ナロドニア家のイルシオの血

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ナロドニア家のイルシオの血(2)

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3・ 『 キジを獲って来てっ 』



 短い夜は明けた。
 昨日に引き続き、またも晴れ上がった。またもやルムは最上の朝を迎えた。

 王都ファウロの城門を南に数里も離れると、世界はその辺りで胸が透くように広がってゆく。
 穏やかな草色の丘陵。深い濃緑の森林。
 清浄な空気と、冷えた風と、小鳥のさえずりと、揺れ動く木漏れ日と。
 瑞々しく、清潔で、平和そのもの森であった。この平和で穏やかな風景の中に今朝、多くの人々が集まっていた。
 ――
 森の入口の、ゆったりと広がる草地には今、色とりどりの天幕が所狭しと建てられている、その天幕の中にも外にも多くの人々が出入りして、その度にざわめき合っている。
 ルム王サナタイ主催の盛大な狩りは、今にも始まろうとしていた。派手な狩衣に着飾った豪族と、これまた晴着を競い合う女達が広い草地を埋め尽くしていた。誰もが胸を高揚させて、ルム王主催の大規模な祝賀の狩を待ち構えていた。
 待ち構えていたのだが。
「来るのかしらね?」
 王都ファウロでも指折の名家・アブサ家の奥方は、周囲を囲む五~六人の女性達に向かい、いかにも大仰に片口を引き上げた。
「あんな大騒動の翌日ですものね。来るのかしらねえ。
 全くあの御方ときたら。いくら王家に次ぐ権勢とはいえ、強気に出たものよねえ。公の場の真ん真ん中で“血の供儀”を持ち出すなんて、これでは王を怒らせるのも当然よ。
 でも奇妙よね。可笑しいわ。戦勝の大将が来られない祝勝の狩りなんて」
 緑に覆われた草地はすでに、ナロドニア家の一件の噂でもちきりになっていた。
 結局昨夜、王城での夜宴にナロドニアの親子は現れなかった。伝わった噂では、自邸でひっそりと宴を張ったらしい。本来の主役であるイルシオにとっては何とも気の毒な話だ。
 とは言っても正直を言えば、この場の誰もが腹の中でほくそ笑んでいたことだろう。
(これで数代にわたるナロドニア家の黄金時代にも影が射すのかね。だとしたら喜ばしい話じゃないか。全く、あの高慢な程に権威を誇る一族ときたら!)
「分かるでしょう? 結局権威とか高慢とかに毒された者は、神の不興に触れるのよ。
まあもっとも今回は、アルグートの女王が余りにも美しく、サナタイ王が御歳にかかわらず随分な漁色の質だったというのも問題だったのだけれどもね」
 囲む女達は大きく頷いたり、苦笑いを見せたりしている。夫人の舌は止まらない。
「分かるでしょう? 大体において、端からサナタイ王の女王への態度が問題だったのよ。あれは最初から腹の中で何かしらを狙い考えていらしたのよ。
 だってちょっと考えてみて。ついこの間まで交戦していた敵国の宗主なのよ。捕囚だったのよ。それが賓客に化けるなんて、これを天上の神はどう御覧になるのかしら。畏れ多くも神の名を持ち出すまでも無いわ。戦勝した君主が敵の捕囚の君主に対して取るべき態度としては今回ほど奇異な話なんて聞いたことが無いわ。
 だから私はふと思ったの。もし今回、敵国の主君が女王ではなく王だったらどうだったろうかと。女王だとしても、それがもしも今回のような美貌の持主では無くて仮に――」
 唐突、延々のアブサ夫人の言葉が途切れた。
 草地の一角に、ざわめきが起こっているのだ。たちどころ奥方も、その周辺の女達も、どの顔もどの顔も、好奇心を丸出しにして振り向いている。人々が注目する方向を手をかざして、凝視して見てみる。
 驚くではないか。
 ――何とまあ。ナロドニア家の者が現れたのだ。
 彼らが、現れたのだ。
 家長のティタン、嫡子であり主役であるイルシオ、王の隣に座り損ねたヴィア、一族に準ずる家令のマキス
 この四人が、馬に乗って現れ出てきたのだ。
 それにしても、何とも豪華な出で立ちの四人だ。おそらくティタンの誇りと意地だろう、彼らは狩には必要以上に豪奢な装束だった。後ろに続く従者の数や荷馬車が運ぶ狩用の装備の量といったら、王の登場と呼んでもおかしくない程のものだった。全くもってその場の全員の眼を釘付けにするに値する華やかさであった。
 そしてやはり――煩さ方のアブサ夫人も認めざるを得ない。
 ナロドニア家の息子の、何とも絵になる事か。
 狩りだというのに、敢えて白の胴着を着て来た。背には黒光る弓を、腰には紅石が飾る剣をはいている。漆黒馬の鞍上、やや頬を紅潮させながら真っ直ぐと前方を見据えて手綱を握る姿は、いかにも凛々しい。確かに今朝の空同様に、胸の透くような清々しさを見る者に印象付ける姿だ。
 確かに夫人も認めたはずだ。ほぼ同い年のルム新王を上回る品性溢れる姿だ。
 妹のヴィアもまた、豪華な刺繍は施した白い衣装だ。茶色の小柄な馬に横乗り、兄の側にぴたりと寄り添う姿は、何とも愛らしかった。抑えた藍色の上衣をまとって従う家令・マキスの端正な姿と共に、ナロドニア家がルムにとって栄光の一族であることを周囲に思い知らしめていた。
 そして、最も気高くも傲慢なるナロドニア家・家長ティタンこそは、一番後方にいた。人々の視線を一身に浴びているのを意識した上で、あえてゆっくりと、堂々と草地の真ん中へと進み出て来たのであった。
「お早う。良い天気だな。王はどちらだ?」
 王城の侍従が一瞬口ごもり、それから慌てて一礼をする。草地の西側に立てられた赤色の大天幕を指し示し、あちらですと述べたその時だった。
 丸切り、時を計っていたかのように、大テントの入口に掛けられた赤い綴り布が動いた。
 ルム王サナタイは、笑みと共にテントより現れ出てきた。
 そしてその王の横には、長身のターラ女王がぴったりと寄り添っていた。
 一目見ただけで十分だ。昨夜の酒宴以降に一斉に広まった噂が真実だったとは明白ではないか。
“王とアルグート女王は、昨夜を同じ寝台で過ごしたな”
 サナタイは、王者の余裕を見せつけて微笑んでいた。まあ彼は良い。絶世の美女を手に入れて満悦なのだろう。鼻持ちならないその笑み様も、単純ゆえと思えば良い。
 問題は蛮族の女王の、ターラだ。
 本当に、美しい。圧倒的な艶やかさだ。昨日までの首すら危うい立場が、今や国王の愛人よ、艶も加わるわよ、とのアブサ夫人の辛辣な弁も、彼女の圧倒的な美貌の前には虚しいだけだ。
「皆。お早う。実に良い天気だな。私の狩りには最適の日になった。
 お早う。ナロドニア。昨夜はどうして私の宴会に出席してくれなかった?」
 いきなりサナタイが声をかけた。
 しかしティタン・ナロドニアもまた、平然と礼を返した。
「おはようございます。サナタイ国王陛下。昨夜は王城にての夜宴に欠席という無礼となり、誠に申し訳ございません。自邸において身内のみでささやかな宴を張っておりました。この件に幾重にもお詫びを申し上げます。
 しかし、本日の目出度い狩りにおきましてならば、謹んで我が家も参加をさせて頂きます」
「気にするな。今日は狩りを充分に楽しんでくれ。お前の自慢の息子とこの私と、どちらがより大物を仕留められるかが楽しみだな。
 皆、狩の支度は整っているのか? この快晴だ。時間が勿体無いぞ。私の馬を早く出せ。すぐに行くぞ」
 この言葉に、王の従者達はすぐに馬を引いてくる。それを横目にサナタイ自身もまた長衣を脱ぎ胴着に着替え、弓を手にする。
「号令はお前が執ってくれ、ナロドニア。
 早くしろ、急げ。全員で同時に森に入るぞ。角笛は準備できているのか? さあっ」
 草地にいた全員の目が、露骨な驚きで見ていた。昨夜の確執が、完全に忘れ去られているのだ。王は素晴らしい上機嫌のまま馬の鞍上に登っている。さらに声を張り上げる。
「さあ、いい日だ、ナロドニア!」
 狩を始める! という触れ声のもとに、豪族達も慌てて狩装束を整え馬に飛び乗る。各豪族の従者達もまた走り回り、吠え立てる多数の犬を連れてくる。草地は突然、狩り直前の慌ただしさに突入した。
「早くしろっ、さあ行くぞ!
 イルシオ、どうしたっ? 私が昨日与えたメダルは付けて来なかったのか?」
 イルシオは振り向く。しかしサナタイはとっくに他所を向きまた叫んでいる。
「開始の笛を! 早く、ナロドニア! 皆、遅いぞ、これでは日が暮れてしまうではないか、早くしろ!」
(何だか、はしゃぎ過ぎていないか?)
 鞍上となった王を見ながら、瞬き二回分の間だけイルシオは思った。
(何だか変だ。王のこの態度)
 だが、抜けるような青空の下だ。王の自家への憤怒が解けた安堵の方に、よほど心を引かれた。
(あの子供じみた王の事だ、自分の権威を誇示できた上、美しい女王も手に入れて有頂天になっているのだろう、昨日の父上とのいざこざなど、とっくにどうでも良くなったんだろう)
 清々しい青空の下だったのだ。イルシオの体内でもまた血が素直に騒いでいた。
(だって狩だ。良い天気だ、良い朝だ!)
 草地の一角に集められた百匹を下らない犬が、辺りで一斉に吠え立て出す。すぐに狩りが始まる。
「イルシオっ」
 横ではヴィアもまた目を輝かせている。すぐに赤くなる頬を一段と赤くさせ、犬を吠え声の上から夢中で叫んだ。
「ねえ! キジは獲れるの? イルシオ、ねえ!」
「うん。上手くいけば熊も仕留められるさ。今日は最高の天気だ」
「熊はいいの、イルシオ。ねえ、私にキジを獲ってきて。羽根飾りのある頭巾が欲しいの。ねえ、私も一緒に行っていい? 私にも弓の撃ち方を教えて。自分でキジを仕留めてみたいわ」
「無理だよ。まだ馬の早駆けが出来ないだろう? 他の女性達と一緒に、この草地の天幕で待っていなよ」
「でも――」
「男達と一緒に駆け回る令嬢なんて聞いたことないぞ。
 ほら、ターラ女王もテントで待つつもりらしい。他の奥方や令嬢達もそうだよ。もし不安ならマキスにも残ってもらおうか?」
 ちらっと送った視線の先で、ナロドニア家の有能な家令は従者達にきびきびと指示を出し、狩の最終の準備を整えていた。その小気味良い動作を見る限り、この男もまた狩り直前の空気に血を高ぶらせているのが分かった。
 ヴィアは目を戻し、にっこり笑った。
「マキスも狩りを楽しみにしているのよ。悪いわ。大丈夫、私も頑張って女性同士のお喋りを楽しんでみる。でもキジは――」
「分かってるよ。必ず仕留めてくる」
「お願いよ、絶対」
「ああ。分かった――マキス!」
 全てを整え切ったマキスも今、飛び上がる様に馬に乗る。端正な顔が振り返り微笑む。
「万端に整いました。イルシオ、今日は犬の調子がいい。大物も狙えますよ」
「勿論、熊だ。それからヴィアがキジを欲しがっているからまずは灌木の生えている辺りへ――」
「待って。イルシオ。ほら、殿が号令をかけられる」
 イルシオの視線が弾かれ、父の姿を追いかける。だがその前に、彼の眼は一人の人物を捕えた。
(あ。あの男も来ていたんだ)
 草地の片隅。絶対に見間違えようが無い黒い、美しい姿があった。
(あれ? 狩装束じゃ無い。彼は狩には参加しないのか。それに)
 まただ。イルシオはまた、確かに、妙だと感じた。
(なぜだ? なぜまた女王の赤ん坊を抱いているんだ?)
 奇異な、それ以上に嫌な感覚を覚えてしまった。
 だが、狩は今にも始まろうとしていた。朝の光はどんどん強まり、絶好の向い風も吹いていた。犬は盛んに吠え、放たれるのを今か今かと待っており、イルシオもまた同じ心境だったのだ。
 光にあふれる草地に、多数の男達が集まった。煌びやかな装飾を施した馬に跨るサナタイ王と、その右側に位置したティタン・ナロドニアが今、華やかに居揃った狩りの一行の前に進み出てきた。
「剛毅たるルムの豪族諸氏よ――」
 ナロドニアの声が、張りつめた清浄な空気を震わせる。
「最上の日和となった。遍くルムの国土の隅々にまで繁栄あれ。ルム王に栄光あれ。
 さあ、狩を始めよう! 森へ進め!」
 この言と同時、全ての犬が一斉に放たれた。全ての馬の腹が蹴られ、一斉に走り出した!
 草地に地響きが走る。犬が、馬が、森を目指して駆け抜ける。それを追いかけ、各家の従者達や子供達が大きな声を上げて走り出す。
「イルシオっ、マキスっ、イルシオ――!」
 騒音に負けない大声。走り出した馬上から振り返ってイルシオは見る。ヴィアは傍目も構わず夢中で手を振っている。
「キジよ! お願い、イルシオ!」
「分かってるよ!」
 イルシオもまた大声で叫ぶ。その視界の中でヴィアはこぼれんばかりの無邪気と愛らしさに満ちている。
 陽はどんどん高くなってゆく。風が抜ける。
 最上の狩日和だ。
 最上の心地だ。

・        ・        ・

 眩い、暑い陽射しの中を、馬具の金具をキラキラさせながら馬が走り込んで来た。
 その蹄音を聞きつけるや、草地に出来上がった色とりどりの天幕から女性達が続々飛び出してきた。
「今度は誰が仕留めたの?」
 するりと馬を降りた使者は、取り囲む婦人方に丁寧に頭を垂れてから言った。
「はい。コレオーリ家の御子息が猪の雌を仕留められました。またオルソ家の御面々がただ今、角鹿の群を追跡中です」
 華やかな歓声が湧き起る。おめでとうございます、さすがですわねといった柔らかな麗句が笑顔と共に交わされる。
 男達の狩りは始まっている。一方で女達は、草地に花のように開いた天幕の許での賑やかな歓談を始めていた。
 場の中心は当然、アブサ夫人の天幕であった。多くの女達が彼女の周囲で菓子を摘みながら、無責任な噂話に花を咲かせていた。その話題は勿論、
「ほら。見て。あの気取りぶり……」
 草地を横切った反対側だ。美しいターラ女王がそこにいた。サナタイ王の巨大な天幕の前、彼女は自分の侍女達を相手に静かな会話を楽しんでいた。
「どう思う、ヴィア?」
 座の後方に座っていたものを、驚いた様にナロドニア家のヴィアはアンズ菓子を摘んだ手を止めた。
「あら? ヴィア、私の言葉を聞いていなかったの?」
「……済みません、御菓子を食べようと思っていて……」
「御菓子ですって? 嫌だわ、御菓子に夢中だなんて、もう子供ではないのに。ナロドニア家の令嬢が御菓子。笑ってはいけないけれど御菓子って!」
 夫人の笑いにはかなりの嫌味が込められていた。周りを囲んだ婦人達もクスクス笑っている。どうやらヴィアだけが理解できなかった。きょとんとした顔を晒したままだ。
「ヴィア、こちらにいらっしゃい。ちょっとお喋りしましょう」
近くに呼びつけた上で、アブサ夫人は小声で耳打ってきた。
「これでは貴女に聞いたところで無駄かしら?
 ヴィア、昨夜の内に何かあったの? ナロドニア殿とサナタイ王と、どちらが先に和解を持ちかけてきたの?」
「さあ……。私は何も知りません。父上は昨日、王城から帰還するとすぐに自室に閉じこもってしまいましたけれど……」
「ならば王の方からかしら。だとしたら珍しく殊勝ね。
 ――で、あの女は?」
「あの女って?」
 夫人の視線が無言で指し示す。
 そこではアルグートの女王が、ちょうど私的な使者を迎えたところであった。長椅子からすっと立ち上がり、何かしらの小さな贈物を受け取り、麗しく微笑んだところであった。
「きっとサナタイ王からの贈物よ、あれ。随分と新ルム王陛下は彼女にご執心だこと。
 貴女は彼女の事をどう思っているの、ヴィア?」
「本当に美しい人です。ほら、あんなにすらりとしていて気品もあって。今までに見た中で一番美しい女性だと思います」
「貴方、何をそんなに呑気な事を……。
 ナロドニア殿は貴方をサナタイ王の后にと考えていたのでしょう? それをいきなり現れた敵国の女に――しかも王とは遥かに歳上なのよ。全く、ルム始まって以来の醜聞だわ。お陰で貴方の兄のイルシオまで割を喰ってしまったじゃないっ」
「ええ……。そうかもしれませんが……」
「本当に呆れる程に呑気なのね。
 でもナロドニア殿も何を考えているのかしら? 王とは和解されたようだけれども、貴女を嫁がせるのはもう諦めたのかしら? あの御方も本当に一族の誇りに執心が強すぎるわよね。だから折角の息子の勲功にも、自らケチをつけてしまう事態を招いたのよ。
 王の方も子供の様に気分屋だから、今後も何かにつけて衝突をし兼ねないわ。王の御機嫌によっては最悪の場合、ナロドニア殿は孤立してしまうことだって有り得るわ。不安よね。そう思うでしょう? ねえ、ヴィア」
「ええ……まあ」
 露骨に困った顔のままヴィアは微笑んだ。
 ずっとみたいだ。このままずっと、延々と、自分の家のお節介な噂話に付き合わせさせられるみたいだ。
(そんな、私に良く分からない話について問われても……)
 手にお菓子を持ったままヴィアはもじもじ視線を動かした。
(ナロドニア家と国王様との関係だったら、父上が上手くやって下さるわ。私は知らないわ。そんな事よりイルシオはキジを獲れたのかしら。今朝はちょっと馬が不機嫌だって言ってたけれど。それにこの服、窮屈だわ。私だけ真っ白で華やかすぎで目立ってしまうし。イルシオったら私のキジを――)
「また使者が来たわよ」
 その声にヴィアも他の女達も一斉に立ち上がり、外を見た。
 陽射しに満ちた森の緑を背景にして、一頭の馬が近づいて来る。陽射しを受けたその使者が近づくにつれて、同じく陽を受けるヴィアの頬もまた、輝くような笑顔になった。
「マキスっ」
 ナロドニア家の家令は一瞬、悪戯っぽく片目を閉じて応えた。それからゆっくりと馬を止め、集まってきた婦人達に優雅な一礼を垂れた。
「ナロドニア家のイルシオ殿が、大角鹿の雄を仕留められました。これまでのところ、本日の最大の獲物です。
 それからこれは、イルシオ殿から妹君へと」
 馬上からマキスが右手をヴィアに差し出す。それを見た瞬間、彼女の顔は子供の様にほころんだのだ。
「キジ! 本当に獲ってくれたのねっ」
「見事にキジを仕留められましたよ。為に、二頭目の鹿は逃してしまわれましたが、貴女の為に必ずキジを持ち帰らなければと言われて」
 兄妹というよりまるで恋人同士ね、と誰かが囁いた。その通り、許婚からの初めての贈り物を受け取った少女と言った方が似つかわしい。ヴィアは初々しく頬を染めながら、きらきら輝く尾羽根を受け取ったのであった。
「ねえマキス、イルシオは今どこにいるの?」
「西の水場で少し馬を休ませています。私もすぐにそちらへ戻ります」
「私も一緒に行くわ。イルシオに会いたいの。いいでしょう?」
 横で聞いていたコレオーリ家夫人が鼻をしかめる。マキスもまた、些かの苦笑を見せた。
「女性には向かない場ですよ。ここで待っていた方が良いのでは」
「でも――」
「ヴィア。周囲の皆様も心配されていますよ」
 穏やかにマキスは言い、そしてヴィアは初めて自分が注目浴びているに気付いた。これでまた良い噂の種にされると、初めて気付いたのだ。
 と、ここぞたばかりにアブサ夫人が進み出て来た。
「久しぶりね、マキス。お願いがあるの。私の甥子を見かけたかしら。ここに呼んできて欲しいのだけれど。――ああ、でもその前に是非、私の天幕で休んでいって。良い葡萄酒を持ってきているのよ。差し上げるわ」
 周囲の何人かの女性が、嬌声を上げた。このナロドニア家・家令の端麗な顔立ちと優雅な立ち振る舞いが、長らくにわたってファウロ中の婦人達から熱い眼差しで見つめられている事についてならば、今更誰も否定しないであろう。
「いいでしょう? マキス。さあ、立ち寄っていって」
「有難いご招待を頂き、光栄です。しかしながら、私のような者が同席しては、皆様方の会話に水を差してしまいますので」
「そんな事あるものですかっ。本当に良い葡萄酒なのよ、去年我家の畑で採れた葡萄酒の中でも最上級のものを持ってきたのよ。是非飲んでいって!」
 折角の狩りが。
 心より迷惑を覚えているだろうに、しかしそれでもマキスは穏やかな顔を保ち、そして場の空気を読んだ。
「分かりました。では御好意に甘え、葡萄酒を一杯御相伴させて頂きます」
「一杯といわずどうせならこのまま早目の昼食にしましょうよ。いいでしょう、マキス? いいわよね?」
 マキスは諦めた様だった。女達の暇潰しの相手を覚悟して馬より降りる。やはり御食事は遠慮して葡萄酒だけをとの声も、強引な女達の声にかき消されてしまう。アブサ夫人が急いで天幕内に準備する席へと向かわされていった。
 ……そして、金色の尾羽を手に持ったまま、ヴィアは草地に取り残された。
 真昼の陽射しが降り注いでいた。南からの微風がそよいでいた。掌の中でキジの尾羽はキラキラと輝いていた。
 もうほとんどの婦人達もその侍女達もアブサ夫人の大天幕へと行ってしまった。目の前では、マキスの乗っていた馬がのんびりと草を食んでいた。行き交う使用人達はそれぞれの作業に忙しかった。
 大した考えなどあるものか。
 ヴィアはごく当然のように、目の前の馬に手をかけた。ちょっとだけ苦労しながら鞍上で横乗りの姿勢を整え、そしてそのまま馬の腹を蹴ってしまったのだ。
(西の水場。西の水場)
 小気味よいリズムを刻みながら、馬は草地を走り出す。ヴィアの右手に握ったままの尾羽が、キラキラと光を跳ね返す。
(西の水場。森の西側のどこかよね。その内に誰かに会うだろうから、聞けば分かるわよね)
 ヴィアは、陽光あふれる草地から緑の薄闇の森へと向かっていっった。

 森の遥かな西の奥から、角笛の音が響いて来た。
 あれは王の笛だ。あちらの一団は、昼の休息に入ったのか?
「父上から昼食を一緒に取るようにとの使者が来るかな?」
 独り言の様にイルシオが呟いた。
「それにしても涼しい、良い風だ」
 西の水場には、頭上から無数の木漏れの光が差し込んでいる。光は浅い水面に反射し、陽光に煌めいている。地面には仕留められた角鹿が横たえられ、木の枝にはキジがぶら下げられている。
「で、マキスは何をやっているんだ? 随分時間がかかってるな。
 彼が戻ったら、こちらも森を出よう。もう昼食の時間だ」
 周囲に散らばったナロドニア家の従者達もまた力強く頷いた。彼らもまた空腹だ。自分も同じだ。本当に気持ち良い。心地良い空腹だ。
「気持ち良い風だ。木洩れ日が揺れ動いている」
 本当に良い風だ。最高の日だ。

 森を大きく南に回り込んだ丘の上では、サナタイとナロドニアが並べた馬の鞍上で、穏やかに言葉を交わしていた。
「とは言っても、それでもかつてに比べればこの森も獣の数が減ったと聞いているぞ」
「はい。特に熊などは、私が若かった頃に比べると、激減とも呼べる状況でしょう。残念ながら」
「そうだろうな。今日まだ誰も熊を見かけていない」
「王。そろそろ一度、草地にお戻りになりますか? よろしかったら私の天幕へどうぞ。昼食の準備をさせておりますので」
 落ち着いた平安な会話が、涼風の間に交わされていた。
 その頃。

 マキスは今、気付いた。
 一瞬の唖然の表情が当惑に変じ、やがて困ったように微笑んだ。
「私の御館の令嬢は……。油断をしていました。こんなにも御転婆な御方だったとは……」
 真横に座るアブサ夫人が、意味が解らないという顔を示す。
「奥方様。大変申し訳ございませんが、そちらの馬を一頭、御貸し頂けますか?」
「馬って、貴方の馬は……、あら?
 まあ! ヴィアったらまさか一人で森へ――一人で行ってしまったの!」
 予想通り、大声で大仰に驚いた。たちまち大騒ぎのお喋りの波が生まれる。あっという間に草地の女達の全員に広まっていく。
 まあ森にはいたる所に狩の男達が散らばっている。すぐに誰かが見つけるだろうから心配は要らないが、だが、森の中の道のりなど全く知らないだろうに。
「ヴィアったら従者も付けずに一人で馬を駆って出てしまったらしいの! あの子ったら、仮にも権門の令嬢の身分よ? それが一人で馬に跨ってよ! 森へ、一体何を考えてるのかしら、森へ一人でよ!」
 こちらの醜聞の方が。可哀想に。後で殿から厳しく叱咤されるぞ。
 マキスは同情と共に、素早い足で天幕から出発した。

 そしてヴィアは予想の通り、森の中で立ち往生をしていた。
 森に入り西へ向かう小道を取った。この道をたどれば水場へたどり着くと、単純に考えていた。
 だが、陽光はすぐに鬱蒼の木立に隠されてしまった。方向が読めなくなってしまった。さらにまずい事に、いつの間にか小道すら失ってしまっていた。
「森の西側は余り低木が茂っていない、高い樹が中心だから、だから獲物が多いって、今朝そう言っていたのに……」
 独り言の声色には、早くも心細さが混ざっている。
「今朝そう言っていたわよね、そうよね、イルシオ?」
 木々の間を抜ける風が、冷たく感じられる。とろとろした馬の歩みも止まりがちになる。取るべき方向が本当に判らなくなる。
 強く握りしめていた為だろう、キジの尾羽の細やかな羽先が、少し痛み出してきた。それだけでもう寂しさが増す。
「どこにいるの、イルシオ……?」
 ついに馬は止まった。
 不安の溜息を吐いた。尾羽ももうこれ以上汚したくない。ヴィアは自分の胸元を見渡す。どこか羽根を刺して置ける場所を探し、左胸のリボンの辺り、そこに羽根を刺すべく体の半分をひねり――
 衝撃が走った!
 何も解らない。衝撃と痛みの中から夢中で顔を上げた瞬間、竿立った馬の前脚が真上に迫っているのに気付く!
 短い悲鳴がヴィアの喉を突く。夢中で伏せる。地面に突っ伏す。
 ――
「ヴィア姫。大丈夫ですか?」
 そっと、柔らかく肩に触れて来る感触。
 即座、ヴィアは振り向き、必死でその腕を掴んで叫んだ。
「イルシオ! イルシオ!」
「申し訳有りませんが、私は貴女の兄君では有りませんよ、姫」
 はっと顔を上げた。
 視界に飛び込んできたのは、夜の様に黒い色だった。最初に覚えたのは驚きであり混乱であり、それが羞恥へと変ずるまでには速い呼吸五回分の時間が必要だった。
 ヴィアの頬は恥ずかしさで真っ赤だ。それなのに眼は、奪われた様に相手に魅入ってしまう。本当に、それにしても、
 ……なんて不思議な肌の色なんだろう。まるで夜の中だけを生きて来たみたい。冷たくて。何となく怖くて。でも……本当に綺麗。でも……、やっぱり怖い。
「そのように見つめて頂ける程の価値は、私の顔に有りませんよ」
 どきりと当惑したヴィアに、エアリアは優雅に微笑みかけた。
「落馬されたのですよ。あちらから弓矢が飛んできて、馬が驚いて棹立ちになったのです」
「弓矢が、なぜ?」
「大方、貴女様を可愛いらしい小鹿とでも間違えたのでしょうか?
 ――いえ。失礼を。馴れ馴れしい言葉をかけてしまいました。ああ、やっと少し笑って頂けましたね。安心しました。
 それにしても、狩場は女性には危険だというのに、貴女はどうしてたった御一人でこの様な所へいらしたのです?」
「……兄を訪ねて……。迷って……」
 差し伸べられた手を取って立ち上がる途中、言葉が途切れる。
 相手の顔の不思議な程の優美さに圧され、見られなくなる。相手にまだ礼を述べていない事すら忘れている。その時だった。
 左手の木々の狭間から、馬の蹄音が響いてきた。ヴィアは振り向いた。
(え?)
 こちらもまた、圧倒的な美しさの存在であった。
 小娘の存在など眼中に無いのか。彼女はふわりと自分の馬から降りると真っ直ぐにエアリアのみを見て進み、その横に並んだ。
(ターラ女王様?)
 ヴィアの目の前に今、長身の二人が並び立った。まるで……、まるでこの二人は、自分とは別の空気で呼吸をしているかの様であった。
 どちらも怖い程に美しい。どちらも独特の空気をまとっている。近寄りがたいほどに、他の人達からは遥かにかけ離れた存在感がある。加えて、
 今。加えて女王の長い、白い指先をもつ左手が、エアリアの首筋へと絡みつくように押し付けられたのだ。その様ときたら……。
 ヴィアの頭にたちどころ、アブサ夫人の噂話がよみがえった。何も考えず、感じた通りをいとも素直に声に出して尋ねてしまった。
「エアリアを探していらしたのですか、女王様?」
「――。随分無礼な口を効く娘ね。それに見るからに馬鹿そう」
(え?)
 いきなり強い風が音を立てて吹き抜け、樹々の枝を揺らす。ヴィアが一瞬そちらに奪われる。そして再び女王に目を戻した時、世界の事態はさらに変じていた。
 背中側の深い樹々の中から、さらに二つの馬の影が現れてきた。それがゆっくりと自分の方に向かって来ていた。
 決して勘の鋭くないヴィアですら、今や確実な緊張を覚え始める。掌が自然ときつく閉じてゆく。自分が今、異常な局面に陥ろうとしていることを本能的に感じ取る。
 現れた二つの騎馬姿、その両者の顔が全く同じである事に気づいた。その顔が陰湿な笑みを隠している事も。そして女王の美貌もまた薄く冷やかに笑っている事にも。
「何か――私に……」
 ヴィアは反射的にエアリアに注目する。この様な状況だというのに、アルグートの双子を出迎える彼の横顔は、何ともいえず上品に映る。
 ゆっくりとその横顔がヴィアを振り向いた。
「どうやら、女王と王子方は貴女様に御用があるようですので」
「待ってっ、貴方はどこに行くの? 行かないで、ねえ」
「申し訳有りません。私には別の用事が有りますので、もう去らないとなりません。御質問があるのでしたら是非、直接に皆様にお尋ね下さいませ」
「嫌っ、行かないで、お願い!」
「申し訳有りません。悪しからず。ヴィア姫」
 端的に告げるや、エアリアは一礼を垂れるとそのまま背を向けてしまう。本当に独りで、徒歩で、森の奥へと消えていってしまう。
「待って!」
 ヴィアの右の耳元で、馬の鼻息が間近に迫った。
 泣きだしそうな顔で振り返る。視界の中、頭の先から爪の先まで、服装までが同じ双子が、馬から下りてくる。その右側の方が、抱いていた赤子をターラに渡す。
 赤ん坊? 昨日の? 二人の弟の?
 なぜ、ここに?
 赤子は唐突、火が点いたように泣き出した。
「私に……何か用ですか……」
 赤子を抱いたまま、ターラ女王は笑みを見せた。
「最初はね、お前の兄の方にするはずだったのよ。あの小僧ったら腹立たしい事に私を捕虜に貶めてこんな所にまで連れてきたんだから。でもね、お前ときたら本当に呑気に、たった一人でこんな場所を歩き回っているのだもの。偶然にしては出来過ぎていて、笑ってしまうわ」
「だから、何を」
「お前はアルグートの女王の末子を殺して勝手に血の供儀を行う、卑劣な人殺しなの」
 弾かれた様再び赤子を見た。猛烈な声で鳴き続ける、丸々と太った愛らしい赤子。
 ヴィアの膝が、恐怖に震え始めた。
「……言っている意味が、解りません……」
 酷薄な笑みと共に、ターラの指がヴィアを指す。
「これからお前は、この赤ん坊を殺すの。そこを私の息子達が見つけ、お前を即座に成敗する訳。勿論、ナロドニア家にはこの不始末の責任を取らせるわ。最も望ましいのは連座の処刑だけれど、まあそれが適わなくても全私財没収の上での追放や全権限の剥奪ぐらいにはならないとね。サナタイ王も万々歳でしょう」
「何の話……? 王様まで――王様はなんで関係あるの?」
「お前が思い悩むことでは無いわ。ほら、そんなに馬鹿そうに泣くのは止めないよ。さあ、剣を渡すから。すぐに赤子を――」
「嫌! そんな……嫌っ」
「とても出来そうもないわね」
 するとターラは、自分の胸元から短剣を取り出す。赤子を左手で抱き、右手で短剣の柄を強く握り直す。ヴィアは絶叫した。
「待って! 止めて――っ、だってその子――貴女の子、自分の子! それをなぜ――自分の手で殺すの?」
 その瞬間、ターラが信じられないという顔を示した。それから赤子の泣き声を上回る大声で、華やかに笑い出したのだ。
「何が可笑しいの!」
「神の名において本当に馬鹿な娘だこと! 我が子を殺す母親がこの世にいると思っているの?」
「そうよっ、そんな母親いるはずない! なのに、なのに貴女――」
「こんな赤ん坊、初めて見たわ。昨夜、どこかで買ってきた子よ。私の可愛い坊やなら今頃、遠い場所の揺籠ですやすや眠っているでしょうよ」
「ターラ、もういいだろう?」
 ヴィアの背筋にぞくりとした恐怖が走った。
 自分を見続けている双子の視線に生々しい肉感が加わったのが分かった。女性としての本能的な勘が、凄まじい恐怖の警鐘を鳴らした。
「嫌――、神様……嫌――」
「ついてるな。まあ確かに、まず麦の穂を摘んでから麦わらを焼けっていう言い回しもあったしな」
「独り占めは駄目だ、ディル。俺達は双子なんだ。平等に分け合おうぜ」
 獲物を前にして二匹の犬は舌なめずりする。ギラギラした眼でヴィアを捕える。
 途端、ヴィアは崩れる様に地べたに突っ伏した。号泣に陥った。ターラのドレスの裾にすがりついた。
「嫌です! そんな事……っ。女王様、貴女だって女でしょう? お願い――!」
「裾を離して。そのまま墓場に行く方がいいって言うの?」
「待ってっ、女王様、お願い――嫌です! 私が貴女に何をしましたっ、どうして……何も――なのに私をそんな風に――そんなの酷過ぎる!」
「そういう怨み言を言われても困るわ。ただナロドニア家の娘だから。それだけ。他に理由は無いの」
「嫌! 嫌よっ、地獄に落ちるがいいっ」
「二人とも、早くこの小娘を引きずって行きなさい。その後は必ず殺すのよ。必要なのはこの娘の死体なのだから」
「待ってっ――」
「ラバスト。ディル。さあ、早く」
 伸ばされた四本の腕がヴィアを捕えた。凄まじい声を上げて彼女は抵抗する。ターラの裾にしがみ付こうとする。赤子が焼け付いた様に泣き続けている。
(助けて! イルシオ!)
 この瞬間、ヴィアの目に映ったもの。
 喚き続ける赤ん坊と、鋭い短刀の切っ先と、
 七歩先の地面に落ちているキジの尾羽。
(イルシオ――!)

・        ・         ・ 

「誰か、呼んだか?」
 馬の鐙にかけた足を止め、イルシオは振り返った。
 しかし後ろにつくマキスは、首を振って否定をした。
「全く……。ヴィアの奴、どこに迷い込んでいるんだか」
「済みません。私が目を離してしまったばかりに」
「お前のせいではないよ。本当にヴィアときたらいつも考え無しに動くから……。
 まあ、昼食時が終わって狩りが再開されれば、誰かが見つけ出してくれるだろうけど」
「今頃独りきりで道に迷い、寂しがっていますよ。私はもう一度、南の小川の辺りをたどって見てきます。貴方はこの辺りをもう少し探してみて下さい」
「分かった」
「では後で。イルシオ」
 泥を跳ね上げてマキスの馬は走り出した。イルシオもまた続いて馬の腹を蹴った。視界の隅で、木の枝に吊るし置いた獲物のキジがちらりと映った。
“キジを獲ってきて、私に、イルシオ”
(何だか、嫌に気分だ)
 陽はすでに、天頂から傾き出していた。
 水場に射し込む木漏れ日はゆっくりと傾きだし、光を受けるキジの黄金色もまた、表情を変えだしていた。
 長い時間が過ぎた気がした。
風が午後のものへと変わり出していた。
 長い時間が過ぎ、
 そして――
 森の全体を揺るがし、大きな長い角笛が響き渡った。
 弾かれた様にイルシオは振り向く。途端、背筋の皮膚の上をチリチリとした嫌な感触が走った。
(何があったんだ?)
 狩りの中止を告げる角笛が、何度も何度も繰り返し響いた。

(何があったんだ?)
 マキスもまた振り返った。
 視界の中では、厚く深く茂った木々が頭上を覆っている。光の遮られた風景に、不穏感が満ちていく。その中で聞こえてくるこの鳴り止まない笛の音だ。
(何かが、あった)
 即座にマキスは馬の腹を蹴る。角笛はかなり近い。これを真っ直ぐに追いかける。追いかけながらもう一度、この正午前から始まった違和感を思い返す。
 異変は、ヴィア。
(見つからないはずはないんだ。これだけ探しているのに。なのにどうしてヴィアは見つからない? そんなに森の奥へと入り込んだのか? なぜ?)
 小川の浅瀬を渡る。この辺りで木々はいよいよ厚みを増し、光の量が減る。暖かだった空気の感触が消え、冷気と湿気が増す。
 角笛は鳴り続けている。細い小道が途絶えがちになる。その上をマキスは強引に走る。もう笛は間近い。岩がちになった地面では、小さな川の流れが地表を濡らし、それを越えたところで大きく右に曲がり――
 思わずマキスは馬を止めた。
 物音を立てるのに躊躇した。
 ……アルグートの女王が、無言で泥の上にうずくまっていた。
 ぞくりと、マキスの全身に不吉な感触が走った。彼は馬から下りる。ゆっくりと、音を立てない十五歩で女王の真横に達した。
 身を丸く曲げて、伏している。
 顔を伏せたまま、身が細かく震えている。女王は泣いているのだ。
「アルグートの、女王陛下……」
 膝をつき、声を殺して泣く女王へと身をかがめ、手を伸ばし、
 ――その手が止まった。
 見つけた。かがんだ低い位置からの視界の右隅だ。白色。上質な織布の。
 探していた白色。その色が今、赤い血で汚れている!
「ヴィア!」
 素早く立ち上がり駆け出す。
「ヴィアっ、その血――!」
と、白い服を赤い血で汚したヴィアがよろめく様、這いつくばりながら後ずさった。
「待って! なぜ逃げる? 血が――その血は、ヴィア!」
 マキスはすぐに走り出した。が、その足が、あっとよろめく。何かにつまずきかけて大きく避けた。木の根か石か、何か。それを無視してそのまま走ろうとした時、
 今度こそ、彼は顔を歪めた。
 ぞっとする。――いや。絶句する。
 はっきりと見てしまった。自分がつまずいた物。木でも石でも無い。
 赤子だった。
 文字通り、血に塗れ、泥に塗れ、完全に息絶えた赤子だったのだ。
(あぁ……神様……)
 その赤黒い固まりから二歩離れた場所、ぬかるんだ泥の上、たっぷりと血を吸って、それでも鈍い光を帯びたままの短剣が落ちている。その短刀の最も近くに居たのが――、
 それは――つまり――、
 冷静を質とするはずの男が、冷静を失い出していた。即座に考え即座に事態を把握し即座に対策を立てなければならない現実が目の前にあるのに、思考が回らなかった。どう対処していいのか判らなくなり、その場に呆然と立ち尽くしてしまった。
 角笛はごく間近で鳴り響いている。すぐに殿も、イルシオも、王も、豪族達も、皆がここにやってくる。そして前方、ヴィアはよろけ倒れそうな足で、それでも森の奥影へ逃げ込もうとしている。
 笛が鳴っている。左手の奥の方から、早くも複数の蹄音が聞こえてくる。
 神様、どうすれば……

・         ・        ・
 
 猛烈な物音を伴いながら、百人を超すファウロの豪族やその郎党・雑役、その馬や犬達までもが集まってきた。森の中の狭い一角に全員がひしめき合っていた。
 犬が吠え続けている。馬は緊張の空気に激しく首を振っている。人間達はといえば、誰もが得手勝手に目の前の惨状に対して騒ぎ立て、憤慨し、あるいは泣き声を上げている。
 目の前の惨状だって? 
 どうして誰も手を付けない? 何とかしてやらない? 
 赤黒い肉塊と化してしまったあの可哀そうな赤子に。
(酷い様だ……あんな赤子に……)
(あの短剣……あれで……)
(双子の王子が最初に見つけて捕えようとした時、暴れ逃げて……)
(まさかそんなことが有り得るのか? まさかナロドニアの……)
「まだ見つからないのか!」
 サナタイの激怒に王城の衛兵隊長は身を縮めた。
「早くしろ! 小娘を逃がすなっ、そんな事になったら貴様を代わりに罰するぞ。
 ――ナロドニア!」
 ティタン・ナロドニアは、じっと立ち尽くしている。
 王の言葉など聞こえていない。最初からずっと、一言も口を効く事無く前方の泥にさらされている赤ん坊の死体を見据えている。眼は極限まで見開き、白髪交じりの眉を引きつらせ、口角を切れんばかりに横に引いたまま。
「ナロドニア! こっちへ来いっ、聞こえないのか、貴様っ、
 誰かナロドニアを引っ張って来い! 縄をかけてでも引っ張って来い!」
「お待ち下さいっ」
 その声もまた震えていた。ナロドニア家のイルシオは父の脇を離れ、夢中で王の許へ走った。
「お待ち下さい、父は今――、今、父は混乱をしています。ですから、私が。私が父に代わり、私が――」
「混乱だと?」
 サナタイは一度、言葉を切った。動揺の顔をさらすイルシオと向かい合うと、まずは一度、力任せにその顔を殴りつけた。
「何があっても貴様の一族はこのままでは済まさないぞっ。何が“血の供儀”だ、人目に隠れてこんな卑怯な手段に出るとは! しかもまさか小娘の手を使うとはな!」
「お待ち下さい、まだヴィアがやったとは決まっていません」
「よくも抜け抜けと……っ。女王の子息たちが目撃しているんだ! 彼らが嘘をついているとでも言うのか!」
「信じられません! ヴィアのはずが有りません、仔犬一匹死んでも何日も泣き続けるような妹です。あの子の優しさならば多くの人々が知っている。どうしてこんな――」
「それこそ私の知りたいところだ! 言えっ、ナロドニアが吹き込んだのか? それとも貴様か? 一族の誇りの為に無垢の赤子を殺せと命じたのは誰だ!
 あの娘――大人しい顔の小娘くせに、中身は最悪の売女が!」
 途端、現実に我慢しきれずイルシオの感情が暴走した。あらん限りに叫んだ。
「黙れっ、ヴィアへの侮辱は王といえども許せない!」
「何だと! 黙れ、下種が!」
「貴様こそ黙れ! ヴィアはやっていない!」
「それが王である私への口の効き方か! 貴様――!」
 サナタイの右腕が再び振り上がり、イルシオ向けて振り下ろされる。それにイルシオは応じてしまう。素早く身を右に逸らして王の拳を避けるや、逆に相手の腹を力任せに殴ってしまった。
 あっという声が周囲から上がる。サナタイは転び、泥の上に落ちた。次の瞬間、羞恥と激怒で真っ赤になった目がイルシオを睨んだ。
「こいつを捕えろ!」
 たちどころに周囲の兵達が飛びかかる。散々に抵抗をしたものの、イルシオは完璧に両腕を押さえ込まれる。それでもイルシオは叫んだ。
「ヴィアじゃない! ヴィアは人殺しなどしないっ、するものか!」
「黙れ、卑怯卑劣なナロドニア家がっ」
「卑怯呼ばわりするな! これはヴィアじゃない――ヴィアでは絶対に無い!」
「人殺しの一族が!」
 サナタイが怒りに任せて腰の剣を引き抜く。あぁっ、と群衆が叫ぶ。王の剣先が大きくイルシオの頭上に振りかざされる。が。
 ドサリという巨大な物音が背後から響いた。
 ティタン・ナロドニアが、倒れていた。
 一言も発さず、白目を剥き、口端から泡を漏らしながら失神してしまった。ナロドニアの人並み外れた矜持は、栄誉あるべき己の一族に降りかかった途方もない汚辱を、自らの神経ごと拒絶してしまったのだ。
「父上!」
 夢中でイルシオが叫んだのと同時だった。
 群衆の片隅からざわめきが起こった。
 ……
 人々の右手。北側の茂った木々の陰の辺り。
 四・五人の兵士達が黙々と現れてきた。
 彼らは、見事に任務を遂行していた。ナロドニア家の家令・マキスは後ろ手に捕縛をされ、蒼ざめた顔で連行されていた。そしてもう一人の捕囚は、
「ヴィア!」
 ナロドニア家のヴィアは、両脇を兵士達に掴まれながら、引きずられてきた。
 贅沢な刺繍取りをもつ白の衣装は、泥と血とによって散々に汚されてしまった。娘らしく結ってあった髪は完全に崩れ、泥と木屑に塗れていた。その顔は俯かれたまま完全に表情を失っていた。
「……ヴィア、そんな……」
 ここに、忌むべきナロドニア家の面々が揃ってルム王の前に突き出された。
 両腕を捕らえられたままのイルシオ。捕縛されたマキス。ふらついたまま両脇から支えられているヴィア。虚空に白目を剥いて倒れたナロドニア。
「この……呪われるべき悪党どもが」
 凍りついた沈黙をサナタイが破った。
「貴様達はどんなに処罰を受けても文句は言えないはずだ。特に貴様――虫も殺さなそうな可愛い顔をしながら無垢の赤子を惨殺するとはな。淫売がっ」
 押さえつけられた両腕を引きちぎらんばかりにイルシオが叫んだ。
「ヴィアを見るな! サナタイ!
 貴様の汚い目でヴィアを見るなっ。誰だ、ヴィアをこんな目に合わせたのはっ。サナタイ、貴様なのか? ヴィアを見るなっ。ヴィアのはずがないっ、赤ん坊を殺したなんて、誰がそんな汚らしい濡れ衣をヴィアに――見るな!」
「罪を認めないのか? ――ラバストっ。ディルっ」
 やっとその名が呼ばれた。
 人垣の一番後方、薄ら笑いを浮かべて成り行きを見続けてきた双子が今ようやく、二人揃った足取りで王の前へと進み出てきたのであった。
 どこか犬を思わせる顔が二つ並び、まずはルム王に対してわざとらしい礼を捧げる。続き、心底より面白そうな目付きでイルシオ達を見据えて笑った。
「ラバスト。ディル。両名に聞く。お前たちの神に賭けて、真実を言え。
 お前たちは見たんだな。この娘が短刀を使ってお前たちの弟を刺殺していたところを」
 兄か弟か。右側の方があっさり答えた。
「その通りだよ」
「嘘を――! よくも抜け抜けと嘘を!」
「俺達は弟の仇を取ろうと、すぐにあの娘に襲いかかった。一度は森の中に逃げ込まれたが、今ようやく逮捕できたってところだ」
「嘘だ! 違う! なぜヴィアに真実を喋らせない!」
「その通りだな。いいぜ。面白い。喋らせてみろよ、構わないぜ。なあ、ラバスト」
「ああ、構わない。弁明させてやれよ」
 意外なことになった。
 イルシオの要求が通ったのだ。
 王に認められ、すぐ様イルシオは押さえつけられていた腕を振り払った。彼はたった三歩で妹も前に達すると、まずは力強く抱きしめる。くしゃくしゃ振り乱れ屑塗れになった髪をそっと撫で、それからあらためて妹の正面に立った。
「ヴィア……可哀想に……。なんでお前がこんな目に――」
 俯いたままの妹の眼を必死で見た。
「こんな目に――お前が赤子を殺せるはずないのに……」
 イルシオはそっと、妹の頬に両手を当てた。ゆっくりと頬を撫でた。顔を持ち上げ、慈しむ様にそれを自分に向けて――
(え?)
“キジを獲って来て”
 初めて、気づいた。おかしい。
“頭巾の飾りにすると、キジの尾羽”
「ヴィア……どうしたの、こっちを見て……」
 ヴィアが、おかしい。イルシオは呆然と立ち尽くす。
「なにが……どうしたんだ? 私が分からないのか? さあ見て、私を――」
「駄目なんだ」
 後方から縛られたままのマキスが、小声を漏らす。
「ヴィアは、答えられない。何も、答えられないんだ」
「答えられないんだよ、このお姫様はよっ」
 双子が同時に笑った。
「答えられないんだよ、完全にいかれてしまったんだよっ。神にかけて狂ってしまったんだよ」
「貴様――! 貴様達がヴィアに何かしたのか――!」
「さあね、罪の意識だかね、神の罰だかね。知るか。
 さっさと殺しても良かったんだが、でも完全に狂ってしまって、何も喋れなくなってしまってさ。何も分からないんだよ。だから面白くてなっ。笑ってしまうぜ! まさかこんな風になるとはな! 神はきちんと見ているって事だ!」
 双子の下卑た笑い声が響き渡る。
 その時、イルシオの直感が動いた。
 全てが理解出来た。ヴィアの身の上に起こった事。正気を失う程の恐怖。双子の馬鹿笑い。――この双子にされた、正気を失わさせられる程の深い傷!
 イルシオの両腕が、双子の一人の首を鷲掴む。それをへし折ろうと力づくで押し倒す。
「イルシオ、止めろ! イルシオ!」
「奴を捕えろっ、早くっ」
 怒声やら悲鳴やらが一斉に上がる。短い混乱の果て、気がついた時イルシオは、鳩尾への酷い激痛と共に泥の地面の上に叩き落されていた。
「静まれ! 騒ぐな、皆聞けっ」
 サナタイの声が、騒然を上回って響いた。
「ルム王である私が命ずる!
 ナロドニア家の面々、ティタン・ヴィア・イルシオ・その家令も含め、全員を王城の獄に繋ぐ。審問の上、それぞれに相応しい刑罰を下す」
「ヴィアには手を触れさせない、貴様っ、それに双子! 地獄に落としてやる!」
 地面に倒れたままのイルシオの腹を、ディルが思いっ切り蹴った。為に残りの呪詛はせき込みの中に消えてしまう。それでも抵抗する。胸に縄をかけようとする兵士達に必死で抵抗しながら夢中で叫び続ける。
「ヴィアには絶対に――呪われろ、双子! 殺せたのに――戦場で殺せたのに……殺しておけばよかったんだ、悪魔が!」
 イルシオの両腕は完全に捕縛された。もう一度強く蹴られ、そして“全員を連行しろ”との王の声が響いた。
その時だった。
 ……
 ざわめき立っていた人々の声が、ゆっくりと引いてゆくのが分かった。
 なぜだろう?
 この男が現れるといつも、不思議と空気が変わる。誰もが口を閉じ、注目してしまう。
 アルグートの女王の相談役は、今、やっと、姿を現れた。
「エアリア、こんな時にどこにいたっ」
 全く、彼一人だけはこの場からは全く程遠い態であった。彼は、落ち着いた動作で深い敬意をルム王へと示すと、ゆったりとした口調で告げたのだ。
「申し訳有りません。天幕へと運び込まれましたターラ女王の傍らにて看病をしていました。
 女王におかれましては、先程ようやくお気を取り戻されました。慈しんでおられた幼き王子の死に大変な衝撃を受け、涙を流していられましたが、しかし、それでも今すぐに寛大なるサナタイ王陛下に奏上したい御言葉があるとの事でございます」
「何だ?」
「女王はルム王陛下に、感情的な裁決は避けて頂きたいと願い出ておられます。この件で必要以上にナロドニア家へ対して厳罰を下すのだけは回避して頂きたいとの御言葉でした」
 え?
 と、誰もが思った。
 誰よりも驚いたのは双子だった。
「なぜだよっ」
 確かに、何故だ? 
 己の息子を殺されたんだ。怒り狂って復讐を願うのが正当だ。しかもこれで憎い戦敵ナロドニア家を一掃できるというのに。
 双子が不満顔をさらす。エアリアはゆっくりと告げた。
「はい。申し上げます。
 少なくとも現時点では、家長ティタン殿に対する正確な罪状は立証されていません。家令の方も、姫を護って逃がそうとして兵達と揉めただけです。取り敢えずこの御二方は、今現在の時点では逮捕されるべきではないでしょう。
 イルシオ殿につきましては、ルム王陛下を侮辱した罪は確かに甚大ですが、しかしながら先の戦役においてアルグートの兵士や民の生命を保証して下さった点について、女王は恩義を感じられていらっしゃいます。ルム王陛下におきましては、深く御配慮をして頂きたい旨を、願い出ておられます。
 如何でしょうか。陛下の御寛大と御慈悲を、是非ともお示し頂けたらと願う所存です」
(なぜだ?)
 疑念は、それでなくとも限界まで混乱したイルシオの思考と感情をも激しく混乱させる。
「どうして――?」
 泥の上に倒れたまま、イルシオは呻きように声を漏らした。振り上げた視線は、エアリアの目と真っ向から向かい合った。
 エアリアの、夜の闇のように冴え冴えと冷えた眼。
 熱く怒りたぎったこちらの感情すら吸い込み、熱を奪い、そして薄ら寒い恐怖へと誘っていくような、冷たく冴えた眼。
「イルシオ殿。お立ち上がり下さい」
「……エアリア」
「貴方には泥に塗れているなどは、相応しく有りませんよ」
「……」
「さあ」
 混乱した世界の中で、エアリアの眼だけが涼しく、優雅だった。



【 続く 】
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