもって、彼に賛成だ。
「ん…?お主は誰じゃ?」
  怪訝そうに首を傾げる老人に、リイナが眉をひそめてたしなめる。
「ゼン爺、昨日教えたじゃない。彼は月から来た人、ロベルトよ。もうボケちゃったの?」
「な、なんじゃと!?わしはまだ七十九歳じゃ…」
「はいはい、そこまでー。話は食卓に着いてからでも良いだろう?俺、もう腹ペコで…」
  話を遮ったソウマはお腹を擦りながらそう言うと、さっさと席に着いてしまった。行き場を無くしたロベルトがまごついていると、リイナが二回目のため息をつく。
「何処でもいいから座りなさいよ。…といっても、わたしの隣しか空いてないけどね」
「あ…はい」
  急いで席に着いて、彼女の方に向き直る。
「お…おはよう、リイナ」
「…おはよう」
  にこりともせずに挨拶を返されるが、それでもロベルトは嬉しくて、笑みを溢した。
「うむ、おはよう、諸君!そして、初めましてじゃな…ロベルト、君?」
「はい、ロベルトです。こちらこそ初めまして。ゼンさん…というんですか?」
  丁寧に頭を下げるロベルトに、老人__ゼンが唸る。
「なんと礼儀正しい若者じゃ…是非とも、リイナやソウマに見習わせてやりたい」
「ちょっと!それ、どういう意味!?」
「何でもいいけど、ゼンじっちゃん、ロベルトの問いに答えてやれよー。じっちゃん、そういうの好きだろ」
「う、うむ。そうじゃな」
  ゼンはこほんと咳払いすると、おもむろに席を立ち上がった。何が起こるのかと固唾を呑むロベルトの前で、ゼンはカッと目を見開く。
「わしの名はゼン!人呼んで偉大なる発明家、素晴らしき天才、優しき親なき者達の育て親!その正体は…」
「単なる発明バカ」
「これ、いっただきー」
  容赦ないリイナの言葉と遠慮のないソウマの行動に、ロベルトは唖然とする。
  ゼンは危うく後ろに倒れかけると、間一髪で椅子の背を掴んで、体勢を立て直そうと__した。だが、彼の体重よりも軽い椅子は呆気なく引っ張られ、ゼンは椅子ごと倒れ込んでしまう。
「ゼンさん!」
「いいの、放っておいて。すぐに立ち直るから」
  慌てて駆け寄ろうとしたロベルトを、リイナは冷たく止める。
「で、でも…」
「大丈夫、大丈夫。つうか、あんまり優しくすると…」
「…?」
  その時、ゼンの呻き声が聞こえて、ロベルトは彼の元へ駆け寄った。
「ゼンさん、大丈夫ですか?」
「や…さしいの、ロベルト君は…。よし、決めた!」
  突然ガバッと起き上がったゼンは、ロベルトの両肩を掴むと、満面の笑みを浮かべる。
「え…ゼンさ」
「君は、今日からわしの孫じゃ!他人とは思わず、我が祖父のように接しとくれ、ロベルト君…いや、ロベルト!!」
  いきなり呼び捨てで呼ばれ、ロベルトは頭の中が真っ白になる。
「え…え?」
「やっぱり…ゼン爺、やると思ったわ」
「俺の時も、こんな感じだったよな…いやはや、あれはほんと驚いた」
  戸惑うしかないロベルトの背後で、リイナは息を吐き、ソウマは遠い目をした。お陰で一気に頭が覚醒し、ロベルトは絶叫をあげる。
「え、え、ええーーっ!?」
  家の中には、ゼンの楽しげな声がずっと響き渡っていた。


  *   *


「いやー、悪かったな!じっちゃんのあれ、始まったらもう止められないんだよ。ありゃ、もう癖だな!」
「本当だよ、ソウマ!すっごく驚いたんだから!」
  あっけらかんと笑うソウマに、ロベルトは頬を膨らませた。隣でリイナが笑いを堪えているのが分かって、彼は猛然と抗議する。
「なに笑っているんだよ、リイナ!」
「だって…貴方のその顔、栗鼠みたいで…」
「な、なんだとー!」
  それでも笑うのを止めない彼女に、ロベルトは顔を真っ赤にしてもっと頬を膨らませた。そのやり取りが面白かったのか、ソウマも腹を抱えて笑い出す。最初はそっぽを向いていたロベルトだが、次第に自分も耐えられなくなって、同じように笑いだしてしまった。
  いつの間にか、彼の敬語やら敬称やらが外れているのは、それほどに打ち解ける事が出来たのか、それとも、あの一件のせいか。
  あの後すぐ、ロベルトはゼンに、今後の周りに対する態度を改めるように言われた。この二人、ソウマやリイナに対する態度も然り。曰く、二人は義理でも兄弟に当たるのだから、敬語や敬称を使うのはおかしいのだという。
  初めは渋ったロベルトだが、ゼンの猛攻撃とソウマのノリに流され、結局今の形に落ち着いたというわけである。とはいえ、それでもロベルトにも譲れないところはあるわけで__。
「それにしても、貴方。結局、ゼン爺の孫になる事だけは承諾しなかったわよね。まあ、どのみち逃げられないわけだけど」
「な、なんだよ、それ」
「なー。お前、俺らと兄弟になるの、そんなに嫌なの」
「そ、そんなわけないけど…」
  後ろから首に腕を回され、潰されながらも、ロベルトは彼らから目を逸らす。
  後ろめたい事は何もなかったと言えば、嘘になる。なにしろ、ゼンのあの提案に、ロベルトはいたく感銘を受けていたのだ。それに、この二人の事は嫌いではないし、むしろ好ましいくらいだ。確かに義理とはいえ、兄弟や孫と呼べる存在になれたなら、どんなに幸せだろうと思った。
  けれど。それでも__。
「…故郷には、大好きな兄様やノル…義理の兄達だって、父様だっている。それなのに、そんな事言ったら…」
「だけど、それとこれとは話は別だと思うぜ?」
  そんなロベルトに、ソウマは首を捻る。リイナも頷くと、当然のように言った。
「そうね。世の中には、義理の母親、父親と同時に本当の両親が存在する。何もおかしな事ではないと思うけど?」
「分かっている…分かっているけど、…けど、そういう事じゃないんだ」
  ロベルトは俯くと、膝の上で拳を作る。
「あそこには…故郷には、怪我を負った兄様がいる…俺のせいで怪我をさせてしまった、兄様が。それに…他の皆だって、無事かどうか分からない。俺が…あんな事をしなければ…」
「…」
「……」
  沈黙がその場を支配して、ロベルトは少しだけ後悔した。暗い気持ちにさせてしまったかもしれないと、己の未熟さを罵った。
  不意に、リイナが立ち上がって、傍を離れる。そのまま去ってしまうのかと思っていたら、何かを折る音がして、不思議に思い顔を上げた。
「…!」
「おっと…あぶねえな。…お、林檎か」
  ロベルトと違って難なく受け止めたソウマは赤い実を見つめて、嬉しそうに目を細めた。
「え…林檎?」
「そうよ。貴方の国にはなかった?」
「え、いや、そうじゃなくて…なんで林檎?」
  しかも、このタイミングで。
「疲れた時には、甘いものを摂るのが一番よ。とはいえ、家にお菓子なんて洒落たものはないから、これになっちゃうんだけどね」
「…?」
「ま、とりあえず食っとけ。甘くて美味いぞー」
  訳も分からず首を捻るばかりのロベルトに、ソウマはそう言う。それから、自分からさっさと食べ始めてしまうので、ロベルトもかじりついてみる事にした。
「…!美味しい…」
  甘い蜜が口の中に広がり、香りがスウッと澄み渡っていく。
「な?美味いだろう」
「うん!」
  夢中で食べるロベルトの頭を、ソウマはがしがしと撫でる。
「これで、少しは悩みが晴れたかって、リイナが言っているぞ」
「…え?」
  意味も分からずリイナを見て、ロベルトは目を瞬かせた。そもそも、彼女は先程から何も話していない筈だ。
「どうしてソウマが代弁しているのよ」
「だって、お前のあれじゃ、言葉が足りなくてこいつも分かんないだろう」
「…だって」
  すねたようにそっぽを向くリイナに、ロベルトはハッとした。
「…もしかして、気を使ってくれた?」
「…」
  リイナは少しだけこちらを振り返ると、すぐに目を逸らしてしまう。
「…だって、貴方、辛そうだったから」
「え…」
  言葉をなくすロベルトに、彼女は明後日を見たまま続ける。
「貴方に何があったかは知らない。知ろうとも思わないわ。でも、一緒にいる時ぐらいは笑っていてくれないと、こっちだって迷惑なの」
「リイナ…」
「まー、つまり、俺達と一緒にいる時くらいは、辛い事忘れて、バカやってもいいんじゃないかしらー的な事だよ、な!」
  茶目っ気を交えて通訳を気取るソウマに、リイナはため息をつく。
「…だから、どうして貴方が代弁するの。というか、そもそもバカやってもいいなんて考えてもいないわよ」
「だから、そこは俺からの提案という事で」
「…勝手になさい」
「…ふふ」
  この二人のやり取りを見ていると、つい笑ってしまうのは何故だろう。笑ったりしては、リイナが怒ると分かっているのに、ついつい笑みを溢してしまう。
  そうしたら、リイナがこちらを振り返ったので、ロベルトはギクリとした。
「…え」
  けれど、彼女が浮かべていたのは温かい笑みで、彼はドキッとしてしまう。
「良かった…笑った」
「…!」
  その途端、ロベルトは顔が熱くなるのを感じて、慌てて顔を逸らす。
「…ロベルト?」
「なななんでもない!」
「いやー、微笑ましいわー。でもって、お前鈍すぎ、リイナ」
「はあっ!?何よ、突然!」
「あはは…」
  その時、地鳴りを引き起こしそうな凄まじい怒鳴り声が聞こえたので、彼らはビクッと肩を震わせた。
「誰じゃーっ!!わしの大切な林檎の木の枝を折ったのはーっ!!」
「えっ!?林檎の木って…」
「まずいわ、走るわよ!」
「お前な、後先考えずに行動するなって…」
「こらーっ!!」
  二度目の怒鳴り声が聞こえ、申し合わせたように三人は一斉に走り出す。
  懸命に駆けながら、ロベルトは思う。
  今は。今はまだ、考えられそうにもないけれど、こんな日々も悪くないと思った。どうしようもないバカをやらかして、追いかけられて、逃げて。疲れたら、また一緒に林檎を食べればいい。あんな風に二人のやり取りを見て、笑って。そうして。
「…なあっ、どこまで走るんだよ!?」
「…知らないわっ!」
  予想外の一言に、思わず絶句した。
「ええっ!?」
「相変わらず…っ。じゃあっ、行けるところまで競争という事で!」
「そ…んなっ、無茶苦茶な…っ!」
  とんでもないソウマの提案に、ロベルトは顔を青ざめさせる。
「あら、いいわねっ。じゃあ、負けた人は勝った二人の言う事を、なんでも一つ聞くという事で!」
「なーんか定番だなあ、それ。まあ、いいか!」
「よし、それじゃ…」
「よーい、どん!」
  どこにそんな体力があるのか、掛け声と共に速度を上げる二人に、ロベルトは叫び声をあげた。
「ま、待ってよ、二人ともー!」


  そんな三人の様子を遠くで眺めていたゼンは、やれやれと肩を落とした。
「本当に、手間のかかる奴らじゃ。…それにしても」
  林檎の木に近付いた彼は、手探りで何かを探していく。
「おお、あった、あった。…やはりな」
  そこにあったのは、高さが異なる三本の横に引かれた線。
「あの時は、こんな事になると思ってなんだ。じゃから…あの二人にとって、あの子に似たロベルトは、身内のように感じるのかもしれんな」
  __わしも含めて、な。
  それが良い事なのか、悪い事なのか…彼には分からない。だが、この先に続くのが良いものである事を願っている。
「…さて。それでは、研究に戻るとするかの」
  そう呟いて歩き出した後には、林檎の木が風に揺れていた。
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