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3. 躍動の時-1
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「兄様!」
ロベルトはパッと駆けだした。後ろからノルンのお小言が飛んでくるが、そんなものは無視だ。
「やあ、こんばんは、ロベルト。そんなに急いでどうしたんだい」
「こんばんは、兄様!だって、ずっと会えなかったじゃないですか!」
幼い頃と変わらない満面の笑みで答えると、背後からため息が聞こえた。ノルンが頭痛を堪えるように、こめかみを押さえる。
「まったく…呆れてものも言えませんよ。それがもうすぐ十五になる男の言葉ですか。暢気すぎるにも程がありますよ」
「…まあ、今更だろう。確かに、一国の王子がこれでは問題があるが…ロベルトだからな」
「おい、ノルン、ヒース!聞こえているぞ!」
ギッと睨みつけるが、彼らはたいして反応も見せない。それがなんとなく悔しくて、ロベルトは彼らに詰め寄った。
「ああ、どうしました、ロベルト」
「どうしました、じゃないだろう!そりゃあ、俺は確かに兄様ベッタリだけど、それは兄様が大好きだからで!」
「だからって、自ら明言する事でもないだろう。お前は子供か」
「こ、子供でもいいよ!」
ムキになって、彼はそっぽを向く。ノルンとヒースは、揃ってため息をついた。
「流石に、それはどうかと…」
「若い頃の若は…いや、俺達でさえも、もう少し大人だった気がするぞ…」
「…ところで、それは洒落ですか」
「ん、ああ、そういえば…」
延々と続く応酬に、ロベルトは反論の隙を見逃してしまう。それどころか、聞いているだけで脱力してきて、今度は彼がため息をついた。
「ほら、そこのバカ二人。早く行かないと、夜が明けてしまうよ。明日までもう、あと幾刻もないのだから」
「って、兄様!?今、サラッと嫌味言いましたよね」
「だって、ロベルトもそう思っただろう?」
「それはそうですが…」
思わずそう答えた瞬間、ノルンとヒースがカッとこちらを向いた。
「ロベルトッ!」
「若君っ!」
「うわっ!?」
驚くロベルトをよそに、兄は涼しい顔だ。
「ほら、行くよ、皆。今日はとても大切な日だ。気を引き締めていかないと」
「兄様、強い…そ、そうですね!今日は“灯火の日”ですものね」
慌てて顔を引き締めるロベルトに、ノルンが意地の悪い顔をする。
「ほう。ロベルト、よく分かりましたね。先日はあれほど寝ていましたのに」
「ロベルト、授業中にうたた寝していたのかい?ダメじゃないか」
「う…えっと、俺、説明します!」
兄に怒られるのが恐くて、逃げるように解説を始めた。
「俺達“月の民”の祖先は、“地上”を離れた後、自らの住まう場所として、この“月”を創りました。でも、ここは“地上”と違って、太陽の光が届きません。だから、彼らは魔製器の太陽、“国の灯火”を造りだしたんです」
それから、彼は森の方角を見る。
「“国の灯火”は、現在はこの世で最も高い場所にあります。それが、あの迷いの森の中央にある、天上の塔。“灯火”の光は、永遠に絶える事はありません。この国が滅びぬ限り、ずっと輝き続けるんです」
兄は頷くと、同じように森の方に目をやった。
「だけど、年に一度だけ、“灯火”の光が消える時がある。何故かは分からないけれど、その日は祖先達がこの国を創った日でもあるんだ。そして、今はこうして、建国祭として祝われている」
それから、ロベルトと目を合わせると、彼はニッコリと笑った。
「だから、僕達王族は、祭りの最終日に“灯火”を点しに行くんだよ。それが義務であり、役目だからね」
「はい!」
ロベルトも満面の笑みになって、大きく頷いた。
なんとなく幸せな気分になって、二人でそうしていると、こほんと咳払いが聞こえた。
「えー、お二方。何故か幸せそうですが、そろそろよろしいですか」
「え…っ。あっ、時間!」
ハッと我に返って、ロベルトは大急ぎで駆け出す。慌ててヒースが後を追いかけるのを見ながら、ノルンも歩み出そうとする。
その時、彼を引き留める者がいた。
「ノルン…」
「若君」
ノルンは体ごと向き直る。彼の主はとても深刻そうな顔をしているので、何事かと思った。
「どうかされましたか」
「…あの件、君はどう思う?」
その言葉の指す意味を理解し、彼は表情を消す。
「あの件…貴族達の事ですか」
「そう。君も貴族だから、内心穏やかではないだろうけど、今は…」
サッと手を上げ、主の言葉を遮る。
「止めてください。私を、あんな連中と一緒にしないでいただきたい」
「しかし、彼らの中には、君の父上も…」
「父は父、私は私です」
キッパリとした口調で言い切って、ノルンは強い眼差しで主を見据える。
「私は、すでに貴方様に忠誠を捧げました。私の命は貴方様の物。そして、私の護るべきは、貴方様とロベルト、お二方だけです」
「そうか…」
一瞬だけ、彼は目を伏せると、すぐに顔を上げた。
「なら、そうさせてもらおう。__知っての通り、彼らは何かを企んでいる。この祭りの間に事を起こすだろうと思っていたんだが、何も起こらなかった。だから、もし何かあるとしたら、今日だろう」
「十中八九、何か起こるでしょうね。恐らく、奴らは国を取って代わるつもりなのです。そして、刃向かった者達は…」
そこで口を閉ざすと、ノルンは目を閉じた。主も何も言わない。もしかしたら、同じ事を考えているのかもしれなかった。
瞼の裏に浮かんできたのは、楽しそうに笑うロベルトの姿だった。
「…防ぐ事は、出来なかった」
ハッとして目を開けると、彼はとても悲しそうな顔をしていた。
「若君…」
「こうしている今にも、ロベルトに魔の手が忍び寄ろうとしているのに、僕は何もする事が出来ない。不甲斐ない兄だよ、まったく…」
すぐに言うべき言葉を見つけられなくて、少しの間、視線をさまよわせる。それから、ため息をついていた。
「それなら、私はダメな従者ですよ…」
「ノルン?」
「だって、そうでしょう?主の願いを叶えるのが私達の役目。ああ、それなら、ヒースもダメな奴ですね。こうしてお傍におれないのだから、私以上です」
主はくすりと笑うと、ノルンをたしなめた。
「ヒースは、ロベルトについてくれているんだから、仕方がないよ。なんなら、君がつくかい?」
「まさか。誰が、あんなワンパク坊主。こちらから願い下げです」
「だけど、ロベルトの傍にいる時のノルンは、すごく楽しそうだよ」
「な…っ」
言葉に詰まる彼に、主は楽しそうに声をあげる。ノルンはなんとなく面白くなくて、唇をとがらせた。
外に出たロベルトは、妙に居心地が悪く感じて、身を震わせた。
何故だか、寒気がする。
おかしい。今は夏の筈だ。いくら“国の灯火”が消えている世界であっても、ここまで気温が下がる事はない。現在の状態は、例えるなら夜が続いているだけの事なのだ。昨年だって、蒸し暑くて、熱中症になってしまうかと思った。ところが、今は少し肌寒くて、心なしか空気が刺すように痛い。
一体、どうしてしまったのだろうと考えていると、背後から声が飛んでくる。
「こら!ロベルト、一人で行くなっ。危ないだろう!」
「ヒース、大げさだよ」
笑いながら、ロベルトは振り返った。それから、すぐに隣に追いついたヒースをじっと見上げる。
「どうした」
「…なんだか、その。妙に落ち着かなくて。なんか、変な感じしない?」
何がだとか、緊張しているだけじゃないかとか、ヒースにそんな風に笑われるのだと、その時のロベルトは考えていた。
しかし、ヒースは笑わなかった。急に口を閉ざすと、険しい顔つきになって辺りを見渡す。 そうして、息を呑むロベルトの前で、彼は突然言った。
「そこに隠れているやつ、大人しく出てこい」
ハッとして、ロベルトは森を見やった。
薄い霧の立ち込める中、複数の影がゆらりと姿を見せる。どれも見知った顔だが、その事に驚くよりも先に、彼は違和感を覚えた。
あれは、ロベルトの派閥の貴族達。
好きで擦りよられていたわけではない。けれど、今彼を見つめるその瞳は、常のものと明らかに異なっていた。もっと暗い、よどんだ眼差し。それが、敵意を含んだ何かである事は、否応なしに分かってしまった。
恐怖を覚えて、ロベルトはわずかに後ずさる。それを、後ろから誰かに支えられた。驚いて顔をあげると、兄の横顔がすぐ傍にある。
「…来たね」
そう呟く兄の表情に、困惑が混じっているのが見てとれた。何が来たのかさえ、ロベルトには分からないが、彼はきっとこの事態を予想していたのだろう。恐らく、この横に立つノルンとヒースも。
不意に、脳裏にノルンも貴族の一員である事が過る。不思議に思う間もなく、誰かが声を荒げた。
「ノルン、貴様!愚息だとは思っていたが、本当に愚か者だったのか!」
「生憎ですが、私は貴方とは縁を切りました、父上。今の私は、若君の剣であるのみの存在です」
「妻の…お前の母の死が、そやつらに仕組まれた事であってもか!」
目を血走らせて叫ぶ彼の言葉に、ロベルトはぎょっとなる。
あの人は何を言っているのだろう。答えを求めて、兄を見上げた。兄は唇を固く引き結び、何かに耐えるかのような顔をしていた。
「兄様…?」
ロベルトの呼びかけにも答えてくれない。いよいよ、ロベルトは混乱に陥ってしまう。
「見ろ!何も反論できまい!それが答えだろう!」
「…れ」
ハッと顔をあげる。
「黙れ!いつ、若がそんな事をした!それよりも、俺は聞いたぞ。数年前の事件こそ、貴様らの仕業だろう!」
「ヒー、ス…?」
いつになく激しい口調に、ロベルトは恐れを抱いた。
彼は周りの事など見えていないようで、貴族達を射殺さんばかりに睨み付ける。
「あの日、あの晩…とても穏やかな時だった。王妃様だって、いつもと変わらない様子で…」
__王妃様…母様?
「それが、突然倒れられて…初めは、ただの病気だと信じていたんだ。だが、同時に違和感も覚えていた。それが、数日前、貴様らの仲間が話しているのを聞いたんだぞ!あれは、毒殺だったと!」
__毒…殺…?母様は、殺されたのか?
この目の前の人達に。
呆然と、ロベルトは言葉をなくす。
「だから、俺はこの手で罰を下した」
断罪者の如く、冷酷な眼差しでヒースは告げる。
「俺は…貴様らを許さない」
息を呑む気配がする。
「そうか…!あれは、貴様の仕業か、成り上がり者が!」
色めき立つ貴族達。不意に誰かが動き、鋭い破裂音が響き渡った。
「ぐ…っ!」
鮮血が飛び散る。ヒースがよろめく気配がして、慌ててロベルトは駆け寄った。見ると、彼の右腕からは、大量の血が噴き出している。
「ヒース…ッ!」
必死に治療の術を唱えようとするが、頭の中が真っ白で何も思い出せない。
その時、辺りに哄笑が響き渡って、何かを構える音がした。あの鋭い破裂音がするより早く、誰かが前に躍り出る。
緑に輝く光の膜が現れて、彼らを包み込む。何かが跳ね返る音がして、足元に転がった。
咄嗟に、ロベルトはそちらに目を落とす。そこには、金属の小さな筒のような物が転がっていた。
「…ロベルト。貴方は、物陰に隠れていてください」
すぐ傍でしたノルンの声に、彼は現実に引き戻される。
「ノルン…っ、でも…っ!」
「そいつの言う通りだ。お前は退いていろ。邪魔だ」
「ヒ、ヒース…ッ!?」
何事もなかったかのように立ち上がるヒースに、ロベルトは青ざめた顔で腕を引こうとする。その手を、誰かに掴まれた。
「こっち!」
ぐいと手を引かれ、彼はなすがまま連れていかれる。そのまま離れた場所に座らされて、頭に手を置かれた。
「本当は、もっと安全な場所に行かせたいけど…今は、ここで我慢してくれ」
「兄…」
それは、とても優しい声だった。いつもの兄と変わらない、穏やかな声。なのに、彼の顔を見た途端、ロベルトは声が出なくなってしまう。
そこにいた兄は、まるで知らない人のようだった。暗い目をした、憎しみに彩られた恐ろしい顔。
言葉をなくすロベルトなど気にも止めず、兄は歩き出してしまう。
何故だろう。とても恐かった。ノルンもヒースも、兄でさえも。皆、別の誰かと入れ違ってしまったかのようだ。
__恐い。
背を丸め、世界から自身を切り離す為に耳を塞いだ。
その時だ。
突然、強く腕を引かれた。有無言わずに引きずられ、彼はたまらずに悲鳴をあげる。
「黙って!」
密やかに怒鳴り付けられ、ロベルトははたと口を閉ざす。
知らない声だ。しかも、まだ幼い、自分と同じくらいの少年の声。
戸惑いを覚え、彼は目線をあげた。そこには、何処か見覚えのある黒衣。次いで、同じく覚えのある香りが鼻をくすぐり、ハッとする。
「今は、黙ってついてきて。すぐに事情を説明するから」
気付けば、ロベルトは頷いていた。
* *
ざわざわと、森が夜風に揺れる。
とても静かだった。先程の悪夢が嘘のようだ。
__嘘だったら、良かったのに。
ひんやりとした感触が額に当てられて、ロベルトは目を開いた。
「落ち着いたか?」
「…うん」
僅かに微笑みを浮かべて答える。そっかと、少年は呟くと、ロベルトの前に腰を下ろした。それから、鬱陶しそうにフードを払うと、その下から黒髪の少年の素顔が現れる。
「珍しい髪の色だね…」
驚きを隠せず、思わず言ってしまう。
だが、それほどに珍しい髪色だった。こちらを振り返った黒い瞳を見つめて、綺麗だなと考える。
「あー、そうか、ここじゃいないんだっけか。ま、いいか」
たいして気にした風もなく、彼は呟いた。
「で、お前、さっきの状況は理解できているか?」
そう言われ、ロベルトは記憶を遡る。途端に息苦しくなって、彼は胸元に手を置いた。
「大丈夫か?」
「…うん」
答えながら、思い返す。とても苦しい気持ちでいっぱいだった。
あの時、皆が言っていた事は覚えている。けれど、何が本当で、何が悪いのかよく分からなかった。ロベルトには、あの場にいる誰もが苦しんでいるように思えた。
「なあ。あんたは、迷いの森の迷信、知っているか?」
ふと話しかけられ、ロベルトは物思いから引き戻された。
「迷信…?」
「ああ。『この月の国を照らす“国の灯火”が消えた時、迷いの森は毒の霧を吐くであろう』ってやつ」
毒と聞いて、ロベルトはぎょっとなった。
「あれ…でも、俺達、霧の中にいても死ななかったけどな…」
「バカ。ただの毒の筈がないだろう」
「…っ。だ、だからって、叩かなくても…!」
文句あるかと言わんばかりに睨み付けられ、大人しく口を閉ざす。少年は満足したらしく、不敵な笑みを浮かべた。
「いいか、あれはただの毒じゃない。心を狂わせるものなんだ」
「心を…」
呟いて、ハッとする。
「だから、ノルンやヒースも、兄様でさえも、おかしくなったんだ…!」
「そう。恐らく、貴族連中も…我を忘れている」
サアッと体から血の気が引いていく。
このままでは、兄達が危ない。咄嗟に駆け出そうとしたロベルトの手を、少年は強い力で掴んだ。
「どこへ行く気だ」
「だって…だから、兄様達を助けるんだよ!行って、止めなきゃ!」
「バカ言え。非力なお前が行ったところで、何になるんだよ。だいたい、やつらは皆、我を失っている。助けようとして、逆に殺されるのがおちだろう」
「…!」
指摘され、真っ青になった。
今でも覚えている。ヒースのいつになく荒々しい声。ノルンの拒絶するような背中。そして、兄の憎悪に彩られた横顔。
正直に言うと、あの彼らと向かい合った時、剣を向けられない自信がない。
「だけど、どうすれば…」
「なに、方法はあるさ」
どん底へと落ちかけていた気持ちを、少年は軽々と掬いあげる。
「本当か!?」
「ああ。…というか、さっき言っただろうが。『“国の灯火”が消えた時、迷いの森は毒の霧を吐く』って」
「言っていた、けど…」
よく分からない。何かヒントでも隠されているのだろうか。
「分かんないのかよ!?あーっ、この国の王族はダメだな、こりゃ…」
なんだか失礼な事を言われた気がして、ロベルトはムッとしてしまう。
「要は、“国の灯火”が肝心なんだろう。えっと…じゃあ、逆に灯火を点せば…霧が晴れる?」
少年の顔を見て、パアッと気持ちが明るくなった。
「そうなんだな!これで、兄様達も助かるんだ!」
「だが、あまり時間に余裕はないぞ。もたもたしているうちに、誰かが倒れちまうかもしれない」
今にも飛び跳ねそうなロベルトに少年が釘を差すと、彼はピタッと動きを止めた。再び真っ青になって、わたわたと動き回る。
「…何をしている」
「えっ?ええっと、天上の塔に向かう為の道を探しているんだ」
「は?普通に歩いていけばいいだろう」
そう言って、ずんずん歩いていこうとする少年の腕を、ロベルトは慌てて掴んだ。
「ダメだ!そちらからじゃ、絶対に辿り着けない!」
「はあ?なんでだよ」
「迷いの森は、その名の通り、来る者を惑わせるんだ。普通に歩いていくだけじゃ、一生かかっても辿り着けないよ」
そこで、大きく深呼吸をした。
__大丈夫、落ち着いた。
ロベルトは自分に確かめて、ゆっくりと目を閉じる。
森は皆、意志を持っている。昔、ノルンにそう言われた事があった。
心を静め、空っぽにして耳を傾けると、木々の囁きが聞こえてくる。時折、彼らはこちらの語りかけに応じてくれるのだと。
だから、もし道が分からなくなった時は、森に尋ねるといいと、彼は言った。気まぐれの森が答えてくれるのか心配だとロベルトが聞くと、その心配はないと笑われたのだ。
__森は、優しいから…本当に大切な事は、きっと教えてくれる。
ノルンの言葉を言い聞かせながら、彼は顔をあげた。淡い旋律が森の中に響き渡る。柔らかな風がそよめき、優しく木々を揺らす。それに応えるかのように、木々はさわさわと音をたてた。気付けば、ロベルトは手を伸ばしていた。
指先に温かいものを感じて、彼は目を開く。そして、びっくりした。
細い光の糸が、彼の指に絡みついていて、遠くへと繋がっている。
「これを…辿っていけって事なのかな?」
また、さわさわと木々は音をたてた。同意してくれたように思えて、ロベルトは胸が温かくなる。
「あ…君はどうする?俺は、行かなくちゃいけないんだけど」
振り返りながら、彼はそういえばと思う。
この少年は、どうして自分に手を差し伸べてくれたのだろう。彼は、貴族達と一緒にいて、ロベルトとは敵同士の筈だ。
__だけど、あの状態で、敵味方とかないよな…。
そんなロベルトの心中を知ってか知らずか、少年は当然のように頷いた。
「もちろん、行くに決まっている。俺は、そこに用があるんだからな」
「そうなのか?」
何の為にと驚くロベルトに、彼は不遜な笑みを浮かべる。
「そもそも、俺はもともと、貴族連中に連れていってもらうつもりだったんだ。それがこんな事態になって、正直困っていた」
「なるほど」
よく分からないけれど、どうやら彼にも事情があるらしい。しかし、あそこは王族以外立ち入り禁止の筈だ。何故、貴族達は彼をあそこへ連れていこうとしたのだろう。
疑問は尽きないが、少年がさっさと歩き出してしまったので、ロベルトは慌てて思考を中断した。
今は、前に進む事だけを考えよう。そう決心して、ロベルトは少年の後を追いかけた。
「そういえば、君はなんていう名前なんだ?」
霧の中、光の糸を頼りに突き進みながら、ロベルトは少年に尋ねた。
「あー?」
「だから、名前。ずっとお前とか君呼ばわりじゃ、不便だろう」
「あー…」
面倒そうに頭をかくと、彼は答える。
「…ジグルド」
口の中で、その名を繰り返す。
「へえ、良い名前だな。俺は、ロベルトって名前で…」
「…知っている」
「え?」
「それぐらい知っている。第二王子のロベルト。やんちゃ小僧で皆に坊っちゃんと可愛がれている」
そのぐらい常識だろうと鼻で笑われ、ロベルトは目を瞬かせた。それから、すぐに得心する。
確かに、彼は有名人なのだ。この国の王族なのだから、むしろ知らない事の方が珍しいだろう。だが、ジグルドの浮世離れした衣装に惑わされ、すっかりその事を失念してしまった。
改めて彼の全身を眺め、その気持ちを新たにする。
「変わった衣装をしているよな」
「…悪いか」
「あ、いや、悪いわけじゃないんだけど」
ただ、珍しいと思っただけなのだ。この国では、黒は喪にふす際に用いる基調だから、普段からそれを身に纏う人は稀だ。
もしかすると、彼はそういった事情があるのか。しかし、なんとなく聞くのが憚られて、ロベルトは口をつぐんだ。
「いろいろと便利なんだよ、この色だと」
ジグルドは事も無げに言う。どうやら気遣いは無用だったらしく、ならばと、ロベルトは遠慮なく質問する。
「いろいろって?」
「そりゃ、いろいろだよ。汚れとか目立たないだろ」
なるほどとロベルトは頷く。ジグルドはそのまま口を閉ざす事なく、こう続けた。
「なあ、“漆黒の使者”って知っているか?」
「漆黒の…使者?」
聞いた事のない言葉だ。
目の前を歩くジグルドのようだと思っていると、彼は言った。
「“漆黒の使者”…いわゆる、暗躍組織だ」
「暗躍…!?」
予想もしなかった言葉に、目を丸くする。この平和な世界で、何を暗躍するのだろうか。
想像もつかないロベルトに、ジグルドは口の端を上げて笑う。
「真綿に包まれて育った坊っちゃんには分からないか。例えば、暗殺だよ。人を…殺すんだ」
「殺…す?」
ますます訳が分からなくなり、ロベルトは目を白黒させる。そんな彼を見て、ジグルドは笑みを深めた。
「なあ…。お前も、俺に依頼してみないか?」
「え…?」
「お前にだって、憎たらしい奴や殺したくなる奴、一人や二人いるだろう?俺が殺してやる」
思わず、ロベルトは息を呑む。
__まさか、彼が…。
冷たい風が、辺りを吹き抜けた。
ロベルトは唾を飲み込んで、恐る恐る尋ねる。
「まさか、君は…“漆黒の使者”の人間なのか?」
ジグルドはニヤリと笑った。
「そんなわけないだろう」
「……は?」
ぽかんと口を開ける。
すると、ジグルドは吹き出し、しまいには腹を抱えて笑い出してしまった。
「か、からかったなっ!?」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして、ロベルトはジグルドを睨み付ける。
「わりいわりい。お前があまりにも面白い反応するから、つい…っ」
ロベルトはパッと駆けだした。後ろからノルンのお小言が飛んでくるが、そんなものは無視だ。
「やあ、こんばんは、ロベルト。そんなに急いでどうしたんだい」
「こんばんは、兄様!だって、ずっと会えなかったじゃないですか!」
幼い頃と変わらない満面の笑みで答えると、背後からため息が聞こえた。ノルンが頭痛を堪えるように、こめかみを押さえる。
「まったく…呆れてものも言えませんよ。それがもうすぐ十五になる男の言葉ですか。暢気すぎるにも程がありますよ」
「…まあ、今更だろう。確かに、一国の王子がこれでは問題があるが…ロベルトだからな」
「おい、ノルン、ヒース!聞こえているぞ!」
ギッと睨みつけるが、彼らはたいして反応も見せない。それがなんとなく悔しくて、ロベルトは彼らに詰め寄った。
「ああ、どうしました、ロベルト」
「どうしました、じゃないだろう!そりゃあ、俺は確かに兄様ベッタリだけど、それは兄様が大好きだからで!」
「だからって、自ら明言する事でもないだろう。お前は子供か」
「こ、子供でもいいよ!」
ムキになって、彼はそっぽを向く。ノルンとヒースは、揃ってため息をついた。
「流石に、それはどうかと…」
「若い頃の若は…いや、俺達でさえも、もう少し大人だった気がするぞ…」
「…ところで、それは洒落ですか」
「ん、ああ、そういえば…」
延々と続く応酬に、ロベルトは反論の隙を見逃してしまう。それどころか、聞いているだけで脱力してきて、今度は彼がため息をついた。
「ほら、そこのバカ二人。早く行かないと、夜が明けてしまうよ。明日までもう、あと幾刻もないのだから」
「って、兄様!?今、サラッと嫌味言いましたよね」
「だって、ロベルトもそう思っただろう?」
「それはそうですが…」
思わずそう答えた瞬間、ノルンとヒースがカッとこちらを向いた。
「ロベルトッ!」
「若君っ!」
「うわっ!?」
驚くロベルトをよそに、兄は涼しい顔だ。
「ほら、行くよ、皆。今日はとても大切な日だ。気を引き締めていかないと」
「兄様、強い…そ、そうですね!今日は“灯火の日”ですものね」
慌てて顔を引き締めるロベルトに、ノルンが意地の悪い顔をする。
「ほう。ロベルト、よく分かりましたね。先日はあれほど寝ていましたのに」
「ロベルト、授業中にうたた寝していたのかい?ダメじゃないか」
「う…えっと、俺、説明します!」
兄に怒られるのが恐くて、逃げるように解説を始めた。
「俺達“月の民”の祖先は、“地上”を離れた後、自らの住まう場所として、この“月”を創りました。でも、ここは“地上”と違って、太陽の光が届きません。だから、彼らは魔製器の太陽、“国の灯火”を造りだしたんです」
それから、彼は森の方角を見る。
「“国の灯火”は、現在はこの世で最も高い場所にあります。それが、あの迷いの森の中央にある、天上の塔。“灯火”の光は、永遠に絶える事はありません。この国が滅びぬ限り、ずっと輝き続けるんです」
兄は頷くと、同じように森の方に目をやった。
「だけど、年に一度だけ、“灯火”の光が消える時がある。何故かは分からないけれど、その日は祖先達がこの国を創った日でもあるんだ。そして、今はこうして、建国祭として祝われている」
それから、ロベルトと目を合わせると、彼はニッコリと笑った。
「だから、僕達王族は、祭りの最終日に“灯火”を点しに行くんだよ。それが義務であり、役目だからね」
「はい!」
ロベルトも満面の笑みになって、大きく頷いた。
なんとなく幸せな気分になって、二人でそうしていると、こほんと咳払いが聞こえた。
「えー、お二方。何故か幸せそうですが、そろそろよろしいですか」
「え…っ。あっ、時間!」
ハッと我に返って、ロベルトは大急ぎで駆け出す。慌ててヒースが後を追いかけるのを見ながら、ノルンも歩み出そうとする。
その時、彼を引き留める者がいた。
「ノルン…」
「若君」
ノルンは体ごと向き直る。彼の主はとても深刻そうな顔をしているので、何事かと思った。
「どうかされましたか」
「…あの件、君はどう思う?」
その言葉の指す意味を理解し、彼は表情を消す。
「あの件…貴族達の事ですか」
「そう。君も貴族だから、内心穏やかではないだろうけど、今は…」
サッと手を上げ、主の言葉を遮る。
「止めてください。私を、あんな連中と一緒にしないでいただきたい」
「しかし、彼らの中には、君の父上も…」
「父は父、私は私です」
キッパリとした口調で言い切って、ノルンは強い眼差しで主を見据える。
「私は、すでに貴方様に忠誠を捧げました。私の命は貴方様の物。そして、私の護るべきは、貴方様とロベルト、お二方だけです」
「そうか…」
一瞬だけ、彼は目を伏せると、すぐに顔を上げた。
「なら、そうさせてもらおう。__知っての通り、彼らは何かを企んでいる。この祭りの間に事を起こすだろうと思っていたんだが、何も起こらなかった。だから、もし何かあるとしたら、今日だろう」
「十中八九、何か起こるでしょうね。恐らく、奴らは国を取って代わるつもりなのです。そして、刃向かった者達は…」
そこで口を閉ざすと、ノルンは目を閉じた。主も何も言わない。もしかしたら、同じ事を考えているのかもしれなかった。
瞼の裏に浮かんできたのは、楽しそうに笑うロベルトの姿だった。
「…防ぐ事は、出来なかった」
ハッとして目を開けると、彼はとても悲しそうな顔をしていた。
「若君…」
「こうしている今にも、ロベルトに魔の手が忍び寄ろうとしているのに、僕は何もする事が出来ない。不甲斐ない兄だよ、まったく…」
すぐに言うべき言葉を見つけられなくて、少しの間、視線をさまよわせる。それから、ため息をついていた。
「それなら、私はダメな従者ですよ…」
「ノルン?」
「だって、そうでしょう?主の願いを叶えるのが私達の役目。ああ、それなら、ヒースもダメな奴ですね。こうしてお傍におれないのだから、私以上です」
主はくすりと笑うと、ノルンをたしなめた。
「ヒースは、ロベルトについてくれているんだから、仕方がないよ。なんなら、君がつくかい?」
「まさか。誰が、あんなワンパク坊主。こちらから願い下げです」
「だけど、ロベルトの傍にいる時のノルンは、すごく楽しそうだよ」
「な…っ」
言葉に詰まる彼に、主は楽しそうに声をあげる。ノルンはなんとなく面白くなくて、唇をとがらせた。
外に出たロベルトは、妙に居心地が悪く感じて、身を震わせた。
何故だか、寒気がする。
おかしい。今は夏の筈だ。いくら“国の灯火”が消えている世界であっても、ここまで気温が下がる事はない。現在の状態は、例えるなら夜が続いているだけの事なのだ。昨年だって、蒸し暑くて、熱中症になってしまうかと思った。ところが、今は少し肌寒くて、心なしか空気が刺すように痛い。
一体、どうしてしまったのだろうと考えていると、背後から声が飛んでくる。
「こら!ロベルト、一人で行くなっ。危ないだろう!」
「ヒース、大げさだよ」
笑いながら、ロベルトは振り返った。それから、すぐに隣に追いついたヒースをじっと見上げる。
「どうした」
「…なんだか、その。妙に落ち着かなくて。なんか、変な感じしない?」
何がだとか、緊張しているだけじゃないかとか、ヒースにそんな風に笑われるのだと、その時のロベルトは考えていた。
しかし、ヒースは笑わなかった。急に口を閉ざすと、険しい顔つきになって辺りを見渡す。 そうして、息を呑むロベルトの前で、彼は突然言った。
「そこに隠れているやつ、大人しく出てこい」
ハッとして、ロベルトは森を見やった。
薄い霧の立ち込める中、複数の影がゆらりと姿を見せる。どれも見知った顔だが、その事に驚くよりも先に、彼は違和感を覚えた。
あれは、ロベルトの派閥の貴族達。
好きで擦りよられていたわけではない。けれど、今彼を見つめるその瞳は、常のものと明らかに異なっていた。もっと暗い、よどんだ眼差し。それが、敵意を含んだ何かである事は、否応なしに分かってしまった。
恐怖を覚えて、ロベルトはわずかに後ずさる。それを、後ろから誰かに支えられた。驚いて顔をあげると、兄の横顔がすぐ傍にある。
「…来たね」
そう呟く兄の表情に、困惑が混じっているのが見てとれた。何が来たのかさえ、ロベルトには分からないが、彼はきっとこの事態を予想していたのだろう。恐らく、この横に立つノルンとヒースも。
不意に、脳裏にノルンも貴族の一員である事が過る。不思議に思う間もなく、誰かが声を荒げた。
「ノルン、貴様!愚息だとは思っていたが、本当に愚か者だったのか!」
「生憎ですが、私は貴方とは縁を切りました、父上。今の私は、若君の剣であるのみの存在です」
「妻の…お前の母の死が、そやつらに仕組まれた事であってもか!」
目を血走らせて叫ぶ彼の言葉に、ロベルトはぎょっとなる。
あの人は何を言っているのだろう。答えを求めて、兄を見上げた。兄は唇を固く引き結び、何かに耐えるかのような顔をしていた。
「兄様…?」
ロベルトの呼びかけにも答えてくれない。いよいよ、ロベルトは混乱に陥ってしまう。
「見ろ!何も反論できまい!それが答えだろう!」
「…れ」
ハッと顔をあげる。
「黙れ!いつ、若がそんな事をした!それよりも、俺は聞いたぞ。数年前の事件こそ、貴様らの仕業だろう!」
「ヒー、ス…?」
いつになく激しい口調に、ロベルトは恐れを抱いた。
彼は周りの事など見えていないようで、貴族達を射殺さんばかりに睨み付ける。
「あの日、あの晩…とても穏やかな時だった。王妃様だって、いつもと変わらない様子で…」
__王妃様…母様?
「それが、突然倒れられて…初めは、ただの病気だと信じていたんだ。だが、同時に違和感も覚えていた。それが、数日前、貴様らの仲間が話しているのを聞いたんだぞ!あれは、毒殺だったと!」
__毒…殺…?母様は、殺されたのか?
この目の前の人達に。
呆然と、ロベルトは言葉をなくす。
「だから、俺はこの手で罰を下した」
断罪者の如く、冷酷な眼差しでヒースは告げる。
「俺は…貴様らを許さない」
息を呑む気配がする。
「そうか…!あれは、貴様の仕業か、成り上がり者が!」
色めき立つ貴族達。不意に誰かが動き、鋭い破裂音が響き渡った。
「ぐ…っ!」
鮮血が飛び散る。ヒースがよろめく気配がして、慌ててロベルトは駆け寄った。見ると、彼の右腕からは、大量の血が噴き出している。
「ヒース…ッ!」
必死に治療の術を唱えようとするが、頭の中が真っ白で何も思い出せない。
その時、辺りに哄笑が響き渡って、何かを構える音がした。あの鋭い破裂音がするより早く、誰かが前に躍り出る。
緑に輝く光の膜が現れて、彼らを包み込む。何かが跳ね返る音がして、足元に転がった。
咄嗟に、ロベルトはそちらに目を落とす。そこには、金属の小さな筒のような物が転がっていた。
「…ロベルト。貴方は、物陰に隠れていてください」
すぐ傍でしたノルンの声に、彼は現実に引き戻される。
「ノルン…っ、でも…っ!」
「そいつの言う通りだ。お前は退いていろ。邪魔だ」
「ヒ、ヒース…ッ!?」
何事もなかったかのように立ち上がるヒースに、ロベルトは青ざめた顔で腕を引こうとする。その手を、誰かに掴まれた。
「こっち!」
ぐいと手を引かれ、彼はなすがまま連れていかれる。そのまま離れた場所に座らされて、頭に手を置かれた。
「本当は、もっと安全な場所に行かせたいけど…今は、ここで我慢してくれ」
「兄…」
それは、とても優しい声だった。いつもの兄と変わらない、穏やかな声。なのに、彼の顔を見た途端、ロベルトは声が出なくなってしまう。
そこにいた兄は、まるで知らない人のようだった。暗い目をした、憎しみに彩られた恐ろしい顔。
言葉をなくすロベルトなど気にも止めず、兄は歩き出してしまう。
何故だろう。とても恐かった。ノルンもヒースも、兄でさえも。皆、別の誰かと入れ違ってしまったかのようだ。
__恐い。
背を丸め、世界から自身を切り離す為に耳を塞いだ。
その時だ。
突然、強く腕を引かれた。有無言わずに引きずられ、彼はたまらずに悲鳴をあげる。
「黙って!」
密やかに怒鳴り付けられ、ロベルトははたと口を閉ざす。
知らない声だ。しかも、まだ幼い、自分と同じくらいの少年の声。
戸惑いを覚え、彼は目線をあげた。そこには、何処か見覚えのある黒衣。次いで、同じく覚えのある香りが鼻をくすぐり、ハッとする。
「今は、黙ってついてきて。すぐに事情を説明するから」
気付けば、ロベルトは頷いていた。
* *
ざわざわと、森が夜風に揺れる。
とても静かだった。先程の悪夢が嘘のようだ。
__嘘だったら、良かったのに。
ひんやりとした感触が額に当てられて、ロベルトは目を開いた。
「落ち着いたか?」
「…うん」
僅かに微笑みを浮かべて答える。そっかと、少年は呟くと、ロベルトの前に腰を下ろした。それから、鬱陶しそうにフードを払うと、その下から黒髪の少年の素顔が現れる。
「珍しい髪の色だね…」
驚きを隠せず、思わず言ってしまう。
だが、それほどに珍しい髪色だった。こちらを振り返った黒い瞳を見つめて、綺麗だなと考える。
「あー、そうか、ここじゃいないんだっけか。ま、いいか」
たいして気にした風もなく、彼は呟いた。
「で、お前、さっきの状況は理解できているか?」
そう言われ、ロベルトは記憶を遡る。途端に息苦しくなって、彼は胸元に手を置いた。
「大丈夫か?」
「…うん」
答えながら、思い返す。とても苦しい気持ちでいっぱいだった。
あの時、皆が言っていた事は覚えている。けれど、何が本当で、何が悪いのかよく分からなかった。ロベルトには、あの場にいる誰もが苦しんでいるように思えた。
「なあ。あんたは、迷いの森の迷信、知っているか?」
ふと話しかけられ、ロベルトは物思いから引き戻された。
「迷信…?」
「ああ。『この月の国を照らす“国の灯火”が消えた時、迷いの森は毒の霧を吐くであろう』ってやつ」
毒と聞いて、ロベルトはぎょっとなった。
「あれ…でも、俺達、霧の中にいても死ななかったけどな…」
「バカ。ただの毒の筈がないだろう」
「…っ。だ、だからって、叩かなくても…!」
文句あるかと言わんばかりに睨み付けられ、大人しく口を閉ざす。少年は満足したらしく、不敵な笑みを浮かべた。
「いいか、あれはただの毒じゃない。心を狂わせるものなんだ」
「心を…」
呟いて、ハッとする。
「だから、ノルンやヒースも、兄様でさえも、おかしくなったんだ…!」
「そう。恐らく、貴族連中も…我を忘れている」
サアッと体から血の気が引いていく。
このままでは、兄達が危ない。咄嗟に駆け出そうとしたロベルトの手を、少年は強い力で掴んだ。
「どこへ行く気だ」
「だって…だから、兄様達を助けるんだよ!行って、止めなきゃ!」
「バカ言え。非力なお前が行ったところで、何になるんだよ。だいたい、やつらは皆、我を失っている。助けようとして、逆に殺されるのがおちだろう」
「…!」
指摘され、真っ青になった。
今でも覚えている。ヒースのいつになく荒々しい声。ノルンの拒絶するような背中。そして、兄の憎悪に彩られた横顔。
正直に言うと、あの彼らと向かい合った時、剣を向けられない自信がない。
「だけど、どうすれば…」
「なに、方法はあるさ」
どん底へと落ちかけていた気持ちを、少年は軽々と掬いあげる。
「本当か!?」
「ああ。…というか、さっき言っただろうが。『“国の灯火”が消えた時、迷いの森は毒の霧を吐く』って」
「言っていた、けど…」
よく分からない。何かヒントでも隠されているのだろうか。
「分かんないのかよ!?あーっ、この国の王族はダメだな、こりゃ…」
なんだか失礼な事を言われた気がして、ロベルトはムッとしてしまう。
「要は、“国の灯火”が肝心なんだろう。えっと…じゃあ、逆に灯火を点せば…霧が晴れる?」
少年の顔を見て、パアッと気持ちが明るくなった。
「そうなんだな!これで、兄様達も助かるんだ!」
「だが、あまり時間に余裕はないぞ。もたもたしているうちに、誰かが倒れちまうかもしれない」
今にも飛び跳ねそうなロベルトに少年が釘を差すと、彼はピタッと動きを止めた。再び真っ青になって、わたわたと動き回る。
「…何をしている」
「えっ?ええっと、天上の塔に向かう為の道を探しているんだ」
「は?普通に歩いていけばいいだろう」
そう言って、ずんずん歩いていこうとする少年の腕を、ロベルトは慌てて掴んだ。
「ダメだ!そちらからじゃ、絶対に辿り着けない!」
「はあ?なんでだよ」
「迷いの森は、その名の通り、来る者を惑わせるんだ。普通に歩いていくだけじゃ、一生かかっても辿り着けないよ」
そこで、大きく深呼吸をした。
__大丈夫、落ち着いた。
ロベルトは自分に確かめて、ゆっくりと目を閉じる。
森は皆、意志を持っている。昔、ノルンにそう言われた事があった。
心を静め、空っぽにして耳を傾けると、木々の囁きが聞こえてくる。時折、彼らはこちらの語りかけに応じてくれるのだと。
だから、もし道が分からなくなった時は、森に尋ねるといいと、彼は言った。気まぐれの森が答えてくれるのか心配だとロベルトが聞くと、その心配はないと笑われたのだ。
__森は、優しいから…本当に大切な事は、きっと教えてくれる。
ノルンの言葉を言い聞かせながら、彼は顔をあげた。淡い旋律が森の中に響き渡る。柔らかな風がそよめき、優しく木々を揺らす。それに応えるかのように、木々はさわさわと音をたてた。気付けば、ロベルトは手を伸ばしていた。
指先に温かいものを感じて、彼は目を開く。そして、びっくりした。
細い光の糸が、彼の指に絡みついていて、遠くへと繋がっている。
「これを…辿っていけって事なのかな?」
また、さわさわと木々は音をたてた。同意してくれたように思えて、ロベルトは胸が温かくなる。
「あ…君はどうする?俺は、行かなくちゃいけないんだけど」
振り返りながら、彼はそういえばと思う。
この少年は、どうして自分に手を差し伸べてくれたのだろう。彼は、貴族達と一緒にいて、ロベルトとは敵同士の筈だ。
__だけど、あの状態で、敵味方とかないよな…。
そんなロベルトの心中を知ってか知らずか、少年は当然のように頷いた。
「もちろん、行くに決まっている。俺は、そこに用があるんだからな」
「そうなのか?」
何の為にと驚くロベルトに、彼は不遜な笑みを浮かべる。
「そもそも、俺はもともと、貴族連中に連れていってもらうつもりだったんだ。それがこんな事態になって、正直困っていた」
「なるほど」
よく分からないけれど、どうやら彼にも事情があるらしい。しかし、あそこは王族以外立ち入り禁止の筈だ。何故、貴族達は彼をあそこへ連れていこうとしたのだろう。
疑問は尽きないが、少年がさっさと歩き出してしまったので、ロベルトは慌てて思考を中断した。
今は、前に進む事だけを考えよう。そう決心して、ロベルトは少年の後を追いかけた。
「そういえば、君はなんていう名前なんだ?」
霧の中、光の糸を頼りに突き進みながら、ロベルトは少年に尋ねた。
「あー?」
「だから、名前。ずっとお前とか君呼ばわりじゃ、不便だろう」
「あー…」
面倒そうに頭をかくと、彼は答える。
「…ジグルド」
口の中で、その名を繰り返す。
「へえ、良い名前だな。俺は、ロベルトって名前で…」
「…知っている」
「え?」
「それぐらい知っている。第二王子のロベルト。やんちゃ小僧で皆に坊っちゃんと可愛がれている」
そのぐらい常識だろうと鼻で笑われ、ロベルトは目を瞬かせた。それから、すぐに得心する。
確かに、彼は有名人なのだ。この国の王族なのだから、むしろ知らない事の方が珍しいだろう。だが、ジグルドの浮世離れした衣装に惑わされ、すっかりその事を失念してしまった。
改めて彼の全身を眺め、その気持ちを新たにする。
「変わった衣装をしているよな」
「…悪いか」
「あ、いや、悪いわけじゃないんだけど」
ただ、珍しいと思っただけなのだ。この国では、黒は喪にふす際に用いる基調だから、普段からそれを身に纏う人は稀だ。
もしかすると、彼はそういった事情があるのか。しかし、なんとなく聞くのが憚られて、ロベルトは口をつぐんだ。
「いろいろと便利なんだよ、この色だと」
ジグルドは事も無げに言う。どうやら気遣いは無用だったらしく、ならばと、ロベルトは遠慮なく質問する。
「いろいろって?」
「そりゃ、いろいろだよ。汚れとか目立たないだろ」
なるほどとロベルトは頷く。ジグルドはそのまま口を閉ざす事なく、こう続けた。
「なあ、“漆黒の使者”って知っているか?」
「漆黒の…使者?」
聞いた事のない言葉だ。
目の前を歩くジグルドのようだと思っていると、彼は言った。
「“漆黒の使者”…いわゆる、暗躍組織だ」
「暗躍…!?」
予想もしなかった言葉に、目を丸くする。この平和な世界で、何を暗躍するのだろうか。
想像もつかないロベルトに、ジグルドは口の端を上げて笑う。
「真綿に包まれて育った坊っちゃんには分からないか。例えば、暗殺だよ。人を…殺すんだ」
「殺…す?」
ますます訳が分からなくなり、ロベルトは目を白黒させる。そんな彼を見て、ジグルドは笑みを深めた。
「なあ…。お前も、俺に依頼してみないか?」
「え…?」
「お前にだって、憎たらしい奴や殺したくなる奴、一人や二人いるだろう?俺が殺してやる」
思わず、ロベルトは息を呑む。
__まさか、彼が…。
冷たい風が、辺りを吹き抜けた。
ロベルトは唾を飲み込んで、恐る恐る尋ねる。
「まさか、君は…“漆黒の使者”の人間なのか?」
ジグルドはニヤリと笑った。
「そんなわけないだろう」
「……は?」
ぽかんと口を開ける。
すると、ジグルドは吹き出し、しまいには腹を抱えて笑い出してしまった。
「か、からかったなっ!?」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして、ロベルトはジグルドを睨み付ける。
「わりいわりい。お前があまりにも面白い反応するから、つい…っ」
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