ミーナールの長い夏が終わる

メイ

文字の大きさ
上 下
3 / 5

ミーナールの長い夏が終わる(3)

しおりを挟む

8・ 長い夜のしじまの果て(2)


 ふわふわと、浮くような感覚を覚えた。
 その感覚のまま、アーリドは歩いていた。
 身体の芯が冷え切っているのを感じる。軽い吐き気も。でももう朝まであまり時間が無い。早く考えなければ。多くの事柄を考えなければ。
 カーイを見捨てて聖バアル教会前の小広場から進み出た。なぜ突然カーイは、あんな恐ろしい事を言い出すんだ? どうしてそんな事を思いついたんだ? それは、自分だけが背を向けたい真実なのか? カーイの静かな眼には見える現実なのか?
 なぜ、カーイが? なぜ彼がそれを考える?
もうカーイの顔を――現実を見たくなかった。今はとにかく自邸に戻りたかった。自邸に戻り、自室の寝台に倒れ込みたかった。
 今は寝たい。寝て、この疲労と混乱を少しでも取り除かないと。そして明日に向かわないと。さもないと潰されてしまう。
(神様。少しでいいから望みを叶えてください。少しでいいから、少しでも早く、今は眠らせて下さい)
 ミーナールの裏道は、死んだ如く静まっている。
 物音は一つもしない。自分の足が石畳を踏むごく僅かな音すら響く。一歩の毎に体の中に淀んだ、混沌とした感覚がこみ上げて来る。
『死』
 単語が、頭の中心で淀む。
 死。
 消失。消滅。抹消。
 ……母親は、自分を産んだ床で死んだ。もとより何一つの記憶も無い。生の感触も死の記憶も持っていない。
 ……父親は、ファーリス国への公式訪問の途で客死した。出発前から持病が悪化していた。そんな体調で外遊に出れば命にかかわることは明らかだったが、それでも行かなければならなかった。
出港の朝、父親はミーナールの桟橋でしっかりと自分を見捕えて告げた。
『もうこれで二度と会えなくなるかもしれない。その時にはお前が新たなワリド家の当主だ。お前が全霊を捧げてミーナールを護れ』
 遠い異国より父親の病没の報が届いたのは、それから二度目の新月の夜であった。
 それ以外にも、幾つもの死に立ち会った。自邸の者・評議会の関係者・顔馴染の商人・既知の外国人……。多くの人々の葬列に並んだ。だが、死は実感が出来ない。遠く長い航海に出ているとでも言われれば、そう思うことも出来る気がする。
 死。
 消滅すること――消滅させること――殺すこと。
 足が滞る。自邸はこんなに遠かったか? 早く寝たい。夜は深淵のように暗く、深く、アーリドに絡みつく。
 闇――死――殺害
『ミーナールを取るか、エウジスを取るか』
 自分が、エウジスを殺すのか? そうすればミーナールは救われるのか?
 自分が街を救い、そしてエウジスが消滅するのか? 死ぬのか? あの友が?
 朝が近づいているはずなのに、夜の闇に捕えられかける。仰ぎ見た空には、歪んだ月と星々が残っている。凍りついたように深い夜のしじまだと感じ――
 その瞬間、衝撃が身体を襲った!
(誰!)
 叫ぼうとして声が出ない。口を塞がれた。掴まれた右腕は力任せに背中に回され、身体は脇道へと引きずりこまれる。
(嫌だっ、誰だ!)
 死だ! 自分も考えたんだ、自分が考えたなら相手だって考えるはずだ、
 違う! エウジスがそんな事をするはず無い!
「誰だ!」
 やっと声が出る。が、目の前、見知らぬ二人の大柄の男達は再びアーリドの口を押さえ込む。激しく腹を打たれた。突然視界が闇に落ちた。目隠しをされた。
(嫌だ――!)
 どこかの細道へと連れ込まれる。心臓は猛烈な速さで脈打つ。恐慌に陥りそうな感情をすんでの所でこらえる。必死で思考をめぐらす。
(落ち着け! 考えろ、逃げるんだ、落ち着け――!)
 落ち着けるものかっ。腕を掴まれたまま散々に裏路地を引きずり回された挙句、ついにどこかの建物の中に連れ込まれた。その扉口辺りで散々に抵抗を見せたが何の意味も無かった。一度二度激しく脇腹を打たれただけだ。
(助けて! 誰か、カーイっ、誰か――。エウジス! 助けて!)
 下り階段へ、下へと引きずられてゆく。冷えた石の感触と湿った埃の臭いだ。下だ――地下だ――地の底――死の場所――
(嫌だっ、死は嫌だ! 助けて、エウジス!)
 そして突然。引きずられていた身体が止まった。倒れ込みかけた体を、両腕で引き起こされる。大声で叫び上げる直前、
「――っ、――!」
 びくりと、全身が強張った。
 外国語だった。どこかで聞いた言語。どこかで聞いた声。女の。
「――っ、くたばりやがれ! 手荒はするなってあれ程言ったのに! ――っ。この神穢しの馬鹿どもが!」
 唐突に闇が消えた。
 目隠しを外された瞬間、
「うちの阿呆な郎党どもがっ。御免なさい、でも無事で良かった」
 光に射抜かれた視界に、サスキアの鮮明な顔が現れた。
 その顔がいきなり近づき、思い切り鮮やかにアーリドに唇を押しつけた。たった今までの死の恐怖を一掃する、生そのものの口づけをした。己の状況すら判らないアーリドに、だというのに間違いなく安堵を与えた。
「サスキア嬢! 何が起きているんだっ、これは貴女の――」
“仕業なのか?”と言いきる前に、彼女の背後の光景に目が走った。
 人がいる。燭台を背に三つの人影がある。アーリドは目一杯の警戒しながら見据え、そして固い息を突いた。
「なぜ、貴方達が? 老シャイク殿、それに……イナブ家当主のアミール殿、ハラ教区の教区司祭殿? ――ここはどこだ?」
 眩い燭台の光が照らし出すのは、剥き出しの石壁の四角い、狭い空間だった。ゴツゴツとした壁面のいたる所にはめ込まれた石板の墓碑、骸骨頭の浮彫、それに独特のすえた空気の臭いと湿気から、間違えようが無かった。自分は今、どこかの地下の死の場所に連れ込まれている。
「納骨堂?」
「聖ジャミア廃堂の地下墓所ですよ。ようこそ。アーリド殿」
 大柄な筋骨を持つイナブ豪商の太い声が響き、ミーナール為政の要人達は深々と頭を下げたのであった。
「強引な招待方法には、容赦下さい。誰にも気づかれることなく、御屋敷の人にも見られること無く、早急に貴方一人を呼び出したかったので、この様な手法になりました」
「私が言ったの。拉致してしまえって。最初はうちの男達がワリド邸に忍び込む手筈だったんだけれどね。――驚いたわ。こんな夜に平気で家を出て、独りで呑気にふらつくなんて、信じられない馬鹿だわ。貴方を恨む人間は山ほどいて、いつ襲われてもおかしくないっていうのに」
「それで。貴方達は何を考えているんだ?」
 真っ向の問いに真っ向からサスキアは答えた。
「エウジスを潰すわよ」
「――。潰す……」
“死”。即座にアーリドの語調が速まった。
「エウジスに何をする気なんだ? 彼をどうしたいんだ!」
 サスキアも即座に察し、疑心を示した。
「今夜もまた何かあったわね、そうでしょう? アーリド。まさかエウジスに会ったんじゃないでしょうね?」
「教えてくれ、今、何を企んでいる」
「先に言いなさいよ、今夜エウジスに会ったの? 会ってまた言いように突け込まれたの? 今度は何を要求されたのよっ」
「まず先に教えてくれ! 一体エウジスをどうする気だ、まさか本気で――」
「今度はミーナールを売り渡す契約でも交わしたの? 恥さらし!」
「言え! 何を企てているんだ、君たちは!」
「ファーリス王国を呼び入れます」
 シャイクの冷静な声が響いた。
 アーリドは振り向く。今日という一日中に散々に翻弄され続けもう充分だと自覚しているのに、それでもまた己が動揺しているのが判る。
「どういう意味だ。シャイク殿」
「私達は、ファーリス王国に密使を送り、ファーリス王にミーナールへの軍船派遣を依頼することを考えています」
「大国・ファーリスの軍船を呼び入れるって……。それがどんな事態を意味するのか、判っているのか?」
 三人の男と一人の女は皆、答えない。皆、じっと自分を見ているだけだ。だからまたアーリドが言わなければならない。
「完全に、宗主国ルツへの造反だ。即座にルツ王が軍事行動を起こすぞ」
 誰が答えるんだ? なぜ誰も答えない?
「まさかそれをファーリスの軍船を使って、武力で駆逐する気なのか? それこそ厄災を呼び込むぞ。今度はファーリスが宗主ヅラをしてミーナールに支配を敷き始めるぞ。
 二つの大国を両天秤において牽制させ合うのは、決して手を付けてはならない外交の禁じ手だ。赤子でも知っている鉄則だ」
 なぜ誰も答えないんだ? なぜ無言で自分を見続けるだけなんだ?
「その手法は、ミーナールを救わない。絶対に。
 ミーナールを追いつめるだけだ。先が見えている。皆も判っているはずだ。絶対に手を付けては――そんな事をしたら……」
 見つめてばかりいるなっ、誰か答えろ!
 ようやく、狭い空間の中にシャイクの低い声が響いた。
「ならば、どうすればよろしいと貴方は考えますか、アーリド殿?」
「禁断の箱だけは、決して開けるな」
「それでは問題は解決しない。すでに御自覚されている通り」
「――」
「問題は、現実です。今、私達の目の前にある現実からは、神を畏れることなしに未来を予測する事ができます。
今後、エウジスは確実に、第二次・第三次とルツ兵部隊を呼び寄せます。圧力をかけ、着実にミーナールの自治を剥ぎ取っていきます。そして私達には、なんらの抵抗の術も有りません。
 この未来に比べれば、ファーリス国に居座られることの方がよほど傷が浅い。ファーリス国はミーナールの国情の委細にまでは精通していません。また伝統的に、外交政策には疎い。つまり、我々の外交手腕を駆使すれば、事後に優位に立った関係を構築する余地が充分にあります」
「――」
「問題は目の前の現実だけです。後は選択です。
 このまま、エウジネスに思うままを進ませるか。それとも、外部から力を呼び込んでエウジネスを阻止するか」
“ミーナールをとるか。エウジネスをとるか”
 やはりどうあがいても、結論はそれなのか?
「他に、採れる方法は無いのか?」
「評議会はいつまでも強硬派と穏健派とで紛糾し続けるだけです。もはや感情論に至ってしまい、決定的な決議は採れないでしょう」
「今ここにいる貴方達は、評議会の代表という訳では無いのか……」
「真夜中の納骨堂で議事を張ろうなんて、アーリド殿、評議会の真っ当な思考の連中ならば思いつきませんよ」
 口挟んだイナブの野太い声は、そのまま大声の笑いに変わった。
「私がイナブ殿とハラ教区長、そしてサスキア嬢の御三方にのみ声をかけ、今回の密議に加わっていただきました。当初は貴方にも秘密にしようかと思いましたが、それはさすがに独断に過ぎるとサスキア嬢に反対をされまして」
「どうせ私に『今、何でここにいるんだ?』って思ってるんでしょう?
 私の親父はファーリス宮廷の高官や豪族達に顔が効くのよ。加えて私は余所者だから目立たずに動けるし。さらに家の郎党達には色々な汚れ仕事も任せられるし。何より私は、ミーナールを愛しているし」
「私達は皆、ミーナールを愛しています。その為に今夜、集まりました」
 シャイクがアーリドを見た。見ながら、現実を告げた。
「長年にわたり、ぬるま湯の心地よさに甘んじてきてしまいました。平和が未来永劫続くものと、心のどこかで信じ切っていました。エウジスの様な野心家が一人登場するだけでたやすく崩壊するものを信じ込んでいたなど、悔やんでも悔やみきれない怠慢です。
 今、私達がやるべきは、どのような手法を取ってでも自らの力でミーナールの自治独立を回復させることです。――違いますか。アーリド殿」
「……。違わない」
「禁断の箱を開けます。御同意を」
「――」
 現実の、何と単純に定められていることか。独りよがりの懊悩とは程遠いことか。
“止めろ、駄目だ、ミーナールに取り返しのつかない事態を招くぞ”
 解っている。しかしどうあがいても現実は、ミーナールをとるか・エウジネスをとるかを迫って来るのだから。
“エウジネスを、殺しなさい”
 それだけは、嫌だ。それを選択するぐらいならば、危険の尾を踏むことに耐えられるはずだ。だから、
「やろう」
 思いの外簡単に、アーリドは口に出来たのであった。
「有難うございます。早速、ファーリスへの密使派遣の詳細に取り掛かりましょう」
 誰もが感慨など示さなかった。ただ即座に箱を開くための密議に移った。 
 ……
 時間が進む。
 見えない天上では、星が動いてゆく。時間が進み、もう夜明けは近いはずだ。時間だけが感情無く進んでゆく。なのに今、骸骨の紋様が浮き立つ地下の墓所でアーリドは戸惑っていた。サスキアが怒っていた。シャイクが現実を告げていた。……
 話し合うべきことは幾らでもあった。だというのに、それを上回って時間は走るように進んでいた。地下納骨堂の中で饐えた空気は重くよどみ、苛立ちと疲労ばかりが増していった。
「そんな生半可な計画ではすぐに漏れるわっ、阿呆なの? 駄目よっ」
 もう何度目だ、またサスキアがアーリドへ怒鳴った。
「絶対に認められない。計画に加担する者が一人増える度に、それだけ裏切者が出る危険も増すのよ、そんな単純な事も判らないの?」
「しかし、実行者に全て貴女の家の郎党で固めるのは……。我が家の者も信用がおけるのだし、第一、異邦人の貴女にそこまでの負担をかけるわけには――」
「あんたのそういう気遣いに腹が立つのよっ。誠意と礼節を通せば何でも乗り越えられるって訳? そんな御上品でミーナールを救える訳? はっ!」
 サスキアの鋭い視線が睨み付けてくる。およそ過日に“貴方の事が好き”と言ってきた状況から程遠い眼だ。文句無しに端麗な顔立ちがなのに今、この場の誰よりも激しく己の意志と感情を剥き出している。アーリドを真っ向から責め立てる。
 その怒りの理由は明快だ。――彼女はミーナールを愛しているから。アーリドを愛しているから。
「怒りたければ怒りなさいよっ。どんな些細な失態だろうと、事が露見したら私達は全員揃って破滅よ! 平和なお坊ちゃん育ちが!」
 しかし、今のアーリドにそこまでを理解出来るはずなかった。
「いい加減に私に怒鳴るのは止めてくれっ、サスキア!」
彼もまた怒鳴った。ミーナールとエウジス。緊張と疲労と睡眠不足。今日一日思考と感情は精一杯で、神経が焼き切れそうだった。
 狭い地下墓所で空気はいよいよ淀む。臭気と湿気が肌にまとわりつく。目の前でサスキアが細い眉を吊り上げ、一層に怒りを剥き出している。今にもアーリドに怒鳴り掛からん眼で睨んでいる。そして、
「アーリド」
 サスキアが真っすぐに一歩近づいてきた。
「何を、まだ怒鳴り足りないのかっ」
「黙って」
「え?」
 眼が、引き締まっている。視線はアーリドの右肩越しの後方へと移っている。後方の、ずらり壁にはめられた墓碑板の間にある出入口の扉を見ている。
「何を? 何をサスキ――」
 その時。
 小さな物音がアーリドの耳にも聞こえた。
(外に誰かいる!)
 サスキアの眼が引き締められた。即座に、物音を立てずに木製の扉へと歩み出した。続き、イナブも同様に動き出す。
 また、木扉の向こう側で僅かの物音が響いた。確かにそこに誰かいる。扉の許へと二人は達する。
 沈黙の中に、ハラ教区司祭長の漏らした小さな聖句が響いた。サスキアとイナブは木扉の脇、墓碑板の壁に背を付けるようにして立ち構えた。そしてイナブが扉の把手を左手で掴む。二人は目配せをする。声を立てずに数を数える。
 三――二――一――、
 扉を引き開けた!
「誰だ!」
 闇の通廊に光が広がった。
「お前は誰だっ」
 逃げようとはしない。振り上げた片腕で光を遮っている。その腕がゆっくりと降ろされた時、眩しそうに細められた眼が自分を見た。見慣れた深い闇色の眼だ。
「なぜ、貴方が……」
 アーリドの声が、純粋な驚きを吐いた。
「どうしてここにいるんだ、カーイ? 私の後を付けて来ていたのか?」
「はい。勿論」
「――」
「まさかあのまま貴方に一人で夜道をたどらせる訳にはいかないですから。
 明日の朝になって、貴方の身体が桟橋の脇で溺死で見つかったり、北の葡萄畑の中で泥塗れで冷たくなっていたり、そんな光景を私は見たくありません」
「――。私の後を付けて、護ってくれたのか」
 カーイは答えず、ただいつも通りの落ち着いた眼でアーリドを見るだけだった。こんな時だというのに彼に、心から安堵感を与えてくれた。
 だが他の者はそうは思わなかった。イナブが即座にカーイの肩を掴み、中に引きずり入れる。再び扉が閉められる音と、カーイが室内の椅子に座らされたのはほとんど同時だった。
「どこまでを聞いた」
 イナブの鋭い言に、怒りが込められている。
「答えろ、この異端のカニサ修道士がっ」
「カニサ修道会は異端ではありません。確かに私達の会の活動は世間の人々とは没交渉で、故に時として非正統の信仰ではとの誹謗を受け――」
「黙れっ、苛立たせるな、扉の向こうでどこまでを聞いていたんだっ」
「全部を聞きました」
と答えたと同時、サスキアとイナブが叫んだ。
「殺すべきだ!」
「駄目だ!」
 反射的にアーリドも叫ぶ。
「カーイは信用できるっ、私の昔からの親友だ!」
「エウジスの親友でもあるんでしょ! 昔からの親友だからあんたを裏切らないっていうなら、この男がエウジスに加担してもおかしくないって事でしょっ、そんな危険を負えるものか! この場ですぐに殺すべきよ!」
「駄目だっ、そんな事をしたら私は即座に今回の計画から降りる!」
 その途端、右肩に圧力が加わった。振り向いた視界の中、自分の肩を力任せに掴み握ったイナブの強い怒りの形相が迫っていた。
「アーリド殿。これだけ話し合ったのに貴方はまだ理解していないんだな」
「――。手を放してくれ」
「今さら降りる事など許されない。この計画は、危険な賭けだ。失敗すればミーナールの将来は勿論、我々全員も破滅だ。お遊びでは無い」
「本当にお気楽でお気楽で反吐が出るわ。この期に及んでも平気で友情やら信頼やらを持して来るなんてね」
「アーリド殿。イナブ殿とサスキア嬢の言葉は真実です。今話し合っている私達の計画には、街全体の命運がかかっています。万が一にも失敗は許されません。水一滴も漏らすわけにはいきません」
 初めてハラ教区司祭が、気弱な小声で訴えた。
「もう一度だけ言わせて下さい。ミーナールという街と、その住民全ての命運が、私達の上にかかっています」
「……。分かっている。済まなかった。
でも、まさか、本当に、カーイに手を下そうというのでは無いだろうな、まさか本当にそんな恐ろしい事を考えている訳では――」
 ところが恐ろしい事に、狭い地下墓所内は静寂となったのだ。
 つまり、ここでもまたアーリドは選択を強いられる事になったのだ。
“ミーナールを取るか、カーイを取るか”
 ミーナール……カーイ……そしてエウジス……。
 地の底の静寂は冷えていく。揺れる光の中、ミーナールを思う四者は強く責め立てるように自分を見据えてくる。
 その向こう側で、カーイだけが静かだった。
 カーイだけが常の通り、不思議な程に落ち着き払っていた。己の殺害の可否が飛び交っているこの場でどうして静寂を保っていられるんだと、アーリドに疑問を思わせた。
 それはつまり、何が有っても自分が絶対に助命してくれると、救済してくれるという信頼の表明なのか? エウジスを殺せと言った直後に?
 本当にそういうことなのか? それだけなのか? この異質な態度は? それとも……。
 この男、本当に何を考えているんだ? 何者なのだ? ――と、アーリドは思った。少しだけ。おかしいと。
「アーリド。大丈夫ですか」
 カーイが笑った。
「どうやらまた、選択を強いられてしまいましたね。気の毒に。それで、私を殺しますか」
「止めろっ。そんな言い方をするなっ。貴方を殺したりはしない」
「本当に?」
「絶対に殺させない、神の名にかけてさせない!」
 その一言はアーリドにとっての真実であった。だが同時に、他の三人に苛立った溜息を吐かせるものであった。
 ……天上では、そろそろ星月夜が消えて、朝になるのだろうか?
 すえた臭いが鼻に突く地下の場で、アーリドはふと思った。
今ごろエウジスは何をしているのだろうか?

 同じ頃。
 エウジスは、窓の外を見ていた。太守館の角塔の最上階から見る空は、そろそろ星が消えてゆき、白く色褪せ始めていた。
 遠い彼方、豊かなミーナールの港の向こうでは、水平線が色を帯び出している。少しずつ、着実に、透明な青の色をたたえ始めてようとしている。
 豊穣の街ミーナール。
 神に愛された街ミーナール。
 エウジスは動かない。何も言わない。無言で、固い無表情で、窓の外を見つめ続けていた。

・        ・         ・

 長い夜が終わり、光に満ちた朝が訪れたその瞬間から、ミーナールには凄まじい時間が始まった。
 ワリド家のアーリド、そして街の全体は、激流のような現実に流されることになった。流され、振り回され、駆けずり回され、疲弊と怒りの日々が始まった。

 ……評議会は、もはや壮絶な怒声の場となった。
 ルツへの対抗案の討議に議場は対立し、分裂した。耳に耐え難い罵詈雑言が飛び交い、誰もが誰もを罵り合うようになった。普段ならば他者の意見を充分に受け入れる評議員達が一転、激昂のままに個人攻撃までもするまでになっていた。その中心で、
「なぜ黙っている! このまま議事進行を放っておくのかっ、貴方はどう思っているんだっ、なぜ黙ったまま逃げているんだ!」
 アーリドもまたなじられ続けた。アーリドの表情はいよいよ強張り、追い詰められていった。
 ……住民たちの不満も、日増しに悪化していった。
 評議館前のムワサト広場には事あるごとに群衆が殺到し、大声で騒ぎ、その度にルツ兵の部隊が駆け付けてこれを散らした。
「こんな事をして許されると思っているのか! 評議員どもが! ルツ野郎が!」
広場でも港でも太守館前でも、住民の怒りは日を追うごとに急速に高まっていった。もはやこのままで済むはずがないとは、赤子の目にすら明らかであった。

 ――数日後。
 ムワサト広場を居丈高に横切っていたルツ兵十数人の列に、誰かが投石した。
 たちどころにルツ語の号令が響き渡った。ミーナールの住民たちの悲鳴と怒声が天を突き、大混乱となった。
 ――さらに、数日後。
 桟橋で働く若い人夫の一人が“エウジスを殺せっ”と太守館に向かって叫びながら投石した。
 間髪置かずに飛び出して来た太守館の衛兵と集まってきた群衆の間に散々の怒声と悲鳴が飛び交い、挙句に人夫はルツ兵達に取り押さえられた。今回の騒動での最初の逮捕者となった。

 全てが手詰まりとなった。
 事態は悪化の一途だった。ミーナールの内政は一触即発の段階に達していた。アーリドの神経は、焼き切れそうであった。
 そしてこの間ずっと、エウジスは太守館に閉じこもってしまった。全く姿を見せなくなってしまった。
 暑く眩い陽射しと、突き抜ける空と海の青と、美しい盛夏だけが、ゆっくりとミーナールの上を進んで行った……。




9・ 血の色、赤い色


 それもまた、神に愛でられた真夏の一日だった。
 今日もまた、真っ青に突き抜けた空の下だった。
 ……
 高い塀に沿った真っ直ぐの道を、修道士カーイは歩いていた。
 カーイは独りだった。いつもの通り、長い髪を一つに束ね、薄い灰色の簡素な長衣を着ていた。右手に小さな籠をぶら下げて、速くも遅くもない歩調で人けの無い道を歩んでいた。
 午睡の時に誰もが一度家に戻り、ミーナールは穏やかな静けさに包まれている。午後を回った暑い陽射しの中、小鳥のさえずりは少ない。乾いた海風が時折に抜けてゆく。
 今だけは神に愛された街に相応しい平和な静けさに包まれている。
 と。カーイは足を止めた。ちらりと漆黒の眼が動いた。
 ちょうど、ワリド邸の正門の前であった。このところの不穏な世情に鑑み、門扉は固く閉じている。日陰に立つ四人の衛兵が、胡散臭そうにこちらを見ている。
 迷ったのか?
 カーイはこのまま、何の前触れもなくアーリドの許を訪ねようとでも思ったのか?
(久しぶりですね。アーリド。私はまた必要の無い時に来てしまいましたか?)
 しかし、そうはならなかった。カーイの歩みはすぐに再開された。静かで穏やかな眼が再び、前方を見据えた。
 目指しているのは、ここではない。
 あちら。太守館の、角塔の最上階。そこに頑なに閉じこもっている者。
 すでに前方の太守館の脇門では、数人の衛兵達が近づいてくる彼を凝視していた。
 ……
 いきなり発せられた声には、素直な驚きが込められていた。
「まさかとは思ったが。本当にここに来たんだ」
「ええ。こんにちは。久しぶりです」
 見つめてくるエウジスに対して、カーイはそう返した。
「今日も良い夏の日ですね」
 ルツ太守の執務室は、今日も同じだった。丸切り何事も無かったかのように、明るい真夏の光に満たされ、涼しい風が通り抜けていた。今日も常通り、中央の執務卓の上には膨大な物やら書類やらが積まれている。
 その膨大な山の向こう側に、椅子に腰かけたエウジスはいた。少しだけ顔が痩せ、少しだけ戸惑った表情のエウジスは相手を見据えて、そして一つだけ長い息を突いた。
「驚いた。例によって突然やってくるんだな。用の無い時ばかり」
「そう言うと思いました」
 カーイは入室すると、執務卓の前で立ち止まった。穏やかな微笑みをエウジネスに示した。
 さて。エウジスはどう反応するだろう。
 不快を見せるかな。それとも。
 エウジスは、椅子から立ち上がった。思いのほかに小柄に、少年じみて見える全身が、卓を大きく回ってこちらに進み出て来た。
 追い返すのかな。それとも。
「良く来てくれた」
 腕を広げて長年の友を抱擁したのであった。
 段階が進んだ。
 ……
 エウジスは扉口にいた衛兵やら文官やらを追い払うと、自らの手で執務室の扉を閉じる。親友と二人きりの空間を作るや、友に執務卓の向かいの椅子への着席を促した。
「例によって私は、貴方の執務の邪魔をしてしまったようですね。違いますか?」
 エウジスは面白くもなさそうな笑顔と共に返した。
「邪魔ならいつだって受けているさ。本当に、何一つ上手くいかない。腹立たしい」
「それは逆説の冗句ですか?」
「何の事だ?」
「上手くいかないどころでは無いでしょう? 今や世の中は、貴方の掌の上なのでは無いですか? 世の中とまでは言わなくても、少なくともミーナール為政は確実に貴方の掌の上なのでは?」
「――何の事だ」
「おかげでアーリドの方は追い詰められて、疲弊し切っていますよ」
「――」
 沈黙が生じたのは、ほんの僅かであった。
 カーイの目の前で、エウジスの顔が随分と細い。もとより鋭かった淡色の眼の中には今、生来の意志だけではなく、依怙地じみたものがある。アーリドと同様に余裕を失った、追い詰められた者の印象をうかがわせる。
「わざわざ嫌味を言うために来たのか、カーイ?」
「いいえ」
「アーリドとは最近会ったのか?」
「いいえ。手紙は何度か受け取りましたが、直接会ったのは随分前です。確かルツ軍船が上陸して大騒ぎになったあの日です。あの夜に会いました。
気の毒なくらいに憔悴していましたよ。青天の霹靂となったあの状況を把握しようと、必死になっていました。何としても状況を落ち着かせようと本当に困惑し、本当に疲弊し切っていました」
「……」
「アーリドのそんな様が、目に浮かぶでしょう?」
「そうだな。浮かぶ。奴は昔からそうだ。判断にのろい。咄嗟の対処が出来ない」
「貴方の本心が理解できないと、なぜ自分に何も知らせること無く、信頼に背いてまでこんな事態を作り上げたのかと、泣きだしそうな顔でした」
 今度こそ、どんな反応をするかな?
 今度こそカーイは目を凝らした。しかし意外にもエウジスは不愉快を剥きだす事も、後ろめたさに目をそらす事も無かった。ただ、
「だろうな、アーリドなら」
と、静かな一言だけを述べた。
「彼を苛む結果については、覚悟の上だったんですか?」
「憎まれるのを恐れていたって物事は進まないだろう? いくら親友だからって一々気遣っていたら何も出来ない。
それに私のやっている事は、最終的にはミーナールの発展につながる。今、目先ばかりを見て騒ぎ立てている奴らも、程なく私の意図を理解するはずだ。アーリドだって、すぐに納得する」
「だから今は彼を傷つけても構わないと?」
「勿論だ」
「本当に迷いの一片も無いんですね。アーリドとは対照的だ。見事です。エウジス。私はそんな貴方が好きです」
 カーイが口元を上げる。ちょうど窓から冷たい風が吹き込んだ瞬間だった。
「……で? だから今日は何の用で来たんだ? カーイ」
「ああ、済みません。まだ言ってなかったですね。
 実は、ミーナールを離れることになりました。この後すぐに街を出て、おそらくはもう戻りません。その別れを告げるための訪問です」
 途端、エウジネスの眉が上がった。
「なんの用事なんだ? どうしても街を離れなければならないのか?」
「修道会の方から申し付けられた重要な件なので、断ることは出来ません。戻れないだろうことには私も納得しています。でも。同時に――。
それ以上に、ミーナールに居て貴方とアーリドとの対立する様をこれ以上見たくないという理由もありますけれどね」
 エウジスの顔が当惑に歪むのを、カーイの眼が冷ややかに笑みをもらすのを、二人は互いに目の当たりにした。

 その頃。
 エウジスの席の背後にある窓の、遙かに下方。
 つい先程カーイがたどった壁沿いの道を、今はサスキアが早足で、逆方向にたどっていた。
 鮮やかな赤色の服が、高い日差しに映えている。しっかりした造作の顔立ちが一層に強く、硬く引き締まっている。その顔は脇目を振ることも無く、前方を見ている。目指しているのは、ワリド邸の門だ。
 そこへ到着した途端、彼女は館の番兵にも護衛の郎党にも声もかけず、あっという間に中へ消えていってしまった。
 ここまでをじっと見ていたのは、たまたま午睡を早目に切り上げて歩んでいた指物職人の二人組であった。
「おい。今のを見たかよ。いい気なもんだな。ワリド家の当主はこのご時世にも、のほほんと女と逢引だとよ」
 片方の男が、荷袋を担いだままいかにも軽蔑を込めて言った。
「噂じゃ、かなり進んでるらしいぜ。しょっちゅう二人でいる姿が見られてるらしい」
「はっ。外国人の、しかも海賊女とかよっ」
「まあでも、この前までのルツ王家の小娘相手に比べれば、少しは街に気遣っているんじゃないのか?」
「どっちにしても最悪だな。ワリドの無能な餓鬼が」
 指物職人達は、下卑た不快の笑い顔を浮かべた。
 ……
 そしてワリド邸内へと入った途端、一転、サスキアは怒鳴った。
「アーリドはどこに居るの!」
 周りにいた館の使用人達が皆、びくりと注目する。
「居るんでしょう? どこ、早くっ」
 中庭の真ん中でもう一度叫ぶ。慌てて一人の賄い女が飛び出してくるや一礼の後に、建物の右上を指差した。
 サスキアは即座に走り出した。この数週間にわたって何度も通い勝手を知った館内を、素早い足で走る。片手で服の裾を握り、一気に階段を駆け上がっていく。目指すのは三階の南東の角部屋。自邸の庭と大路の側の両方が良く見通せる、ミーナールの清涼な風の抜ける、アーリドが好んで使う居間。早足で一気にそこまで駆けつけるや、
「アーリド!」
 相手は振り向いた。弾かれた様に椅子から立ち上がった。
「奴らが来たわよ、アーリドっ」

「それも、私の知ったことじゃないさ」
 エウジスは言い切った。
 成程。確かに神の真理に限りなく近い言葉ではあるなと、カーイは思った。
「君の事だ、戻って来ないとは言っておいても、どうせまた気を変えて急に戻ってきたりするんだろう?」
「その時には是非“また必要ない時に”と言って歓迎して下さい。その時までにミーナールの全てが落ち着いていて、元のように神に愛される地になっている事を遠地から祈っています。
 何よりも、貴方とアーリドの関係も元の通りに修復されている事を、心から神に祈っています」
「私こそがそれを一番願っているだけれどな。確かにそうなると信じているが」
「確かに、明日はどうなっているんでしょうね。天上の神のみぞが知る。
 ――エウジス。よろしければそれを少し貰えますか?」
 カーイが右手で執務卓の脇にある棚を、そこに置いてあるガラスの瓶を指さした。
「葡萄酒?」
 何となく、意外だ。
 エウジスはそう感じたはずだ。この男が自分から物を求めるなんて。ましてや葡萄酒なんて。だが。
「ミーナールの葡萄酒も、これが最後になるかもしれません。飲み納めです」
 にっこりと、子供のように笑ったのだ。
 虚を突かれた笑顔にエウジスは驚き、そして思わずつられた。不覚にも、自分までもがまた苦笑を作ってしまったなんて。
 ……望みのまま、エウジスが棚から葡萄酒と上質な赤色のガラス杯を取り出す。執務卓の上に並べ、何も言わずに赤葡萄酒を杯へと注いでいく。
 明るい光と乾いた風が、室内に満ちていた。親友同士は互いを前に杯を持ち上げた。
「カーイ。良い旅を。いつの日かの再会を約束して」
「貴方の素晴らしい成功を願って」
 甘い上質の芳香が、ゆっくりと室内に香り始めた。部屋の中は不思議な穏やかさをたたえ始めた。
 窓の外では、そろそろミーナールが午睡から目覚める頃合いだ。もう少しすれば物々しく人々が行きかい始めるだろう。街に不穏で不快な緊張感が戻る直前の、静かな間合いであった。

 アーリドは反射的に、背中側の窓の外を見た。
 その瞬間、夏の光が目を射抜き、呼吸半分の後に戻ってきた視界の中で、見慣れた角塔が重厚な影を形作っていた。
「たった今、密使が乗った船が港に到着した。ファーリス王はミーナールへの軍船派遣に同意をしたわ」
 サスキアの黒く鋭い眼が、現実としての緊迫感を告げる。
「もう後戻りは出来ない。動き出したわよ」
「――」
「アーリド、聞いているの?」
“厄災の箱が開いてゆく”
「アーリドっ」
「聞いている。それで。ファーリスの軍船はいつ到着できるんだ?」
「今、ダキア港に停泊している船を派遣するみたいよ。だとしたら、今日ミーナールから出港要請を送ったとしてその到着には二日、軍船が即座に東風に乗ったとして到着は最短で一日半だから――、
 アーリドっ。だから止めてよ、その顔! 今さら怯えてどうするのよっ。私達はもうミーナールの歴史を変えるところまで来ているのよ!」
「――。分かってる。ごめん」
 振り返り、素直に謝った。
 目の前ではサスキアがじっと、厳しい眼で自分を見ている。これはまた怒鳴られるなと思う。と。
 彼女は立ち上がると、アーリドの右腕を掴んだ。そのまま相手を、部屋の中央へと連れてゆく。そこにある、緑色の毛織物が敷かれた長椅子へと座らせる。自分もそのすぐ横に腰掛ける。
 大きな、印象的な眼で真っ直ぐと見据え、静かに告げた。
「くたばりやがれ」
「……」
「エウジスもミーナールも両方を救える魔法でも思いついた?」
「……。ごめん」
 何か言いたいという感情があった。だが今はそれを言葉に変える事が出来なかった。

 角塔の最上階には、
 そこには今、ひりひりとした空気は無かった。有るのは光と、涼風と、小鳥の声と、葡萄酒の芳香だった。
 緩い、ゆったりとした時が漂っている。少しずつ、エウジスの心が安らいでゆく。カーイは他愛も無い話をゆっくりと、穏やかに続けている。
 カーイは決してミーナールやアーリドについては触れない。下らない世間の冗談話や、仕入ればかりの外国の噂話。古い書物から引き出した頓智話、まだ彼らが幸福だった頃の思い出話などを、楽しく話していく。
「ザグール人の粗野ぶりについて、もっと聞きたいですか? あれで自分達は美意識が高い気でいるんですから、恐ろしい。ならば次は、彼らの女の扱いについて面白い話を教えましょう」
 エウジスは笑う。カーイの話は軽い。面白い。葡萄酒の味と共に心から味わえる。長い間忘れていた、物を楽しむという事実を味あわせてくれる。
「良かった。もっと笑って下さい。ずっと貴方が余裕を欠いた顔をしているのが気になっていましたから。どうぞ気持ち良くなって下さい。さあ。葡萄酒をもう少しどうぞ。
 ああ、そうだ。実は私も一本持って来ていますよ。昨年、修道会の畑で作った品です。なかなか良い出来ですよ。かなり強めの熟成でね」
 カーイは編み籠から葡萄酒の瓶を取り出すと、エウジスの杯へと注ぎ足した。
 注がれていく赤い色を、エウジスの眼が注視している。無言で見ている。
 じっと、見ている。施策とか展望とか対立とか背信とか、あとは意識の一番深い所に固く閉ざしている罪悪感とか、その様なもろもろが全て葡萄酒の赤い色の中に溶解していく。
 少なくとも今は、体の力を緩める事が出来る。現実は何も変わらないが、少なくとも今は心地が良い。窓から抜けて来る風が、小鳥の声が心地良い。
「カーイ」
 友は、笑んでいる。全てが幸せだった日々を思い出させるその顔を見つめ、エウジスは自らも笑む。半ば酔った、少し眠そうな笑顔で、カーイを見る。
「カーイ」
「何ですか。エウジス?」
「行かないでくれ」
「――。出来ません」
 緩い風。一匹だけの小鳥の声。室内が、涼しい。
「空腹に葡萄酒を飲んでしまったようですね。しかも疲れと睡眠の足りなさが溜まっていたようだ」
「ならば、せめて、出発をもう少し遅らせてくれ」
「それも、出来ません」
「……」
「貴方は独りになりますね」
「……。独りなのか」
「独りでこの先も、自身の意志と感情を支配する事が出来ますか?」
「……」
 エウジスは答えなかった。口元を引き上げた安っぽい笑みで下手な防衛線を張っただけだった。
「そうですね。まあ、葡萄酒でも飲む事でしょうね。物事がうまく行かないと感じた時や、物を考えたく無い時には」
「随分安っぽいな。まさか君が?」
「ええ。でも実際に私もやっていますから」
「それこそ嘘臭い。君でも苛立つ事があるのか?」
「ええ」
「いやっ、あるものかっ、君が、苛立つなんて……、上手く行かなくて、何かをこう、苛立ってなんて……!」
「そんな事はありません。悩み苦しむことならば私にも多くあり――」
「嘘だ! 嘘をつくなっ、いつだって私を見下して、子供扱いをして――所詮、力量不足だと、器が小さいと、いつも、いつだって涼しい顔で……私を見下し――」
「そんな事はありません」
「私を子供と見下し――、いつでも上段に立って軽蔑していたくせに。それなのにアーリドは……、そう、比べているんだろう? 私とアーリドを。奴の事は私と違うと見ているんだろう? 私と違って奴の方は力量を備えていて……」
「エウジス。今、貴方が何を望んでいるかは知りませんが、貴方は貴方が望む通りにすればいい。私は止めません。評価も比較もしません。私はただ、貴方が安らかな心を保ち、己の成すべきことを成すのを祈るだけです。――そして、貴方が健康である事を」
「……」
 その言葉に、今度こそエウジスの心は崩されていく。
「貴方の決めた事を、貴方が行う。それを誰も否定しません」
強い葡萄酒に、心の防衛を弱められてしまう。エウジスの顔がついに、子供のような不安をさらしてしまう。言ってしまう。
「頼む。行かないでくれ」
「出来ません。済みません」
「頼む。お願いだ。今は行かないでくれ」
“怖いんだ”
 そう続けて言いたくて、だがエウジスは言えない。どうしても。
 カーイは微笑んでいる。その笑顔にエウジスは穏やかな安らぎを、同時に冷えたものを感じる。なぜ? なにが?
怖いのか?
「エウジス。怖いのですか?」
「……。え?」
「気鬱ですか? もし気鬱が続きそうなら、良い物がありますよ」
「何……?」
 カーイがにっこりと、優しく笑んだ。
「数年前にエリン島まで旅して来た会士が、苗を持ち帰りました。それが修道会の薬草園に根付いたんですよ」
「だから、何?」
「薬です。ごく穏やかな効能です。気鬱や悪夢が続く時、眠くても眠れない夜が続く時に飲むと、心の安定を取り戻してくれますよ」
「……」
 持参した編み籠の底から取り出したのは、小さな、粗末な、素焼きの小瓶だった。
「今、少し試してみますか?」
 カーイはが微笑みながら小さな栓を引き開けた。不思議な、ツンと鼻を突く匂いが空気に混ざった。
「匂いが、強い」
「ええ。確かに。――貴方のその杯をどうぞ。葡萄酒の中に混ぜて飲んで下さい。
 私も昨夜飲みましたよ。御陰でよく眠れました」
 言いながらカーイは相手の杯を引き寄せる。その口に、小瓶を傾けた。
 とろりとした黄色い液体が数滴、赤い葡萄酒の中に溶け消えていった。
「少しだけ眠くなるかもしれませんが。すぐに気持ちが楽になります」
「本当に? 本当に、楽になるのかなぁ」
「ええ」
 杯を前へと、押し出した。
 呼吸二回の沈黙の後、エウジスはようやく杯を掴んだ。鼻のところでもう一度、匂いを確かめた。眠そうに、子供のように笑った。
「本当に――本当に?」
「ええ。本当に。必ず楽になります」
 カーイもまた静かな、柔らかな笑みを作った。

 素早い歩調でサスキアはワリド邸の階段を下ってゆく。
 それに二段分遅れてアーリドも駆け下りていく。
「密使は今頃通関中よ。旅客に化けているから問題は無いだろうけれど、でもやはり税関は早々に通してしまいたいから。急いで。イナブもそっちに向かっているはず」
「――」
「アーリド」
「――分かってる。聞いてる」
 こんな時だというのに、アーリドの神経はぴりぴりと不安に駆られている。こんな時だというのに、サスキアのドレスの裾の、その鮮やかな赤色が妙に目に付く。その色が神経に触る。嫌な不穏感を掻き立てる。
 赤。――高揚の――興奮の――暴力の。
 赤。――血の。
「サスキア。ちょっと待ってくれ」
 彼女は足を止めない。素早く階段の踊り場まで達すると、そのまま向きを変えて走り続ける。
「サスキア、待って。頼む」
 やっと振り向いた顔に、告げる。
「私が先に行くから」
 嫌なんだ。赤い色が視界に入るのが、何かとても嫌なんだ。
 アーリドは踊り場への二段を飛び降りる。肩を掴みサスキアを後方に――赤い色を後ろへと押しやった。
 赤。血。死。――嫌だ。エウジス。

 その時、エウジスの杯を持ち上げた手が止まった。
 カーイの微笑みも消えた。
 二人は同時に振り向き、部屋の扉口を見る。そこには太守の執務室にも平気で図々しく入って来られる唯一の人物が立っていた。
 レイミアは、素直な驚きを表して目を丸くしていた。
「どうしたの? 何か有ったの?」
 素晴らしい敏感ぶりだ。どうして空気の中の異質に勘づけるのだろうか。
「ねえカーイ、何か有ったの? 変な顔して」
「……。いえ。何も有りませんが」
「変な顔よ? それにどうしたの? 貴方が独りでここに来るなんて今まで一度も無かったのに、一体どうしたの? 何かあったの?」
 だというのに、素晴らしい直感だというのに、しかし無神経に何んにも気にしない。すぐに嬉しそうな顔に切り替わって入室してくるや、カーイの頬に柔らかな頬を押し当てた。
「来てくれて嬉しいわ、今日はどうしたの? でも本当に嬉しい。久しぶり、カーイ」
「本当に久しぶりですね、レイミア」
「でも聞いて。最近街のどこへも出られなくなっちゃったの。出ようとすると厳しく止められてしまうのよ、酷いでしょう?
 ねえ、カーイ。最近アーリドに会った? アーリドにも会いに行けなくなっちゃったから手紙を書くんだけれど、返事もくれないのよ。どういう事だと思う? 変よね? アーリドに会えないなんて、せっかくミーナールに戻ってきたのに意味がないわ。
 ねえ、貴方はいつ彼と会ったの?」
「私が最後に会ったのは、貴女と一緒になったあの夜です。その後、数通だけ手紙を受け取りましたが」
「手紙? 何が書いてあったの? 嫌だわ、何をしているんだろう、アーリド。会いたいのに」
 カーイを真っ直ぐに見つめながら、レイミアは思った通りを言葉にしていく。それは、あの夜も一緒だった。
“あのね、聞いて。秘密よ”
 あの夜も、彼女は笑いながら当然のように宣した。
“ずっと決めていたの。私はアーリドと結婚するの。そしてアーリドの子供を産むの。
 私達が結婚して二人の間に子供が生まれるなんて、本当に素敵じゃない?”
 あの夜、ミーナールの全てがひっくり返されてしまった夜でも、彼女は何のていらいも無く言った。世界の歪みなど無神経に拒絶して当然のように、全く気に留めない強さでそう言ったのだ。
 たった今も、レイミアは無垢な表情だ。その彼女を前に、エウジスは酔人独特の機嫌の良さで告げた。
「カーイと会えるのはこれが最後になるかもしれないぞ、レイミア。彼はこれからミーナールを出て、もう戻らないそうだから」
「え! 本当なの? カーイ、嘘でしょう?」
「申し訳ありません。本当です。修道会から重要な用件を預りました。外地に赴いて、おそらくはもう帰って来られないかと」
「そんな……! ねえ、アーリドには知らせたの?」
「いいえ。彼は今、様々な事情で忙殺されている様子です。残念ですが、別れを告げる機会は無さそうです」
「そんなの駄目よっ。後で知ることになったらアーリドは猛烈に悲しむわっ。
 ねえ、アーリドは今、隣のワリド邸にいるんじゃない? すぐにここに呼びましょうよ。 ねえエウジス、貴方とアーリドはずっと喧嘩してるみたいだけれど、そんな事やっていられないわよ。だってもう私達四人が揃えなくなっちゃうって事でしょう? 今すぐアーリドのところへ使いを出しましょうよっ」
 途端、エウジスは大きく声を上げて笑い出した。
「なによっ、笑わないでよっ。このままもう皆で会えなくなるなんて私は嫌よ、アーリドを呼ぶわよっ、いいわね!」
 エウジスの笑いが続く。およそ信じられなくて、笑いを止められない。
 本当に、この少女は混乱した現実を一瞬にして簡略化してしまうのだ。彼女にとって現実とは整然と進むもので、しかも恐れる物など何一つ含んでいないのだ。全くもって鮮やかとしか言いようの無い少女だ。
 誰かいないの! と、レイミアはもう通廊へと向かい呼び掛けていた。扉の外に控えていた側仕えの小僧に向かい真剣な顔で命じた。
「すぐにワリド邸へ行って、アーリドを呼んできて。カーイがここに来ているって言って」
 小僧の方がよほど世情を知っていた。露骨に驚き、困惑を見せつけ、本当に良いのですか? 本当に? を散々に繰り返し、それでも躊躇を隠し切れない顔をさらし、その果てようやく走っていったのであった。
 室内では、エウジネスがまだ笑い続けている。執務卓で頬杖を突き、そこの顔をのせて声を上げて笑い続けている。
「何よ、エウジス。酔ってるの?」
「さあね。本当にアーリドが来たら、何て言おうかと思ったらね。
 何を、何て言おうかって、向こうも私に何を言ってくるかなって思ったら……」
「酔っ払ってるのね。やだ。どれだけ葡萄酒を飲んだのよ? この部屋の中は随分お酒の匂いがするわよ。それに、何? ちょっとツンとする匂い……」
「匂いなら、これだよ」
 卓上に置かれていた素焼きの小瓶をエウジスは押し出した。
「カーイが持って来てくれた。気鬱を忘れさせて、楽しくなる薬なんだって」
「そんなに良い薬があるの?」
言うや、彼女はもう薬瓶を手に取り、好奇に目を輝かせていた。
「ねえ、どんな味なの?」
「これから飲むところ。この葡萄酒の杯の中にもう入れてある」
「美味しいの? 私も飲んでみたい」
「君は気鬱とは無縁だろう?」
「いいじゃない、面白そう。ねえ、ちょっと飲ませて」
と言った途端、エウジネスの前にあった杯に手を伸ばし取る。
「あ――」
 カーイが、呻きじみた小声を上げた。
「何?」
 振り向いたレイミアが、純粋に笑む。
 それを真っ向から受け、カーイの顔が不自然に歪む。
「飲ませてね」
 この瞬間、カーイが何かを言いかけ、しかし声は出ない。冷たい風と甲高い小鳥の声が窓を抜ける。
 赤いガラスの杯がレイミアの唇に運ばれた。

 二人が階段を降り切り中庭に達した正にその時、太守館の小僧も中庭へと踏み込んできた。両者ははからずも真っ向から鉢合わせる羽目になってしまった。
「あんた何? 邪魔よ!」
 一瞬、小僧はあんぐりと間抜け面をさらしてしまう。
「何見てんのよっ、邪魔って言ってるでしょう? 餓鬼!」
 とは言われても、驚くのは当然だろう。いきなりワリド邸の当主と出くわしてしまった事も。その当主の横に、派手な美女がいた事も。その美女の、美貌から程遠い激しい表情も汚い言葉も。
「何でどかないの! 何か用があるの!」
「あ……、いえ――。いえ、ルツ太守館のレイミア姫から言付けをお持ちして……、ワリド家の御当主に――」
「レイミアが? 私に?」
「是非すぐに太守の執務室にいらしてほしいそうです。今そちらには、修道士のカーイ僧が来訪中でして。太守もまみえて御歓談中です」
 え?
 瞬間的、体の奥底に悪寒が走った。アーリドの声が激しく上擦った。
「カーイが――、カーイが来ているのか! 独りでか!」
「はい、そうですが、それで――」
「カーイが独りで――、カーイがエウジスと会っているのか!」
「はい、あの、それで――」
 まさか――嘘だ! 駄目だ!
 小僧の答えを待たない。即座にアーリドは走り出す!
「アーリドっ、ちょっと待って!」
 駄目だっ、駄目だっ、駄目だ!
「アーリド!」
 まさか独りでやるのか? 私の知らないところで、やるのか?
 そんなの駄目だっ、止めろ、駄目だっ、カーイ! 
 アーリドは走る。自邸の使用人達が驚いた目で見る中、全速で家の門を目指す。
「門を開けろ!」
 凄い勢いで走ってくる当主を前に、守衛の爺が慌てて門を開く。アーリドは外へ飛び出す。
「待って! 通りに誰かいるかも、そんな慌てた態で飛び出しては――っ」
 聞くものか!
 そんな事態、そんな事態、そんな事態!
 まさかカーイは本当にそんな無謀な事態に出たのか? 自分の一言も告げること無しに、なぜ! なぜ君がそこまでを!
“殺してしまいなさい”
 駄目だ! そんなの神の名において駄目だ、カーイ!
 
 赤い葡萄酒が、激しく床に飛び散った。まるで血のような赤い染みが、床の荒織りの敷布の上ににじんだ。
「……。何?」
 はたき落とされたガラスの杯は、床の上でまだ生きているかのように揺れ動いている。レイミアの空色のドレスの上にもまた、赤い染みが血の粒ように散らばってしまった。驚いてそれを見ながら彼女は尋ねた。
「どうしたの、葡萄酒? カーイ?」
 カーイは答えない。横に立ったまま動かず、顔色すら変えない。
「何なの? 杯をいきなり叩き落したり」
 つんと鼻をつく匂いに、何か不穏の予感を覚える。レイミアは表情の無いカーイの顔をじっと見る。
「何が……なぜ、カーイ? 何なの? 変よ、だって――」
 彼女の生来の勘が今、何か猛烈な厄災の事態を予感する。
 カーイは、――たった今、凄まじい力で彼女が飲もうとしていた葡萄酒杯を叩き落としたカーイは、もう動こうとしない。立ったまま静かに向こう側を、窓の外のミーナールの夏空を見ている。
「カーイ、これって……」
 レイミアの顔が歪む。なぜか的確に事態が理解出来てしまう。指の先が冷え、微かに震え出す。そして、
 エウジスは、全てを理解した。
 凍り付いてしまった眼で、カーイを見とらえた。強張った唇が、ついに冷えた沈黙を破って動いた。
「……。これは、アーリドが仕組んだのか?」
 カーイは黙し続け、見つめ続けている。窓の向こうの晴れ渡った、光と色に満ちたミーナールの空と海。
「まさか……、嘘よね、カーイ。
 言って、早く。これって何かの間違い……間違えただけだから……、だから――」
 カーイは動かない。己の足許で全てが瓦解した事など、まるで無視している。
 エウジスが椅子から立ち上がる。その瞬間、僅かに重心が揺れて右足がぐらつく。顔が恐怖とも怒りともつかない表情にとらわれて蒼白く変じてしまう。その顔を見とらえるレイミアをこそを(私の知っているエウジスがこんな顔になるはず無い!)、泣き出しそうな顔にさせる。
「これが、奴の望みなのか?」
 エウジスの声が、かすれていた。
「奴が言ったのか? 私に毒を盛れと、アーリドが言ったのか?」
「――」
「答えろ、カーイ。アーリドは私を毒殺しようと――殺そうと願っているのか?」
「――」
「カーイ! 答えろ!」
「私が、貴方に毒を盛りたいと思っただけです」
「……」
「貴方の存在は、ミーナールを害する。だから排除しようと思っただけです。
 もっとも、貴方とアーリドとどちらか一方を選ばなければならないとなれば、私は迷わずにアーリドを選びますけれどもね」
 ミーナールの夏空と海を見つめたまま、カーイは言ったのであった。
 唐突、レイミアが凄まじい叫びを上げた。
 カーイはようやくこちらを振り向き、彼女を見る。この時ばかりは、
“私はね、必ず将来アーリドと結婚をして子供を産むの! 素敵だと思わない?”
 結果として自分を破滅へと陥れることになった少女を、諦めとも恨みともつかない表情で見つめることになってしまった。己の判断の正誤については、今は考えたくなかった。
 そしてレイミアの叫びを上回る声で、エウジスが叫んだ。
「衛兵! 早くっ、奴を捕えろ!」

 通りに出た途端、陽射しに輝く太守館の角塔が目に飛び込んだ。そのまま壁沿いの真っ直ぐの通りをアーリドは走る。すでに通りには、午睡を終えた人々が行き交い始めている。ワリド家当主がただならぬ態で走っているのを驚いた目で見ている。
 駄目だ、カーイ! 駄目だ!
 そんな事駄目だ! やるな! ――エウジスを殺すな!
 すぐに太守館の門が見えてくる。そこでは早くも異変が起こっている。辺りにルツの警備兵が誰もいない。いつもなら何人もの兵達がこれみよがしに門の辺りを歩き回っているのに。
「怪しまれるから、アーリドっ、ゆっくり!」
 背中側からサスキアが言う。だが身体も感情も止められない。
「走るなっ、駄目っ、ゆっくりと!」
 早く! 早く! カーイ! エウジス!
 走り着いた! 息を弾ませながら見る視界には重厚な太守館の門扉がそびえ、だが衛兵が一人もいない。最悪の憶測が過る。そのままアーリドは固く閉じられた門扉を叩こうと右腕を素早く上げ、
 それが遮られた。
 唐突に目の前で扉が開いた。思わず二歩下がってしまったアーリドの真ん前に、ルツ兵達が出てきた。
「何が、何があったんだっ」
 引きつった声に兵の一人が振り向くが、答えない。ただ体をぐいと押して後ろへ追いやる。門からは続々と兵士達やルツ人達が出てくる。その皆が固く緊張した顔だ。何があったんだ?
「何があったんだ、教えろ!」
 カーイが目の前を過った。
(……え?)
 捕縛され、両腕を掴まれて、引きずられて。
 アーリドは一瞬、その光景を理解出来なかった。
 目の前を、無表情のカーイが引き立てられて進む。こちらには気付かない。ただ前方のどこかを見据えている。こんな事態だというのに、後ろ手に捕縛され力任せに引きずられているというのに常通りの、水の様な静かさでどこかを見ている。見つめるアーリドを、叫びたい程の衝動に追い立てる。
(だから――どうして! 勝手に、なぜ――本当にやったのか!)
 衝動を抑え込めない。何かを叫びたくて口が開く。
(こんなの嫌だ! カーイ! エウジス!)
 唐突、右腕を力任せに引かれた。振り返ろうとし、もろくも体の重心がよろけた。
「馬鹿がっ」
 真横に並んだサスキアは、まだアーリドの腕を痛い程に握りしめている。
「ここで叫んだら殺すわよ。地獄へ落ちろ、絶対に関わるなっ」
 だがアーリドは抑え切れない。また叫びそうになる。今にも殴らん程に怒っているサスキアに向かって叫びそうになる。
(エウジスは殺されたのか! カーイもまた殺されるのか!)
 早くも太守館の正門前には住民達が人垣を作り出し、何事が起きたのかと騒ぎ出している。自分に注目している者も多い。ワリド家当主の恐慌に陥った顔を指差している者もいる。サスキアが腕を放さない。今すぐカーイの後を追いかけたいものを、ただ必死の眼だけで追い求める。
 視界は音も無く塞がれた。
 目の前に、見知った少女が現れていた。彼女は――レイミアは、アーリドの目の前で泣いていた。
 泣いているのに、強い声だった。
「こんなの、おかしい」
「……」
「エウジスが、カーイを捕えるなんて、そんなのおかしい」
「……。エウジスは、無事なのか? 今どこに……」
「エウジスは、角塔に」
 弾かれた様に、夏空にそびえる角塔を見上げた。――神様!
 少なくともエウジスは今、生きている。感謝します。そう唱えながらアーリドは呻くように息を漏らす。
「カーイは――彼は何を……自分で、エウジスを殺そうとしたのか……?」
「カーイが、自分でエウジスを殺そうとしたの?」
 レイミアの低い声が、強くアーリドの質問を繰り返した。
「本当なの? 本当に、なぜ、カーイがエウジスを殺そうとするの? そしてカーイはどうなってしまうの、アーリド?」
 眼が真っ直ぐにアーリドを見抜く。アーリドを追い詰め、その責任で彼を責める。丸切りこの件の裏を知っているかのように。
「どうなって……。ねえ。教えて。……だって、エウジスとカーイがこんなことになるはずないじゃない! あの二人、あんなに信頼し合っていたのよ、なんでこんな事態になるの? ……ねえ。教えて。何か知っているんでしょう? アーリド。教えてよ! なぜ黙っているの?」
 この最悪の現実の裏にアーリドがいる事を完璧に見抜いているかのように。アーリドがすぐに動けば事態が改善されると信じて、レイミアは責めてくる。
「何かして! 早く何とかして、アーリド!」
 だが右腕を掴むサスキアの手は、一層強まる。
“絶対にここで関わるな”と、意志をかけて強硬に、絶対に訴える。
“絶対にここで関わるな。ミーナールの未来の為に”。
 アーリドの呼吸が詰まる。今なら、自分ならカーイを助け出せるかも知れないと判っている。今すぐに行動すれば、事態は大きく動くと判っている。
“カーイを取るか、ミーナールを取るか”
「アーリドっ、何とかして、答えて!」
 アーリドはレイミアに答えられない。
「ねえ! アーリド!」
 アーリドの顔こそが泣きだしそうに歪む。その目の前でレイミアの表情もまた変わる。泣き顔に怒りが加わる。強い怒りを持って叫ぶ。
「何か言って! 言って!」
 アーリドは答えなかった。
 その途端、乾いた音が響いた。
 レイミアがアーリドの頬を強く打った。もう見向きしない。そのまま彼女は連行されるカーイの後を追い、夢中で走り去ってしまった。
 アーリドはもう、何かを言う声を失った。
 何をすれば良いのか、全く分からなかった。騒然と人が増えてくるルツ太守館の正門の前で、現実が自分の掌握から遠くかけ離れてしまったと実感した。



【 続く 】
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

エリン島・灌木の丘と乳色の霧

メイ
ファンタジー
北ヨーロッパ中世史の小さなエピソードをヒントにした、空想歴史ストーリー。 …… エリン島。 どこまでも連なる灌木の丘と、乳色の霧と、小王達が群雄割拠で並び立つ島。 ・     ・     ・ 「小王などなりたくない!」 そう泣いて嫌がった。だがガルドフ家の大人しい少年アーサフは、いきなり小国・リートムの小王に就かされてしまうことになった。 その時から数年間、重圧と自責と心労にもがきながらも必死で執政してきたアーサフの上に、ある日突然、飛んでも無い厄災が襲い掛かった。 彼が国を離れていた隙に、蛮族・バリマック族がリートムを急襲、領土を全て奪ってしまったのである! 奪われた王城には、政略婚を結んだばかりの妻・イドルもそのままに残されている。 一体どうすれば国を取り戻せるのだろうか……。 一体どうすれば妻を救出できるのだろうか……。 霧の中、追い詰められたアーサフの目の前にその時唐突に、一人の奇妙な少年が現れた。 ――自称コソ泥の、“カラスのモリット”。 モリットは全てが謎の、しかし圧倒的な知力と行動力、そして魔的とも呼べる魅力を持った少年であった。 勿論アーサフには判っている。 “この少年を信じてはいけない”。 判っている。充分に判っている。だが判っていても、それでも、妻・イドルを敵の手から救出するためには今、モリットの力量に賭けるしかなかったのであった。 深いエリンの霧の中、アーサフはモリットと共に、敵の待ち構えるリートムへと出立していった。 そのアーサフを待ち構えていたのは、想像をはるかに上回る大きな陰謀と背信、そして運命の転換となってしまった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サバイバル能力に全振りした男の半端仙人道

コアラ太
ファンタジー
年齢(3000歳)特技(逃げ足)趣味(採取)。半仙人やってます。  主人公は都会の生活に疲れて脱サラし、山暮らしを始めた。  こじんまりとした生活の中で、自然に触れていくと、瞑想にハマり始める。  そんなある日、森の中で見知らぬ老人から声をかけられたことがきっかけとなり、その老人に弟子入りすることになった。  修行する中で、仙人の道へ足を踏み入れるが、師匠から仙人にはなれないと言われてしまった。それでも良いやと気楽に修行を続け、正式な仙人にはなれずとも。足掛け程度は認められることになる。    それから何年も何年も何年も過ぎ、いつものように没頭していた瞑想を終えて目開けると、視界に映るのは密林。仕方なく周辺を探索していると、二足歩行の獣に捕まってしまう。言葉の通じないモフモフ達の言語から覚えなければ……。  不死になれなかった半端な仙人が起こす珍道中。  記憶力の無い男が、日記を探して旅をする。     メサメサメサ   メサ      メサ メサ          メサ メサ          メサ   メサメサメサメサメサ  メ サ  メ  サ  サ  メ サ  メ  サ  サ  サ メ  サ  メ   サ  ササ  他サイトにも掲載しています。

婚約破棄?一体何のお話ですか?

リヴァルナ
ファンタジー
なんだかざまぁ(?)系が書きたかったので書いてみました。 エルバルド学園卒業記念パーティー。 それも終わりに近付いた頃、ある事件が起こる… ※エブリスタさんでも投稿しています

【書籍化】パーティー追放から始まる収納無双!~姪っ子パーティといく最強ハーレム成り上がり~

くーねるでぶる(戒め)
ファンタジー
【24年11月5日発売】 その攻撃、収納する――――ッ!  【収納】のギフトを賜り、冒険者として活躍していたアベルは、ある日、一方的にパーティから追放されてしまう。  理由は、マジックバッグを手に入れたから。  マジックバッグの性能は、全てにおいてアベルの【収納】のギフトを上回っていたのだ。  これは、3度にも及ぶパーティ追放で、すっかり自信を見失った男の再生譚である。

婚約者に見捨てられた悪役令嬢は世界の終わりにお茶を飲む

めぐめぐ
ファンタジー
魔王によって、世界が終わりを迎えるこの日。 彼女はお茶を飲みながら、青年に語る。 婚約者である王子、異世界の聖女、聖騎士とともに、魔王を倒すために旅立った魔法使いたる彼女が、悪役令嬢となるまでの物語を―― ※終わりは読者の想像にお任せする形です ※頭からっぽで

【完結】魔王様、溺愛しすぎです!

綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
ファンタジー
「パパと結婚する!」  8万年近い長きにわたり、最強の名を冠する魔王。勇者を退け続ける彼の居城である『魔王城』の城門に、人族と思われる赤子が捨てられた。その子を拾った魔王は自ら育てると言い出し!? しかも溺愛しすぎて、周囲が大混乱!  拾われた子は幼女となり、やがて育て親を喜ばせる最強の一言を放った。魔王は素直にその言葉を受け止め、嫁にすると宣言する。  シリアスなようでコメディな軽いドタバタ喜劇(?)です。 【同時掲載】アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、小説家になろう 【表紙イラスト】しょうが様(https://www.pixiv.net/users/291264) 挿絵★あり 【完結】2021/12/02 ※2022/08/16 第3回HJ小説大賞前期「小説家になろう」部門 一次審査通過 ※2021/12/16 第1回 一二三書房WEB小説大賞、一次審査通過 ※2021/12/03 「小説家になろう」ハイファンタジー日間94位 ※2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過作品 ※2020年8月「エブリスタ」ファンタジーカテゴリー1位(8/20〜24) ※2019年11月「ツギクル」第4回ツギクル大賞、最終選考作品 ※2019年10月「ノベルアップ+」第1回小説大賞、一次選考通過作品 ※2019年9月「マグネット」ヤンデレ特集掲載作品

獣人のよろずやさん

京衛武百十
ファンタジー
外宇宙惑星探査チーム<コーネリアス>の隊員六十名は、探査のために訪れたN8455星団において、空間や電磁波や重力までもが異常な宙域に突入してしまい探査船が故障、ある惑星に不時着してしまう。 その惑星は非常に地球に似た、即移住可能な素晴らしい惑星だったが、探査船は航行不能。通信もできないという状態で、サバイバル生活を余儀なくされてしまった。 幸い、探査船の生命維持機能は無事だったために隊員達はそれほど苦労なく生き延びることができていた。 <あれ>が現れるまでは。 それに成す術なく隊員達は呑み込まれていく。 しかし――――― 外宇宙惑星探査チーム<コーネリアス>の隊員だった相堂幸正、久利生遥偉、ビアンカ・ラッセの三人は、なぜか意識を取り戻すこととなった。 しかも、透明な体を持って。 さらに三人がいたのは、<獣人>とも呼ぶべき、人間に近いシルエットを持ちながら獣の姿と能力を持つ種族が跋扈する世界なのであった。     筆者注。 こちらに搭乗する<ビアンカ・ラッセ>は、「未開の惑星に不時着したけど帰れそうにないので人外ハーレムを目指してみます(Ver.02)」に登場する<ビアンカ>よりもずっと<軍人としての姿>が表に出ている、オリジナルの彼女に近いタイプです。一方、あちらは、輪をかけて特殊な状況のため、<軍人としてのビアンカ・ラッセ>の部分が剥がれ落ちてしまった、<素のビアンカ・ラッセ>が表に出ています。 どちらも<ビアンカ・ラッセ>でありつつ、大きくルート分岐したことで、ほとんど別人のように変化してしまっているのです。

処理中です...