ミーナールの長い夏が終わる

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ミーナールの長い夏が終わる(4)

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10・ 朝に向かって時は進む


 現実がどうであろうと、ミーナールの上で美しい夏の時間は進んでゆく。極限まで張りつめた日々が、突き抜ける青空ときらめく星月夜の下に繰り返されてゆく。
 ……こんな現実を前に、それでもやるべき事はあるだろうか?
 何かをやれば、運命は変わるのだろうか?
 でもそれは考えることにすら吐き気を覚える苦行だった。
 ワリド家のアーリドは、ファーリス国の密使と会っていた。

 真夏の金色の夕刻。
 旅客を装った四人の密使達が、ワリド邸を来訪していた。その誰もが、仮面を着けたかの様に冷徹な顔であった。ファーリス王からの極秘の勅使として全く感情を交えぬ態で、邸内の奥まった一室内に居並んでいだ。
「ダキア港に停泊中の我が国の軍船には、八十人規模の兵が乗船しています。当軍船の出港時にダキア港湾局へ申告する要項に関しましては……」
「兵への日当は、ダキア港より出港後に発生します。一般歩兵には四ディル、指揮官には十三ディル。これ以外にも必要経費に関しては、ミーナール側の負担割合は……」
「ルツ王国の主港・オティア港にはファーリス商館があります。帰還する我が国の商船は全て、ルツ国内で接した時事について商館への報告義務がありますが、この情報には高い有益性が含まれるので、必要がある場合ミーナール側と共有を……」
 抑揚の無い標準語が、長く、無駄なく、淀みなく、感情を含まずに流れていく。邸内の陽の差し込まない、一番奥まった一室に、事務的な、無機質な空気と時間が流れてゆく。
 ワリド家のアーリドは、傍目にも疲労を溜め込んだ顔付きで無言だった。濃緑色の長椅子に座したまま、身動きもなく無言のままで聞いていた。

 同じ夕刻。
 こちらでも、冷たい顔の男が立っていた。
 しかしこちらは決して淡々とした口調では無かった。かなり強い態度で、執務卓の向こうに座る相手に詰め寄っていた。
「あの修道士から自白を引き出すべきです。確実にワリド家のアーリドが後ろにいます。いなくても良い。そのようにすれば良いだけです」
「――」
「ワリド家のアーリドを暗殺の首謀者として告発出来れば、その引責によりミーナールの生意気な自治など即座に停止させられます。こんな労なしの展開など、望んでも望めるものではありません」
 窓を閉ざした薄暗い執務室の中だった。ルツ本国より同行した補佐官のゴドゥの顔はもはや不満のみならず、軽蔑までを含んでいた。
「第一、貴方は殺されかけてのですよ。貴方が親友と思っていた者に。
 なぜ今貴方が激怒を示さないのかが、全く理解出来ません」
 エウジスは常の通りに座したまま、無言で聞いていた。
 ゴドゥは――エウジスより遥かに年上で遥かに官吏としての知識と経験に富む彼は、さらに、延々と、見事に無駄の無い正論を述べ続けてゆく。
“友人だからと情に流されるなど、為政者にあるまじき甘さだ”とか、
“部隊まで召喚した以上、万が一にも失態を見せればルツ宮廷における貴方の地位は確実に失脚する”とか、
“一刻も早くレイミア姫との婚約し王家との婚姻関係を固めるべきであるのに、何をもたついているのか”とか。……
 しかしエウジスは、無言を貫いた。
 執務卓の上で両手を組んだまま、姿勢を変えず、顔色も変えず、硬い視線を保ち、エウジスはぴくりとも動くこと無く座していた。
 その間にも、閉ざされた窓の向こう側では、大きな日輪が西の水平線へと近づきつつあった。海も、空も、街も、全てが朱を帯びた金色に染まるミーナールの夕刻であった。

・        ・        ・

 この金色の夕刻にアーリドとエウジスが置かれた状況は、その後もしつこくしつこく二人の上に繰り返されてゆく。
 来る日も来る日も両者は同じ人間を相手に、同じ問題に関して対峙していた。時を刻むごとにアーリドの頬肉は痩せていき、エウジスの目つきは硬化していった。ミーナールの爽やかな空と瑠璃色の海だけが、輝き続けていた。

 ――また今日も、同じ繰り返しだ。
 また今日もミーナールは、美しい一日の終わりを迎えていた。大きな太陽が西の海原に沈もうとしていた。街の全体が鮮やかな色に輝いていた。
 ただしこの数日、どことなく夕刻の空気に湿度が加わって来た気もする。そろそろ夏の終わりが始まったのかもしれない。……その、ほんの僅かだけ質感の変わった夕空の下をアーリドは歩いていた。今日もまた恐ろしく不機嫌な、苛立った様子だった。
「ニジュルの商船隊も、こんな時期に急遽の来訪などしてくれなくとも良いのに。何が歓迎の夜宴だ」
 苛立ちも露骨に言う。評議会を終え、ムワサト広場を足早に横切っている時だ。
 横では、長らくワリド家当主に付き従う書記もまた、堅苦しい態で言う。
「外国よりの来訪者に、現在のミーナール内政の混乱を知らしめてしまうのだけは何としても避けなければなりません。
 アーリド殿。夜会ではくれぐれも、慎重な対応を願います。よろしいですね?」
「――」
「アーリド殿。よろしいですか? 聞いていますか?」
「聞いている」
 不機嫌を丸出しの口調だった。
“本日も難事山積み。本日も進展遅々。本日も全面的困難。本日も――不快”
 子供じみたことに今日のアーリドは、もはや不機嫌を隠す事すらしなかった。朝から延々と続いた評議では、二度ほど怒鳴り声を上げてしまった。態度にも発言にも子供が不貞腐れたかのような様を見せてしまい、これまた苛立っていた評議員達を一層に苛立たせることになった。
 全くもって、これが長くにわたって誠実と礼節と思慮深さをもって信頼を得ていたワリド家のアーリドとは。
「聞いているよ。だから今、急いで帰館しているんじゃないか。賓客を待たせるわけにはいかないんだろう? そんな無礼は許されないんだろう? そういう事だろう?」
「――」
「そうだろう!」
「そうですよ。アーリド殿。怒鳴らなくても私は聞こえてますよ」
「ならもう黙っててくれっ」
 強い苛立ちと共に吐き出す。
 アーリド本人にも、日ごとに感情を抑え込むのが難しくなっていく自覚があった。たった今も、喚き上げたい衝動に苛まれていた。もうどれだけ繰り返したか分からない語句がまた思考に浮上し、苛んでいた。
(どこだ。どこだ。どこだ。エウジス)
 エウジスはもう完全に姿を見せない。
 あの日以来太守館に閉じこもっているのだろうか。あてにならない噂では、周囲を厳重に警備させて角塔の執務室に完全に閉じこもり、ごく数人の側近しか入室させないとか。さらにあてにならない噂では、今はもう街から離れ、密かに外地の城砦に移ったとか。
(どこにいるんだ。エウジス)
 陽は落ちたが、まだ空は明るい。夕刻なのに風が無い。気温が高い。
 アーリドと書記、それにイナブ豪商を含む五人の評議委員たちが、ひとかたまりとなって広場を歩む。その外側を衛兵が取り囲んでいる。
 一団を遠目に見つめる住民達の顔付きもまた、日ごとにきつくなっている。期待やら懇願やら不信やら憤怒やらの全てを混濁させ、刺すような視線を向けてくる。
 視線がまとわり付いてくる。それを意識するだけで神経が高ぶる。苛立つ。
(どこだ。どこだ。どこに消えた)
 カーイも消えてしまった。
 捕縛され、太守館から連行されたまま、全く消息が途絶えてしまった。以前に太守館への投石で逮捕された男には、ルツ刑法に基づいて鞭打ちの懲罰が執行されたのに、カーイの処罰に関しては何の公表もなかった。それどころか、犯行自体が公にされなかった。隠蔽されてしまった。なぜだ? 何の為なんだ?
(誰か捜してくれ。カーイを捜し出してくれ)
 こんな時にこそカーイという友がいたらと、砂を噛むような感覚でアーリドは思う。
 いつも、こんな時にこそ、彼は助けてくれた。あまり公に出来ない調査とか捜査とかがある時には、彼に相談するといつも手を貸してくれた。様々な伝手を使って解決の策を探ってくれた。
 なのに今は、そのカーイ自身が完全に消えてしまったのだから。
(カーイを捜せ。どこだ? 一体カーイはどこなんだ)
 生きているのか? まだ。
 それとももう。
「餓鬼臭い、みっともない顔だな」
 右側に並び歩くイナブ豪商が妙に場違いな、嫌味な笑顔のままに言ってきた。
 それすらアーリドは無視をする。もう答えない。振り向きもしない。
 こんな時でも、光を貯め込んだ晩夏の空はまだ明るい。風は無く、昼間の暑さを残している。それだけでアーリドを苛立たせ、疲れさせる。アーリドは無言でムワサト広場を横切り終えた。そのまま夕刻の人通りの多い東の大路へと入り、
 大路の真ん中だった。
 ルツ太守の補佐役・ゴドゥが立っていた。
(エウジス! カーイ!)
 アーリドの顔色が、一瞬にして変じていく。猛烈な焦燥と共に今にも何かを発そうとした寸前、イナブの大声が先制した。
「これは太守館のゴドゥ殿。随分と長らくご無沙汰をしております。良い宵の口ですな。夕涼みの御散歩ですか?」
 わざとらしい陽気な挨拶にも――、
 返答無し。挨拶すら無し。
 愛想の欠片も無いゴドゥの顔に対してイナブは、一層楽し気に続けた。
「今宵はお一人ですか? その割には護衛の人数が豊富で羨ましい。我々の評議会の方は、このところずっと慌ただしい事態に追われているというのに、圧倒的に衛兵の人数が不足して難儀しておりますよ。
ここに佇んでおられたということは、誰かしら待ち人でしたか? もしかしてそれは、私達ですか?」
 相手の口調を全く無視して、ゴドゥは冷淡に言った。
「ミーナール評議会に対して通達事項がある」
「それならば、陽の高い内に評議会館に来訪下されば、そのまま議事にかけることが出来たものを。今おっしゃられても検討は明日以降になってしまう」
「検討の必要は無い」
「カーイだろう?」
 この無防備な餓鬼が! と、イナブが素早く鼻をしかめる。しかしアーリドは抑えずに続ける。
「カーイの事だろう? 隠すな、通達ってカーイの事だろう!」
「――。ルツ太守よりの通達」
「エウジスって――、教えてくれ! カーイは今、どこにいるんだ? 生きているんだろう? 訊きたい、エウジスはどこにいった?」
「明日の正午、ルツ王国の――」
「先に教えろ! どこにいるんだ、エウジスはっ。とにかくエウジスに会わせてくれ、すぐに会って話をしないと、そうしないとっ」
「明日の午前、ルツ王国の刑法に則り罪人の公開での処刑を執行する。罪科は、ルツ太守への暗殺未遂。罪人の名は、カニサ修道会修道士・カーイ。当日はミーナール評議会から立会者を派遣するように」
「――。え?」
 アーリドの身体の奥で、何かが歪んだ。
「……。何を……?」
 何かが歪み、
“嫌だ”
 吐き気が走った。現実を拒絶しようとした。全てに向かって叫んだ。
「そんなの、嫌だ――!」
「アーリドっ」
 イナブが、噛みつくような眼で制する。しかしアーリドは見ない。
「嫌だ! 嫌だっ、そんなはずはないっ、だっておかしいっ、エウジスがカーイを殺すものか! だって彼は――違う!」
「アーリド!」
「だって、カーイがやったことを私――」
 瞬間、アーリドの声は詰まる。襟首を捕まれたまま、強く右へ引っ張られる。大路の上、公衆の面前だというのに信じ難い力でアーリドを引きずるように進み、すぐ横の路地奥へ押し込んだ。
「放せっ、止めろ、イナブ! 貴様なんかに邪魔させないぞ!」
 アーリドも猛烈な抵抗を見せる。再び大声を上げようとしたその時、彼の下腹は拳で殴られた。一瞬呼吸が詰まり、ドスリと音を立てて背中は路地の壁へ押し付けられた。
「餓鬼が! 全てをぶち壊す気か!」
 語気に飲まれたのは一瞬だ。アーリドも喰いつかんばかりに叫ぶ。
「嫌だ! カーイの処刑などさせない!」
「逆だっ。断言する、これは良い展開だっ。あの修道士はさっさと死んだ方がいい、我々の密約が封印出来る」
 その瞬間、反射的にアーリドの腕が上がった。生まれて初めて憎悪を込めて人を殴ろうとしたが、それを先回ってイナブの掌がアーリドの頬を打った。
「餓鬼っ、聞け! 逮捕からずっと、奴がいつ拷問に屈するかに俺たちの命運がかかっていたんだ。分かってるんだろうな? 奴の一言で俺も貴様もミーナールの未来も全てが飛ぶんだ」
 アーリドの口の中に、鉄の味の血がにじみだす。その口で叫ぶ。
「私のせいでカーイが殺されるぐらいなら、私が全ての責任を負うっ」
「貴様一人なら好きなだけそうしろっ。だがもうその次元の話じゃない、ミーナールの全てがかかっている、それは貴様も分かってるはずだっ」
「私はミーナールじゃない!」
「貴様がミーナールを負っているんだ、それがワリド家当主の義務だ!
 俺は認めないからな。ミーナールの自治をルツの手に落とすことだけは何があっても認めない、させない。その為ならあの修道士の命など幾つでもくれてやる。俺の手で殺したって構わない」
「イナブ!」
「それで俺を責める気か? 俺はすでにミーナールの未来を護ると誓ったんだ、貴様も言ったぞ。それでもあの男を救ってミーナールを危機にさらす気か? ミーナールとあの男のどっちを選ぶ気だっ」
「黙れっ。こんな顛末は神の正義の前に許さないっ、黙れ!」
「何が神だ、ここは現実だ、ミーナールだ、それが全てだっ。見ろ!」
「――黙れっ」
「見るんだ! ワリド家のアーリド!」
「……。黙れ……」
 ついにアーリドの言葉は詰まった。そしてついに目から涙を落とした。恥ずかしくも人前で泣いてしまった。
 大路の上では、ゴドゥが無言でこちらを見ている。その上で、残っている評議員達と間の抜けた会話を続けている。『極刑の執行に対しては事前に評議会の承認が必要なのに……』、『罪状に関しての公的書面はあるのか……』、そんな意味の無い句が発せられては消えていく。はなよりゴドゥに聞く耳など一切無いと明白なのに。
 そして泣き出したアーリドは、駄々をこねる。
「嫌だ……」
 もはやその単語だけにすがりつく。見つめるイナブに、苦々しい息をつかせる。
「神に愛されたミーナールの街が、こんな奴を指導者に据えなければならないとはな」
 三度目の殴打だった。今度こそアーリドは呻き声と共に打たれた腹を押さえて身を屈めた。情けない餓鬼じみた顔を正す気力を、もうアーリドは失っていた。現実を前に、もう何をどう考えれば良いのか全く解らなかった。
 夕刻がゆっくりと明るさを失ってゆく。
 間もなく明るさは完全に消え、夜になり、やがて夜は終わり、明日になる。――エウジスがカーイを殺す。
 嫌だ!
 ……
 さらに餓鬼じみたことに、アーリドはその宵のニジュル商人の歓待の夜宴を欠席した。自邸の私室に閉じこもってしまった。
「ワリド家のアーリド当主は体調不良のために夜宴を欠席いたします」
すでに華々しい料理と葡萄酒が整えられ、異国の客人達も着席した宴席に向かって、夜宴の世話役そう告げた時、列席していたシャイクは黙してしまった。イナブは見下し切った声で笑い出し、サスキアは最低の罵倒の句を発した。
その間にも、ミーナールの時間は進んでゆく。
 漆黒の満天が月と星と銀河を乗せながらじりじりと回転してゆく。
 明日が着実に近づいて来る。
 ……明日。エウジスがカーイを殺す。

・         ・         ・

(嫌だ)
 だからもう、アーリドは何もしなかった。
 私室に閉じこもった。
 部屋に閉じこもり、壁に背を任せ、床に座り込んだまま、もう何も出来なかった。ただ一つの現実に面し、それを必死で拒否していた。
 ただ一つの現実は、明日が来ること。
 朝に向かって、時間が進むこと。月と星と銀河が空を回り、西に降り、それを待ち構えて太陽が昇る。朝が来ること。その現実は、誰にも止められない。
(嫌だ)
 背中が冷えてゆく。灯火もない闇の中で、アーリドは何もしない。ただ無為に時間の流れに背を向けている。
 月星は登り、回り、沈み、陽が昇る。明日が来る。
 カーイが死ぬ。
(嫌だ)
 現実を拒否する。それでも時間は流れ、流れの果てに、明日になる。カーイが死ぬ。殺される。
「嫌だ」
  コンコン、
締め切った私室の扉に、遠慮がちのノックが響いた。
 アーリドは動かなかった。餓鬼じみたことに、扉を開けようとしなかった。そして閉じ切った薄闇の中、扉の下に小さな書簡が差し込まれて来たことに目が留まった。
 なぜか、手に取る前から解ってしまった。その手紙に書かれている内容も、差出人も。内蔵を締め付ける生々しい痛みを感じた。
 ……
「天上の神様。こんな事があるのでしょうか。許されるのでしょうか。
 アーリド、聞いたでしょう?
 そんなの嫌よ。明日、カーイがエウジネスの命で殺されるのよ。
 ねえ、貴方は何を知っているの? どういうことなの? なぜエウジスがカーイを殺すの?
 止めさせて。絶対に止めさせて。カーイを殺さないで。それが出来るのは貴方しかいないって判っているのに、なぜ何もしないの?
 もう時間が無いの。明日なのよ。貴方は何をやっているの?
 お願い。何とかして。アーリド」
 ……内臓の痛みに続いて、喉を吐き気が襲った。吐き気の苦痛の中で、思った。
(もう、嫌だ)
 その間にも、月と星と銀河はじりじりと、確実に動いてゆく。
 逃げ場は無い。明日が近づいてくる。

・       ・        ・

 同じ時。
 修道士・カーイもまた、壁を背にあてて座っていた。
 そこからは、月も星も銀河も見えない。何も無い、薄い闇だけだった。音も無い。しじまだけが耳に付く場所だった。肌寒い、冷えた静寂の、孤独の狭い空間だった。
 その静寂が破られた。
 ……石床の通廊を打つ足音が聞こえる。
 顔を下に向けたまま、カーイは目を開ける。一つの足音が通廊の石壁に響いて聞こえる。少しずつ近づいてくるのが分かる。
 足音はやがて、部屋の扉の向こう側で止まった。重い金属音と共に鉄錠が動き、分厚い鋲打ち扉がゆっくりと開き、と同時に光が漏れた。
 光が眩しくて、カーイは入って来た者の輪郭を結べない。相手が誰かを見極めるまでの間、彼の全身は硬くなった。
 やがて、それが誰か判った後も――判ったから、身体は硬直した。
「カーイ」
 右手に小さなランタンを持ったエウジスが、カーイを見下ろしていた。
 カーイは座ったままだ。
 立とうとしても不可能だった。彼の両腕は大きく左右に引き伸ばされ、手枷で石壁にくくられていた。その顔といわず体といわず、赤味を帯びた傷が無数に刻まれている。拷問の許可は出されなかったが、それでも獄吏からは酷く小突かれ続けていたという事を伝えていた。
「カーイ。答えられないのか。その体力も無いのか」
 エウジスが、目の前に立った。カーイは答えない。言われた通り、酷く疲弊していた。それだけは間違いなかった。
「聞こえているのか」
 答えない。長い静寂だけが流れていく。
「後悔しているのか」
「――。何にですか?」
 やっと応えた。肌寒い空気と黄色いランタンの光の中に、ようやく旧友同士は眼を合わせた。
「後悔ですか?」
「……。そうだ」
「何に対して?」
「あの時、レイミアも巻き添えにしたまま、そのまま私を殺すことも出来た。
 いつだって冷徹に現実を見据えることのできる君が、なのに、その躊躇のせいで失敗をした。
 後悔しているか?」
「その事ですか」
 再び、長く冷えた静寂となった。二人ともが同じ光景を思い出していた。
 なぜか、最悪のタイミングで手を伸ばし葡萄酒の杯を取ったレイミア。そのまま彼女が毒を飲むのがあるべき現実だったのだろうか。あのままレイミアも巻き込んでそのまま事態を進めるのが、正しかったのだろうか。
“私は将来、アーリドと結婚するの。そしてアーリドの子供を産むの。素敵でしょう?”
 あの夜。彼女は嬉しそうに耳許に打ち明けてきた。
 それは、希望の響きに思えた。それこそは最も望ましい、あるべき未来かもしれないと自分には思えた。混乱した現実を越えて、それこそが光に満ちたミーナールとルツの理想の未来であると、確かにそう自分は望んでしまった。だから。
「――。判らないですね」
 長い沈黙果てに、カーイは静かに答えた。
 微かに揺れる灯りの中、エウジスは凍り付いた硬い顔のまま発した。
「私は後悔が嫌いだ」
「――」
「だから君を処刑することにした。明日、執行する」
「――」
「君は、拷問には耐えきれないだろう?」
「――。ええ。おそらく」
「もう私も側近達の声を押さえきれない。今回の事件が、ルツ本国に報告されてしまう。彼らは君を本国へ移送し、自白を強要し、今回の陰謀の主犯としてアーリドの名を引き出そうとする。
 それだけは、絶対に阻止する。アーリドを逮捕・投獄させたり処罰したり、そんな現実には絶対にさせない」
「――」
「君とアーリドとならば、アーリドを選ぶ」
「――」
 カーイは、言葉を発しなかった。
 ランタンの光は黄色く、隙間風に揺れている。静寂が低く、淀んでいる。
 淀んだ空間の中でも、時間は着実に進んでゆく。獄舎から見えない遠い場所で、月はゆっくりと天を下ろうとしている。
 エウジスが踵を返した。一歩目を踏み出した時に、長衣の裾が低く鳴った。ランタンの光の中に影を揺らしながらエウジスは去って行こうとした。
 それを、静かにカーイが引き留めた。
「待って下さい、エウジス。
 ――貴方は他に、用があるのではありませんか」
 ガランとした獄の真ん中、エウジスは振り返った。
「違いますか。貴方は今、私に訊ねたい事があるのではありませんか」
 自分を殺す友を真っ直ぐに見ながら、いつも通りの穏やかな声で言ったのだ。
 そしてエウジスは、己の眉間に微かに力がこもるのを覚えた。
 カーイに、嫌悪を覚えた。極刑を宣告され、もはや運命から逃げ延びる術は無いのに、なのにまだ場の主導権を取ろうというのだろうか? 昔から、いつでもそうだったように。そう。
 いつもの様に、長くずっとそうだった様に、年齢と経験と知識の差を見せつけて涼しい顔で言うのだろうか。
“そうですね。エウジス。貴方の言う事も正しい。でも、他の位置からの見方や考え方もあっても良いのではないかな? 勿論、貴方の考えもまた正しいのでしょうけれど”
 この薄闇と静寂の中でまだ、また、自分の心の底に屈辱感を下すつもりなのだろうか。
「訊きたいことなど無い」
 きっぱりと拒絶した。なのに、
「そうですか? 本当に?」
 静寂が、無音が追い詰めてくる。無音の中、相手が自分の内面の不安を見抜いているのが解る。自制の壁を強く攻めて来る。
「……」
 カーイは、見抜いている。それに気づき、苛立ち、なのにエウジスは足を動かすことが出来なくなっている。
 あの時以来、ろくに眠れていない。拷問のように自分を苛んできた不安にもう耐えられない。ただそこから解放されたい。それだけを欲している。
 誇りが自らを責め立てる。止めろ、訊ねてはいけないと命ずる。また相手の掌で踊らされるのか? また屈辱を味わいたいのか? 止めろ。判っている。情けない。だというのに。
「これは――」
 が自分なのか?
 己の力以外は信じないと、そう誓ってこのミーナールに戻ってきた自分なのか?
「これは、アーリドが関与した陰謀ではないはずだ」
 低い小声で訊ねてしまった。
 屈してしまった。
「アーリドは、何も関わっていない。そのはずだ。
 そうなんだろう? 答えろ。言え」
 はからずも声が上擦りかけるのを、必死で隠した。
“神よ。肯定して下さい”
 答えて、教えてくれ。肯定してくれ。頼む。頼むから、カーイ。私を解放してくれ。
「言え。……答えてくれ」
 薄闇の中の、浅い呼吸四回の後だった。
「アーリドは、関与していません」
 神よ。感謝します。
 感謝を、感謝をします。最愛のアーリドは、自分を殺そうなどと考えてはいなかった。
「……ならば、つまり、今回の件は、貴様が独りで企み、実行した犯罪なのか?」
「そうですね」
「なぜだ」
「なぜなら、私も貴方と同じ考えだからです。
 アーリドと貴方なら、アーリドを選びます。それだけです」
「――」
 それは当然だった。
 そう。この世は当然のように皮肉に満ちているという事だ。両者ともがアーリドが好きで、そして今、両者はアーリドを挟んで死を宣告する者と宣告される者に分けられたという事だ。
 もう良い。それ以上は理解しなくて良い。充分だ。
 ……ランタンの光が大きく揺れた。
 再び踵を返すと、エウジスは退出した。現実が自分の望んだところから確実にずれてしまったと、彼は今確信していた。

 月も星も銀河も、間もなく没する。
 全ての者の上にミーナールの朝が来るまで、あと数刻となった。




11・  朝に、皆が


 小鳥のさえずりが聞こえ始めた。
 夜明けの最初の光が、窓の鎧戸の隙間から差し込み出そうとしていた。
 美しいミーナールの夜明けの時が来た。
 ……
 ゆっくりと、アーリドは立ち上がる。
 一睡もせずに夜を過ごした目は、うっすらと赤味を帯びていた。しかし今、その目で前方のどこかを見据えていた。
(もう嫌だ)
 そう思った。
 長すぎた夜には、もう疲れ、そして飽きた。何一つも思考がまとまらないことにも。
 思考も感情も体も一晩中ずっと驚き、戸惑い、恐れ、怒り、苦しみ、泣きわめき続け、なのに現実は一つも変わらなかった。現実に押し流されるだけで自身では現実を何一つ変えられなかった。そのことがもう嫌だった。
(嫌だ、こんな現実は)
 何でもいい、何かをしたい。
 そう思った。その為にアーリドは背中を壁から離し、強張った身体のまま立ち上がった。
 眼は、前方を見る。鎧戸窓の隙間から光が差し込む私室を、強張った足の八歩で横切る。昨夜、自らの手で下した扉の鍵を、強く弾き開ける。扉を外へと押し開ける。
 その途端に視界に飛び込んできたのは、異様であった。
「……。何の用だ」
 扉のすぐ向こう側に、四人の男達が並んで立っていた。
 どの顔も良く見知っている。館の家令と、側仕えと、書記と、評議会の文官であった。誰もが固く緊張した面持ちで、扉を開けた自分を見据えていた。
アーリドは、かすれた声でもう一度繰り返す。
「何の用だ」
「アーリド殿。申し訳ありませんが本日はどうかこのまま邸内でお過ごしください」
 側仕えの固い台詞と、それ以上に硬い顔であった。それだけで解かった。
(やってくれるな)
と思った瞬間、アーリドの目の前で扉は閉じられる。外側から錠を挿し下す音が薄暗い室内に大きく響き渡った。
 やってくれたな。
 おそらくシャイクの差し金だろう。それともサスキアが怒って命じたのか。いや、自邸か評議会の誰かが、純粋に自分の身を案じたのかもしれない。いずれにせよ今、アーリドは自室に閉じ込められた。それが現実だった。
 勝手にしろ。やりたければ好きにやれ。
 その間にも、朝の冷えた空気は動いてゆく。窓の鎧戸の外では、光が分量を増してゆく。小鳥の声が高くなってゆく。アーリドは扉の前に立ったまま、じっと閉じられた窓の方向を見捕え続ける。
 考えろ。さあ今は、動く事を考えろ。どうする?
 疲労と睡眠不足を重ねた感覚が、チリチリと熱を帯びてゆく。思考は安易に感傷の方へと逃げ込もうとし、その度に苛立ちながら現実へと戻す。朝の時間だけが走るように、逃げるように進んでゆく。
 考えろ。
 思考はすぐに戻りたがる。暖かな、居心地の良い、夏の光に満ちた記憶の中に。――少年の頃に。自分とエウジスとカーイとレイミアがいて、四人が何の曇りも無い友情を信じていた頃に。
 ……いつも、一緒にいた。
 特にエウジスとは、一緒にいるのが当然であった。呼吸の如く当然で、だから友情という言葉すら意識に登らなかった。
『アーリドっ、外へ行こう!』
 その一言が全てだった。何の疑問も躊躇も無い、喜びだけの時間だった。光を浴びた世界の全てだった。
 アーリドは再び室内を横切る。窓の許へ進んでゆく。
 自らの手で鎧戸を大きく押し開けた瞬間、差し込んできた光の量に目が痛んだ。夏の終わりにミーナールの美しい朝は、現実は、とっくに先に進んでいた。
 そのまま窓枠に手を突いて、大きく身を乗り出してみる。ゆっくりと見下ろした下方には、四階分の高さの空間が広がっている。壁面に沿っては、藤の古木の太い幹が、ゆったりと這いついている。
『アーリド様。駄目です。今日は航海法を学ぶ日です。外に行ってはいけません』
 そんなの知ったことか。今朝はエウジスと桟橋に行く約束なんだ。今朝はマグリーの大型船が入港するんだ。
『これを見逃せる訳無いよな、アーリド。さあ行くぞ!』
 ゆっくりとアーリドは、窓枠をまたぐ。宙に突き出した右足を慎重に、慎重に動かしていく。とっくに花は消え緑の葉がおおい茂った藤の大木の、そのうねった枝にゆっくりと足を乗せてみた。
『お前の部屋から抜け出すなんて簡単だよ。藤の木があるもの。俺の部屋は三階だけれど窓の外に足場が何も無いんだぜ、抜け出すのは難しいんだよ』
 ミシリと音を立てて藤の枝がたわんだ。現実の自分は、あの頃より上背も体重もはるかに増していた。何の恐れも躊躇も知らない純粋な少年ではとっくになくなってしまっていた。
 ミシリ、
 アーリドの全身は、たわむ枝の上、壁にへばりきながら宙に浮いた。己の立つ足場の不安定さに、はからずも動悸が高まった。まだ窓枠を握っている左手に、早くもうっすらと汗がにじんだ。
 その左手を慎重に外し、動かしてゆく。ゆっくりと、ゆっくりと、次の枝を目指して体重を移動させてゆく。手を伸ばしてゆく。
『ほらね、簡単だろう?』
 簡単だったという記憶は、濁らない幸福感を伴っていた。それから長い年月を重ねた今、アーリドは冷ややかな恐怖感で足を運ばなければならなかった。
 一歩。一歩。鈍く揺れる幹を少しずつ下ってゆく。四階の高さから、三階の高さへ。さらに二階へ。
『ほら。やれば簡単なんだよ。出来るじゃないか』
 その瞬間、はっと息を飲む!
 だが遅かった! 突き刺すような衝撃と摩擦感が身体の半分を襲った。無残にへし折れた古枝と共にアーリドは音を立てて地面に落ちたのであった。
『ほら。部屋から抜け出る事が出来たじゃないか。――さあ、桟橋へ行こうぜ!』
 痛みを気遣っていられる時間は無い。半身に泥土が塗れたまま立ち上がる。次には館の外塀が待っている。
『アーリド、急げ。ここで誰かに見つかったら意味ないぞ。急げ、マグリーの大型船なんて数年に一度しか来ないぞ。まさか着岸を見逃す気か?』
 ふと見上げた空で、太陽は着実に登ってゆく途中だった。ミーナールの空全体が明るい光に満ち始めていた。なのに地上でアーリドはまたも困難に直面してしまっていた。
 自邸を取り囲む外塀は、こんなにも高かったのだろうか。石の出っ張りやへこみに手足をかけながら登っていくのに、予想外に困難を覚えてしまう。時間を喰ってしまう。ようやく塀の上まで登り切った時、信じ難いことに両掌には血までにじんでしまった。
 もう一度見上げた空で、太陽は加速しながら高くなっている。時間を喰っている暇なんてもう無い。
『急げ、アーリド!』
 強引に飛び下りた。
 ――体勢が大きく傾いた。着地と同時に右の足首の激痛が走り、そのまま地面に倒れてしまった。
 痛い! 無言で叫ぶ。顔が歪む。右の足首を完全にひねり、痛めてしまった。呼吸二つも置かない間に強い痛みが体に走り出したが、
『本当にのろまだなぁ。さあ早く立てよ。急げよ、さあ!』
それを無視しアーリドは立ち上がる。
『急げよ! アーリド、急げ!』
 急がないと。早く!
「待てっ、聞きたい事があるっ」
 大路に出て最初に出会った二人連れの女達に、夢中で訊ねる。その答えを聞いた瞬間、余りにも出来過ぎた偶然に、アーリドは場違いながらも感動すら覚えてしまった。
『早く! 早くしろ、アーリド! きっと桟橋にはもう人が押し寄せてるぞ、
 間に合わなくなるぞ、アーリド!』
 アーリドは右足を引きずりながら走り出した。
 ……
 陽が着実に高くなってゆく。
 キラキラと輝く陽光が、神に愛されるミーナールに注いでいる。夏の最後の美しさを見せつけている。
 アーリドは走る。足首の痛みが酷くなっている。痛みは徐々に体の上の方へ上の方へと突き上がってくる。必死でその痛みを抑え込みながらアーリドは走る。
 街の中心へと近づくにつれて、それが普段のミーナールとは異質なことに気づく。商店の多くが閉じられているのだ。街の営みも活気も、滞ってしまっているのだ。
 それにこの人通り。とてもミーナールの午前とは思えない。明らかに少なすぎる。加えて、すれ違う数少ない人々のほとんどが皆、足早に同じ方向に進んでいくなんて。
「……としても公開の処刑など数年振りだから……」
「……の件でルツが初めて極刑を執行するということは……」
「……どうせ評議会の承認など無いだろうし今後……」
「……あれは、ワリド家のアーリドだぞ……」
 耳に、散らばった言葉が飛び込んで来る。しかしアーリドは足を止めない。ひたすらに痛みをこらえて走る。
 解っている。これは逃げ込むことが許される夢想では無い。現実だ。
 今はもう動揺するな。現実に動揺している時間は無い。自分がやることは、行動することだ。走ることだ。上空で太陽はみるみるうちに高くなってゆく。時間だけが着実に進んでゆく。
 小さな商店が立ち並ぶ表通りを抜け、
『遅いぞ、急げよっ』
 ガランと人通りを減らした広場を横切り、
『きっと桟橋はもう人が詰めかけてるぞっ』
 ごちゃごちゃと込み入った裏路地を何度も左右に曲がり、
『のろま! アーリド、急げ、桟橋だ!』
 路地を出た。唐突に、視界は無限に広がった。

 青く、全方向に突き抜けた、空。
 遠い水平線へ向かって弧を描く、海。
 そして、夏の最後の光。
 アーリドの目が光にくらむ。ミーナールの栄光の象徴である港は、晴れ渡った空と海の間で全景が陽射しに輝いている。
『やっと着いた! ほら、見ろよ。アーリド。
 僕はここの景色がミーナールで一番好きだ。ここはミーナールが外へ続く場所だ。
 凄いよな、ここは。世界中のどこへも続いている。ここを出発すればルツへは勿論、もっとずっとずっと遠くの国までも行くことが出来る。望めば、ここから世界のどこへでも行くことが出来るんだ。
 お前はどうだ? ミーナールもルツも素晴らしいけれど、でももっと遠くて広い場所へ行ってみたいと思うだろう? そうだろう? アーリド?』
 あの時、何と答えたんだっけ?
 覚えていない。でも覚えている。
 エウジネスの眼。
 真っ直ぐと前方を見捕えていた。未熟と無防備をさらした眼で港を、その向こうを遥かに、必死に見ていた。
『もっと広い場所を、世界を見てみたいんだ、アーリド
 世界から、このミーナールを見てみたいんだよ』
 まだ少年だった親友の幼い顔が、理想の大きさにもがいていた。内に秘めた自意識とも矜持ともしれぬ衝動に潰されそうになりながら、それでも夢中で現実と対峙する顔があった。
 エウジスは、遠くを見る眼をずっと、昔から欲していた。
 何も気づかなかったのは自分だった。ミーナールの揺籠のような安寧の中で、何も考えず、何にも苦しまず、ただ幸福に浸っていたのは自分だった。
 ……眩い、目に眩い光の中。
 エウジスの顔がある。
 桟橋の先端に投錨した巨大なルツ船の甲板の上に、彼はいる。
 あの時とは大きく異なり、冷たく、硬く、張りつめた顔のエウジスがいる。己の意志のみで突き進んできた者に相応しい自負と、それに全く反する不安とを混濁させた顔がそこにあり、そして、
 アーリドの胸が押し潰された。
 エウジスの横に、カーイがいた。後ろ手に完全に捕縛され、首に太い縄を掛けられたカーイが、立っていた。

 すでに桟橋の周辺には溢れんばかりの群衆が詰めかけ、ごった返していた。文字通り、かき分けないと踏み入ることが出来ない程の混雑ぶりであった。
 それも当然だろう。数年ぶりの公開での処刑だ。しかもいまや全住民の憎悪を真っ向から買っているルツ太守が、初めて、独断の権利で宣した処刑だ。
 群衆が下世話な興味を剥きだし、沸き立っている。ああだこうだと全く勝手な見解を持ち出し、いいように喋り合っている。喰いつくような目で甲板上の太守とその暗殺未遂犯を見上げている。
 アーリドの歩みはこれらの人垣を押し分けて再開された。
「押すな、――! 阿呆がっ」
 食い入るように船を凝視している外国商人を右に押し分け、短い外国語で怒鳴られる。
「何やってるんだよ、この野郎っ」
 無言で強引に、右足を引きずりながら前に進んで行く。
「ワリド家の――?」
 アーリドの吐く息に、低い呻きが混ざる。一歩ごとに足首の痛みは熱を伴って神経を突く。しかし感情が高ぶり、その痛みすら良く理解出来ない。単純な、しかし困難な問いが熱を帯びてアーリドの思考を支配する。
“こんな現実は嫌だ。絶対に嫌だ。だから変えないと”
 はっと、腕を掴まれた。思わず振り向いた瞬間、視界に飛び込んできた顔に目を奪われる。
 怒った顔だ。いつもの通りサスキアは、苛立ちのままにアーリドを見ていた。耳元で囁いた小声の一言には、ぞくりとするほど不満が込められていた。
「何でここにいるのよ」
 サスキアの横には、イナブがいる。更にシャイクがいる。これまた不機嫌を秘めた目で見てくる。彼らは今、心の中で一様に同じ事を思っていたはずだ。
(まずいな。もう一度捕まえて、今度こそどこかに閉じ込めるか)
「アーリド、右頬」
 サスキアに言われて頬に触れた指先に、血がついた。アーリドは初めて、じっとりとした擦り傷の痛みを自覚した。
「今まで傷に気付かなかったの? 阿呆なの? 帰りなさいよ」
 聞いていない。アーリドはサスキアとイナブの間に分け入って立つ。
「アーリド、帰れって言っているのよ。聞いてないの?」
 聞いていない。眼を前方に釘付けたまま。
 ……良く見える。
 彼らの立つ場所、人垣の最前列からは、全貌がはっきりと見透せる。
 前方の十二歩先には、ルツ兵達が一列に立ちはだかっている。そのすぐ後ろ、桟橋の先端で、軍船は高くそそり立ちように接岸している。突き抜けた空を背景に、威圧感と重量感を見せつけている。そしてその甲板に、
「皆が貴方の表情を窺ってるのよ。どうせ冷静を保ち切ることなんて出来ないくせに。
 貴方が動揺する姿を人々に見せる訳にはいかないから、アーリド」
 よく見える。カーイが。
 カーイは、甲板の縁に立たされている。ちょうど甲板の、渡し板の取り付け場所で、そこだけは今、手すりが取り外されている。彼はあと一歩を前に進めば、下方の海へ落ちていく。――首に縄をかけられたまま。
「いつだ」
 初めて声を発した。
 これに答えるべきか、とサスキアが迷ったのは一瞬だ。彼女の素早い判断力は相手の眼を見て“この男、帰らないわね。たとえ引きずられても。閉じ込めてもまた抜け出すわね”と即座に理解をした。
「すぐに。次に聖ファロが鐘を打った時」
 弾かれた様にアーリドは桟橋の北の聖堂の鐘楼を仰ぐ。高くそびえる砂色の壁面で時を刻む針は、今にも正時に達しようとしていた。
「なぜ――」
「何?」
「――」
「アーリド、何よ」
 言葉は継がれない。アーリドは一心に見据え続けている。死の直前まで追い詰められたカーイに釘付けなっている。
 カーイの表情は何一つ示さない。その顔は思考も感情も、何一つも示そうとしない。ただ、長い髪と長衣の裾だけが、途切れることの無い海風に揺れている。
 なぜ。
 なぜカーイは、怯えていない? 恐怖に引きつっていない?
 死の淵に追い詰められているのに。苦痛と共に死の深淵に消えるのに。なぜ常の通りの冷静そのものの様でいられるんだ? そしてその横で。
 なぜ?
「アーリド。最後まで見る気なら絶対に顔に出さないでっ」
 なぜだ?
 カーイの横で、エウジスの顔が追い詰められている。
 硬質な顔が、自分を見下ろしている。冷徹な無表情をもって隠そうとしているのが、しかし自分には面白いように、手に取るように判る。
 エウジスは今、追い詰められている。迷っている。迷っていながら、しかし己の意志を貫くことだけはもはや決している。
「アーリドっ、表情を崩すなっ」
 なぜだ。なぜカーイは恐怖を打ち消せるんだ。なぜエウジスは怯えながら、それでも現実を推し進めるんだ。
 なぜ自分達の夏は、ミーナールの美しい夏は、こんなに捻じれてしまったんだ。
“嫌だ――こんなのは嫌だ! だから――何とかしないと!”

 エウジスの眼が、アーリドを見捕らえていた。
 遥かに下方の、桟橋のひしめく人垣の最前方にいた。久々に見る友はかなり痩せてしまっていた。そのどうでも良い事実だけで動揺している自分に、エウジスは驚いた。とっくに切り捨てたはずの感傷をまだ引きずっている自らに驚いた。
 ……アーリドが自分を見ている。彼らしく、臆さずに感情を真っ向から示しながら自分を見ている。
 見ている。責めている。こんなに歪んだ現実を先導した自分を、責めている。
 ならば、アーリドは動くのだろうか? この現実を修正するために動くのだろうか。あの柔軟で強い眼で前を見捕えながら。
「太守。時間です」
 背中側から補佐官のゴドゥの声が響いた。
 エウジスはもう夏空を見上げることも無かった。表情を変えることも無く、半歩分だけ前に出て桟橋の群衆全体を見渡した。
 この瞬間、群衆の耳うるさかった喋り声が途絶える。唐突に桟橋の全体が静まり返る。その時がやって来た。
 海風が緩い。海鳥の声が甲高い。執行の宣告の時間だ。エウジスは乾いてしまった舌を、引きずるように動かそうとする。
 その時を狙っていたのか?
 エウジスの中の抑え切れない葛藤は、正に、その時、別の形をとって現れた。
「これって、正しいの?」
 核心を真っ向から突いてきた。
「何でこんなに物事をこじらせるの? おかしいじゃない、エウジス。聞いてるの? ねえ、不自然よ、答えてよっ」
 後ろ側から必死の声で訴えかけてくる。
 しかし、エウジスは振り返らない。前方を見たまま小声で告げる。
「船室に入っていろと言ったはずだ」
「これが正しいなんて言わせない。貴方だって判っているくせにっ」
 振り向かなくても分かる。今、レイミアは怒りに紅潮しながら真っ直ぐに自分を睨んでいるはずだ。
 信じ難いことに彼女は、この場に来ると言って譲らなかった。自分の親友が自分の親友を殺すところを見ると言って聞かず、付いて来てしまった。神が彼女に与えた純粋という武器をもって、事態の異常に訴える役割を担ったのだ。
「聞いてよ! 私に答えて、エウジス!」
 しかしエウジスは答えない。もはや彼の役割もまた定まっている。
 エウジスは再び、空気を吸った。すでに言うべき言葉ならば決まっている。昨夜書記官から渡された文面は、動揺する内心とは裏腹に、不思議なほど素直に頭の中に入っていった。それを今、自分の舌で桟橋に向かって発するだけだ。今はそれだけに集中しろ。それだけで良い。
 彼はそう理解していた。そう解っていた。――そう解っているのに、
 なのに、
 彼は最後に、やはり誘惑に捕えられてしまった。
 屈辱的なことに、もう一度見てしまった。己の犯す罪悪が怖くて、それ以上にもう二度と見られなくなることが怖くて、もう一度だけ、自分の右横を見てしまった。
ミーナールの夏の光の中。やはりカーイの顔は常の通りだった。常の通り冷めた、水の静けさをたたえ、落ち着き払い――
「カーイを恐怖に突き落として! よく平気でカーイを見られるわね!」
(え?)
 初めて、はっと、息を飲む。あらためて、見る。
 ――カーイは、怯えている。
 そう、初めて気づいた。なぜ今まで気づかなかったんだろう?
 自分がそうであると決めつけていただけだ。カーイの内心は今、極限まで怯えているのだ。
 当たり前だ。死の淵にいる者が、怯えてないはず無いじゃないか。カーイだから、少年時代から自分がずっとその知性と沈着に憧憬し、ゆえに嫉妬から逃れられなかった相手だからといって、死すら恐れない超越者のはずはないじゃないか。自分の眼がそうであると決めつけて見ていただけじゃないか。
ならばアーリドはどうなんだ?
 アーリドならば気づいていたのか? 矜持と虚勢以外に己を守れない自分と違い、常にしなやかに物事を受け止めるアーリドだったら?
「エウジス! 止めて!」
 レイミアの悲鳴が現実に引き戻した。
 エウジスにはもう、抵抗が出来なかった。もはや定まってしまった現実を再び動かす力は自分に無かった。誇りの名を借りた自らの小心に屈してしまった。
 日差しの真下、彼は再び正面を見据えた。眼下の群衆に向かって、感情を交えない声で発した。
「ルツ王国より属州ミーナールに派遣された太守の権限におき、太守の謀殺未遂の罪科を負う逆賊に対し、これより処刑を執行する」
 日差しが眩しい。海風が皮膚をなめる。アーリドが自分を見ている。
「本件に関して異議を訴える者は、次の正時までに、即ち鐘楼の鐘が鳴り終わるまでに申し出よ。申し出がない場合は、その時点をもって絞首刑が執行される」
 アーリドが自分を見ている。その真っ直ぐな視線で、自分を責めてくる。それに対してエウジスは、あらん限りの意志をもって冷静の態を貫く。
 もう、自分には出来ない。現実を変える勇気も力量も無い。
 だからアーリド、君が決断してくれ。
 ――出てこい、
 私にカーイを殺させないでくれ。
 ――出てくるな、
 私に君を逮捕させないでくれ。アーリド!
 突然に、桟橋全体に鐘が鳴り響き出した。
 アーリド、エウジス、レイミアの身体がびくりと揺れた。航海の守護聖者ファロの鐘楼が、夏の空気を震わせて鐘を打ち鳴らし始めた。
 まずは四半時毎を告げる甲高い小鐘の音が、四つ。それに続き大鐘の低い、間延びた音色が桟橋中に響き渡り始める。この大鐘が十回鳴り、その余韻の尾が天に消えた時、正時が完成する。
 一つ目の長い鐘が終わり、今。二つ目が鳴る。
 カーイの表情が、瞬きすら失ったかのように固まっている。
 エウジスが、乾き切った喉に唾を飲みこんだ。アーリドは――、
 アーリドは、壮絶に顔を歪めている。
(出るべきなのか)
 アーリドは必死に思考を回す。だが冷静になれない。分かっているのは、あと大鐘が八回鳴る間に自分が異議を申し立てなければ、カーイは一歩前に突き落とされるということ。絞首によって絶命するということ。
(出るべきなのか。自分は。今。ミーナールの未来を絶っても、カーイを救うべきなのか)
 三つ目…… 四つ目……
 鐘の音が長く間延びながら響く。アーリドの腫れた右足首が、僅かに前に出かける。その途端、手首を強く掴まれた。サスキアが文字通り眉を吊り上げて脅迫に出た。
「出ていかせないわよ。傷つけてでも」
 気付くとアーリドの周りには、評議会の衛兵やらサスキアの家の郎党やらが近づいて来ている。シャイクの小柄な全身も、しかし鋭い気迫をもって自分を見ている。
「行かせない。私が殺したって行かせない」
 サスキアは揺るがぬ圧倒的な決意をもって手首を掴む。
 それが己の取るべき行動と、信念をもってアーリドを阻む。後になってからその判断が誤りだったと判じられるかも知れない。またアーリドから大きな憎悪を買うかも知れない。でも彼女は構わない。ただ、己の信念に従ってやるべきことをやっている。
 五つ目……
 では今。自分の信念は何だ? 自分には今、何ができるんだ?
 長く尾を引きながら、大鐘が鳴ってゆく。カーイの追い詰められた眼が、遠い虚空にすがりついている。無言で救済を求めている。アーリドを追い詰める。
 六つ目……
「今動いたら、全ては破滅よっ」
 全てが破滅だって? そうなのか?
 七つ目……
 そうなのか?
 違う。全ては破滅しない。少なくとも、この場でカーイの死を回避できる。少なくとも今、自分が動けば。
 八つ目……
 少なくとも、少しだけは現実が動く。
 こんな現実は嫌だと呪った現実が、少しは動く。最悪と断じた現実に少なくとも、少しだけ抵抗できる。少しだけ動けば、取り敢えず少しだけは未来が変わる。
 やらなければ。動かさなければ。この歪んだ現実を変えなければ!
 九つ目……
 アーリドは深く息を吸った。瞬き一つの間だけ発すべき言葉の選択に迷い、そして決した。十回目の大鐘が鳴りだそうとするその直前。
「アーリド、駄目! 許さない!」
 気付いたサスキアが手首を力任せに引く。その手を身をよじり振り払った。アーリドは素早く二歩を進み出、力を込めて叫んだ。
「私が異議を――!」
 その声が消された。
 サスキアでは無い。シャイクでも、その他の者でも。鐘の音でも無い。
 空を切り裂く異様な音響が、アーリドの声を遮った。




12・ 最後の夏の空の下


 空気を切る音――、
 それに次ぐ巨大な爆発音が、港にいた全員の耳を裂いた。
「何が起こったんだ!」
 桟橋は一斉の悲鳴に包まれる。何が……?
「何が……っ、何が起こったんだ!」
 突然の大波が桟橋の岸壁に打ち寄せる。ルツ船が目の前、大きく揺らいで波を起こしたのだ。船首の一部が破損し、木端が今、多量に海面に落ちてきている。
「何が、船に――!」
 その時、再び空を切る光と音が響いた。続き軽い振動の感覚、直後の、
 巨大な水柱!
 ルツ船のごく間近の海面に水柱が立った。船は再び大きく右に傾き、甲板上の兵士達が声を上げる。転覆するか!と、ひやりとした直後、辛くも体勢を元に戻した。
「何が起こったんだっ、誰か答えろ!」
 天上の審判が始まったのか? そう思った者も少なくないはずだ。目の前では人々が一斉に聖者の名を叫んで走り出している。悲鳴を上げている。桟橋に恐慌が始まっている。馬鹿な!
「あれを見ろっ、あれだっ」
 誰かの声にアーリドの視線が弾かれる。はっと見捕えたのは海上の遥かに遠方だ。湾を描く入江の左端の、染みのような黒い船影だ。
 なんだ、あの船? なぜ? いつの間に? そしてその船影の隅が、
 キラリ――
 小さく光った。
 瞬き二回の後、耳を破る三度目の爆音が上がった。船影から発射された火弾は視界の左手、小桟橋の角に激突し、たちどころ周囲に石片と木片と埃が舞い上がった。
 群衆から巨大な悲鳴が上がる。港から逃げようと誰もが一斉に同じ方向へ走りだす。その恐慌の中、アーリドは目の前の現実を理解できない。絶句したまま、子供染みた顔をさらし立ちつくしてしまう。
「ユナーン火だっ」
 いきなり肩を掴まれ引っ張られた。アーリドの視界に噛みつかんばかりのイナブ船長の顔が迫った。
「今のはユナーン火だっ、見たか? あの船がユナーン火を撃っているんだ!」
「ユナーン火って……あの、ユナーン……」
「そうだ、可燃性の薬品を詰めた砲弾だ。まずいぞ、水では簡単に火を消せない。アーリド、早くしろっ、砲撃を即座に止めさせないとっ」
「ユナーン火を、誰が――、なぜ今……」
「分からんっ。だが標的はルツ船だ、桟橋では無い、ルツ船を狙っている」
「だから、なぜ――」
 途端、イナブが烈火の如く怒鳴った。
「そんな事俺が知るか! 今はとにかく砲撃を停めさせろ! 巻き添えでどんどん破壊されるぞ、桟橋も建物も崩されるっ、死者が出る!」
 イナブは強引にアーリドの肩を掴み外に押し向ける。その目の前で正に人々が悲鳴を上げながら逃げ走っている。海に飛び込んでいる。突然の砲撃に文字通り審判の日を迎えたような混乱の図を見せつける。
 それだけで済まない。飛び火が海風にのって広まっている。その火の粉の一つが今、岸壁に積まれていた積み荷用の小麦袋に燃え移り始めた。
「ファーリスの船よ!」
 サスキアの鋭い声が真後ろから響く。
「あの船の型、ファーリスよっ、見間違えない、ファーリス王軍の船よ!」
「なぜだ? なぜファーリスの船が今ここにいるんだ、だって――ファーリス王は私達と密約を……、それがなぜ――」
「知らないわ! そんなの私に聞かないで!」
 サスキアの顔もまた怒りに歪む。彼女だけでは無い。誰もが動揺と興奮と混乱で恐慌に陥っている。
「早く何とかしなさいよ!」
 なのに不公平にもアーリドにのみ冷静を強いる。と、また誰かが彼の肩を引いた。
「シャイク?」
 違う。評議会館の衛兵だった。この若い男もまた興奮に目を剥いたまま、声が出ない。ただ必死に腕を振り上げ、夢中で指を突き出す。その指に先、逃げまどう群衆達の間を、ゆっくりと、ゆっくりと歩いて来る人物達がいた。
 この恐慌状態の直中にあり、信じられない事にゆっくりと、平然と歩み寄って来る。かつてより何度となく密会をかわしてきたファーリス国の四人の密使達は、何事も無いかのようにアーリドの前まで達し、まずは一礼を垂れたのであった。
「どういうことだ!」
 アーリドとサスキアとイナブは同時に叫んだ。
「あれはファーリス船でしょう? 何で今ここにいるのよっ、何で砲撃をかけてくるのよ!」
「仰る通り、あの船舶は我が王国軍の籍です」
 密使の一人が続きを話そうとした時、引きつった形相の住民がその肩口に激しくぶつかって邪魔をした。
「火を消せ――火を!」
「早く逃げろっ、次の砲弾が来るぞ!」
 怒声と悲鳴が交錯する桟橋の直中、だというのにファーリス人は他人事の冷淡な態度と口調をもって続ける。
「この状況について、ご説明致します。
 実は外的状況が、ミーナールとは関与しない件で大きく変じました。
 本日より十二日前です。ダルマニー海域のロクム港においてファーリス船籍の船団が、唐突にルツ軍船よりいわれ無き砲撃を受けました。この件に、我らが偉大なる国王陛下は大いに激怒をされ、即座に対抗策を発せられました。速やかに近隣各港に係留しているファーリス船に向けて、ルツ船籍船への攻撃および略奪行為の許可を与える御勅令を発された次第です」
 よくも――見え透いた――作り話を――!
 三者が同時に察した。同時に歯噛みした。
 そんな偶然が今、こんな時に起こるものか! 今、この桟橋に、ミーナールとルツの要人達が勢揃いした今、この瞬間に、起こるものか!
 つまり現実は、こういう事だ。
『ファーリス国は、ミーナールとの密約に真っ向から背信した。
 ミーナールのルツ支配排除の意向に乗じ、自ら独断でルツ軍勢を排除し、代わり自らがミーナールを支配すべく行動を起こした』
 こういう事だ。神よ。
 密約を裏切ったな! やってくれたな!
「こんな露骨な攻撃をかければ、ルツ側だって黙ってないわよっ、解ってるの!」
「ルツ船への攻撃許可は、国王陛下の御勅令に依るところです」
 淡と言い切った言葉の裏側が語るところもまた、手に取るように分かる。
『この後の処理は全て、本国の宮廷が外交政策に則って対応をします』
 おそらくはすでに“先日のミーナール港におけるルツ船攻撃の一件ですが、これは不運な偶然が重なりあったものにつき――”で始まる公式文書がファーリス宮廷では出来上がっているのだろう。ルツ側の激怒をかわし、体よくミーナール支配権を奪い取る段取りを整えているのだろう。目の前で表情一つ変えずに告げる使者の口調から、手に取るように分かる。
 やってくれたな! やられた!
 外交巧者を誇るミーナールが、ファーリスにしてやられた。内政の混乱にあっさり突け込まれ、先手を打たれた。厄災の箱が、最悪の形で開かれてしまった。
 サスキアが真っ赤な顔で暴言を吐いた。
 イナブが吐き捨てるように笑い声を上げた。
 そしてアーリドは、立ち尽くした。
 完全に追い詰められた。押し寄せる現実に圧迫され、己の意志を保てなくなった。
 焦燥は混乱へと変質し始める。行き場を失くした感情が熱を帯び、引きつった顔をさらし今にも叫び出しかける。
“だから言ったじゃないか! 禁断の箱は危険すぎると言ったじゃないか!”
 その時――
 はっと振り向いた時にはもう遅かった。
 突然だった。地元の若い漁夫だった。桟橋の半ば、慌てていたルツ兵の背後まで走り寄るや、その剣を奪い取った。その剣を相手に向けて振りかざしたのだ。
「――っ」
 ルツ語の悲鳴が混乱の上に響く。アーリドは叫ぶ。
「止めろ、やるなっ、手を出すな――!」
 遅かった。桟橋の上にルツ兵の鮮血が落ちた。
 これが契機になった。混乱する港のあちこちでミーナールの男達がルツ兵に襲いかかり出した。ひと夏にわたって積りに積もっていた憎悪を一気に晴らすべく、一度は港から逃げ出そうとしていたミーナールの男達が一斉に戻ってきた。武器を手に取り、目を血走らせた暴徒と化した。
「止めろっ、皆止めろ――!」
 怒声や悲鳴の直中でアーリドの叫びが涸れる。続きはもう声にならない。
 アーリドの最も言いたい事、この混乱と暴力と悲鳴の現実の直中でアーリドが最も叫びたいこと、それをもう発することも出来ない。
“止めろ! 皆全て止めろ! こんなものは私の望んだ現実ではない――!”
 キラリ
 四度目の小さな閃光が、海上で光った。
 一瞬の時間の後、大炸裂音が耳を突いた。今度こそルツ船は、その甲板に火弾の直撃を受けた。巨大な船体が今度こそ転覆せん程に大きく傾いた。甲板上の人間が大きな恐慌に襲われる瞬間の光景を、アーリドは鮮明に見捕えた。
燃え上がる火柱と、大声と共によろめくルツ兵士たちと、
 レイミアがよろけ、悲鳴を上げて座り込み、そして、
 エウジスが叫んでいる。大きく叫んでいる。
 その口の動きすら読める気がする。エウジスが叫んでいる。怒っている。こう言って。
“止めろ! こんなものを私は望んでない――認めない!”
 その真横でカーイの長身が大きくよろめいた!
 船の揺り戻しについていけない。腕を後ろ手に縛られたままの身体が重心を失い、激しくよろける。膝から崩れるように甲板の手すりへぶつかった。
「神様! 駄目!」
 レイミアが叫ぶ。立ち上がり腕を伸ばす。カーイの身体を掴もうとして。そして、
 灰色の長衣が舞った。
 真昼の光の中、カーイは背中から甲板より落ちた。
(否――!)
 アーリドが声無く叫んだ。即座に海へ向かうべく右足を踏み出しが、その途端足首は彼を裏切った。激痛と共にアーリドは地面へ叩き付けられた。
「アーリドっ、馬鹿がっ」
 サスキアの声すら気づかない。眼を上げ、前方の現実を見る。現実? ――違う、悪夢だ。最悪の悪夢の現実が、
 カーイが吊られている。
 首骨は折れなかった。まだ生きている。その代償に猛烈な苦痛にもがき苦しんでいる。それもすぐ止まる。本当に、本当にあと呼吸数回の後にはそれも終わる。死ぬ。
「カーイが――! 誰か――縄!」
 レイミアの凄まじい叫びと全く同時、
 宙を切るたった一振りが走った!
 エウジスが己の長剣を横真っ直ぐに振り切った。音もなく絞首の太縄は切れ、カーイの身体は一直線に海に落ちた。
「カーイ!」
 レイミアとエウジスが同時に叫ぶ。同時に甲板から身を乗り出す。
「カーイ!」
 アーリドが叫ぶ。再び立ち上がろうとし、激しく転んで地面に叩き付けられる。その苦痛すら自覚出来ない。
「死ぬなっ、カーイ、死ぬな――!」
 よろめく身体で立ち上がり、三度転びそうになったのをすんでのところで支えたのは、目を引きつらせたサスキアだった。
「どうしてもあの男を助ける気なのっ」
 激しく簡潔な問い。アーリドの返答も同様。
「助ける、何があっても!」
「本当にっ」
「まだ生きている、必ず助ける!」
「馬鹿が!」
 言い捨てるや、サスキアはアーリドを手放して風の様に走り出した。恐慌の中に喚き走る人々をかき分け、力づくで桟橋の端を目指し走る。走りながら、己の着ている緋色のドレスの胸元のリボンを解いていく。
「サスキア様、何をっ!」
 郎党の大声を完全に無視して走りながら、胸元や袖口の複雑な飾り紐やらリボンやらを素早く次々と解き、そしてサスキアはふわりをドレスを脱いで後ろに捨てやった。真っ白の長下着姿になった。
「サスキア様!」
 サスキアは桟橋の先端から海へ飛び込んだ。

 ルツ船の甲板では、船首と第一マストの根元がまだ炎を上げている。それを消火するべく、何人もの船員と兵士達が必死に動いている。それでもエウジスは甲板から夢中で身を乗り出して海面を見つめている。
 その身体が、いきなり肩から引かれた。
 補佐官のゴドゥの長身が、仮面の様に冷ややかな顔でエウジスを見降ろしていた。
「このままでは、良いように狙い撃ちの標的です」
 心中はまだカーイに執着しているものを、エウジスは強靱な意志で自らを制する。ゴドゥに対峙し、感情を込めずに尋ねる。
「あれは、ファーリス軍船か?」
「おそらく」
「なぜだ。何が起きている」
「分かりません。ですが、敵は確実に我々の船を認識した上でユナーン火を砲撃しています」
「こちらも砲撃で応戦することは出来ないか?」
「出来ません。現在当船には、砲撃用の火弾はおろか石弾一個も搭載されていません」
「何か出来る防衛策はあるか」
「全く、有りません。まさか本日このような相手からこのような攻撃を受けるなど、神の名において誰一人予想出来ませんでした」
「その通りだな」
 下方から大きな歓声が湧き上がった。両者が同時に身を乗り出して下を見る。
 桟橋の端で、五~六人のルツ兵達が取り囲んだ群衆から一斉に石を投げつけられていた。悲鳴と命乞いが響く中、彼らが一斉に海に飛び込み、船に向かって泳いで逃げて来るところだった。
「太守。このままでは船は壊滅します」
 そしてついにゴドゥは、最も重たい一つの単語を告げた。
「退却を」
「駄目だ」
「このまま船を火達磨にする気ですか。兵達はどうなるのですか」
「すぐに何か対抗の方法を考えろ」
「ありません」
「冷静に考えろ。この窮地を脱する方法があるはずだ」
「ありません。不可能です」
「もっと考えろ。このまま退却するなどという恥辱をさらす気は、私にない」
 その途端、ゴドゥは一変した。冷徹の表情が一転、彼は目を剥き醜悪なまでに怒りの感情を剥き出したのだ。
「分からないのか! 現実を見ろ! 急襲されて反撃しようが無い、このままでは船が燃え全員が死ぬ! それだけだ!」
 しかしエウジスは言い放った。
「だが、敗者の恥辱は免れる」
「それが貴様の望みか、エウジス!」
「そうだ」
「ならば貴様一人で勝手にくたばれ! こっちまで巻き添えにするな。貴様の安い見栄ごときに付き合わされてたまるかっ。現実すら見ようとしないこの餓鬼が!」
「――」
「退却しろ!今すぐに我々は尻尾を巻いて逃げるんだ、やれっ、エウジス!」
 ゴドゥがエウジスの襟を掴んだ。締め上げられた首許で、エウジスの血脈が素早く打っている。その僅かな五~六回の拍動の間に、エウジスは最後の選択を強いられた。

 真っ青に抜けた空の真下、紺碧色の海の上、
 冷たい飛沫をまといながら、サスキアの右手が桟橋の石組みの淵を掴んだ。その左腕ではしっかりとカーイの首元を支えていた。
「サスキアっ、カーイ! カーイ……!」
 アーリドの声はもはや潰れている。足を引きずって駆け寄るや、夢中で身を落としてその腕を掴み引っ張った。
「私はいいから、アーリド、彼をっ」
「カーイ!」
力の限りでカーイの体を海中から引き上げると、群衆が走り回る桟橋の上に仰向けに横たえる。急ぎその顔に手を触れ――、
 アーリドの内臓が一瞬にして絞られた。
「そんな……、神様……」
 カーイは息をしていなかった。
 涙が出るでも無い。喚くでも。ただアーリドは動けなくなってしまった。
 間に合わなかった。ついに自分の落ち度で、友を死なせた。それだけは嫌だと延々と延々と逡巡し続けた果て、なのに結局、死なせてしまった。
 何の意味も無かった。何も出来なかった。ミーナールの青空の下。騒乱の桟橋の上。アーリドは己の敗北を見せ付けられたのだ。
 ……だが。
「嫌だ」
 ミーナールが神から多くを賜った様に、アーリドにもまた神から賜ったものがあった。
 内側に隠し持っていたものを、浮き上がらせた。絶望の状況に怯えながら、それでも真っ向から現実と対峙した。諦めない真っ直ぐの意思で、可能性を求めた。可能性に賭けて、淡と言い切った。
「このままは、嫌だ」
 はっとサスキアが振り向いた。
「サスキア、数を数えてくれ」
 身をかがめた。自分の口を、カーイの口に重ねた。
「もう無理よ、さすがにもう間に合わない。アーリド」
 聞いていない。アーリドは息を吹き込み続ける。
およそ無意味に思える行為だった。だがアーリドは認めない。ゆっくりと、規則正しく送り続ける。カーイが呼吸を取り戻すとは自身も信じてはいない。しかしアーリドは続ける。目の前の現実が嫌だから、だから動く。それだけが己の取るべき正道なのだから。そう理解しているのだから。
 刻まれるアーリドの息づかいが、凄まじい喧騒の直中だというのにしっかり聞こえてくる。気付くとサスキアはアーリドに従って、数を数えている。的確に数える声が、単調に響いてる。
 カーイの動かない身体。顔。
 長い、長い、終わらない時間。
 抜ける青空から射す、ミーナールの真昼の光。
 ――最初に、本当に最初に僅かに動いたのは、左の頬の肉だった。

 エウジスは、眉一つ動かさずに宣した。
「直ちに出帆準備を」
 この一言を発するまでにどれ程の苦痛に襲われたか。どれ程の屈辱に苛まれたか。そして、どれ程の勇気が必要であったか。
 号令と同時、たちどころ船上の人員が慌ただしく走り出した。
「主帆だけで対応するぞ!」
「早く碇を引き上げろ!」
 甲板上に様々な大声が飛び交う。舵の横にある鐘が甲高く鳴らされる。これに合わせて、桟橋上にいるルツ兵士達も一斉に撤収し、泳いで船に駆け上がって来る。
 この騒々しく緊迫した動きの甲板上で、
「出ていくの?」
 固い顔で独り立ち尽くすエウジスの背中に、レイミアが強い声で発した。
「どこへ行くの? まさかルツへ帰る気?」
 エウジスはゆっくり振り返った。その一言を発するためにどれ程の苦渋を伴ったかは、およそ彼女には想像できなかったはずだ。
「そうだ」
 エウジスは言った。顔だけは気持ち悪い程に冷淡に。
 なぜ? 今にも泣きわめきたいのに。
今すぐにも地面に崩れて大声で泣きわめきたいのに。
「ルツへ戻る」
「嫌よ」
「……」
「私は嫌よ。私の故郷はミーナールよ。こんな風に出ていくなんて嫌よっ」
「……」
「私は行かない。私は嫌っ」
 レイミアの表情が引き締まってゆく。怒りを真っ向から発して意志を見せつける。感情の吐露すらできずに立ち尽くすだけのエウジスに、噛みつきたい程の嫉妬を覚えさせる。
 途端にレイミアは走り出した。
 空の様に青いドレスが、素早くエウジス目の前を横切った。その瞬間、拍動一回の間だけエウジスは迷った。
 もしここで腕を掴んだら、彼女は止まるだろうかと。
 本当に、自分は本当に昔からずっと、秘かに、心の一番奥の見えにくいところで彼女を愛していたのだろうかと。
 本当は、愛してなどいなかったのではないだろうかと。
 本当は、アーリドを愛している彼女を愛していたのだろうかと。アーリドを愛している彼女だから、だから自分は彼女を愛していたのだろうかと。
 瞬く間にレイミアは視界から消えた。
 躊躇も無い。眩い陽射しの真下、青い海へとレイミアは飛び込んだ。

 その時、アーリドにはよく分からなかった。
“青い鳥みたいだな”などと漠然と、こんな状況の中に妙に叙情的な事を思った。青い水面に上がる白い水しぶきまでを、そのままただ見据えてしまった。
「お馬鹿な小娘」
 サスキアが呆れながら言う。
「あの服のまま泳ぐ気? 無理よ」
 一度アーリドは目の前に横たわるカーイを見る。カーイはようやく浅い呼吸を取り戻すところまで回復はしたものの、まだ目は閉じたままだ。
 そして今度は横にいるサスキアを見る。彼女の苛立たし気に引き上げられた眉の表情を見捕える。
「サスキア」
 一言だけ言った。あとはただ、じっと相手の顔を見る。サスキアはすぐに、
「私が? ――待って」
と言う。
「嫌よ、何で私が――、だってあの小娘はいつも貴方につきまとっているくせに。それなのに何で私なの?」
「――。分かった。私が行く」
「貴方の足じゃ泳ぐのは無理に決まってるじゃないっ。溺れたいの?」
「――」
「だから、何で私があの小娘をっ? もう――なぜ? こんな馬鹿馬鹿しいことって!」
そう言いながらも、しかし彼女は立ち上がったのだ。
 濡れた髪が乾く間も無い。サスキアは再び踏み出した。素早い足で走り、光の射す海へと飛び込んでいった。

 ルツ船は出帆の直前となっている。
 アーリドが見据える視界の中、今、港にいた最後のルツ兵が海へ飛び込み、泳いで船へと戻っていった。その背中に向けて住民達の投げる罵声が、最高潮となっていた。
 桟橋の東側では、シャイクが小柄な全身で走り回り、イナブが喉を涸らしながられながら大声を張り上げている。散らばってしまった評議会の衛兵達は、今頃になってようやく隊列を整えて、興奮した群衆を押さえるべく走り回っている。
 だがアーリドはまだ動けなかった。
 彼は、目前のカーイの体を見た。火薬の臭気が立ち込める桟橋の上に、アーリドはカーイの閉じられた目を見つめたまま、必死で待ち続けていた。
 待ち続けていた。
 ……昨日の夜からずっと、待ち続けていた。
 この夏、ひと夏の間ずっと時間を待ち続けていた。
“アーリド、さあ港へ、桟橋へ行こうっ”
“アーリド、私はミーナールが好き、貴方が大好きっ”
“アーリド、貴方は貴方の望む選択をどうぞ、私はそれを見守ります”
 かつて親友たちと同じ時を過ごした幸福な夏。その四人が再会を果たしたこの夏。
 時はもうそこに留まっていなかった。現実の上を時は進み、願っても同じ場に留まってくれなかった。ミーナールの幸福な夏は、アーリドの上を確実に通り過ぎて、もう終わろうとしていた。
 騒乱の桟橋の上、なのに多数の海鳥の声が妙に耳に付く。日差しが高い。夏の終わりの乾いた風が絶えることなく吹き付けている。
「アーリド」
 びくりと、反射のように身体が震える。
(栄光の神よ……感謝致します……)
 待った果て、鬱血したまぶたが僅かに開いていた。カーイが、自分を見ていた。
「カーイ……」
「……。私は、生きていますね」
 今日何度目だろう。またアーリドは言葉を失った。今度は初めて、喜びの感情によって言葉を失ってしまった。カーイのかすれた小声に、頷くのが精一杯だった。
「もう駄目かと、私は、死ぬと――。この責任――」
「カーイ、喋らないで」
「今度こそはもう、失敗し、死ぬと……だがこの案には――」
「いいから。貴方のせいじゃ無い。もう黙って。身体にさわる」
「貴方に、伝えるべきことが――」
「いいから! 全て私の失態だ。私が何もせずだらしなく躊躇するだけで、待っているだけで、怖くて、貴方ときちんと話し合いもせず……、だから貴方を凶行に駆り立ててしまい、その果てにこんな目に……。でも今は神に感謝――」
 その時、いきなりカーイの右手が動いた。思いもよらぬ強い力でアーリドの左腕を掴んだ。
「私は、エウジスを殺害する案には反対でした」
「え?」
「反対しました。最後まで。だが、会の決定は覆せなかった、そのことを……」
「……。カーイ?」
 目の前、血の気の失せたカーイの唇が、まだ先を語ろうとする。何を?
(またなのか……?)
 また――まだ、現実は歪むのか……?
 眩い蒼穹の下だった。
 桟橋に残る二人の目の間で、ルツ船の出帆が目前に迫った。



【 最終章に続く 】


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