エリン島・灌木の丘と乳色の霧

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エリン島・灌木の丘と乳色の霧(2)

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8・ アーサフⅡ



 霧は、乳の様だ。
 エリン島の中心の近く。その朝もまた、濃く淀んだ乳白色の霧が見渡す限りの世界を覆いつくしていた。世界を閉ざし、閉じ込めていた。

 その中を、アーサフは歩いていた。
 独り歩いていた。
 歩いていた。昨日と同じく。その前の日と同じく。この数週間と全く同じく。
 歩いていた。無言で。止まることなく。
 止まることには恐怖に似た感触があった。だからひたすらに歩いていた。背中の側から自分を追いかけてくる存在がある気がした。それが現実だかは判らない。だが目に見えない何かが常に自分を追いかけてくる気がした。
 追いかけてくるもの。敵? 刺客?
 確かに、自分を抹殺したいと狙う者はいるだろう。でも、違う。
 悔恨だ。追いかけてくるのは、歯ぎしりしたいほどの悔しさだ。
 何も出来なかった。モリットの掌の上で罠にかけられた。転がされ、弄ばれ、散々に嘲笑され、その挙句に全てを奪われて失った。
 失った。
軍勢。王国。妻。――親友の命。
 でこぼこと荒れた小道の上、アーサフの足が止まった。
 涙は出ない。
 泣くことの無意味さはとっくに学んだ。代わりにやるべき事は、足を前に踏み出す事だった。今は、失われた自分の国・リートムを離れ、行くべき場所に行くだけであった。それだけが今の自分に出来る事であった。
 ……
 朝の霧は長引いている。
 この数日、リートムから見ると西の方向ショーティア湖の方向へと向かう街道には、ほとんど人の姿が無かった。いつも静まり返っていた。それがこの夜明けから、少し様相が変わっている。深い霧の中だというのに、街道の上に、ぽつりぽつりと行きかう旅人が現れ出しているのだ。
その理由は、ほどなく解かった。霧のはるか向こう側、本当に僅かずつだが、薄く輪郭が結ばれ始め、小ぶりな建物があるのが解かった。どうやら街道の果てに旅籠があるようだ。
(気をつけろ。極力顔は見られるな)
 アーサフは緊張を覚え、と同時に安堵をする。ここで一度、誰かに尋ねることができる。自分のたどる目的地への行程を確認できる。そして、
(ここで、何かを食べることが出来る)
 昨日からずっと続いていた空腹をこれで終わらせることが出来る。これが何よりの助けだと思った。
 進む足が勝手に速くなっていく。一歩ごとに輪郭線は太くなり、予想していたよりかなりに大振りな石造りの旅籠であると分かる。
(思いの外に、人が多いな)
アーサフは思う。確かにかなり騒々しい。十人を上回る旅人たちが、旅籠の扉口を出たり入ったりとしている。
(気をつけろ。注意を引くな。人に顔を見られるな)
 一度だけ立ち止まり、軽く息を吐く。そのうえで扉口ではなく、そのすぐ脇、低めの木に布を干している女の許へと向かった。
「何、あんた?」
 いきなりだった。目があった瞬間、女が鋭い眼で睨んで早口を発した。
「何か用なの?」
(気をつけろ。自然にふるまえ)
「パンを買いたい。それと干肉を」
「あんた、金は持ってるんだね?」
「持っている」
 懐に手を入れ、小銭を出して見せる。途端に女は愛想良く言った。
「だったら中で食べていきなよ。今朝は豆入りのスープを作ったよ。美味しいよ。ほら、ここにいても良い匂いがするだろう?」
と言われた途端、その通りに鼻は温かい香りをとらえた。抑えつけていた空腹感が一気に体の内側を締めつけた。
「いや。いい。パンと干肉だけで」
「あ、そう。それだけ」
 まるで捨て台詞のよう。女は言うとそのまま旅籠の中に戻り、間もなく一片のパンを持ってきた。思いの外に少ない量に思わずアーサフの顔が歪んだのを、彼女は意地の悪い目で見捕えた。
「何よ。文句があるならもっと金を出しな」
「……いや。いい。これ以上は金がないから。
 西のショーティア湖までは、ここからどのくらいかかるんだ?」
「七日」
「え? そんなにかかるのか? そんなはずは無い」
「街道を七日よ」
「そんなはずは……。先日聞いた話では、この辺りからならばあと三~四日もあれば十分に到着できると――」
「なら森を突っ切れば?」
 女はもう不愛想な顔に戻り、そのまま顎で右の方向を指した。
 ふと気づくと、周囲の霧が薄れだしている。風景が少しずつ見通せるようになっている。彼らの立つ場の右手は、急な斜面を下った低地が見通せた。その広々と展開した低地の一面に、樹々が深々と茂った黒い森が広がっていた
「この森を横切れば近道なのか?」
 アーサフの言葉に振り向こうともしない。洗濯物干しに戻りながら女は言う。
「大幅に近道にはなるわね。野宿も構わないで早足で歩けば三日で行ける。だけど止めておきな」
「なぜ?」
「追剥が出るんだよ」
「追剥――追剝ってどういう種の追剝なんだ?」
「詳しくなんて知らないわよ」
「その追剝とは、何人ぐらいいるんだ? 悪質なのか? かつて捕えられた人々はどのくらい――」
「うるさいわねぇ、知らないっていったでしょう? 用は終わったんだろう? さっさと出ていきなよ!」
 何が不機嫌なんだか、旅籠の女は怒鳴りながら干し仕事を終えおえるや、さっさと建物の方へと向かって行ってしまった。相変わらず頻繁な旅人たちの出入り、そしてゆるい風に揺れる洗濯物の許にアーサフは残されることになってしまった。
 霧は着実に薄れ出してゆく。辺りは鮮やかに視界が広がっていく。ようやく現れた薄日の下に、低地の黒い森は遠くまで広がっている。
 行程の長短……。追剝の危険……。
 アーサフの迷いは、思いの外に短かった。
 追剝に遭ったとして、取られるような物は持ち合わせていない。先祖伝来の緑石の指輪も、銀の細工彫りの護符も、街道の始まりにあったニレの大木の根元に埋めた。いつか戻って来ることを誓って。
 加えて、手持ちの最後の金も、先ほどのパンで消えた。自分が身に着けた財は、このパンと干肉だけだ。それ以前に、たった一人のみすぼらしいなりの旅人に、敢えて追剝が狙いをつけるだろうか。
 一刻も早くたどり着かなければ。ショーティア湖へ。そしてそこで取り敢えず身を隠さねば。そして。
「伝えなければ」
 口に洩らしたと同時、また感情が足底から遡ってきた。内臓の芯が締め付けられてゆく感覚に襲われた。
 ショーティア湖の、その東の岸にある城にたどり着き、そして伝えなければ。そこにいる女城主に伝えなければ。
 貴方の息子が天に召されたと。
 私の愚かな無謀と失態のせいで、さらに私と血縁であったがゆえに、貴方の息子が真っ先に抹殺されたと。
「お前、邪魔だ、どけっ」
 身体の真横を、荷馬車が勢いよく出立していった。旅籠の賑わいの光景がアーサフを現実に引き戻した。
 ディエジは死んだ。泣いても喚いても現実は変わらない。だから今自分に出来るのは、進むことだけだ。アーサフは自分を取り巻く現実を、自分が採るべく行動を、もう一度確認する。
 さあ。今からショーティア湖のディエジの領に行く。取り敢えずそこを拠点とし、そこから失われた家臣たちを探す。探し、集結しなおし、リートムを取り戻す。ディエジの仇を討つ。
「あんた、どこへ行くんだ? 街道はこっちだぞっ」
 背中の方で、先ほどの荷馬車の旅人が声かけた。
 アーサフは振り向かなかった。足は先方の斜面へ、斜面の向こう側に広がる黒い森へと歩み出した。

            ・      ・      ・

 思い出されるのは、いつも同じ。
『御無事で。お帰りを待っています』
 そう言って抱き締め合った少女の感触。
 その時は遠い過去になった。全てが狂った。
『貴方がリートムの王様?』
 無垢の、屈託のない笑顔。その少年が全てを引っ掻き回した。嬉しそうに、楽しそうに、面白そうに自分の運命を狂わせてしまった。その果てに今、自分は森の中を独りで歩いていた。
 ……
 朝霧はとっくに消えていた。陽は高くなっている頃合いだ。
だが低地の森は、鬱蒼とした枝に高く覆われていた。頭上からの光が遮られて、薄暗い世界だった。その中を、アーサフは歩いていた。
 風も抜けていない。霧は消えたというのに、名残のひんやりとした湿気が肌に触れている。
何となく落ち着かない、と思った。薄暗さと肌寒さのせいだろうか。意味を成さない不安感が肌にチリチリと触れていた。
「それでも――」
 独り、声にして発する。
「それでも、行くべき道を行くしかないのだから」
 声はこもるように森に響く。
「今は考えるな。歩け。食べ物も底を突く。だから早く森を抜ける。それだけだ」
 確かに、腹が減っている。先ほど買ったパンと干肉にはまだ手を付けていない。どうやらこの先には食物を調達できるところは無いらしい。何があるか分からないからギリギリまで取り残しておく。
「早く抜けろ。早く目的の場所へ。やらなければならないことがあるのだから」
 森の中の荒れた、人けの果てた、道とは呼べなくなった道を早足で歩む。放っておくとすぐに頭を支配しそうになるあの兄妹の姿を振り切る。
木立が茂り、周囲は薄暗い。空気が冷えている。気付くと、先程まで賑やかだった鳥の鳴き声が消えていた。物音すら絶えていた。その静まり返った森を、奥へ奥へと進んでゆく。
 早く。早く歩け。一刻も早くこの森を抜けろ。
「抜けろ。早く抜けろ。急げ。私にはやるべき――」
 ポキリ
 アーサフの声と足は同時に止まった。
 静かに右を振り向いた。が、何も無い。樹々の連なりだけ。
 冷えた風が、体に触れた。じっと立ち止まった。体中の感覚を周囲に向けた。
 再びの冷えた湿った風。音は無い。薄暗い森。誰もいない。――いや、また、
ポキリと、再び枯れ枝を踏む音がした。確かに。
誰かがいる。誰、
 ――追剝?
「さあ。早く行こう。早く」
 落ち着け。向こうは身を隠している。今は気づかない呈でそのまま進め。
「早く歩け。急げ。森を抜けないと」
 わざとらしく大声を発しながら歩き続ける。
 落ち着け。ここで走っても分が悪い。相手が襲ってきた時に反撃する方が良い。そして勝ち目無しとなったらそのまま身を任せた方が良い。取られて困る物など、命以外に無い。追剝の方も、こちらの命を奪っても利は無いはずだ。
 急いで状況を判断する間にも、歩く足は速まる。荒れた小道に沿い、アーサフはどんどんは森の奥へと進んでゆく。
 落ち着け。下手に走るな。このまま気づいていないふりをしろ。
 はっと、足は再び止まる。今度こそ明らかな音がした。
……違う!
獣が喉を鳴らした音だ!
(止めろ! まさか、そんな……何がいるんだっ)
 途端、体じゅうが緊張する。素早く見まわした視界の左側、下藪の中、ついに黒い獣の輪郭が見えた。
狼だ!
ならば逃げ切れない! 即座に判断する。それでも反射的、アーサフの足は地面を蹴った。と同時、狼が短く吠えた。自分を追って走り出した。
 狼では逃げ切れない。逃げ切れる訳がない! 分かってる。だからとにかくどこかよじ登れる樹を探せとアーサフは必死になる。
 突然、狼は彼の右側に迫った。アーサフの右足が大きく踏みとどまり左へと踏み出す。道を外れてやみくもに森の中に逃げ込む。どこか登れる所をさがす!
 また狼が右に回る。またもアーサフは方向を変える。思わず目の前の樹にぶつかりかけたものをすんでで避ける。
(逃げ切れないから、だから登れる樹を、早く!)
 早くも息は切れだし、心臓は痛みだす。だが立ち止まったら最後だ。どこでもいい、どこでもいいから
(登れる樹! 早く――早く!)
 あった! とその瞬間、猛烈な希望の感覚が走った。視界の左手、低い位置に太い枝を張らせている樹がある。あれを目指せ。あれに登れ、登って足場を固めろ、そこで待ち構え、狼が跳躍してきたら短剣で――
 次の瞬間に起こったことを、アーサフは全く理解できなかった。
 狼ではない。それは分かった。だが、後は分らない。
 分らない。狼ではない。だが自分の体は、完全に地面に倒されていた。太く重い縄で編まれた網が体に絡み、地面に重く抑えつけられたまま全く身動きが取れなくなっていた。
「何が!」
 そう叫んだ瞬間、脇腹に衝撃が走った。息が詰まる程の激痛にうめいた。何が――!
「何がっ……、誰だ」
「誰だ」
 冷めた言葉が、静かに降ってきた。
 必死に首を振り上げ向いた時、ようやく視界は捕えることが出来た。そこに、自分を見降ろしている男がいたのだ。
「追剝か!」
 途端、二度目の衝撃が脇腹の同じ場所に走った。男に派手に腹を蹴られたのだ。
「こっちが聞いている。言え。何者だ」
 次に走った苦痛は、右肩だった。男がゆっくりと右肩を踏みつけて来る。その表情に全く感情が無い。丸きり、アーサフを人として見ていない。丸きり、文字通り落し網の罠にかかった獲物としてしか見ていない。
「早く言え。それとも食い殺さるか」
 男の横では、巨大な黒い犬もまたアーサフを間近からのぞき込んでいる。狼と見間違えたのはこれか。この良く訓練された犬に追われて、自分はまんまと落し網の罠の下へ追い込まれたのか。
 右肩の痛みが確実に強まってゆく。男は少しずつ、にじるように力を強めて、肩を踏みつけてくる。
「早く答えろ」
「私は、ただ――」
 どう答えればいい? 追剝なのか、この男?
「……森を抜けた場に住む知り合いの許へ行くために旅をしていただけだ、足を離してくれ」
「嘘をつくな。ただの旅人が危険を冒してこの森に入ってくるか」
「私は、ここが危険な場とは知らなかった。本当に知らなかっただけだ」
「その言葉遣いなら、豪族の身分だな。どこの国の者だ」
「違う。誤解だ、私は違う」
「どこぞの密偵か密使だろう? どこの国の者だ」
「違う、だから誤解――」
 その時、男の足が肩から喉に動いた。いきなり喉を踏みつけてきた。たちどころにアーサフの息が止められた。
(止めろ!)
 アーサフは必死で身を動かして逃れようとする。
「早く言え。白々しい嘘が通用するなどと思うな」
「……、なぜ信じてくれない」
「少し見てればすぐ判るんだよ。言葉遣い。見た目。歩き方。身のこなし。今までどれ程の人数を見極めてきたと思ってるんだ」
 喉が痛い。息が苦しい。必死で身をねじらせてもがくが、重い網と男の右足が完全にそれを阻んでいく。
 喉が熱い。息が苦しい。考えられない。その中で分かったのは、この男の罠と策は完璧だという事だ。
 この男、何者だ? ただの追剝なんかじゃない!
「右の掌を見ただけでも判る。ただの農民や商人では無い。豪族だ。
 名前は? 目的地は? 任務は何だ? どこの小王に仕えている?」
 息が出来ない。熱い。苦しい。考えろ。どう答えれば良い? 苦しい。考えろ。
「言え!」
 考えろ。出来ない。喉が閉まって息が出来ない。目が霞んでくる。目の前の男の顔が霞んでくる。苦しい。考えろ。
「早く! 言え!」
 考えられない。息が出来ない。男の顔が黒い森に消えてゆく。
 アーサフは、気を失う。

・             ・             ・

(行ってらっしゃいませ。御無事で)
 少女は、笑む。
(あなたが王様?)
 笑んでいる。あの少年。自分の命運を狂わせたあの少年。
 幻影は、いつも同じだ。何度も何度も繰り返し浮かんでは、消えてゆく。アーサフを離さない。苛み続ける。
 いつになれば逃れられるのだろうか。いつかはこの苛みの心象から逃れられるのだろうか。いつか、再び、リートムの王として元の場に戻った時には、この心象を打ち砕くことが出来るのだろうか。
 そしてさらに、アーサフを捕えて逃そうとしないもの。
 現実だ。たった今の。
 目を覚ました時、現実はそこにあった。
 ……
 アーサフは、狭い場所にいた。
湿り気のある壁に覆われた、何もない、極めて狭い場所だった。そして目の前には、鉄の格子があった。その格子の向こう側には二人の男がおり、自分を見ていた。
(……落ち着け、取り敢えず)
 まだ覚醒しきっていない頭を、必死で動かす。全身の神経を使い、今自分に何が起こっているのかを読み取る。
 自分は、拘束されたのだ。目の前の鉄格子の向こうには、自分を拘束した賊がいる。一人は先程の、犬を操った若い男。そしてもう一人は、壮年の男。
そしてこの壮年の男が、まだ覚醒し切っていないアーサフの目を奪う。見るからに引き締まった表情と落ち着き払った態の、どう見ても並の男には見えない風体だ。明らかにこの追剝だか盗賊だかの首領だろう。
「起きたな。で。何者だ」
 その首領が、低い声で尋ねた。
「身を検めたが、書簡などは持っていなかったな。情報は口上か。それとも密使ではなく別の任務か」
 落ち着け……。考える時間をかせげ……。
「私は――ただ、森を横切ろうしただけだ」
「――」
「身を検めたんだろう? 何も持っていない。金も持って無い。――食料も、あれが最後だ。だから……だから急いでいた、急いで知人の所へ行こうと――」
「――」
「何かの誤解だ、信じてくれ。解放してくれ……」
「――」
 首領の眼が、じっとアーサフを見据えている。彼の弁を、彼の様を、一分の隙も無く見捕えている。吟味して、判じている。息のつまるような緊張感を、アーサフに強いる。
 そして言った。
「どこの王に仕えている?」
「……」
 掌の中に冷えた汗が生じるの感じた。
この男、本当にただ者では無い。この男こそ、何者なんだ?
そして、どうすればこの状況から切り抜けられるんだ。
「まさかただの旅人で白を切り通せるとは思ってないだろう? 豪族だな、しかもかなり上の階級だ。それがたった一人で何をしている? どこの者だ? 出仕する王は誰だ?」
 絶対に自分の素性を知られてはいけない。だがどう答えれば良い? どうすればこの牢から出られるんだ?
「答える気はないか」
 押し殺した顔のアーサフに向かい、首領は言った。そして続いた、静寂。静寂なのに焼けつくような、視線。
「ならば答えなくても良い。好きにしろ」
 え?
 首領はアーサフを見据えたまま、眉一つ動かさずに続けた。
「答えなくても良い。答えない限り、食料は与えない。餓死しろ」
 何だって?
「我々の目的は、貴様の王かもしくは貴様の家族から身代金を取ることだ。もし答える気になった早く言え。答えたら、食料を与える。ただし下手な嘘はつくな。貴様が正体を言ったら、我々は必ず真偽の確認をとってから金の要求をする。貴様が嘘を付いていればすぐ判る。嘘だった場合は、最悪の死に様を貴様に与えてやる」
「私は……豪族では無い。家に金などない――信じてくれっ」
「まだ騙せると思っているのか? まあ良い。我々の見立て違いだとしても。
 とにかく貴様が身元を自白したら、食料をやる。このまま言う気が無いならそれでもいい。好きにしろ。我々の手間は、餓死した貴様の死体を森に捨てることだけだ」
「そんな事――止めろ……」
「言う気になったら、告げろ」
 その途端、男たち二人は立ち上がった。もうアーサフに見向きもしなかった。鉄格子の外側の、通路と思われる場から早々に歩み去ってしまった。
 本当にアーサフは狭い、何もない空間に置き去りにされてしまった。





9・ ディエジⅡ



 その同じ時。
 同じエリン島の中。低地の森から遠く遠く離れた場所。
 そこにもう一人の囚人がいた。
 彼は、両手首を枷でくくられていた。右の足首は枷と鎖で、壁につながれていた。
 そうやって彼は、すでに長い日々を獄で過ごしていた。

 ガチャリ
 鍵を開ける音に、顔を上げた。生来の機敏さそして警戒心を全身に走った。
 もっとも、警戒の必要は全くない。いつもと同じだ。今日も現れたのは、とっくに顔なじみとなった小僧であった。
「よう。今日も外は雨が無さそうだな。いい日だな」
 嫌味なまでの明るさで言った。
目の前で小僧は、びくびくと怯えた顔のまま、食事の皿を運んで部屋に入ってきた。その眼は怯え、恐れきっていた。
 まあ怯えるのも仕方が無いか。この小僧と会った最初の瞬間に、彼はさっそく相手の首を締め上げたのだから。
 ……
「俺をここから出せ! さもないとこのガキの首をへし折るぞ!」
 ここへ連れてこられ、この部屋で枷を付けられたまさにその日、さっそく最初の食事を運んできた小僧をねじ伏せ、枷でくくられた両手でその首を押さえつけた。扉の外側――通廊へと向かってすさまじい大声で怒鳴った。
「ここはどこだ! 誰の城だっ、とにかく今すぐ俺を解放しろ! さもないとこのガキを今すぐ殺すぞ、誰か来い!」
 小僧が大声で泣きだす。
「早くしろ! 誰か来い! 早く!」
繰り返し叫ぶ。叫び続ける。叫び声だけが通廊の石壁に響いている。
「誰もいないのか! 早く来い! 早くしろっ、早く!」
随分長い時間に感じられた。騒ぎ声を聞いてやっと、ようやく、ようやく扉口に現れたのは、ただ一人の男だった。
 途端、彼は一層の大声を張り上げた。
「早く枷を外せ! さもないと今すぐに殺すぞ、このガキを!」
「好きにしろ」
 小僧の泣き声が悲鳴になった。彼もまた一瞬、気を奪われたかのように目を見開いた。
 それを前に城主とおぼしき男は何の感情も無い、事務的な口調で簡単に告げた。
「その小僧が死んだら、代わりの子供を呼ぶだけだ」
「――。この野郎が……」
「さらに言えば、その小僧から何か聞き出そうとしても無駄だ。つい先日に他所から連れてきた。この地や城については何も知らない。無論、貴様の素性も。事情も」
「なら貴様が言え。何なんだよ、これはっ。ただの敗戦の捕虜の扱いじゃないだろう、これは!」
 しかし城主はさっさと背を向ける。
「待て! 俺を捕えたのは誰だ、バリマックのカジョウなのか! 他の皆は今どこにいるんだっ、アーサフは無事なのか!」
 城主はそのまま消えた。
 その時から延々と、延々と、ディエジはこの部屋に枷でつながれていた。

「俺の名はディエジ。ショーティアの領主。リートムのガルドフ家のアーサフ王に仕えている」
 小僧は、出来る限り遠い場所に立ち、そこから食事の皿を床に置くと、腕を伸ばして押し出した。怯えた顔で、小声で言った。
「もう言わないでください」
「リートムの軍勢が外地に出陣中に、街がバリマック族に急襲されてしまった。リートム王は自ら街へと偵察に向かい、俺達は離れた僧院に待機していたんだが、その日の正に深夜だ、僧院に素性の分らない軍勢が突然押し寄せて来た。まさかの事に俺達はあっけなく押さえ込まれてしまい、そこから先は俺も何も分からない。俺は、捕縛され、目隠しをされ、そのままここに運ばれて鎖に繋がれた」
「……。私は何も分かりません」
「以前にも他国との小競り合いに負けて捕虜になった事がある。その時も身代金が出るまでの間、牢へ押し込まれていた。だから判る。――ここはおかしい」
「分かりませんから」
「おかしい。なぜだ? なんでこんなに待遇が良いんだ?」
「知りません」
「毎日温かい食事が出る。寝る時の掛布もくれる。第一、ここは牢では無いだろう? 前の牢は真っ暗で、床は水で湿っていたというのに、ここは全然違う。高窓から光が入る。風も入る。普通の部屋だろう?
 何でこんなに良く扱われるんだ? 何が目的なんだ? マクラリや他の従臣達も同じ扱いなのか? 俺だけなのか? 彼らは今どこにいるんだ? この城か?」
「知りませんからっ」
と言い捨てるや、小僧は怯えた顔のまま逃げるように扉の向こうへと消えた。昨日と同じく。その前の日と同じく。扉の外では、錠を下す金属音だけが響く。さらにその前の日と同じく。
 そうして、日々だけが過ぎてゆく。
もう、あの城主と思しき男は、姿を現さない。
何も、分からない。あの高窓の向こう、外では何が起きているんだ? 皆はどこにいるんだ? 自分はどうなるんだ? そして、それより、
アーサフは無事なのか? 生きているのか!
苛立ちと不安に、身体が震えそうになる。神経が焼き切れそうになる。誰でもいい、何か教えてくれ! 自分をここから出してくれ!
「出してくれ!」
 ディエジは叫んだ。勿論、応じるものは無かった。
……高窓の外では。僅かに見える空が少しずつ、少しずつ薄い赤味を帯び始めている。もう午後もかなり回ったのだろうか。
そして夜が来る。今日も暮れようとしている。

・            ・           ・

 夜の、しじまの中だった。
 扉から、僅かに金属の音が響いた。

 その微かな音にすら、ディエジはぴくりと反応して目を覚ました。
 あの小僧が来たのか。もう朝か。
(違う)
 まだ朝ではない。まだ高窓の外に光は無い。室内は闇だ。まだ夜だ。
(何かが)
 身を起こし、包まっていた掛布をすばやく取り払う。身体中にピンと緊張が走る。今日はここにきて何度目の夜だ? ずっと、ずっと、日に二回小僧が食事を運ぶだけの日々がずっと続いていた。それ以外には誰も来なかった。何も起こらなかった。
(何かが――)
 扉の向こう、鍵を開ける音がする。何かが?
(何かが、起こる)
 闇の中、扉の方向を見据える。音が止んだ。途端に部屋を満たした完全な静寂に、ディエジの体が強い緊張に強張った。
(何かが、ついに、起こる!)
 扉が開いた。
 ほのかな蠟燭の明かり。それに照らされる一つの影。小柄な輪郭の。
 すぐに分かった。見間違えるものか。現れたのは、カラスのモリットだった。
 ディエジに混乱は無い。躊躇も無い。状況を判断するより早く、身体を反応させる。素早い勢いで相手に突進する。
「この!――貴様!」
 しかしモリットを掴み取ることは出来なかった。右足首の鎖が、彼の動きを止めた。相手までもう少しという場でもんどり打つように床に転ばさせられた。
 その前でカラスのモリットは立ち尽くしたまま言った。
「声を出さないで下さい」
「なんで貴様がっ――ここはどこなんだ!」
「声を出さないでっ」
 モリットは部屋に入ると、扉を閉じる。小利口に相手の手が届かないギリギリの場所に位置どった。
「大声は止めて下さい。誰かに聞かれたら終わりだ。ここに入るのに俺がどれ程苦労したと思ってるんですかっ」
「どうしてここに――どうやって俺を見つけたっ、いや、ここはどこだ!」
「カスルの城。ここの城主はもうバリマックのカジョウ王に恭順を示している」
「カスルの城って、なんだってそんな遠い領地に……っ、おい、どうやって俺を見つけたんだ!」
「苦労しましたよ。あの修道院に戻ったらリートムの軍勢が襲われた後でみんな居なくなっていて、本当に苦労して貴方の消息を探しましたよ。で、カスル城に居ると分かったはいいけれど、今度は中に入るのが大変だった。忍び込むのは無理だから、まずは大金を作り、凄い金額を看守に積んでようやくここ――」
「アーサフはどこだ」
 瞬間、蠟燭の光の中でモリットの顔が歪んだ。
その歪んだ顔を、ディエジは見続ける。その表情から容易に推測できてしまう。ディエジの心の中に初めて、ついに、
(嘘だ、そんなことが有るはずない、まさかそんなことが……)
悲観が生じ始めようとしている。それでも強気で言う。
「まさか、違うよな。アーサフは今、無事なんだろうな」
 蠟燭の炎がわずかに揺れた。耳に付くような静寂。
(そんなことは有り得ない、有ってはいけない!)
呼吸六回の後、苦渋に歪んだ顔のままモリットは告げた。
「分らない」
「分らないってどういう事だっ」
 薄闇の中、モリットの顔が一層に歪んだ。
「あの後、リートムの街に入る直前、カジョウの兵に勘づかれて……慌てて逃げた、川に飛び込んで」
「まさかアーサフは捕えられたのかっ」
「そこではぐれてしまったんだ。だからその後――」
「逃げたんだろうな、アーサフはっ」
「だから分らない。俺が岸に上がった時には王様の姿は無くて、それで――」
「逃げ切ったんだろう? アーサフは生きているんだろう、今!」
「だから分らない! はぐれてしまったから、あの時――川でっ」
 モリットの表情が泣き出しそうに歪み、悔恨を見せつける。
「あの時にはぐれてしまったんだ……。あの人、いい人で――いい王様で、貴方達が忠誠を捧げるの気持ちも解ったよ。すごい立派な王様だよ、だから俺も――、俺もずっと傍にいて力を貸そうと思ってたのに……なのに、
あの時、川に落ちて……はぐれて、夢中で陽が落ちるまで探したけれど見つからなくて――あの時――」
 猛烈な悔しさを表情に見せつける。その思いにずっと苛まれて続けていたことを、見る者に伝える。
 ディエジがうめくような息を漏らした。
 ディエジの怒りをかみ殺した表情を剥きだした。このガキはアーサフを見失った。守れなかった。
 殴ってやりたい! そう思いながら抑える。殴っても、何も現実は変わらない。それでも、ただ一言を唸るように言った。
「アーサフ――」
 蝋燭の光が揺れている。夜の中、両者の僅かな息音だけが響く。
 時間が過ぎる。夜の、静寂の、無為の時間がまた進んでゆく。
 その果てに。
「俺をここから出せ」
 ディエジが命じた。
「すぐにやれ」
「――。無理です。出来ないよ」
「出来る。貴様はここまで来れたんだ。俺を逃がせ」
「無茶を言わないで下さい。囚人に会うだけならともかく、囚人を逃がせっていう取引に看守が応じると思います? 今夜貴方に会うってだけど、どれだけ金を払ったと思ってるんですか?」
「金なら払う」
「――え?」
「俺が城に戻ったら、貴様に払う」
「本当に?」
「払う。身代金の代わりだ。戦役で捕虜になった時と一緒だ。
――だが、おかしいと思わないか? 何でカジョウは俺に身代金の要求をしないんだ? 俺に対して何も言ってこない、何もしない。全てがおかし過ぎる。なぜなんだ?」
「そんな事、俺に訊かれても分かりませんよ。それより、本当に俺に金を払ってくれるんですか?」
「払う。出来るんだな。いつ逃げられる?」
「本当に? 約束ですよ、本当に払ってくれるんですね?」
 いかにも狡猾に長けた眼で自分を見てくる。だがそれがなんだ。今頼れるのはこの泥ガラスだけだ。無為の時間にはもう耐えられない。一刻も早くここを出なければ。
「払うと言ったぞっ、だからここから出せ!」
 蠟燭の光が揺れた。カラスが僅かに笑った気がした。
「分かりました。ちょっと調べて、動いてみます」
「逃げるのは何時になる!」
「そんなの今は分かりません。これから色々と調べて策を練るんだから」
「いつ分かるんだっ」
「だからそれは分からないって。お願いだから、気長に待っていて下さいよ。
 ――じゃあ、ディエジさん。俺は帰ります」
「待てっ、次はいつ会えるんだっ」
「それも分かりません。でも――」
「でも、何だっ」
「でもね、多分次に会うときは、一緒にここから出る時ですよ。俺がそうします」
と言うと、モリットはニッコリ笑ったのだ。
 その笑みは確かにディエジに“逃げられる”という確信を与えてくれた。なのになぜかチクリとした一瞬の不穏も覚えた。なぜだ?
「それじゃ。神のご加護を」
 薄闇の中、あっさりと一言だけ残し、モリットは素早く歩み出した。ディエジがもう一言声をかけようとする間もなかった。相手は、振り返りもせず扉を抜け、その扉を閉じたのだ。後は、再び錠が降ろされる音が響いただけだった。
 そして、ディエジは初めて気付いた。自分の心臓が強く拍動しているのに、初めて気が付いたのである。
 長い無為の時間の果て、世界が動き出したのが分かった

・            ・            ・

 直後だ。
 ディエジが図らずも自分の左胸に手を当ててしまった時。
 カラスのモリットはニッコリと微笑んでいた。そして言った。
「何だよ? その顔」
 その顔――苦虫を嚙み潰したような目付きのカスル城主は、城の通廊を塞ぐように彼が現れるのを待ち構えていた。
「何を考えているんですか?」
「何をって?」
 城主が手に持つ灯火が、通廊を抜ける夜風にちらちらと揺れている。その光を受けて、モリットの笑みもまた奇妙に揺れ動いて見える。
「今回の件をコノ王が存じたらどうなると思っているんですか?」
「どうかな? 俺は怒鳴られるかな?」
「そんな軽い事態ではないでしょうにっ。あの捕囚は即座に処刑しろとの命令だったものを。なぜ実行しないんですか」
「殺すのならいつでも出来る」
「ならば今すぐ殺すべきですっ。貴方は王の計画に綻びを入れている。なぜです? 何を考えているんですか!」
「何も考えてないよ」
「全く理解できないっ、コノ王に――御自身の父親に背くなど大罪ですよ。理解できない。何を狙っているんですか、イリュード王子!」
 と。モリットの笑みが消えた。
 瞬間、凄みを含んだ怒りの眼が、相手を睨んだ。
「貴様に理解など出来るか」
「――。今何と仰った? 王子?」
 冷えた夜風が、通廊を抜けてゆく。強く揺れる光の中で、少年の表情も揺れている。何か不穏な、尋常ならざるものを表している。
だが、カスル城主の武人的な無神経の質は、そこまで気づかなかったようだ。彼は平気で繰り返した。
「だから、貴方はなぜ祖国に、御父上に背くんですか?」
「――。面白いからだよ」
「面白いって、王の命に背くことがですか? それでは謀反人と一緒だ、どういう意味なのですか、王子?」
 勿論、モリットはもう答えない。
機微を解さない城主など、さっさと見捨てた。いきなりその横を小走りで抜けてしまう。王子!っと叫ぶ声だけが、冷えた薄闇の通廊に響いた。
「さあ。次はどうしようかな」
 それこそ面白がりながら、声に出して通廊を歩いていった。
 冷えた風が抜けていく。
 カスル城の上空、冷えた夜空に色の無い、単独の月が浮かんでいる。

           ・       ・       ・

 月を、眺めている。
 カスルの城を遠く遠く離れた、リートムの街。
 その王城の最上階の一室で、彼女は冷めた顔で月を眺めている。
 ――
 もう、泣くことには飽きた。
 泣いて、泣いて、泣く事にも飽き、その果てに、彼女は静かな怒りを覚えていた。
 何に?
 自分の生きる道を牛耳る人々に。その人々に牛耳られてしまう自分に。
 彼女は、子供の時から怒ることが無かった。マナーハンの王である偉大な父親に従っていれば、何の間違いも無いと思っていたから。その指示の通りに従えば良いと思っていたから。指示は万事が正しく、だから万事は整い、そのことに満たされていた。不安も疑念も無く、日々はいつでも調和に満ちていた。怒る場面などは、自分の生涯には無かった。
 その彼女が、初めて異質の感情を覚えた。
 自分の知らない所から自分の生涯を決めてゆく強い流れに、初めて怒りという感情を体の中に覚えようとしていた。己の中に生じる初めての違和感に戸惑いながら、静かに怒り始めていた。
「イドル王妃」
 扉口からの声に、彼女は振り向く。
 かつてよりマナーハンの父王の宮廷にいた廷臣であった。バリマックによる混乱の後に、急遽マナーハンから派遣されてきた。痩せた体を深々と折って一例した後、若いリートムの女宗主へと語りかけてきたた。
「このような深夜に、申し訳ございません。マナーハンより、また新たな使者が到着しました。急使です。階下の広間へいらして下さい」
「――。いきたく無い」
「おいで下さい。貴方様にはその義務があります。貴方様はこのリートムの為政者です」
 いつの間にか自分は、リートムの女宗主になっていたのだ。本当に、いつの間にか。
 そんな事、いつ、誰が決めたの? イドルは思ったが、口にはしなかった。静かな怒りが皮膚の下に生じ、それをどう対処すればいいのか分からなかった。
 なぜ私がリートムの為政者なの? リートムの為政者は私の夫のはずよ?
 皮膚の下が確実に熱くなってゆくのを、覚えていた。
「とにかく、今は嫌」
「では仕方がありません。明朝で構いません。必ず接見をなさって下さい。
 それともう一人。――長らく捕縛されていたリートムの旧臣であるマクラリ卿が解放されました。現在、街に帰還しています」
 はっとイドルは顔を上げる。
「マクラリ卿は今ここに来ているの!」
「いえ。明日登城するとのことで、こちらも貴方様との接見を望んでいます」
「会いますっ。勿論」
 皮膚が熱くなる。感情の違和感が増す。
 自分の回りで世界は大きく動いている。いや。自分の方が動かされている。その事実に、何とも消化できない疑問を覚えたのだ。疑問は不快へ、不快は嫌悪へと膨張をし、もう体内に留めて置くことが出来なくなっていた。だから、思った。初めて。
“こんなのは、嫌だ”
 冷えた夜だった。
 窓からは、夜の街の全体が見渡せた。その街の向こう側で、終わりのない丘陵の連なりは、暗い闇の中に沈んでいた。
 泣き続け、悔やみ続け、彼女は怒りという感情を受け入れた。その感情が彼女を動かしだしていた。





10・ アーサフⅢ



 どのくらい時間が経ったのかが、分からない……。
 もう何日の間ここに閉じ込められているのか、分からない。覚えていない。覚えていることが出来ない。もう考えるということが出来ない。
 分かっているのは、自分が確実に死に向かっているということ。
そう、アーサフは思った。
 ――
 身を完全に横たえることすらできない、恐ろしく狭い空間だった。その中に閉じ込められた当初は、逃れる策を必死で考えていた。
(落ち着け。時間ならまだある。ここから逃げ出す策を考えろ)
 どんな嘘を付ける? どうすれば相手を騙せる?
 あの男は、こちらが身分を明かした時は必ず裏を取ってから身代金を要求すると言った。だから、出まかせの嘘は見破ると。だから、自分はそれでもさらに相手を騙せる嘘を練り上げないと。
 どう言えば良い? 奴は自分の身分についてどの程度の予測している? そもそも奴らは何者だ? ただの追剝や盗賊でないことは確かだが、では何者だ? どう言えば欺ける? 嘘をつけばどうなる? そして、嘘がバレた時の“最悪の死に様”とは?
 考えねばならない事はいくだでもある。考え続けるアーサフの体を、飢えが確実に苛んでゆく。食べ物への渇望が、必死となる思考を遮ってゆく。
(あの朝のパンと干肉、なぜ食べておかなかった。食べていれば今、少しは……。
 いや。それ以前になぜ、――なぜ森を横切るなとの忠告を守らなかった……)
 意味を成さない後悔が、何十回も何百回もアーサフを苛む。空腹の胃が、身体が、痛みを帯びだす。
(落ち着け。空腹を忘れろ。ここから逃げることだけを考えろ)
 暗い、狭い、歪んだ四角い空間の中で、難儀しながら姿勢を変えた。アーサフは外を見た。
 鉄格子の向こう側は、通廊になっている。頻繁に男たちが通っている。相当の人数の男たちがいるらしい。顔つきや雰囲気からして、明らかにただの追剝ではない。鋭く、隙が無い印象の男ばかりだ。身に着ける服や武具についても古く汚れているがかなり上質に見える。本当に何者なんだ、この男たち?
 その男たちの誰一人も、自分に見向かない。完全にその存在を無視している。見捨てている。首領の言葉の通り、自分が餓死しようとしまいと、どちらでも良いと思っている。
(誰か――)
 時間だけが過ぎている。焦燥と飢餓が進んでゆく。
(誰か、何か食べさせてくれ。このまま飢え死ぬのは嫌だっ)
 恐怖感で押しつぶされそうになる。それを抑えるべく、湿った壁を伝わって垂れてくる僅かな水滴を手ですくう。それを舐める。
(誰か、助けてくれ、食べ物をくれ――)
 時間だけが進んでゆく。自分が確実に衰弱してゆくのが分かる。もう今は、時間のほとんどを狭い床に横たえていることしか出来ない。思考をすることが出来ない。半ば眠ったようにぼやけた時間の中を過ごしている。
 どうすればいいのか、分からない。何をすれば助かるのか。
 今日は何日目だ。身体に力が入らない。物を考えられない。このまま死ぬのか。
 分からない。自分は今、眠っているのか。今から、死ぬのか。
 ……
 何日目だか、分からなかった。
 男が、鉄格子の向こうから自分を見ていた。
 アーサフは壁に触れながら崩れる様に横たわっている。その身を起こすことが出来ない。その力がもう無い。薄ぼんやりとした意識で、薄く開けた目で、相手を見るだけだ。
 相手は、首領は、リンゴを手にしていた。
 それに気付いた途端、アーサフの身体が反応した。起き上がる力すらないのに、なのに内臓が一斉に飢餓感という痛みを訴え出した。死を目前にしたアーサフの感情を呼び起こし、痛烈に揺さぶった。
 相手が、リンゴを口許に運ぶ。かじった瞬間の、シャリっという音に、アーサフの口に中に、唾液が染み出した。渇いた目に、勝手に涙が浮かんだ。
 首領は、憐憫の一かけらも無くアーサフを見据えて、リンゴをかじり続ける。
「六日目だな」
「……」
「もう限界だな。明日か、明後日か、そんな所だろう。死ぬな」
 リンゴから滴る果汁。涙のにじむ目でアーサフは凝視してしまう。
「まだ口は利けるか? もう無理か?」
「……」
「馬鹿な奴だったな。こんな所で犬死するとは。貴様の生涯は何だったんだ」
「……」
「そこまでして主君に忠誠を捧げる事にどんな意味があるんだ? 国なんて簡単に滅びる。王だってすぐに変わる。その時、貴様の未来はどうなるんだ?」
 何か、意味深いことを言っている気がする。だがアーサフはリンゴしか見てない。相手の口がそれをかじる時のシャリシャリとした音しか聞いていない。
 すっと、相手は身をかがめた。鉄格子越しに、横たわるアーサフの顔の、ごく間近に迫った。
「いいのか?」
「……」
「このまま死ぬのか? こんな所で」
 このまま、死ぬのか。自分は。ここで。
「止めておけ。無意味だ。貴様が信念として固執しているものも、いつか変わる。この世に不変は無い。だから今いる場で一番大事なものを優先しろ」
 何を言っている? 不変が、何?
「大事なもの……」
 乾ききった声が、息となって僅かに漏れた。
「貴様は、生きろ。忠義だの名誉だの信念だのは糞くらえ」
「……」
「だから言え。俺たちが欲しいのは金だけだ。貴様の一族かもしくは主君の名を今すぐ言え。それで貴様は生きられる。まだ生きろ」
「……。生きられるのか……?」
「そうだ。さあ。早く言え」
 言えばいいのか? そうすれば、いいのか?
“リートムの王、ガルドフ家のアーサフ”
 そう言えばいいのか? もう判らない。
 目の前で、食べかけのリンゴが赤い。果汁がにじんで滴っている。もう考えられない。言えばいいのか? 自分の名前を? それでいいのか? 判らない……。
「リートムの……」
「リートム! 先日バリマックに襲撃され、今マナーハンのコノ王の庇護下となったリートムか? そこの臣下か!」
 思いもかけない大声が響いた。はっとアーサフの朦朧の意識が揺さぶられる。自覚させる。やっぱり言っては駄目だ。素性を言っては駄目だ。
「リートム宮廷の者か? それともまさかコノ王の方の臣下か! 言え、貴様の名前は!」
 駄目だ。絶対に自分を名は言えない。ならば、どうすれば。どんな嘘を……。
リンゴの向こう側、相手の顔が目を剥いている。そして彼はどうして急に興奮しているんだ? リンゴを持ったまま……果汁が垂れていて……。
「言え、嘘では無い真実の名前を言え!」
嘘……、どんな嘘を……。考えてきたはずなのに。とにかく時間を稼げるようにと……だから……。
「早く言え、貴様の名前を言え!」
 名前を。どうすれば良いか分からない、助けて、誰か。リンゴが……。名前……、。
……ここで、死にたくない。
「名前を言え!」
「リートムの……家臣、ショーティアのディエジ」
 あ。
 なぜ、その名前を?
「ショーティアのディエジ。リートムの家臣だな」
 違う、私はディエジではない、――なぜ、
「誰か来い! 捕囚の身元が分かったぞ」
 違うから。――私は、違う、
「私は――違う」
と言ったつもりが、それは声になっていなかった。もうアーサフは目に涙をにじませたまま何も出来なかった。
 首領はもう一度自分を見る。憐憫とも嘲笑とも付かない眼だったのが、
「どうせこうなるのならば、早く白状すれば良かったものを。愚か者」
 ぼやけた視界の中で、その言葉が脳裏に残った。
「これからは己の生き方を変える事だな」
 生き方? ならば自分はまだ生きられるんだ。
 そう思った。相手が手にしていた食べかけのリンゴを鉄格子の中に投げ入れるのを見た。だがもうそれを拾う力もなかった。
 あとは覚えていない。

・              ・            ・

 絶え間なく風の抜ける丘陵地に、大声の叫びが響き渡った。
「ざまあみろ! 糞くらいやがれっ、腐った犬野郎!」
 白い満月が明るく照らす丘陵を、ディエジは全速で走り下る。走りながら叫ぶ。
「せいぜい自分の糞でも喰らってろ! さもなきゃ貴様を産んだ母親と寝やがれ、淫売の母親とよっ」
 目を剥くように見開きながら大声で笑う。全力で走りながら耳ぎたない罵声を発し続ける。罵声は風に乗り、死に絶えたように静かな夜の丘陵地を響き抜けてゆく。
「殺してやるぜっ、さあ命乞いをしろよ、泣いて小便漏らして命乞いしろっ、やってみろっ、嘲笑ってやるからよ!」
「もう止めて下さいよ」
 モリットの声もする。モリットも必死で走り下りながら相手を追いかける。
「その大声、誰かに聞かれたらまずいよ、黙って下さいよっ」
「うるさい! 聞きたい奴には聞かせてやるぜっ、追いかけて来いよ! やってみろ、捕まえてみろよ、小便垂れ野郎が!」
「黙って下さいってっ、万一人に聞かれたらどうするんですかっ」
「人なんているものか!」
 言い切りディエジは足を止める。振り返る。白い月光の許には、つい先ほどまで自分が囚われていた城砦が輪郭線となって浮かび上がっていた。人の死に絶えた風景の中に、その黒い影だけがそそり立っていた。
 歓喜という興奮を剝き出し、ディエジが夢中で見つめている。そこに繋がれていた時間の長い長い不安と絶望と恐怖を思い出し、苛立つ。それを今、全てまとめて叫びに変換してゆく。
「だからさっさと捕まえに来やがれっ、この阿呆野郎!こっちが捕まえてやるぜ! まずはぶん殴ってやるぜ! それから貴様の糞な顔に泥を塗りたくって――」
叫びは唐突に差し出されたモリットの手によって塞がれた。
「だから止めて下さいって。本当にこの世の中には、万が一ってことも起こるんですよ。そうなれば俺まで巻き添えを喰うんだから、お願いだから止めて下さい」
 手は即座に振り払われる。それでもディエジの顔は少しは落ち着きを取り戻したのだろうか。取り敢えずは相手の顔をみた。
「とにかく、お前には心から感謝しているぜ。カラスのモリット。
 で、幾らであの看守だか城主だかを買収したんだ? 俺が逃げて、奴らは城主にどう弁解する気なんだ?」
「さあね。多分、似たような男の死体を探してくるんじゃないですか? ちょうどこの近くの村で病が流行っているらしいから、捕囚も病で死んだことにすれば良いのではって、言い残しておきました。ついでにその村に行けば、似たような背格好の男の死体をも見つけやすいともね。
 でも、買収の金額は半端じゃなかったですよ。本当に払ってくれるんでしょうね?」
「払ってやるよ。俺の居城を手放したっていい。あそこから出られたんだから」
 そう言って再び城砦を見上げたディエジの顔が、また今にも叫び出しそうになる。それより一瞬早く、モリットは腕を掴んで引っ張った。
「取り敢えず今は、少しでも早くここを離れましょう!」
「ああ、離れてやるさっ、こんな糞ったれな城なぞ呪われやがれ!」
「だから早く行きましょうよ。で、どこへ行くんですか?」
「決まってるだろうが、阿呆が。とにかく俺の家だ。俺の城――ショーティアの城だよ!」
 途端、ディエジは走りだした。月明かりの斜面を瞬く間に駆け下っていった。
モリットがあれだけ言ったのに、汚らしい罵声はあいかわらず風にゆれる灌木の中に発し続けられていた。

・             ・            ・

 昼の、薄い、くすんだ光だった。

 ゆっくりと、ゆっくりと、意識は深い場所から浮き上がって来る。
 様々な物が、事が、意識の中に浮かんでは消えてゆく。
 ……風 ……リートムの街の全景  ……渦巻く水、水音 ……眠れぬ夜の床の感触 ……泣く少女 ……「面白いから」 ……奴は笑って ……ニッコリと笑って ……嘘だ、嘘だろう、ディエジ?
「起きて」
 嫌だ。
このまま寝ていたい。もういいから。ずっとこのまま、音の無い、感覚の無い、色も無い感覚も無い思考も無い世界に漂わせていてくれ。頼むから、もう自分をいたぶらないでくれ。現実を見せないでくれ。
「起きて。早く」
 嫌だ、なのに頬を叩かれる感触がする。嫌だ、嫌なのに。
 嫌なのに、少しずつ、少しずつ、現実へと引きずり出されてゆく。困難と苦痛が待っている場へと戻されてゆく。嫌なのに。もう嫌なのに。誰か――
 誰だ?
 女性だ。綺麗な。
「少し体を起こすわよ」
 横たえられていた体に、力が加えられた。上半身を引っ張られてるかたちで、起こされた。
 止めてくれ、起きるなら自分で起きる、と言おうとしたのだが、声がかすれて出なかった。それ以前に、自分の体にほとんど力を入れる事ができず、動かす事が出来なかった。なされるがまま、粗末な敷布の上で背中を起こされた。頭はまだ、ぼんやりと眠りたがっている。ここはどこだろう? 静かだ。暖かい。そして良い匂い。
 その匂いにいきなり、身体が凄まじい渇望を示した。
「まず一口よ」
 目の前、若い女は湯気の立つスープの椀を突き出し、口に押し当ててきた。夢中で飲もうとするが、体も唇も上手く動かせない。猛烈に空腹に内臓をえぐられそうだというのに、上手く飲めない。
「ゆっくり飲んで。慌てても飲めないわよ」
 分かっていても、身体は夢中で飲みたがる。なのにむせて飲み下せない。うまく咳をするのにも困難と苦痛を覚える。
「だからゆっくりって言ったでしょう」
 たった一杯のスープを飲むのに、アーサフは本当に苦労と時間を強いられた。やっと飲み終えた途端、彼の全身は今にも再びの眠りに陥ってゆくことを望む。だが、それを必死で堪えた。自分が今置かれている場所に、目を伸ばして見た。
 そこは、小さな部屋だ。とは言っても、先日までのような牢では無い。何もないがらんとした空間で、明るい光と清浄な空気に満ちていた。どこなのだろう。納屋か何かなのだろうか。
そして、若い女性の顔が、間近から自分を見ていた。
 固い、少年の様な目鼻立ちの女性だ。表情もまた硬く冷たくて、無機質だ。それでも不思議と、明らかに、美しいと思わせる女性だ。
「痛む所はある?」
「――。いや」
 やっと、かすれた声を発することが出きた。
「水の瓶が手元にあるわ。そのくらいなら自分で飲めるでしょう?」
「貴方は――誰だ?」
 喉に力を込めて続けた。聞かずにはいられない。この得体の知れない追剝の館の中に、彼女の存在は一層に謎めいている。
「もしかして、貴方も捕えられているのか? ここから出られないのか?」
「私?」
 相手が僅かに表情を変えた。確かに綺麗だ。高い上背、細い体に薄汚れた服を着ているというに、それでも充分に冷質な美しさを感じさせる女だった。
「そうね。ここから出られない。ずっと」
「ずっと……」
「もう二年近くここに閉じ込められているから。出ることが出来ない」
「……。可哀想に」
 こんな状況だというのに、アーサフの心に素直な同情の念が湧いた。
相手が再び自分の体を寝かせようと伸ばした手を、何とか振り切った。その代わりに、こちらから彼女の手に触れた。力を込めて、握った。
「体力が戻ったら、走れるようになったら、私は逃げないといけない。何としても。その時には、一緒に逃げよう」
「――」
 神妙な、表情だった。微笑んだのだろうか?
「貴方の名前は?」
「言えない。禁じられているから」
「そうか。私の名前は――いや、これも言わない方が良い。下手に互いのことを知らない方が、関りを持たない方がいいから。
 教えてくれ。私は何時、この部屋に運ばれた?」
「さっきよ。今朝。今は昼過ぎ」
「そうか……」
 まだ覚醒しきっていない思考を、何とか動かそうとする。今の自分の状況を考えようとする。
 あの追剝の首領は、自分の事をショーティア領のディエジだと思っている。そちらへ身代金を要求しに行く。その時点でショーティア城にいるディエジの身内は、即座に支払いに応じるのか? 城の人間をこちらへ派遣するのか? いや。すでにディエジの死を知っているとしらたら?
 どの時点で自分の嘘がばれるのだろう? そして嘘が――自分の身分がばれた場合、今度は何が起こるのだろう?
 考えなければならないことが幾らでもある。なのに、アーサフの体は当然のように眠りへと引きずられていこうとする。
 駄目だ、寝ては駄目だ……、なぜ――
 なぜ、あの時、自分はディエジの名を騙ってしまったんだろう? なぜ彼の名を……、
 駄目だ……寝ては、駄目だ……
 思考が絶たれてゆこうとしてゆく。目の前では女の少年のようにすっとした、しかし端正な顔が、自分を冷やかに見ている。
「私は貴方の世話を命じられたから。だから死なれては困るの。今はもう寝て」
 素っ気ない口調が、がらんとした室内に響いた。アーサフの耳に達した。
 その頃、アーサフはもう眠気に抵抗することが出来なくなっていた。くすんだ昼の時の中、現実とはかけ離れた安寧な眠りに落ちていった。
 





11・ ディエジⅢ



 エリン島の丘陵は、今日も薄灰色の雲と濃い霧に覆われている。冷え冷えと湿った空気が、丘陵の上を歩く者の皮膚に押し付けられてゆく。
 しかし今、ディエジとモリットは寒さなど全く感じていない。それどころかうっすらと汗をかいている。歩くというよりはほとんど駆け足に近い歩みで、彼らは丘陵が連なる街道を進んでいる。
「まだですか?」
 モリットの口調は明らかに、もう疲れた、もううんざりだと告げていた。
「今日の昼には着くって言いましたよね。もうとっくに昼を回ってる頃ですよ、まだなんですか?」
 モリットの脚にも疲れが溜まっている。いつものすばしこさを欠いている。それも当然だ。この数日、朝から歩き通しだ。今日も夜が明けてからずっと歩き通しだ。
だが、前を行くディエジの速足は緩まない。決して速度を落とさない。
「だから――まだですか、何か言って下さいよ」
 やっと、前方から声が応じた。
「もう直ぐだ」
「何度目のもう直ぐですか? 俺が覚えてるだけどもう十回近く言ってますよ」
「お前が何度も訊くからだ」
「でも、まだなんですよね。今日は霧が消えないに、まだ歩くんですか?」
「もう直ぐだ」
「本当なんですね、本当にもう直ぐなんですねっ」
「――。もう、直ぐだ」
 そう言った。ちょうど丘陵の頂に立った時。
 そしてディエジは立ち止まり、振り返った。笑って。それこそは、モリットが初めて見るこの男の笑顔となった。
 風が強く吹き始めた丘の頂、やっと追いついて頂に並び立ったモリットの目の前では、霧が風に押されてようやく動き出していた。乳色に閉ざされていた視界が少しずつ開けて出していた。
 ゆっくりと流れていく霧の中から小さく、小さく、灰色の水面が見えだしてくる。ゆっくりと霧は消えてゆく。小さな水面は僅かな陽光に白味を帯びて鈍く光っている。
 ゆっくりと時間と霧が流れてゆく。モリットは目を丸くして見つめる。水面は丸切り鈍い光の絨毯のように少しずつ、着実に広がってゆく。そして。
「大きい……」
 モリットが小さくつぶやいた。
 今、モリットの目の前で霧は薄れ、世界が大きく広がっていた。視界の右の隅から左の隅まで占める場に、灰色の巨大な湖面が姿を現しだしたのだ。これに合わせて、視界の一番右の端には、湖を見下ろすようにそびえる断崖も現れてきた。そして断崖の斜面には、一つの重厚な城がへばりついているのも分かった。
 見つめるディエジの顔が、笑んでいる。笑い、大きく満足を示している。彼は今ようやく、解放されたのだ。歩きながらずっとずっと、ずっと考えていた追手の恐怖感から。そして、神経を縛る焦燥感から。
(焦るな。今は自分のやるべきことだけをやれ。全てはそれからだ)
 今、リートムでは何が起こっているのか状況を知りたい。そして何よりアーサフがどうなっているのか知りたい。
(どうなっているんだ、アーサフは今! 生きているのか!)
 分かっている。今すぐにもリートムへ行きたい。血が逆流する程にリートムへ戻りたい。アーサフの安否を調べたい。
 だが、堪えろ。自分がやるべき事はそれでは無い。やるべきことは、まず故郷のショーティアへ帰る事だ。まずは自身の安全を確保し、それから動く事だ。だから今は、休まずに歩け。出来る限りの早足で歩け!
「大きな湖ですね。城も大きい。あれが貴方の生まれ故郷?」
 目を丸くしてモリットが言った。
「あの城からなら、湖の全体を見下ろせますね。あの城の一番高い所は、物見の塔ですか? 誰か人が居ますよ、二人かな?」
「見張りの者だ」
「あれ? でも一人は女性ですよ。ほら、綺麗な赤い服だ、灰色の中で赤が良く見える」
「カディアだ」
「カディアって誰です?」
「久しぶりだ。昔と全然変わってない。カディア」
 言った途端、ディエジの顔がニンマリと笑った。
だからカディアって誰? と再びモリットが訊ねようとする直前、ディエジは前方の斜面を走り下りだした。湖からの向かい風をまともに受けながら、自分の生まれた場・安全を確保できる場へと、大急ぎで走っていった。どんなに否定しても今まで自分は恐怖を感じていたんだということを、心のどこかで自覚しながら。
 目指す城の方でも、すでにディエジに気づいていた。閉ざされていた城門が今、慌ただしいさまで開けられだした。何人もの使用人や従臣が大慌てで門から飛び出してくる。全く突然の、そして数年ぶりの城主の帰還を迎えに出る。
そして誰よりも早く声を発したのは、
「ディエジ!」
 真っ赤な服の裾が泥にまみれるのも構わない。カディアは城門から飛び出すや、待ちきれずに自らこちらにむかって走りながら叫びあげた。近づくにつれて彼女が高い上背と華やかな美貌の持ち主だと分かる。しっかりと化粧をほどこしたその顔を、感激で一杯に輝かせている事も。
 そして今、ディエジの足が止まった。城門の前に、彼女の前に立った。
「ただいま。カディア」
 ディエジが彼女に向けてにっこりと笑う。当然のよう、腕を伸ばし抱きしめようとすると、
「この――大馬鹿!」
 彼女は真っ向から罵り、あまつさえディエジの頬を平手で打ったのだ。
「何をしていたの! リートムが急襲されて以来なぜすぐに連絡をよこさなかったの! アーサフ王が死んだっていう噂ばかりが流れてきて……、なのに何で早くここに戻ってこなかったのよ!」
「カディア――」
「どれ程心配した思っているの、この馬鹿が!」
と言うや彼女は怒りの顔のまま、夢中で相手を抱きしめたのだ。
 横で見ていたモリットが今やっと、いかにも知りたくてしょうがない早口で尋ねた。
「ディエジさん、どなたですか? その綺麗な人」
「俺の母親だ」
 瞬間、え?とでも言いたげに少年が驚いた顔をしたのを、いかにも慣れてると言いたげに続ける。
「母親だ。俺を若い時に産んだ」
「誰なのよ、このガキは」
 まだ怒り顔の母親がモリットを睨みつけた。
「モリットだ。今回帰還するに当たって、色々と世話になってる小僧だ」
「世話になってるって、違うでしょう、ディエジ?」
「何が?」
「貴方が世話になったんじゃなくて世話をしたんでしょ? まさかこんなガキなの? それともこのガキも巡礼の仲間なの?」
「巡礼って、何の話だよ」
「来たのよ。つい先日、突然。貴方に大変な世話になった、貴方に追剝に襲われているところを助けられて命拾いしたっていう巡礼の男が。そんなことをしている暇があるんなら何でさっさと戻ってこないのかと、リートムの落城以来どこで何をしているのかと私がどれだけ心配――」
「待てよっ。俺は何もしてないぞ、巡礼なんて助けていない。人違いだ」
「そんなはず無いわよ。ショーティアのディエジと、確かに貴方の名前を言ったのよ」
「第一、聖地への巡礼者がこの辺りを通るはずない。リートムの辺りなら、巡礼の守護聖人聖リートを讃える巡礼を見かけたが、この辺りを通るはずないぞ?」
「そんな事私は知らないわよ。自分で言ったのだもの。聖地への巡礼だから困難は覚悟していたというのに、早速危険に陥ってしまった。でもお前に救われたと」
「聖地までは途方もなく遠いのに、わざわざ寄り道をしてこのショーティアの立ち寄ったっていうのか? 何か胡散臭くないか?」
「私に聞かないでよ、ディエジ」
「確かに、すごく妙な話ですね」
と、モリットが図々しく口を挟んできたところで、霧の抜けた灰色の空はついに耐え切れなくなった。こんどは霧ではない。細かな粒の雨がゆっくりと滴り始めた。
「こんな話、もうどうでもいいわ、ディエジ。中に入りましょう。
 全く……リートムがバリマック族に襲われてからずっとずっと心配で……なんで何の知らせも送ってこないのよ、この馬鹿が。
 ああ、お前、先に厨房へ行きなさい。豚を一匹つぶして焼くように。あとパンは充分にあるのか見て。足りなかったらすぐに焼くのよ。急がせるのよ。
 ディエジ。聞きたいことが山ほどあるわ、早く城に入って」
 カディアは背の高い息子の肩に腕をかけ、共に歩いて城門へと向かっていく。それを出迎えるように周りに立つ使用人たちも嬉しそうにお帰りなさいと声をかけてゆく。共に城門をくぐってゆく。
 モリットも、その一番後ろについて城門をくぐり、中へ入っていった。無言で。小雨に濡れて。
 珍しいことに、ちょっと神妙な顔つきをして。

・             ・            ・

 ショーティアのディエジは、帰還した。
 恐怖や絶望に必死で抗っていた日々は、過去になった。そして次に現れたのは、あらたな現実だった。
 帰還から、数時間が経ていた。
……
 灰色の雲の向こう側、日はゆっくりと水平線をめざして落ちて行き始めていた。
 霧雨はまだ止んでいない。肌にまとわりつくような細かく水滴が降り続いている。
 切り立った崖の一番下では、広大な湖の水面にさざ波が立ち続けている。弱い風が絶えず吹き付け続けている。
 ショーティア城の内部では、夕刻の宴を前に誰もが皆忙しいのだろう、西のテラスにも、そこから崖を下って湖畔へと繋がる長い石段の辺りにも、人の出入りは全く無かった。湖に住む水鳥たちも、今は全く見かけない。湖の全景は、時折に抜ける風音以外は、全てが静寂に沈んでいた。
「ディエジさん――っ」
 静けさを破ったのは、モリットだった。彼は、雨に濡れて滑りやすくなった石の急な階段を慎重に、一歩ずつ、時間をかけて下りて来た。
「ディエジさん、何を見ているんですか、ディエジさんっ」
 だが、ディエジは振り向かなかった。
 ディエジは、湖岸へと下ってゆく階段の半ばにいた。すり減った石段の一つに腰かけて、湖の方を見据えていた。無言で。
 前方では、湖の向こう側へと今、太陽が落ちようとしていた。厚く垂れこめた雨雲の下へと、その姿を現したところだった。空は灰色だというのに、金色の夕光が世界に差し込み、霧雨を光で染め出していた。
 ディエジの顔もまた、真正面から夕光を受けていた。
 固く引き締まった顔は、霧雨に濡れている。濡れながら光を受けた顔は、僅かに輝いて見える。それは確かに威を感じさせる、確かに高潔な印象だ、王としての風格を感じさせるものだ――と、ようやく石段を下りて横にたどり着いたモリットは思った。
「こんな所で何を見ているんですか? 濡れるだけですよ、ディエジさん」
 ディエジは振り向かない。金色の陽を見続けている。
 霧雨と、僅かな風音と、長い静寂だった。
 そして、言った。
「まだ、死んだと決まっているものでもない」
「アーサフ様の事?」
 夕陽を見ながら、ディエジは噛み締めるように続けた。
「俺だって長らく捕えられていた。奴も俺と同じような目に合っているという事だってある。奴の死は、噂ばかりだ。誰も本当の消息を正しく知っている者はいない。どれも噂だけだ」
 先ほどディエジは、自分が捕えられていた間の世情について、話を聞いた。
 ……バリマックに征服されたリートムだが、マナーハンから軍勢が着て解放された事。その際、首領のカジョウも戦死した事。
 ……リートムはマナーハンのコノ王の為政下に入ったが、それに対してリートム国民が不満を示している事。この不満を減ずるために、コノ王は王妃のイドルをリートムの女宗主と定めたが、それでも不満の声は続いている事。
 ……バリマックの捕虜となっていたマクラリ卿を始めとするかつての旧臣達は、コノ王の尽力で無事解放され、リートムに帰還した事。
 ……アーサフ王だけが帰還しなかった事。おそらくバリマック兵の手で真っ先に殺害されただろうとの噂だけが流布している事。
「――。あの時……」
「何です?」
「あの時。止めることは出来た――。
 アーサフが独りでリートムに戻ると言った時」
 霧雨と夕光を受ける顔は固く、厳しい。美しい。
「殴ってでも止めることが出来た。でも、それをやっては、アーサフの意思を頭から押し潰すことになる。ずっと王としての自分を認めらなくて悩み続けてきた奴の意思を、真っ向から否定することになる」
「あの時ね。僧院で。随分前の話だ」
 あの時の僧院の一室。アーサフの泣き出しそうなまでに頑なになった顔を、両者は思い出していた。あの夜が遠いはるかに、まるで前世のように遠いはるかの出来事に思えた。
「それでも、止めることは出来た。――止めるべきだった」
陽が、湖の水平線に近づいてゆく。灰色の湖面の、光のあたる部分だけを帯のように金色に染めてゆく。
「それよりずっと前にも――。あの時も――、
 出来たんだ。止める事が。奴があんなに望んでいたのに」
「何の事?」
「奴が王になる時。――嫌がったんだ。泣いて嫌がって、こう言った。『王になりたくない』と。『代わりにお前が王になってくれ』と、泣きながら頼んできたんだ。あの時」
「――」
「だが俺は拒否した。王座を継承する者として奴が正当なのだからと、奴を王座に就かせてしまった。
 それが間違いだったのだろうか。あんなに嫌がっていて、実際、王位に就いた後も自分の力量に悩み続け、苦しみ続けていた。結局のところ俺は、奴を辛い位置へと追ってしまった。その果てに、単独でリートムへ戻るなんていう無謀を言いだすまでの、ぎりぎりの場所へ追い詰めてしまった。
 俺は、あの時から間違っていたのだろうか」
「――」
「奴の望む通り、俺が王位に就いていれば良かったのだろうか」
「――で。貴方はその時、王に成りたかったの?」
 はっと、ディエジが振り向いた。それでなくとも鋭い顔が、真っ向から固い、厳しい表情でモリットを睨んだ。
「急に怖い顔は止めて下さいよ、ディエジさん。
でも正直なところ、その時、貴方だって王様になりたいって思ったんでしょう?」
「貴様に何が分かるんだ」
 怒っている。突かれたく無い所を突かれて。
 雨の中の夕光に照らされながら、ディエジは怒っている。自分に。あの時の自分を思い返し、思い返し、思い返してもずっと消化しきれずに残されてきた感情を思い返して、怒っている。
“ディエジ、お前が代わりに王になってくれ”
 あの時、自分が王になることを受けていれば、自分も、アーサフも、別の運命をたどっていたのか?
 奴はもっと安寧な、穏やかな運命をたどっていたのか?
 今のような行方も知れず、生死すら判らない状況に陥ることは無かったのか?
 俺が王になっていれば。
 ……夕陽の円球が、金色に染まった湖水へと接した。
 霧雨が舞い、僅かな風音だけが続いている。沈黙の静かな時間が、ゆっくりと進んでゆく。
 と、モリットが呑気な顔でそれを破った。
「あ、そうだ。忘れてた。貴方を探しに来たんだった。
 奥方様が――カディア様が呼んでましたよ。すぐに、急いで来いって。なんかどこかから使者が来たみたいですよ。貴方とすぐに話したいとかで」
 言われてディエジは振り向いた。視界の後ろ手のはるか上方、断崖にへばりついてそそり立つ城の西のテラスの張出しで、母親が霧雨を受けながら必死の形相でこちらを見下ろしていた。
「ディエジ! 早くいらっしゃい、早く!」
 テラスの手すりから精一杯に身を乗り出し、夢中で叫んできた。

 城内の客の間に入った途端、カディアはまた大声を上げたのだ。
「お前ときたら――っ」
 紅潮した頬といい見開かれた眼と言い、高揚の態を露骨に見せる。その態のままカディアは、入室してきた息子に大きく抱きついた。
「やっぱりお前は私の子よっ、間違いなく!」
「……。何事だよ、カディア?」
 困惑しながらディエジは室内を見た。
 僻地にあるひなびたショーティア城の中では、一番贅をつぎ込み、客間として使用している部屋だった。大きき開いた窓からは、湖が良く見える。天井も彩色され、壁には大判の綴れ織り布がたっぷりとかけられている。暖炉も大きく設えている。そこには今、十分な火が入れられて暖かく乾いた空気を生み出していた。その暖炉の前にこそ、一人の旅装の男が堅苦しい様子で立っていた。
 この男が使者か? 使者なのに一人きり? ということは密使か?
「貴方が使者か? どちらからだ? 重要な用件か?」
「そうよ! 神にかけてお前にとって飛んでもなく重要な件よっ、今すぐに――
 お前、ガキ。何で付いて来てるのよ、さっさと出ていきなさいっ」
 ちゃっかり室内まで一緒に来ていたモリットは、ここまでとなった。いかにも残念そうな顔を見せながらも素直に部屋から出ていき、と同時に部屋の扉は固く閉められた。
「ディエジ、こちらはマナーハンのコノ王からの急の使者なのよっ」
「マナーハンの! アーサフが見つかったのか!」
「いいえ」
 初めて、密使が発した。
 低く落ち着いた声だった。暖炉の明るい炎の前に立つ姿は、もう初老に近い。急使ならば大抵は若い兵士が任ぜられるはずだ。変だ。
「コノ王が俺に何の用だ」
「驚かないで、ディエジ。あなた――」
「カディア、黙ってくれ。直接聞く」
「でも貴方は絶対に驚くわよ、だって――」
「カディア!」
 口調が強さにやっと黙る。ディエジは密使を見て、次の言葉を待った。
「ショーティアのディエジ殿。マナーハンのコノ王よりの伝達を承っております。
コノ王は、貴方のリートムへの帰還を要望しています。その上で、王よりの要請を受諾して欲しいとの事です」
「何を……」
「要請の内容ですが、現リートム女王であるイドル陛下と婚姻を結び、リートム王として登位して頂きたいという事です」
 何を……?
 その瞬間にディエジの頭に通り過ぎた心象。
 リートムの王城。幼いイドルの顔つき。そして――アーサフ。
「何を……」
 アーサフの姿が過る。最後に見た、霧の向こう側へ消えいってゆくアーサフの姿。
「何を言っているんだ……、アーサフが……アーサフはどうなる?」
「リートムのアーサフ王におかれては、無念ながら落命されているでしょう」
「まだ、判らない」
「複数の者が、アーサフ王と思しき人間の遺体を、リートムの西の国境域で見たと報告しています」
「それは噂だろう? 噂だ。嘘だ。アーサフが死んだとは断定できない」
「一人や二人ではありません。多数の者が、アーサフ王がバリマックと思しき兵士達によって捕縛されたと報告しております。その上で殺害されて打ち捨てられた遺体と思われます」
「嘘だっ」
「今コノ王が人を派遣し、アーサフ王の遺体の行方を捜しています。発見されたという場所ははっきりとしているので、遺体の身元の特定も時間の問題でしょう」
「嘘だ――!」
 動揺を丸出しにした。しかし母親の方は一向に気遣いなどしない。
「神様ありがとうございます! これでお前はリートム王よ!」
「カディア、止めろっ」
「何でよ、貴方も神に感謝しなさい、今日は生涯最高の日じゃない!」
「止めろ!」
噛み締めるような苦渋の顔を、密使に向けた。
「なぜ、俺がリートムの王になるんだ?」
「聞き及んでいられると思いますが、リートムにおいては現在、イドル妃が宗主として執権をお持ちです。ですが事実上は、父君たるコノ王が代理となって為政の責任を負っております。
 このリートムの現状につきまして、残念ながら領民たちはかなり強い不満を抱いているようです。今のままですと領内の不穏は治安の悪化を招き、さらには政情の不穏を招きかねません。コノ王としては、この状況を打開するために、旧ガルドフ王家の血縁者があらためて王座に就くことが最善と判断をされました」
「ならばイドル妃は関係ないだろう? なぜ結婚しなければならない?」
「その点ですが――。有り体に言いましょう。
 バリマック族の襲来そして撃退という一連の混乱を経て、コノ王は結果的にではありますが、事実上リートムの統治の権利を手に入れられた訳です。それをみすみす手放す気はお持ちではありません。自身の姫が宗主権を持ち続けることが第一義です。その上で、人々の不満解消のために旧ガルドフ家血縁者を縁付けようという意向です。
 お解り頂けましたか。ショーティアのディエジ殿」
「――」
“お前にもガルドフの血は流れている、お前が代わりに王になってくれ!”
 あの時、アーサフの顔は半ば泣き出していた。
「コノ王にとっても意外だったのは、ガルドフ王家のアーサフ王が、ここまで領民の敬愛と忠義を集めていたということでした。そうでなければ、王もこのように込み入った策を取ることもなかたのでしょうが」
「――」
 泣いていた。泣いて嫌がった。だが。
 自分はアーサフに王座に登ることを強いた。それなのにあの時、同時に、自分は思った。あの時。一瞬。思った。一瞬だけ。
“王になりたい”と思った。自分は。
「だからもともとアーサフなんかではなく、お前が王になるべきだったのよ」
 丸きりこちらの内心を見たかのようにカディアは言った。
「お前は私からガルドフ家の血を引いているのよ。もしお前の父親が生きていたら我が家は王城でよほど強い地位を立てたものを、早くに死んだばっかりに……。
 そうよ、あの人が生きていたら、お前の王座を後押しする豪族はいくらでもいたのよ、あの時も。だってお前の方がよほど王に相応しい力量を持っているじゃない、アーサフなんてただのひ弱な子供より、お前の方が相応しいじゃないっ」
「止めろ、カディアっ」
「国には強い王が居た方が良いのよ、それが正しい事じゃないっ。
 天上の神もそれをお望みなのよ。見なさい、だから王座はしっかりお前の許にやって来るのよ。お前はそういう命運の許に生まれたのよっ」
「止めろって言っているっ」
 ディエジは怒鳴る。だがその顔にいつもの精悍が無い。代わりに眉を歪めている。言葉を詰まらせてしまっている。使者は淡々と続ける。
「ショーティアのディエジ殿。コノ王の要請を受諾頂けますか」
「勿論よ! 勿論、そうよね、ディエジ」
「――」
「早く受け取りなさい! お前がリートム王よ、ディエジ!」
 答えない。
 答えられない。濁った困惑をさらしたまま、部屋の窓の方へ歩む。
 西の水平線は、とっくに夕光を失っていた。湖面に落ちてゆこうとする宵の明星の輝きが際立ち出している。室内に背を向けたまま、ディエジは十分に言葉を選んで言った。
「もし俺がリートム王になるとする場合、イドル妃との結婚が条件になるのか?」
「はい。ただ今述べた通り、コノ王はリートム支配を手放す気は全くありません」
「だったら俺は、形だけの王になるという事か?」
「はい」
「はっきり言うんだな」
「それでも貴方は、正当なリートム国王の地位に就きます。御不満がありますか?」
「不満なんて無いわ! そうよね、貴方はその運命なのだからね、ディエジ!」
 カディアは息子の許に寄り、窓の外からこちらへと向けようと肩と掴み引っ張ろうとした。
 だが、ディエジはその手を、露骨な怒りと嫌悪を込めて、乱暴に振り払ったのだ。
 驚いた顔の母親など、即座に見捨てる。ディエジは大股の十三歩で部屋の扉へ向かった。自ら扉を開け、早々に部屋を出て行ってしまう。
「待ちなさいっ、何を怒っているのよ、ディエジ!」
 あっという間に通廊を抜けて薄闇の階段を下ってゆく息子に、背中から命ずる。
「そういう命運なのよ、なにを嫌がっているのよっ、どんなに逃げたってお前が王よ!」
 とっくに息子の姿は消えている。僅かな靴音が石壁に反響している。
「逃げられないわよ! 大馬鹿者――!」
 カディアが怒りを込めた振り返った時、視界の隅・部屋の扉口の脇では、モリットが立っていた。面白がるように目をキラつかせながらこちらを見て声をかけた。
「奥方様、大変な事になりましたね」
 途端、カディアはモリットの頬を平手打った。
「お前は消えていろっ」
そして彼女もあっという間に階段を下っていった。
 八つ当たりを受けて取り残されたモリットは、それでも面白そうに口許を引き上げたままだった。ついには面白さをこらえきれなくなり、声にもらして笑い出していた。

 翌日。
 約束の報奨金を受け取り、たっぷりと飲み食いを済ませた果てに、カラスのモリットはにっこりと笑ってショーティアの城から旅立っていった。
 乳じみた霧が湖を隠し、世界が灰色の無彩に覆われている朝だった。

           ・       ・        ・

 時間が過ぎてゆく。
 はしゃいだ態のままに喋り続けるカディアの上にも、報酬を受け取るや飛ぶように走り去っていったモリットの上にも、無言で湖面を見つめ続けるだけのディエジの上にも、時間が過ぎてゆく。
 エリン島の全ての上に、長い時間が過ぎてゆく。
 リートムの、かつてのガルドフ城の上でも、霧のように淀んだ長い、長い時間が通りすぎ続けてゆく。
 ……
 リートムの空は、今日もどんよりと曇っていた。
 にもかかわらず、その午後も街は活気に覆われていた。この数か月にわたり、リートムは激動としか言いようのない状況の変化にさらされてきた。それにもかかわらず――それだからこそ、リートムには様々な人々が押し寄せ、物質が運ばれ、来る日も来る日も引き続いて活気と賑わいに満ち溢れていた。
 あの日。
 バリマック軍に急襲され、リートム国王とその軍勢は消息知らずとなった。
 そのバリマック軍が国王の義父・マナーハンのコノ王によって撃退させられたまでは良かった。結果としてそのまま、コノ王の勢力が居ついてしまった。
 聖者の加護無くどこぞで没したらしいガルドフ王家のアーサフ王に代わり、気づいた時にはその寡婦・イドル王妃が女宗主になっていた。それがリートムと、そしてイドルのたどった道だった。
 ……
 イドルは王城の高い場所にある自室から、外を見下していた。
 窓の下は、城の城門だ。そこでは、休みなく人々と荷車が行きかっているのが見える。周辺には多数の顔が、色々な顔が見える。その顔の中には、昔ながらのリートム城の臣下や使用人たちもある。そしてマナーハンから来ている人間の顔もある。
 イドルは毎日のようにここから見つめている。だから、さすがに彼女も気づいている。城に出入りする人々に、マナーハンの人間が増えているのだ。その割合が日々ごとに着実に増え続けているのだ。
 そしてその数が増えるにつれて、リートムの人々の間に不満がくすぶり出していることも、イドルは知っている。不満はとっくに不満の段階を超えて、反発へと達している。反発はそろそろ暴動の域に近づき出していることにも、気づいている。
“リートムを奪うマナーハン女! 泥棒女は出ていけ!”
“リートムの王家はガルドフ家だけだ! 泥棒女は出ていけ!”
 不満者達の言葉も、知っている。
 その言葉の通りだ。自分がここにいるのはおかしい。リートムの正当な王であるのは、夫のアーサフだけだ。
 その正当な王を救えたのに。自分は。あの時。
 ……あの時。夫が自分を救出するべく帰還した時。今にも抱き合って、手を取って共に逃げられると思ったあの時。
 イリュードがいた。
 あの時。もし。
もし、自分が一言を発していれば――。
“なぜ何も言ってくれなかったんだ、せめて一言でも言ってくれていれば……!”
 この人は自分の兄だと、兄が今ここにいるなんておかしいと、何かが仕組まれていると、その一言を発していれば、確実に夫の命運は変わっていた。なのに自分には出来なかった。状況に従うだけで、そのまま流されるだけで。なぜって。
 そうやって生きてきたから。それが普通だと思っていたから。あの時までは。
“なぜ何も言ってくれなかったんだ!”
 最愛の夫を心から傷つけ、そして失った。……
「奥方様。どうかなさいました?」
 年長の侍女が、落ち着いた物腰で声をかけた。
 室内には、若い女主人の周りに何人もの女達がいた。全て彼女付きの侍女達だ。リートムの女宗主という身分を権威付けるために、父親が本国から送ってきた、多数のきらびやかな女達だ。
「なんだか下から賑やかな声が響いてますね。何か見えます? 誰かの来訪かしら? マナーハンの御父上からの使者とか?」
「――。知らないわ」
 女主人の顔は、いつもの通り曇っている。
 イドル妃が酷く気鬱に落ち込んでいるので、慰めるように。
 イドル妃の周辺がまだ落ち着かないので、警固をするように。
 イドル妃が酷い気鬱の果てに無茶な行動を起こさないよう、監視するように。
 最年長となる年配の侍女は、部屋の椅子の端に浅く腰掛けながら、窓際の女主人の後ろ背を見ていた。彼女は、イドルがまだマナーハンの城に居た時から良く知っていた。よく喋りよく笑う、幸福そのものそうだった少女の姿を良く覚えていた。勿論、恥じらいながら嬉しそうに嫁いでいった日の姿も。
 その日から、半年も経ていないというのに、女主人はこんなに変わってしまった。少女が口を閉じがちになってしまい、常に塞いだ顔で窓の外を見るだけになったしまったことに、驚かされた。
(でも、それも当然よね。嫁いで間もないのに、国を蛮族に襲われて夫を失い、自身も囚われたんだから。気鬱になるもの当然よね)
 その女主人が、外を向いたまま尋ねた。
「マクラリ卿は今、城にいるの?」
「リートムの豪族のマクラリ卿ですか? あの方ならば確か昨日、城を出て自領へと帰られたようですが」
「そう」
「マクラリ卿に何かの御用ですか? 御相談事だったら、マナーハンから来た顧問が今城内にいますよ。呼びましょうか?」
「いいわ」
 一度もこちらを見ようとしない。ただずっと窓の外を見ている。
「奥方様っていっつもリートムの人ばかり頼りにするんですね。私たちみたいにマナーハンから来た人間だって大勢いるのに。何でですか?」
 一番年若の小間使いが、無邪気に発した。
 途端、イドルが大きな溜息をついた。そして振り向く。いきなり、強い勢いで室内の侍女たちに言った。
「みんな、出て行って」
「奥方様、どうなさいました?」
「早く出て行ってっ」
「……、いえ、でも、貴方を独りにすることは出来ませんので……」
「私を独りにしては駄目と言われているの? 父上にそう命じられたの?」
「いえ、――はい、それもありますけれど、でも――」
「早く出て行ってっ」
「奥方様、どうしたんです? 何をそんなに怒っているの?」
 小間使いの再びの無邪気な質問に、イドルの眼の色が変わった。
「私は自分の感情を出してはいけないの? それがいけないの!」
「なぜですか? そんな事、私達は誰も思ってないのに」
「私は囚人じゃないわよ、監視なんかしないでっ、出て行って!」
「奥方様――」
「出ていきなさい! 今すぐ出ていけ!」
 剣幕に侍女たちがびっくりし、何も出来ずに女主人を見つめた。
 ちょうどその時、部屋の扉口に男が現れた。
「奥方のイドル様。ただいまマナーハンのコノ王よりの使者が登城しました。奥方様へのお目通りを申し出ています」
「嫌です。誰か別の人と会ってもらって」
 即座に答える。
「奥方様との直接の接見を強く申し出ています。是非二人だけで接見したいとの事です」
「嫌と言ったわよ。聞こえなかったの?」
「自分の名前を伝えれば、きっとお目通りを許して下さるだろうとも言っていました」
「え?」
「モリットとの名前です」
 その途端。
 ヴィアの掌が固く握りしめられた。





12・ リア



 アーサフには、外の様子は分からない。
 明り取りの窓は高い場にあり、木々の枝葉とその向こう側の灰色の空しか見せてくれない。木戸の扉には勿論、外から鍵を下されている。
 それでも、この納屋に射し込む木立越しの陽射しが、少しずつ傾いてゆくのが分かる。そろそろ午後も遅い頃合いだと分かる。つまりそろそろ、彼女がやって来る時間だと。
 その通りだった。ガチャガチャと錠前を開ける固い金属音が、納屋に響いた。
 扉を押し開け、彼女は姿を現した。
 いつもの通り、彼女は手に簡単な食事を乗せた盆を持っている。いつもの通り、感情の無い冷たい、でも美しい顔だ。
「今日は。いつも有難う」
 こんな状況だというのに、アーサフは挨拶の言葉を発した。これもいつもの通り。
「――」
 だが、彼女は黙ったままだ。表情も変わらない。いつもの通り。
 いつもの通り、横たわったままのアーサフの横に近づく。背中を起こそうとしたのだが、それを断った。
「大丈夫。自分で出来るから」
 彼女は、意外な顔をした。
「食事も、自分でとるから」
 アーサフは食事の盆を受け取ると、粗末なスープを自ら匙ですくい喉に流し込む。さらにパンをちぎって食べ、水も飲んだ。無言で、真剣な表情で、全てを食べ切った。
 彼女は、初めて口を開いた。
「今日になって、急に体力が回復したって訳?」
「そういう事じゃない」
「ならばどういう事?」
「少し前から身体が少しずつ動くようになっていた。だがその事を誰にも悟られたくなかったから」
「――。逃げだす気だったのね」
「そうだ」
 彼女はそれ以上もう聞かなかった。いつもの通り、素っ気ない態度で食事の盆を手に取り立ち上がる。そのまま数歩を進み、木戸から出ていこうとした。その時だ。
「一緒に行こう」
 すぐ背中からの声に、びくりと反射的に振り向く。自分のすぐ後ろに相手が立っていることに露骨に驚きの表情を示す。
「貴方、立てるの!」
「立てる。歩ける」
「――。本気で逃げ出す気?」
「逃げる。そのために、目が覚めている時は、とにかく身体を動かしていた。一刻も早く体力を回復しなければならないから。どんな事態が起こるか分からないから、君にも隠していた。だが今日、陽がかげったら私は逃げる。一刻も早く、私の素性がばれない内に逃げる」
「貴方は、誰なの?」
「私はリートム王、ガルドフ家のアーサフ」
 聞いた瞬間、彼女の顔色が変わった。
 初めて、大きく内心を示した。驚いた以上に動揺したと言った方が適切だろう。動揺し、強い感情を顔に示した。
「本当なの?」
「本当だ。だから奴らに私の素性が知られる前にここから逃げなければならない」
「でも、さすがに逃げ切れる程には身体は戻っていないでしょう?」
「そうだが、それでもすぐに逃げないともっと悪い状況に追い込まれる。
 奴らにはショーティア領の者と、嘘の素性を言ってしまった。奴らが言うには私の素性を確認してから身代金を盗るそうだが、それが本当なら、極めてまずい。奴らはそろそろショーティアまで行って確認を済ませて帰還する頃合いだ。私の嘘が暴露してしまう。絶対にその前に逃げないとならない。
 夜陰を使えば、追手をくらませてこの森から逃げ切れるはずだ。貴方に頼みたい。奴らの馬を二頭、盗む出すことは出来ないか?」
「二頭?」
「貴方も一緒に逃げるんだ? 馬には乗れるだろう? 森から抜ける道は分かるか?」
「無理よ」
「怖い気持ちは分かるが、無理と言っているだけでは何も出来ない。たとえもし失敗したとしても、その時には貴方の事を人質として私が無理矢理連れ去ったと言うつもりだ。貴方に迷惑はかけない」
「無理よ。駄目。逃げられない」
「……そうか。ならば無理強いはしない。だが、頼む。馬はなんとかならないか?」
「……」
「それでも、私はやらない訳にはいかないんだ。この数箇月、私の上には余りにも多くの事態が起こった。翻弄され続けて来た。だが、――もう嫌だ。私は自分のすべきことをするべきだ」
「……」
 目の前で、彼女は無言になった。
 ちょうど午後も深くなった陽射しが窓越しに当たる場だった。陽を受けて、彼女のすっきりと整った顔立ちが一層に映えている。感情が複雑に入り組んでいるだろう内面を、その黒色の眼が印象的に示している。
「どうしても馬は無理だろうか? あと、出来るなら武器となる短剣を一本、それに食べ物を」
 陽はゆっくりと傾き、そろそろ夕刻が始まる頃だろう。逃げるべき時は刻々と迫っている。こんな時だというに、彼女の眼が美しい。見据えるアーサフも無言になってしまう。その間にも陽は静かに、確実に傾いてゆく。
 最後にもう一度だけ声をかけようとアーサフが思った時、
「貴方は逃げられないわ」
 微妙に口調が変わった。
「え?」
「だって私が逃がさないから」
「――。え?」
 一瞬、彼女が笑んだ。
 途端、みぞおちに衝撃が走る。女は信じられない俊敏でアーサフを殴った。呆気なくよろけたところを続けざまに背中を打たれ、アーサフは床に崩れ落ちた。
「逃がさない、リートム王のアーサフ」
 笑うかのように叫ぶ。
「飛んでもない獲物だったのね。だったら絶対に逃がすものですか。ここまで体力を戻していたなんて危ないところだったわ。すぐに鎖でつないだ方が良いわね」
 早口で言い捨てるや、すぐに納屋の扉口に向かう。素早くその木戸を閉めようとする。
 それをアーサフが阻んだ。
 アーサフが夢中で追いかけ、腕を伸ばした。閉じ込められる直前に、木戸に手首を挟み、阻止をした。
「なぜ――貴方」
 女が必死で扉を押す。挟んだ手首が圧迫され、こすれて激しく痛みだす。それを無視しアーサフは体を押し当てて扉を押し開けようとする。
「なぜだ――貴方は何者だっ」
 女の必死の力に、アーサフが勝った。木戸は大きく外に開いた。
 女の顔が歪む。即座に走り出そうとするのを、アーサフは背中から抱きつくように捕えた。
「答えてくれっ、どうして! 貴方も捕囚では無かったのかっ」
「放せ!」
 女は、血のにじむアーサフの手首にかみついた。もう無駄だ。この女も敵方だったのか。
 アーサフは体重をかけて、女を推し動かす。たった今まで閉じ込められていた納屋へ彼女を押し入れる。即座に木戸を締め、錠をかけた。そして即座に走り出した!
「誰かっ、誰か――捕囚に逃げられた! 捕囚はリートム王よ! 誰か――早く、早く追いかけてっ、捕まえて!」
 走る! 何も考えず、今は走る!
 息が切れて胸が熱くなるまでには、あっという間の時間しかかからなかった。それでも痛みを無視して走る。今はただ追剝の館から、この森から許から逃げることだけを考えて走る。
「誰か来て! 奴を捕まえて!」
 納屋からの女の叫び続がまだ聞こえる。彼女が誰かなんてどうでもいいから走る。分かっている、胸は早くも限界に近づく。息が熱い。苦しい。脚を動かすのが辛い。それでも走らなければならない。それが今できる全てだ。
「早く捕まえてっ、早く!」
 女の叫びが、背中側から聞こえ続ける。その声に、男の声が混ざった。ついに誰かが気付いてしまったらしい。
「すぐ追いかけてっ、東へ行ったわよ!」
 一瞬だけ振り向いた視界――森の木立越しに、数人の男たちが納屋の前に立ち女と共に騒いでいる光景が見えた。その目が全く同時、一斉にこちらの方を見た。
 神様、早くも気づかれた!
「馬を出して! 絶対に逃がさないで!」
 瞬時に判断する。これは逃げ切れない。走っても逃げ切れない。ならば身を隠す場所を探せ。今すぐ。急げ!
 アーサフは大きく右折する。木々が深く茂っている方向を目指す。とにかく、馬が入り込めない程木々が密生している方へ。どこか隠れる場所を探せ。間もなく陽が落ちる。暗くなる。そうなれば何とか逃げ切れるかも知れない。
息が熱い。肺が痛い。脚が動きたがらないが、それでも脚を動かす。もう陽光は夕方の濃い黄色味を帯びている。間もなく陽が落ちる。
 後方から犬の泣き声が聞こえた。犬まで持ち出したのか? 神様、早く!
 早く、隠れる場所を――そして日没を、早く!
 瞬間、視界の隅に、盛り上がった地面が映った。考える間もない、即座にその陰に滑り込む。と言うより体力が限界に達し、そこに潜り込まざるを得なかった。僅かに窪んだその場に潜み、焼き入れそうな呼吸を押さえ込みながら、アーサフは今日何度目かの、そして最後となる願いを込めて神に祈る。
 神よ。逃がして下さい。お願い致します。
 私にはまだやるべき責務があります。リートムの再建という責務があります。
 リートムを再建し、亡くなった家臣達の無念に報いるという責務があります。だからまだ死ねません。
 リートムを再建した後には、いつでもお望みの時に魂を捧げます。だから今はどうか私への試練を御見逃し下さい。私を逃がして下さい。陽を沈めて下さい。神様!
 熱い呼吸と鼓動の中、祈り続け――
 待ち続け――
 だがしかし、アーサフの視界はとらえた。
 夕刻の金色の木漏れ日の中、男たちと犬は確実にこちらに迫りつつあった。
「この辺りに居るはずだ、探せっ」
「犬が騒いだら、すぐに放てっ」
 神は自分の願いを聴く気は無いようだ。追手は確実に自分に近づいてくる。
 犬まで持ち出されては、勝ち目は無い。隠れきる事は出来ない。だがそれでもアーサフは抵抗を試みる。窪地の中、動かない体にそれでも力を入れる。姿勢を整える。呼吸を整える。
神様、それでも私は走ります!
 アーサフは窪地から飛び出した。
「あそこにいたぞ!」
 叫びと同時、一斉に追手が走る。犬が吠える。アーサフは走る。
 走れ。何処でもいいからとにかく走れ。息の続く限り走れ。逃げ切れ!
 が。
 唐突、アーサフは脚を止めた。
 勢いでもんどり打って転びそうになるのを、なんとか堪えた。反射のように素早く、蒼ざめた顔で振り返った。
 後方、かなりの距離を置いているというのに、彼女の姿をはっきりと捕えることが出来た。片膝を地面に付き、低く構えた姿勢を見事に安定させ、確実な弓を打ち遂げた直後のその姿。
 そしてアーサフの目の前、僅か一歩先の地面には、深く突き刺さった矢がまだその尾羽を揺らしていた。
「次は背中を貫くわよ!」
 叫びが響く。その右手にはもつ、次の矢が握り直されている。
 ――もう走れない。
 逃げられないと思った途端、押さえ込まれていた全身の苦痛が一気に襲い掛かってきた。立っている事が耐えがたくなった。それでも、倒れ込むのだけは嫌だと思った。そんな無様を見せるのは嫌だと。
視界の正面からは、女、犬、馬、そして男たちがどんどん迫って来る。男たちの中には、例の首領もいる。破滅の時が近づいてくる。このまま殺されるのだろうか。生涯を終えるのだろうか。ならば、
 後は、見苦しくない最期を。リートムの王として。
 立ち尽くすアーサフの目の前に彼らは達し、止まった。
「貴様はリートム王、ガルドフ家のアーサフなのか?」
 首領が、低い声で発した、神よ。後は見苦しくない最期を。
「そうだ」
「リートム王はバリマック軍に捕えられて殺されたと聞いたぞ。本当に貴様はリートム王アーサフなのか?」
「本当だ」
 冷徹なはずの首領の顔が、隠しきれない驚愕を示している。その前で、アーサフは息を深く吸い、足に力をいれた。姿勢を保ち、ゆっくりと告げた。
「聞け。捕えられる前に、殺される前に、真実を伝えておきたい。私の国・リートムについて」
「何のことだ」
「リートムへのバリマック族の侵攻についてだ。あれは、バリマックの単独の行動ではない。マナーハンのコノ王が陰謀を画策して起こした事態だ」
 首領も、背後の者も明らかに眼の色を、顔色を変えた。
「元々コノ王は、リートム奪取に野心を抱いていた。だから私の許へ、娘を嫁がせた。娘をリートムの王家に婚姻付けた上で私を殺害し、王国の継承者とさせる計画だったのだ。
その為に、バリマックの長・カジョウと提携した。彼にリートムへと侵攻をさせた。その後にリートム救済の旗印の許にバリマック軍勢を駆逐し、娘をリートムの新王位に就けるのだろう。
 ――これが、真実だ」
「……」
「私を殺すつもりならば、好きにしろ。だが、真実まで葬らないで欲しい。この事実を伝えて欲しい」
「貴様。その真実をどうやって知り得た」
「……。色々とあった」
 一瞬だけ、体の奥底で記憶が遡った。幾つかの想いが感情をかすめた。
 追剝達の誰もが真剣な眼でアーサフを見入っている。日没の迫る金色の木漏れ日の森の中で、静寂が異様に張り詰めている。確かに異様な程に。
「私を、信じて欲しい。出来るなら世に知らしめて欲しい。それだけだ」
「――」
「信じられないかもしれないが、信じて欲しい」
「信じる」
 え? 
 あっさりと、首領が答えた。真剣な眼のまま。
「信じる。我々も同様の体験をした」
 何だって?
「何を――、どういう意味だ?」
「同じ体験だ。我々の国も、バリマック族の襲撃を受けた」
「……」
「我らの王も、バリマックの刃によって落命をされた。バリマックは散々な略奪の果てに立ち去ったが、王城はこの機とばかりに強引に介入してきたマナーハンのコノ王が入城を遂げてしまい、国はマナーハンの属領となってしまった」
「貴方は、誰だ?」
 首領の全身が突然、流れるように動き出す。膝を曲げ、身を低くし、頭を垂れた。
「亡きキクライア王国の臣下、ユーナーン家のミコノスです。初めてお目通りをします。リートム国王陛下」
 これに、後方の男たちも連なる。風が抜け木立が揺れる森の中、全員がアーサフに対して敬意を表したのであった。
 アーサフは、黙してこれを見据えた。
 黙して、状況の判断を急いだ。この信じられない大きな展開を、急いで分析した。何としてもこの機を最大限に活かさなければ。そして進んでいかなければ。だから。
「私達は、手を結ぶことが出来そうだ」
 自らも信じられない程に落ち着いた声になった。
「私には今、果たさなければならない責務がある。
 私は、失ったリートムの王権を取り戻し、混乱しているだろう内政を平定させなければならない。その為に、もしも可能であれば、貴方の助力を頼めないだろうか。キクライア王国のミコノス卿」
 立っているのが精一杯の体で、しかしアーサフは堂々の態を保つ。
「教えて欲しい。今の貴殿の立場は、この森の中に亡命しているという事なのか?」
「その通りです。亡き王を最後まで支持し忠誠を捧げ、ゆえにコノ王の介入に反対していた私は、コノ王の奸計より謂れのない断罪を受けました。自領を剝奪された上で追放令を受けました」
「そうであれば、もしも私の復権がかなった暁には、今度は貴殿の地位と名誉の復権に尽力したい。私がリートムの王へと復位すれば、それが可能になる」
「……」
「キクライアのミコノス卿?」
「……。自領を奪われ、不名誉を背負わされ、私は屈辱と憤怒の中にありました。それでも、私は機を待ちました。盗賊まがいにまで身を落としても、私は機を待ち続けました。今、ようやくその機が訪れたようです。
 感謝したします。神に。そして貴方様に。リートムのアーサフ王」
 その機が訪れたのだ。アーサフにも。
「私に従事してくれるのだな。ミコノス卿」
「はい。神の名において。謹んで」
 金色の空気に染まる森の中、アーサフはついに勝った。長らくの絶望の連続となった時間の果て、今、初めて己の力で命運に勝利出来たのだ。
 感謝をします。神よ――
 夕方の風そして夕刻の光を受けながら、あらためてミコノスに言った。
「私は、一刻も早く行動を起こしたい。リートムの現状について何か知っているか?」
「はい。リートムに関して、幾つかの情報があります。
 今現在、コノ王の娘が形式上では宗主となっていますが、領民は不満を抱きだしたようです。狡猾なコノ王ですから、この状況に何らかの対策を執ると思われますが、今のところ、これ以上は何も」
「もう少し詳しい情報が欲しい。密偵を送ることは出来るか」
「可能です。今すぐに私の郎党をリートムへ送りましょう。マナーハンのコノ王の方へは、すでに密偵を潜入させており、随時に連絡が入る様になっております」
「感謝をする。有り難う」
 感謝をします。有り難うございます。神よ。
 今度こそ。感情に流されずに現実に向き合います。リートム王として。神よ。
 感謝をします。
「アーサフ殿。リートムの情報が入るまでにはいささか時間がかかります。その間貴方様は充分に休んで体力を回復された方が良い。今の顔色も、酷いものです」
 言われたことで、アーサフの体の中には痛みと疲労がよみがえってきた。
「そうだな。確かに少し休みたい。館に戻らせてくれ。馬も借りたい」
 でも、弱さを見せてはいけない。自分は王なのだから。他者よりの毅然でなければならないのだから。
 ふと左手を見た。
 彼女が、自分を見ていた。夕刻の金色の光の中で見るその顔は、室内で見た時より一層に端麗に、怜悧に、そして印象的に見えた。
 疲れを隠した素早い動作で馬にまたがり、背筋を伸ばす。決して嫌味ではなく純粋な疑問として、アーサフは彼女に訊ねた。
「貴方は私を騙していたんだな」
「何の事?」
「ここから出られないと。この森の中に捕えられていると私に言った。嘘だったとは」
「嘘じゃないわ。もう丸二年ここに捕えられているから」
「貴方は誰だ」
「私の父は、キクライア王国・ユーナーン家のミコノス。私は父に自領を奪回させ、一刻も早く故郷のキクライアに帰りたいだけ」
 表情は冷たく引き締まっている。美しくはあるが、親しみは無い、親しみが無い分しかし強い意志と信念を見て取れる。そしてその意志は信用できる、――と、なぜか見入っているアーサフに思わせる。
「取り敢えず貴方は寝て、早く体力を戻して。私の望みには貴方が欠かせなくなったから。貴方は私達にとって大切な同志よ」
 光の中、強い目元が真実を述べていると伝えた。
「そう言ってくれて、有り難う」
 やっと勝てた。そして同志が出来た。
 と同時、何月かぶりに心の緊張を解いて眠れるという事実に、アーサフは体から力が抜けるのを感じた。姿勢が緩みそうになるのを必死でこらえた。
「貴方の名前は?」
「リア」
 早くも眠りたがる思考の中で、リアという響きは妙に鮮やかに響いた。

・             ・            ・

 現れたその者は、前回会った時とは全く異なる出で立ちだった。
 上質の旅装のマントと長靴。高価な剣を腰に差している。伸びかけた髪はきちんと束ねられ、顔や手の汚れも洗い落とされている。そして左手の人差し指には、正規の使者である事を示すマナーハン王の紋を印した指輪をはめている。だが、
「やあ。久しぶり、イドル」
 にっこりと笑った顔は、元通りだった。まごうことなくコソ泥のカラスのモリットであった。
「……。イリュード――」
 イドルの声が震えている。指先もまた。
「よく……戻ってこられたわね……」
 かなり長い当惑の沈黙の後、イドルは激しい否定の感情を示した。どんな時でも無邪気であったかつての彼女とはかけ離れて。
 しかし、そんなことは全く気にしない。モリットは女宗主である妹の部屋に入ると、早々に長椅子に座ってしまった。室内の片隅に控えていた小間使い達に、気安く言った。
「今、マナーハンから駆け付けたところなんだ。さすがに疲れた。何か飲物を貰える?」
「いいからっ。飲物なんていいからっ、貴方達はすぐに部屋から出ていって!」
 いきなりの大声に、小間使いの娘たちはびっくりした。突然やってきた若い使者の馴れ馴れしい態度にも。そして何より、ずっと感情を失っていたかのように沈んでいた女主人の表情が一変した事に、驚きの顔をかくせなかった。
 取り敢えず彼女たちは慌ただしく去り、部屋の扉は固く閉じられた。
 そして兄妹は、二人きりになった。
 強い感情――怒りを向けてくる妹の視線に、イリュードはさらされた。
「……。イリュード」
「モリットだよ。当分は」
「――」
「この名前を結構気に入っているんだ。楽しいしね。ねえ、飲物をくれない? すごく喉が渇いているんだ」
 突然、イドルは兄に近づいた。いきなり右手で兄の頬を打ったのだ。
「よく私の前に戻ってこられたわね!」
「……驚いたな」
「よくも戻って――! あんなことをして……アーサフ様を――リートムを滅茶苦茶にしておいて、よくも――!」
「驚いた。いつだって大人しかったのに、人を殴ることも出来たんだ」
「何をしに来たのっ」
「大人しいだけの気性だと思っていたよ。だから、目の前で自分の夫が失墜していく時にも、何もしないで泣いてるだけだと思っていたのに」
 イドルは再び凍り付く。その次に瞬間に叫んだ。
「貴方が――貴方が悪いんじゃない!」
「そう? 俺だけのせいかな? だったらあの時、俺の素性をすぐにアーサフ王に言えばよかったのに」
「止めてっ、あの時は貴方が突然に現れたから私は驚いてしまって――」
「俺が自分の兄だって、それだけでも言っていればね。まあ、だとしてもアーサフ王の運命は変わらなかっただろうけど、でも少なくとも妻に裏切られたという傷はつけずに済んだものをね。まあ、今さら何を言ってもどうにもならないけれど」
 にっこりと、モリットは笑った。
 そしてイドルは声を失った。全くの正論に言葉が出なかった。
 あの時。あの時の自分。後悔しても後悔しても後悔しきれない、あの時の自分。
 あの時に、自分の世界は変わった、
 自分を取り巻いていた柔らかく暖かい世界は消え、代わりに現実と言う世界に突き落とされた。ここからは、自分で考えるという世界になった。悩み、苦しみ、怒るという世界になった。
 目の前に屈託なく座っている兄を、憎しみをこめて睨み下ろしながら言う。
「何をしに来たの」
「マナーハンのコノ王から、父上からの伝言」
「聞きたくない」
「聞きなよ。驚くよ。
 ショーティアのディエジ卿の無事が確認された。今、こちらへ向かって来ている」
と言われた瞬間、イドルの心象には夫の横にいつも並んでいた家臣の姿が素早くよみがえった。
「ならばアーサフ様は? だっていつも一緒にいたのよ、あの人――ディエジ卿。だったらアーサフ様の方は?」
「いないよ。もうどこかに消えて、見つからない」
「……。嘘よ。貴方まで嘘を……」 
「死んだかは知らない。けど、もういない。見つからないって。分かってるだろう?」
 分かっている。
 イドル自身も認めてしまう。もう二度とは会えないと。自分が傷付け、見捨ててしまったあの夫とは、もう二度とは会えない。
“もしかして、貴方がアーサフ様を殺したの?”
 心の片隅で、一瞬だけその文句が浮かんだ。だが、さすがに口に出して訊くことは出来なかった。
「それでね。コノ王からの命令だよ。
 ディエジ卿が戻ったら婚姻を結ぶようにと」
「――。え?」
「ディエジ卿と結婚しろと。ただし、リートムの宗主権は引き続き貴方が掌握する予定。新郎やこっちの宮廷から何を言われようと譲渡はしない、貴方は引き続きリートムの女宗主の地位だって」
「……。嫌よ」
「と言われても困るよ」
「何を言ってるのよっ。アーサフ様が死んだなんて私は信じてない! まだ生きているわ、それなのに何で再婚なんて出来るわけ無い!」
「だからもう死んでるよ。残念だけど。コノ王の言う通りにしてよ」
「生きているわ! 重婚は神の前の大罪よ、姦通罪よっ」
「死んでるから。どうしようもない。貴方だって本心ではそう思ってるんだろう? それにコノ王には逆らえないよ、イドル」
「生きている! 父上には従わない!」
 言い切った。
 イドルの体が震えている。言い切ってしまったことに自分も驚いている。だが泣いてはいない。食い入るように兄を見つめてはいるけれど、涙は流さない。
 あの時、泣いてしまった。そのせいで最も大切なものを失ってしまった。だからもう泣きたくない。悔やんでも悔やみきれない。後悔に心を苛まれ苛まれ苛まれ続けるのは、もう嫌だ。
 窓の外からは、賑やかな人の声や物事が響き聞こえてきた。イドルの心情にかかわらず、旧ガルドフ城は明らかに以前に勝る活気に賑わっている。
「変わったね。イドル」
 ふと、モリットは面白がるように微笑んだ。
「そんなに怒ったり、不満を見せたりするんだね。初めて見たよ。随分変わったんだね。まして、父上に反発するなんて」
「貴方は全然変わってない。イリュード」
「モリットだよ」
「父上の命じたことになら何にでも従っている。神に反する事までして、周りの人達を傷付けて、破滅させて、――殺して。
 そこまでして、父上に従っている。それが良いの?」
「――」
「父上の命令で子供の頃から一度も表に出ることも許してもらえず、酷い事ばかりやらされて、それで良いの? それでこの先もずっと生きていくの? イリュード!」
 イリュードの眼が変わった。
 固い真顔となった。立ち上がった。たった二歩で妹の前に立った。と、右手を動かす。相手の喉にそっと手を当てた。
「イリュード?」
 手を当てたまま、真顔になる。恐ろしく真剣なまま、妹を見る。喉に当てた手に、僅かに力が入る。
「イリュード!」
 手はすぐに外された。
 窓の向こうからは、大勢の往来がかもし出す賑やかな物音が響いてくる。
 静まった室内で、空気は淀んでいる。何を考えているのだろう。イドルには全く分からない。目の前にある兄の表情から何もつかめない。怒っているの? 哀しんでいるの? それとも――
「イリュード?」
 と。兄の顔がニコリと笑った。そのまま踵を返し、のんびりと再び長椅子へと身を投げた。
「と言うことだから。ディエジ卿が戻ったらすぐに婚礼を発表して挙式だって。おめでとう」
「言ったわ。父上の言う通りなんかにしない。無理強いをしたら、父上と貴方がやってきた事を、リートムの領民に知らせるわよ」
「そう? だったら好きにすれば良いよ」
「もう後悔したくない。貴方達には従いたくない」
「ならば頑張ってね。どれくらいの抵抗を見せてくれるのか楽しみにしているよ。
 ディエジ卿は良い人だよ。見た目と口調は少し怖いけど、話していると良い人だってすぐ判るから。貴方の良い伴侶になるよ。幸せになれるよ」
「嫌よ!」
「じゃあ。俺は帰るから。またね」
 モリットは立ち上がった。早々に扉へと向かってゆく。その背中に向かい、イドルは恐ろしい言葉を発した。
「呪われるがいい、父上も貴方も」
 立ち止まり、振り返る。びっくりした目で妹を見た。そしてニコリと笑った。
「変わったね、イドル」
 弾むような足であっと言う間に部屋から出ていったのであった。
 ……
 部屋の外では、もう午後も遅くなっていた。
 そろそろ太陽が傾き、すぐに夕刻になるだろう。陽は没し、夜になり、そしてまた明日が来るだろう。
 イドルの表情も、全身も、硬かった。
 時間の流れが、確実に彼女を変え、明日へと追いたてた。




  

13・ イドルⅢ



 幾つも、幾つも、幾つも連なった灌木の丘陵を、越えていく。
 霧が流れては消えてゆく灰色の空の下を、歩き続け、歩き続けてゆく。
 丘陵と灌木と霧の島・エリン島を進むその長い、長い旅路の果てに、目指す地は現れた。
 リートムは、現れた。僅かに漂う薄霧の向こう側に、遥かな遠くに、ついにリートムの全景は現れたのだ。
「……。リートムだ」
 喉の奥で、小さく呻くように漏らした。
 普段の鋭い表情が、今だけは変じている。切ない、愛おしむ目付きになっている。その眼で長く街を見つめている。
 リートム。これまで自分が全身全霊を捧げてきた街。そしてこれから、全身全霊と運命を投じることになる街。
「初めて見たわ。思ったより小さいじゃない。安定ぶりが良く広く知られているし、もう少し大きな街だと思っていたわ」
 甲高い声が、灰色の風景の中に響いた。
「これがお前の物になるのね、ディエジ」
 その時、ディエジの顔つきが変わった。堅苦しいものになった。だが横に馬を並べる母親はそんなことに気づくものか。
「お前の街よ。素晴らしいわ、神のおぼし召し。神は、お前の力量に相応しい物を賜って下さったってことなのよ」
 小娘のように感情を高ぶらせて続けていく。カティアの顔は満面の笑みだ。
 母子の周囲には、多数の男たちが連なっていた。彼らは皆、ディエジに仕えて旅路に同行してきた者だった。元よりショーティア城に仕えていた従臣達と、コノ王が派遣した兵士達とが入り混じり、二十人を超える大人数の一団となっている。彼ら全員もまた、リートムを見ている。長い旅が終わったこと、近々にリートムの新王となる主人を無事に護衛しきった事に、安堵をしている。
 浅い霧の中、再びディエジはリートムを見続けている。灰色の世界の中で、リートムの小さな輪郭は彼の目に巨大な存在として映っている。
「……違う……」
 独り言として小さく霧の中に漏らした。
「俺の物じゃない。リートムは」
「何言ってるのよ! お前の物よ、正当にお前の物よ、だからここまでやってきたんじゃない!」
 カディアの叫びも聞き流している。冷えた風を受けながら、ディエジはひたすらにリートムを見続けている。
“お前の物なのよ”
 違う。アーサフの物だ。神がそう定めた。
“嫌だ、お前が王になってくれ、ディエジ”
 神がそう定めたんだ。だからアーサフを殴った。あの時。
 殴って、そしてアーサフは泣きながら王座に就いた。就いた後も泣き、悩み、疲れ、それでも王であり続け、その果てに――。
“お前の方が力量がある、だからお前の方が相応しい、ディエジ”
 あの時、自分が聞き入れていれば、アーサフの運命は変わっていた。
 自分が、アーサフの運命を変えてしまった。だから自分に責任がある。だから。
 アーサフが命に代えて守ろうとしたリートムを、自分は引き継がなけばならない。
 リートムはアーサフの物だ。それを護るのが、自分の責務だ。
「ディエジ、聞いてるのっ」
「――。聞いてる」
 眼はリートムのみを見ている。
 霧の中に、従臣達が始めた無駄話が流れ始める。幾つもの声の中にマナーハン訛りが多いことに、今さらながら気づく。厳重な警備を目的に派遣された彼らの存在に、その裏にコノ王が何かしらを意図していることを、感じ取る。
「……。別に、急に気を変えたりするか。勿論、出し抜いたりもしない。傀儡でも、それでも俺がリートムの王だ」
「何の事よ、ディエジ。傀儡って?」
「今は、進むだけだ」
 今は、コノ王の意図通りに従い、進むだけだ。だが、いつかは払拭してやる。リートムはコノ王には渡さない。アーサフの物だ。
「行こう」
 短い一言。灰色の世界の中、ディエジは馬の腹を蹴った。リートムの新王となるべく、灌木の丘陵を真っ直ぐに下り始めた。
 馬の一歩ごとに、視界の中のリートム全景は大きくなってゆく。そそり立つ城壁が、視界に高く迫ってくる。まだ霧は薄く残っていた。それでも城壁の上、死んだように垂れている青十字のリートムの旗印が良く見える。その隣には、黒羽のマナーハンの旗印が立っていることも。
 そしてディエジの眼は見捕えた。街の正門・聖マル城門、そこに多くの人々がいたのだ。
多くの人々――住民達が、自分の帰還を待っているのだ。自分を歓迎しているのだ。その証拠に、どの顔も文字通り満面で喜びを表して自分を見ているではないか。
「マクラリ!」
 その多数の顔の中に、見出した。ディエジは思わず鞍から飛び降りると、自らの足で走った。
「マクラリっ、良かったっ、無事だったんだ!」
 マクラリは、以前と何一つ変わっていなかった。覚えている通りの落ち着いた色調の長衣を着こなした姿だ。覚えている通りの落ち着いた姿だ。ディエジは思わず一度、抱き締めた。
「会いたかった、本当に会いたかったっ」
「随分の無沙汰だな。ディエジ。あの修道院以来だ」
「修道院以来だ、あの時からずっと――! 会いたかった!」
「私もだ。お前が無事で良かった」
「――。アーサフは死んだのか」
 いきなり尋ねた。
 門の前、二人の周囲には、旧王家に仕えていた者たち、新たにマナーハンから派遣された男たち、それに街の住民達が多数集まってきている。彼らが自分に注目しているというのに、それでもディエジはもう一回尋ねた。
「嘘なんだろう? 忌々しい噂だけで、アーサフは死んでなんかいないんだろう? まだ生きているんだろう?」
「……。それは、私の方が尋ねたかった質問だ」
「俺はずっと獄につながれていて、先日ようやく逃げたばかりなんだ。何が起こっていたのかを知ったのは、その後だ。マナーハンの使者の口を通じてだ。
 だが俺は、全ては信じていない。アーサフが死んだなんて噓だろう?」
「私にも判らない」
「隠すな、マクラリっ。アーサフは今どこにいるんだ」
「なぜ隠す必要がある」
「人目なんかどうでもいい、今ここで真実を言えよ! アーサフは生きているんだろう? どこにいるんだ!」
 ディエジの腕が相手の腕を力任せに掴む。
 その腕をマクラリは無言で、ゆっくりと振りほどいた。それから言った。
「アーサフ王は、おそらく亡くなった」
「――。」
「確認は取れていないが、ほぼ間違いは無い」
「――。確認が無いのなら、アーサフはまだ生きている」
「――」
「俺は確認が取れるまでは信じる気はない。アーサフは生きている」
 取り囲んでいる群衆の前で、ディエジの言葉が響いた。
 マクラリはこの件について言及したくないのだろう、落ち着いて話題を変えた。
「王城ではすでにお前を迎える準備が出来ている。行こう」
「俺が帰ることを城の皆は知っているのか? 戻って来た理由も?」
「知っているも何も」
 言うとマクラリは歩きだす。ディエジを連れ、門を塞ぐほどに膨らんでいた人垣を分けた。大きな聖マル門を抜けてリートムの街へと入った時だ。
 人が――通りを人が溢れていたのだ。そして突然の声が。
「リートムの新王、ショーティアのディエジ!」
「リートム、ガルドフ家の新王、ディエジ!」
 大きな歓声が上がったのだ。
 門の内側の聖マル広場には群衆が詰めかけていたのだ。その眼が全て、自分を見捕えていたのだ。大変な熱狂の眼で。
「……」
 ディエジは、その圧に気取られ、言葉を失った。
 それはうっすらとした恐怖感でもあった。自分の運命が完全に変わってしまった現実を、自分を見る全ての眼に見た。その熱烈の様に、否が応でも自覚をした。
“嫌だ、ディエジっ。そんな責任を押し付けないでくれ!”
 あの時、友は泣きながら言った。友が感じたのであろう背筋が冷える感覚を、やっと今ディエジは理解出来た。
 自分が、リートムの新王となる。
 この国を統べる。この人々の命運の一切を背負う。
「ディエジ。気づいているか」
 動揺を見透かされるのは嫌だ。意識的に冷静に応じる。
「何を?」
「彼らはガルドフ家の名を叫んでいる」
 ガルドフの新王!
 ガルドフ家のディエジ!”
 薄霧を震わせる、歓声――。
「バリマック族を撃退して以降に続いたマナーハンのコノ王の支配に、領民達はよほど不満を募らせていた訳だ。かつてのガルドフ家の名を求めている。ガルドフの血を引くお前が帰還し、新王となることで、彼らはコノ王へのうっ憤を晴らしているという訳だな」
「……。そうなのだろうか」
 振り向いて見るマクラリの視界の中、ディエジは強張った真剣な顔で言った。
「そうでは無いんじゃないだろうか……。皆が求めているのは、ガルドフ家の名でもなく、勿論俺でもなく、――アーサフなのじゃないだろうか」
「……」
「アーサフがいた数年間――波乱がなく、不安もなく……。ごく普通に日常が続いていた、それだけの日々を懐かしんで、それだけを求めているんじゃないだろうか。
 純粋に、単純に、アーサフの時代が戻るの求めているんじゃないだろうか……」
 この男にしては珍しく、歯切れが悪い言葉だった。
 ――恐れているな。老卿は簡単に見抜いた。が、それ以上は何も言わなかった。
「行こう」
 湧き上がる熱狂的な歓迎を、ディエジは固い顔で歩みだす。目指す旧ガルドフ王城では、さらに多くの人が、そして困難が待ち構えているだろうとは、ディエジ自身にも充分に予想がついた。
 それでも今、そこへ向かう。

・            ・            ・

 ゆっくりと、西翼の階段を上がってゆく。
 慣れた道のりだ。十二歳で王城に出仕してから、数えきれない回数にわたってこの段を踏みしめてきた階段だ。
 こんな時だというのに、その時の記憶は簡単によみがえる。無数の風景が――笑いながら、苛立ちながら、考え事をしながら上り下りをしてきた日々の記憶が、心象に鮮明によみがえる。
 そして今は、現実だ。
 ディエジは、重苦しい躊躇を覚えながら階段を登ってゆく。目指すのは最上階。城主とその身内が私的に使っている、その一角。
 階段を登り切る。重い嫌悪を引きずるように、一歩ずつを重ねてゆく。通廊を進む。ふと目がゆく。気付く。
 かつてアーサフが使っていた部屋。そこは今は、使う者がいないらしい。なぜか開け放たれたままのその扉が目に留まった。通り過ぎる時、少しだけその中を見やったが、何も無い、家具も、装飾も無いがらんとした空間が、ただ広くあるだけだった。この部屋のさらに二部屋の向こう側。
 そこに、アーサフの妃の部屋があった。
 ここまで至った時、ディエジの足は完全に止まった。
 ずっとずっと内心深くに抑えてきた嫌悪感が今、どうしようもなく表層まで登って来た。それでも進まなければならない現実に、様々な感情が渦巻いた。
 今、その部屋の前では、珍しい光景が展開していた。四~五人の女達が呆然と立ち尽くしていたのだ。
「ショーティアのディエジ様?」
 一人の女の声に、侍女達は一斉に振り向く。ディエジに向かい一斉に膝を曲げて敬意を表した。こんな態を取られたのは生まれて初めてだ。こそばゆい。
「……。何をしているんだ?」
「奥方様に部屋から追い出されました」
 一番歳若の小間使いがすかさずに答え、隣から叱咤を喰らう。すぐに他の侍女が言うには、
「いえ。奥方様は今、塞ぎの虫に囚われていらっしゃって……。少し御独りの方が良いだろうと私達は部屋を空けました」
「俺が来ると聞いたからか?」
「――」
 互いに目くばせをするだけで、答えなかった。
 生涯において気まずさというものを知らなかったディエジが、今、初めてそれを実感した。と同時に、これから己が果たさねばならない義務にあらためて嫌悪感がつのった。喉の奥底が渇き、重たく締まるのを感じた。
「中から鍵をかけてしまったのか?」
「はい。でも合鍵が有るので、開けることはできますが」
「開けてくれ」
 彼女たちが顔を見合わせたのは瞬間だった。この命には従わないと。この人は自分たちの主君になるのだから。
 侍女の一人が慌ただしく鍵を持ち運び、扉の鍵を開け始める。ガチャガチャという冷たい金属音が止まった時、ディエジは強い息を突いた。
 やるべき義務は果たす。扉の把手を掴んだ。ゆっくりと押しあけた。
 瞬間、身を避ける!
 避けた体のすぐ右脇、壁に当たった銅製の水差しは床に落ち、鈍い音を立てた。急ぎ振り向いた視界の中、イドルは今度は杯を握っている。今にも投げつけようとしている。
「奥方様!」
 侍女たちの叫びと同時に、杯も投げつけられた。顔を直撃する直前、ディエジの右手でてそれを掴み取った。
「この恥知らず!」
 激しい叫びが発せられた。
「よくも……よくも戻って来られたわねっ、貴方は――! 出て行ってっ」
「……」
 ディエジは答えることが出来ない。なぜなら、彼女の言葉は真実だから。だが。
 静かに前方へと歩を進める。自分の妻になる、親友の妻に。
「近寄らないで! 私は貴方と婚姻を結ばないわよっ。なぜ? なぜ貴方が承諾するのよ、アーサフ様の親友だったくせに! その貴方がアーサフ様の王座を乗っ取るの? 私と結婚して?」
「……」
「何とか言いなさいよ! 何よその顔、少しは自分の恥に気づいているつもり? 一番アーサフ様の信頼を得ていたのに!
 答えて、アーサフ様の国を奪うのはどんな気持ち? 答えてっ」
「――。リートムは、アーサフの物だ」
 抑揚のない声で、答えた。 
「この国の王は、アーサフだ」
「そうよ。だから貴方が奪うなんて、そんな道理は神が許さないっ」
「アーサフの物だから」
「そうよっ」
 イドルが怒りながら見ている。
 覚えている。かつては、少女のように大人しく愛らしかった。なのに今、目の前、その記憶から大きく異なる姿を見せつけている。アーサフが愛して止まなかった妻は。
「アーサフ様の物よっ、リートムは!」
 アーサフの妻。アーサフの国。
「聞いているの! 恥知らずの泥棒が!」
 アーサフの物。だから。
「アーサフの物だから、だから、俺が引き継ぐ。他の誰にも渡すわけにはいかない」
 イドルの怒りに震える唇が、呪詛を唱えた。イドルは新たな夫に向かい踏み出し、右腕を振り上げた。
「そんな道理――!」
 相手の顔を打つ直前、その手首は相手に掴み取られた。
「放して! そんな道理が通るの? どんなに言い訳をしても貴方は簒奪者よっ。親友から国を奪うという現実は変わらない!」
 イドルが腕を掴まれても、必死で暴れる。
「元を正せば貴方がアーサフ様を護れなかったから! だからこんなことになってしまったのよ! なぜアーサフ様を死なせてしまったのよ!」
 その一言に、ディエジは手首を放してしまった。
“あの時”
 思い出す。また。何度目。またあの時、
 あの時の、霧の中の後ろ背、アーサフの。あの時、もし――もし自分が――、
 途端、乾いた音が室内に響いた。イドルは今度こそ強かに未来の夫を平手で打った。
「貴方が代わりに死ねば良かったのよ! アーサフ様ではなく貴方が!」
 ――酷い言葉だ。
 笑うべきなのか。怒るべきなのか。哀しむべきなのか。自分の感情が解らない。なのに、不思議と解かってしまう。こんな酷い言葉を吐く程に、ここまで変貌する程に、この少女もまたアーサフを失い苦しみ続けてきたんだろうと。それでも日々を送るために、激しく、強く変わらざるを得なかったんだろうと。
 室内は、妙に静かだった。窓の外からの様々な人声や物音が、遠く響いていた。
ディエジが小声で発した。
「変わったんだな。貴方」
「貴方など認めない。新王とも。夫とも」
 二人とももう、気づいていた。二人が同じものを想い続けているという事実を。
 同じリートムという国と、そしてアーサフを。
「認めてもらえなくていい。それでも貴方と婚姻する」
「汚らわしいっ」
「アーサフの物だった。俺はそれを護る」
「婚姻なんて同意しないから、絶対に! 出て行って!」
 もう伝えるべきことは伝えた。義務は果たした。ディエジは早々に背を向けた。
「汚らわしい裏切者! 簒奪者!」
 去っていくディエジの背中に向けての罵声は、扉が閉じられるまで続いた。
 そして通廊へ出た途端、今度は侍女達が一斉に取り囲んできた。
 彼女たちは何も言わない。ただ責め立て来るような視線を向けるだけだ。勿論ディエジも何も語らない。
 通廊の窓からも、外の人声が大きく聞こえる。女宗主の夫になる男の到着を祝する宴会の準備も進んでいるのだろう。城は明らかに、新たな賑わいの時を迎えようとしているのだ。
 ディエジは、一呼吸を置いてから命じた。
「奥方から目を離すな」
「はぃ?」
「この城から奥方を連れ出そうとする者が現れるかもしれない。それ以前に、彼女自身が逃げ出そうとするかも。そうはさせるな。決して目を離すな」
 すると侍女達はなんとももやついた表情に陥った。そんな中、
「すでにマナーハンのコノ王から命じられていました」
一番歳若の侍女が、また出しゃばって口走った。
「奥方様からは絶対に目の離すなと、コノ王が私達に命じられました。恐ろしい万が一があるかもしれないと。自害をされるのが心配だと。だからいつでも必ず見守る様にと言われました」
 それに対してディエジは即応する。
「いや。それは無いな」
「それは無い、って?」
「彼女は決して自害などしない」
 そう言って初めて、僅かに口許を上げた。苦笑をした。





 14・ モリットⅢ



「リートムが見えるぞ」
 誰かの声に、アーサフの全身が流れるように反応した。荷馬車の中から飛び出してしまった。
 いきな視界に広がったのは、暗色に染まり連なる灌木の丘。そしてその向こう側、灰色の空気の中に船のように浮かんでいるリートムの、確かな全景。
「リートム……」
 声にならない声を唇からこぼした。
 泣きはしない。嗚咽を漏らす事も。ただ、背筋の辺りに熱い感触が走ったことには自覚があった。自分が産まれ、育ち、図らずも支配することになり、そして自分の命運の全てとなったのが、この街だった。
「やっと着いたのね。さあ。早く行きましょう」
 荷馬車の横に馬を寄せて、淡とリアが言った。
「……。その台詞」
「何?」
「その台詞」
 前にも、聞いた。
 そうだ。あの時もそうだった。紆余曲折の果て、やっとリートムにたどり着いた時だ。そう言ったんだ。
 カラスのモリットが同じ事を言った。“早く行きましょう”
「何よ。何を言いたいの?」
 そしてそのさらに前。
 やはりこの場所からリートムを見た。
 たった一人だった。一夜にわたり馬を走らせ、疲労し、疲労困憊し、それでもただ早くリートムに行きたい、戻りたいという一心だけでこの場にやって来た。たった一人で、ここで見た。奪取されたリートムの姿を。己の命運が強大な力によって変えられたのを。
 あの時から、どれ程の時間が流れたんだろう。
 その時間の中で、自分は変わることが出来たのだろうか。
「城壁の周りに、多くの荷馬車と天幕が集まっている。報告の通り、かなり賑わっているようだ」
 今度は後方からキクライアのミコノス卿が発した。
「コノ王の新たな策を、リートムの住民は歓迎しているというのも本当だな。祝賀に向けて近郊の者も、また他国から多くの商人達も来ているようだ」
「取り敢えず、皆が喜んでいるのね。リートムでは」
 丘陵を抜ける風が冷たい。アーサフは固い無言であった。
 ……
 深い森の中でアーサフが必死に体力を取り戻している間に、ミコノスは何人もの部下達を各地に遣り、的確な情報を集め続けていた。それを逐一、アーサフへと報告し続けていった。そうやって確認がとれた事は、アーサフの国・リートムでは、
 ……すでにバリマック兵はコノ王の救軍によって完全に駆逐されていた。バリマック軍に捕らえられていたリートムの重臣達も皆、解放され帰国した。
 ……しかしリートム臣民達は、すぐにコノ王の実効支配に気づきだした。マナーハン王家出自のイドル妃が宗主となることに不満を訴え、再び世情は不安に傾いた。
 ……これにコノ王はすぐに対策を講じた。コノ王は旧ガルドフ家の血縁者を探し出した。この者をイドル妃と婚姻させ、臣民の不満を取り除く策に出た。

「……」
「さすが、マナーハン国をエリン最大の国にまでのし上げた男です。コノ王は文句なく権謀術に、力量に長けている。その力量の前に我国も、それに貴方もまんまとはめられてしまった訳ですが」
「……」
「聞いておられるか。アーサフ殿」
「――。聞いている」
 低地の森の中、冷えた風が抜ける屋敷の門の前だった。熱い雲が上空を流れる、薄暗い午後だった。
「聞いているから」
 聞いていた。確かに。だが体の中では二つの名前が繰り返し、繰り返してつぶやかれ、思考の全てを圧倒していた。
 イドル、そして、――ディエジ!
 ディエジは生きていた。モリットは嘘を付いていた。ディエジはやはりバリマックに捕えられていたものを、何とか脱出していた。歓喜のあまり息苦しささえ覚える。ディエジは生きていたのだ。
 ディエジは生きていた。そしてリートムへ戻ってきた。コノ王の提示した“リートムの安定と繁栄の為”の案に同意し、リートムへと帰還した。
 そして、イドルとの結婚という条件を飲んだ。
「気になっているんでしょう? 自分の妻の事」
 抑揚のないリアの言葉は、完全に図星となった。
「貴方の妻の新しい夫になるのは、貴方の親友なんでしょう。皮肉な話ね」
「……いや」
感情に流されるのは。もう止めたはずだ。なにより、
「この状況では、仕方が無い。二人とも、私が死んでいると誤解しているのだから、仕方が無いから……」
 信じているから。
「そう? どうやらコノ王は貴方の消息も生死もろくに調べようとしていないみたいよ。確認も取れていないのに、貴方の妻と親友は婚姻に同意した訳?」
「――。もし私の生存を知っていれば、二人は婚姻を了承しなかった」
「そう? そうかしら?」
 信じているから。
 確かにイドルは、彼女は、泣くことしか出来ない。いくら自分とは愛と信頼で結ばれていたとしても、父王に強要されれば泣いて従ってしまうということもあるかもしれない。
 だがディエジは――。
彼こそは、どんな局面でも自分を護ってくれるはずだ。絶対の信頼で結ばれているはずだ。俗な権力志向などというもので、そんなもので自分達の絆は断たれるはずが無い。彼にかぎっては、ディエジ。いや。今はそれすら良い。
 ディエジ――、生きていてくれた。
 ディエジ。神よ。感謝致しまします。
 生きていてくれた。それだけで未来はまた変わる。

 リートムの全景を前だった。アーサフの深い表情が、繊細に変化を続けてゆく。横に馬を並べたまま、リアは興味も無さそうにそれを見捕えている。
 冷えた風が、灌木の丘を抜けた。アーサフは言った。
「早く行こう」
 リアの冷めた視線もまた、アーサフから前方のリートムへと移った。
「行きましょう」
 素っ気ない言葉と共に、アーサフと一行は進んだ。

・             ・             ・

 賑やかに人々の声が飛び交っている。
 人の出が多い。行き交うのはリートムの住民達だけでは無い。多くの外国者と思われる人々も集まっている。
 大通りに面した建物の窓からは、とりどりの色の布切れが垂れ下げられている。それが緩い風に揺れながらきらめいている。
“今日は聖者様のお祭りか何かですか?”
 先回の帰還の時と同様だ。モリットが言った時と同じように、リートムの街は聖者の縁日か大市の日のような活気だ。
 いや。明らかにそれ以上の賑わいだ。それも当たり前だ。リートムの女宗主が新たな伴侶としてガルドフ家の血縁者を迎えるのだ。その旨を住民に知らしめる祝賀の式典も数日後に控えているのだ。
 アーサフとミコノス卿、リア、そしてミコノス配下の数人の男たちは、馬と荷馬車を城外に留め置き、街の大通りを歩き始めた。
 彼らが纏っているのは着古した衣服だった。長旅も相まりいかにも薄汚れた装束だったが、それでも真っ直ぐに伸ばされ背筋や、固く引き締まった表情は、明らかに他の通行者達とは異質の雰囲気を放っていた。それでも幸いなる神に感謝すべきは、祝賀を間近に控えた街の空気が、他者の注意を引くことを妨げていた。
 アーサフは、一行に周囲を囲まれながら歩んでいた。
 彼は目深に外套のフードを引き、やや下を向きながら歩いていた。耳に飛び込んでくる様々な物音・人声・騒音を受け止めながら無言で進んでいた。進みながら、感じていた。自分が緊張していることを。――恐怖を覚えていることを。
 なぜ恐怖を覚える?
 その必要はないだろう? 今後の展開については、事前にミコノスと十分に検討をした。
 ――まずは、すでに街に戻っているマクラリ卿と連絡をとる。
 ――彼を通じてかつての従臣達に自分の帰還を告知する。街へ招集をする。
 ――彼を通じて、とにかくディエジと接触をする。婚礼を中止させる。
 ――そのうえで自分は帰城し、復権を公にする
 平和的で、安全な策だ。いや、策ですら無い。正当な手続きだ。コノ王は地団太を踏むだろうが、道理がこちらにある以上、何も公然とは仕掛けられない。
 不安は無い。勝算は充分にある。血が流されることも無く、事態は穏便に着実に進むはずだ。
そうだ。だというのに、なぜだ?
 なぜこんなに不穏を感じるんだ? これは、ただの自分の臆病なのか? それとも、何かの凶兆を感じ取っているのか?
「カニサ教会へは、ここの道を曲がるのか?」
 ミコノス卿の声に、はっと引き戻される。
 気付くと、城門と王城を真っ直ぐ結ぶ大路を、すでに半ば以上進んでいた。賑わう人通りの向こう側、右へと折れる狭い路地が見えた。
「そうだ。ここで曲がる。路地に入り四つ目の角で今度は左折だ。そのまま裏路地を進めばカニサ教会堂がある。あそこは今は廃堂となっていて、老いた守番僧が一人で住んでいるだけだ。人気がほとんど無いので、当分の逗留の場としてば充分だ」
「良い街だな」
 唐突にミコノスが言った。
「祝賀を目前にしたという賑わいを差し引いても、住民達の顔が満たされている」
「――? そうなのか?」
「私はかつて、主君の命を受けて長らくエリン島の各地を回っていた。人々の顔を観れば、ある程度はその地の国情が判る」
「凄いな」
「リートムへ来たのは初めてだ。だが、話は良く聞いていた。小国で、大した地味にも恵まれていないというのに、非常に良く纏まっている。民の、王家への信頼が厚いとの評判は本当のようだな。現在のアーサフ・ガルドフに対しても、若年で決して有能と言う訳でもないのに、民は強く信頼を置き、為に国内が安定している」
「――」
「評判の通りだ。実際、今回の事態も、民のその信頼の心が、コノ王に策謀の筋書きを変えさせるに至った」
「――」
 アーサフは、何も応えなかった。
 裏通りに入った途端、喧騒は打って変わったかのような静けさになった。静寂の中、アーサフは再び思考の中に滑り落ちていった。
 では、自分のやって来たことは、間違いでは無かったのだろうか?
 王権の威信とか、領民の評価とか、そんなことまで思い及ぶ余裕は無かった。毎日泣きながらでも目の前の問題に取り組むことしか出来なかった。
 でも、それが一つの力になっていたのか? 気が付かないところで、リートムの命運を作り変えていたのか? それはつまり、自分の命運を創り出していたのか? 自分の非力は、それでも未来へ連なる力を産み出していたのか?
「次はどっち? 右?」
 リアの声が言う。
「左だ。裏路地に入る」
 道幅は狭まる。歩いているのは彼らだけだ。空気が冷え、静寂が確実になる。彼らの足音だけが低く響く。
「次は? 右?」
「もう一度左へ」
 小さな十字路を曲がり、道幅は一層狭まる。人二人が並んで歩くのが精一杯だ。聞こえるのは自分たちの歩く靴音だけだ。
 自分のやってきた事。自分がこれからやる事。
 正しかったのか。肯定されるのか。
 肯定されるのか。自分がこれからやる事。
「また角よ。今度はどっち?」
「今度は右に」
 神にしか判らない。神は肯定してくれるのか。
「路地はもっと狭くなるわよ。本当に合っているの?」
「そのまま進んで」
「行き止まりに見えるわ」
「行き止まりじゃない。次の角で道が開ける。小さな広場に出る。広場に出れば、そこがもう教会の裏手だ」
 全ては、神にしか分らないかのだから。――だから、
「へぇー、そうなんだ、驚いた!」
 ふと飛び込んできた声に、一行は前方に目をやった。
 路地の前方、狭まった両壁が縁取った視界の中。小さな広場の一角が見える。
 そこに人が居た。小柄な少年の後ろ姿が見えた。少年が楽しそうに横の老人に喋りかけていた。
「それなら、リートムの人が昔から王家と仲良くやっていたっていうのも解るなあ。俺の産まれた国とじゃ大違いだよ。羨ましいよ、この国」
 言いながら、向こうもチラリとこちらを見た。だがすぐに話に戻る。
「まあ羨ましいっていっても、ちょっと意味が違うけどね。話すと面倒くさいから今はいいや。え? 俺の国? マナーハンだよ、俺の国は」
 この声!
 アーサフの呼吸が止まる。見る。通りの前方。小広場。そこに立つ後ろ背。
 そこに、一生忘れられない男がいた。
 ――カラスのモリットが!
 モリットが喋っている。人の良さそうな老人を相手に、楽しそうに喋っている。上機嫌な横顔が、午後の薄日を受けている。
「……モリット?」
 その横顔が再びこちらを見た。が、気付かない。すぐに老人の方に向き直し――
「モリット」
 再び振り向く。
 今度こそ、目が合う。真っ直ぐに。
 真っ直ぐに目が合った。
 途端、モリットの顔が変わった。上機嫌だった顔が一瞬唖然と驚き、次の瞬間不快に歪んだ。自分が予想だにしながった事態の発生に、子供じみたまでの不快を見せつけた。
「モリット――!」
 即座、モリットは走り出した。
「奴を捕まえろ!」
 素早くリアが前に出る。滑るような動きで右膝を地面につけ、外套の下から小型の弓を出す。広場の端へと逃げてゆく獲物目掛けて素早く狙いを定める。
「駄目だっ、殺すな!」
 アーサフは彼女に覆いかぶさるようにその弓を押さえつける。その横をミコノスそして臣下の四人の男たちが一斉に走り出した。そしてリアが叫んだ。
「何するのよっ、逃がしてしまったじゃない!」
「殺せとは言っていない! 捕まえろと!」
「殺しはしないわよっ、足元に撃って転ばせたものをっ」
「殺すな! 奴だけは殺すな、訊くべき事が幾らでも――」
「誰なのよ、奴ってっ」
「カラスのモリット! ――違うっ、いいから早く捕えないと!」
 言い終えるや、アーサフも走り出す。それを軽く追い越してリアが先に走る。前方から聞こえてくる父親たちの声の方を目指す。
「こっち! こっちから声が。早く!」
 とっくに小広場を横切り、反対側の路地に入る直前、彼女は一瞬足を止め、アーサフを急かすや、その路地に飛び込む。
「早く来てっ。次の角は右よっ」
「そのまま追いかけろ!」
「急いで、そのまま真っ直ぐ! 突き当りを左に逃げてる」
「そのまま頼む!」
 リアそして男たちの声が響く。それをアーサフは追いかける。モリットはどんどん狭い路地へと追い詰められている。
 モリットは気付いていない。さすがの奴も知らない。その路地は行き止まりだ。行きつく先は袋小路だ。神よ、感謝します!
「こっちへっ」
 感謝します、心から!
「ここ、ここにいるっ、追い詰めた、アーサフっ」
 ついにリアの声が言い切った。激しく息切れする肺を抱えながら、アーサフはやっと遅れて追いついた。最後の角を左に曲がり、そして眼は捕えた。
 ――狭い袋小路に追い詰められた、カラスのモリット。
 両側は、高くそびえた建物の壁となっている。完全な行き止まりだ。それでもモリットは、逃げようと必死になっている。路地の奥つきにある錠前のかかった裏木戸を開けようと夢中で錠前に手をかけ、何とか開けようとしている。
 その背中にむかって、ミコノス卿と男たちがゆっくりと歩いて迫っていった。もうモリットに逃げ場は無い。神様。ついに奴を追い詰めた。
「皆。少し下がっていてくれ」
 静かにアーサフは言った。
「誰なのよ。あのガキ」
「すぐに教える。だが今は少し下がっていてくれ。路地の入口を見張っていてくれ。どこかにマナーハンの兵がいるかもしれない」
 ミコノスがこちらを見た。彼はこの言を受け入れ、引き下がって来た。そしてすれ違う時、
「後で全てを語ってくれるな。アーサフ殿」
「約束する」
「私達は、同じ目的を持つ同志だ。私は貴殿を信用している。貴殿にも私を信用して欲しい」
と、静かに言った。自らが右手に握っていた長剣をアーサフに手渡した。そして。
 ゆっくりと。ゆっくりとアーサフは路地を奥へと進んでゆく。
 モリットは路地を塞いだ木戸を開けようと、必死で錠前と闘っている。ガチャガチャと慌ただしい金属音が静まった空気に響いている。
「久しぶりだな。モリット」
 モリットは振り返った。
 固い表情だった。
 呼吸三つの間、両者は固い無言のまま対峙した。そして四つ目の呼吸の時、
「久しぶりですね。アーサフ様」
 にっこりと笑った。
「本当に久しぶりです。何だか随分痩せましたね。何か有ったんですか?」
 嬉しそうに、心底から再会を喜ぶように笑った。
 アーサフの感情が動揺する。自らに命ずる。落ち着け。相手に飲まれるな。落ち着いて、こちらが優位に立て。
「痩せて雰囲気が大きく変わっていたから、最初にちらっと見かけた時には気づきませんでした。どうしたんですか? 病にでも罹って体を壊したんですか?」
「病ではない」
「じゃあ何が? 俺が覚えている顔つきと全然違う」
「お前と別れてから以降、色々とあったからな」
「是非聞きたいです。あの夜に別れた後、貴方がどうなっているのかちょっと心配だったから。いつかまた会いたいとずっと思っていたんですよ。でもまさか、よりによってこんな場所で再会できるとは思ってなかった」
「なぜだ。ここは、リートムは私の国だ」
「貴方の国?」
 モリットの口許が面白そうに引き上がったのを見逃さなかった。
「アーサフ様。もう知っているんでしょう? リートムが今どうなっているのか」
「聞いている」
「イドル王妃とディエジさんの結婚は、四日後に正式に発表されます。王城前の広場で、披露の式典をするそうですよ。これでバリマックが侵入してきた日以来混乱していたリートムも、ようやく安定する。マナーハンとの友好関係も再確認される。リートムの領民もやっとほっとできますね。皆が大歓迎しますよ」
「見事だな」
「何が?」
「見事なものだ。コノ王の策略。そして、お前」
「褒めてくれて、ありがとうございます。」
 皮肉では無い。純粋に喜んでモリットは答えた。
「それで、貴方はどうするんですか?」
 これもまた、素直な声色で問うた。
「何というか……、今のリートムの宗主権を巡る状況は、混み入りすぎていますものね。俺が貴方だったらどう対応するのが正しいのか、結構悩みますよ。でも、何かしらの策を練っているんでしょう? だから帰還したんでしょ、王様?」
「――」
「貴方の奥方と親友が結婚するのですものね。何というか……、笑ってしまいたくなる程ねじれてしまった現実ですよね」
「……」
 アーサフは無言だった。手の中で長剣を握り直した。
 怒りではない。しかし、この状況になっても平然と笑いながら現実を述べる相手に感情を逆撫でられているのを自覚する。あっさりと場の主導権を奪っていこうとする相手に、動揺しているのが解かる。
 落ち着け。状況は今、自分の方が優位だ。
 ゆっくり、一歩前進した。
 相手の真ん前に迫った。剣の先を持ち上げた。相手の胸元に、確実に突き付けた。
「私は殺されるんですか?」
 面白がるような眼。大丈夫だ。自分が絶対に優位だ。このまま勝利できる。
「それはしない」
「ありがとうございます。でも捕えられるんですよね?」
「そうだ。貴様には聴きたいことが山のようにある。全てを聞き出す。そして貴様の身柄は、コノ王の牽制に充分に役立つ。人質になる」
「そうなるかなぁ?」
「情をかける気は無い。情報を喋る気が無いのなら、それなりの事はする」
「いえ、そっちじゃなくて、人質の件です」
「貴様は最高の人質だ。マナーハンのイリュード王子」
「おそらくそうはならないと思います。アーサフ様。
 ――もうすぐ正午ですね」
「なる。貴様の身柄を確保したと伝えれば、コノ王は今進めている計画の今後に、躊躇を覚えるはずだ」
「正午直前です。正午になると、街の教会が一斉に鐘を鳴らします」
「鐘がどうしたって?」
「ここの、カニサ教会の鐘も鳴る」
 ちらりとアーサフは視線を上げた。確かにほとんど真上に近い位置に、カニサ教会の鐘楼がそびえ立っている。その遠い背後、薄い雲を引いた白い空では、太陽が正に南中をする頃合いだ。
「何をはぐらかそうとしているんだ」
「鐘が鳴りますから」
「だから鐘がどうした」
「鐘が鳴りますよ。そろそろ」
 その時、正午の鐘が巨大な音を立てた。
 街じゅうの鐘が鳴り響きだした。様々な音階の金属音が流れだした。頭上の極めて至近のカニサ聖堂の鐘もなる。その大きな音に会話はかき消された。思いがけない邪魔に、アーサフは思わず顔をしかめた。
 目の前では、裏木戸に背を預けて寄りかかったまま、モリットが口を閉じている。僅かな笑みを浮かべてこちらを見ている。その意味深長な表情が猛烈に気になる。先ほど言っていた“そうなるかなぁ”の意味も。
鐘の大音響に、全く会話が出来ない。すぐにも確認したいのに、鐘はだらだらと長く鐘は続いていく。
 モリットの口が動いた。
「――を」
「何――?」
 アーサフは叫ぶ。鐘の音で聞こえない。
「何て言ったっ」
「――おを、顔――俺の、顔をっ」
「顔?」
「顔、――だりの頬を――見て」
 アーサフは相手の左の頬を見る。何か小さな傷跡がある。それが? 何?
「頬が、何だっ」
 鐘が長い。うるさい。全く聞こえない。それでもモリットは続けて叫ぶ。
「見て下さい、だから――俺の――」
「頬がどうしたんだ? 傷か? それがどうしたっ」
 鐘がうるさい! 早く終われ。もうすぐか。
「良く見て――。――ませんか?」
「待て。直ぐに鐘が止むから――」
「早くしないと――っ」
「だから何を!」
「早く!」
 顔を近づけて頬の傷を見る。だから? これがなんだ?
「早く! 鐘が終わる前に!」
 え?
 瞬間、鈍い痛みが身体に走る。素早い膝での一蹴りがアーサフの腹を襲う。思わず身をかがめてしまう。
 二蹴り目は背中を襲い、彼は地面に倒れかける。素早く身を起こす。剣を握り直す。低い視線の中でとらえたのは、ガシャリという鈍い音を立てて地面に落ちた木戸の錠前。正に鐘が終わった瞬間に。
「モリット!」
 その目の前で木戸は開き、モリットは今その中へ逃げ込んだ。
「モリット――!」
 アーサフは手を伸ばす、が間に合わなかった。木戸は音を立てて閉じた。なぜ!
「アーサフ様。じゃあまた」
 木戸の向こうから声が聞こえる。なぜっ。
 そうか。分った。神様っ。くそぅ、――後ろ手だっ。
 後ろ手で錠前の鍵をこじ開けていたんだ。鐘の鳴っている間。鐘の音でこじ開ける音を誤魔化して。頬だか傷だかに注意を引き付けて。そのすきに鍵をこじ開けていたんだ。
 糞が! カラスのモリット!
「リア! 教会の正面に回ってくれっ」
「何よ、何が起きてるの?」
「いいから頼む! 路地を右に回れ! 奴を捕えてくれ!」
 リアははじかれた様に身を翻す。男達を引き連れ路地から飛び出す。
 アーサフは木戸に体当たりする。何とか押し開けようとするが、すでに中では閂が下されびくともしない。
 そしてモリットの嬉しそうな声が響いた。
「きっと式典の日に、また会えますね」
「待てっ、逃げるな! ――リア、ミコノス卿っ、早く奴を――!」
「それから、俺を捕えても人質にはなりませんよ」
「早く――! モリット、卑怯だぞ、逃げるな!」
「俺を人質にしたって、コノ王は完全に無視する」
「嘘をつくなっ、貴様は王子だ。貴様を捕えればコノ王を牽制出来る」
「出来ません。私は貴方とは違う」
「何を言っているんだっ」
「貴方とは全く違う。同じ王子としての産まれでも、王位に就きたくないと泣いた貴方とは全く違う。完全に違う」
「え?」
 木戸を打つ手が止まった。唐突に、場に全くそぐわない静寂が生まれた。
 モリットの声が低い。
「王位どころか、俺は表に出ることも出来ない。なのに貴方ときたら……」
「私が何だっ」
「“リートムのアーサフ王は、王になるのを泣いて嫌がった”」
「――。何を言いたい」
「前にも言いましたっけ? 聞いた時、信じられませんでした。でもそれだけじゃない。ねえ。それを聞いた時、俺がどう思ったと思います?」
「どうって……」
 なんだ? なぜ今、突然自らを語り出すんだ? 木戸の向こう側。どんな顔で?
「この話、前にも言いましたっけ? まだだったかな?
 マナーハンではね、王位を継ぐ嫡男以外の王子は、公の場には出られないんですよ。間者になるから」
「――」
「生まれた時からそう決まっているんですよ。間者を務めることを。王の為、国の為に。
 そうやってマナーハンの王家は、自分たちの地位を守り続けてきたんですよ。かなり変わった伝統でしょう?」
 木戸の向こう側。モリットの顔は見えない。どんな顔をしているんだ、今?
「それでね、ある時聞いたんですよ。“リートムのアーサフ王は、王になるのを泣いて嫌がった”って。その時に俺がどう思ったと思います?」
「――」
「良かったら答えて下さいよ。アーサフ様」
 どんな顔をして語っているんだ?
「――私を、嘲笑したいのか? 恵まれた環境に産まれたのに、泣き言を言っていると」
「いえ。違います。嘲笑ではなく怒りです。あなたの軟弱さに」
「……」
「だから、どんな人間なのか会ってみたくなりました。今回の陰謀で共に行動できることが楽しみでした。
 それでね。一緒に行動しだしたら、いよいよ興味が深まってしまってね。御陰で初めてコノ王の命に逆らってしまいましたよ。貴方の殺害を思いとどまりました」
“どうせ俺の事なんて信用できませんよね。当然ですよ”
 そう笑って言いながら、たった三歩で自分に襲い掛かってきた。二人だけで旅を始めた直後。
 あの時に、自分は殺されているはずだったのか。
 だが、モリットはそうはしなかった。
 だって貴方があんまり無防備で――。そう言って、モリットは笑った。そう言いながら、笑いながら、腹では怒りを抱いていたのか。あの時?
「じゃあ。アーサフ様、これで」
「待てっ、もっとお前の話が聞きたいっ」
「要は、俺を捕まえても殺しても、コノ王は何もしませんからって話です。俺は王子では無い。王は俺に情を持っていません」
「だったら、私達は今だけ手を結ばないか?」
 全く躊躇なくアーサフは発する。
「お前が父のコノ王に少しでも反発を感じているのなら、今回だけでも協力することは出来ないか? リートムに無事に平和が戻った暁には、お前の望むところを手助けすることが出来るかもしれない」
「――」
「お前が望んでいるのは何なんだ!」
「マナーハンの王座」
 その一言で終わった。
 モリットの声は消えた。木戸の許、アーサフは取り残された。
 ……リートム王妃の婚約を知らしめる祝賀の式典まで、あと四日となった。

・            ・           ・

 その夜。
 古びたカニサ教会堂に付属する小さな宿坊の一室において、アーサフは神妙な顔をさらしていた。
 ……
「外地より、リートムの新しい王の婚約の式典を見に来ました。宿を貸して下さい」
 寂れた教会堂の唯一人の守番の僧は最初、珍しい申し出に当惑をした。だが、相手のそれ相当の身分を感じさせる風貌そして差し出した金貨を目にすると、一変した。言われるままに一行に宿坊部屋と食べ物を提供し、後は勝手に己の仕事――聖堂での祈りと敷地の掃除に向かっていってしまった。
 教会堂の中の小狭い、小さな木卓と椅子だけが配された空間の中で、アーサフは固い、強張った顔をさらしながら座っていた。
 木卓の向こう側では、ミコノスとリアの親もまた、固い顔になっている。
二人はたった今アーサフから、カラスのモリットと名乗る少年についての、長い話を聞かされたところであった。その少年が、実はマナーハンの第二王子である事。今回のリートムの騒乱を現場で仕切っていた事。散々にアーサフを振り回した果てに、見事に策謀を成就させた事等々……
 部屋の壁には、街の守護聖人であり巡礼の守護者である聖リートの彫像が、ぽつんと置かれている。胸に手を当てて上空を見上げる素朴な姿が、燭台の光の中に浮かんでいる。
 冷えた空気の中に、淀んだ沈黙が長らく続いた。それを破ったのは、ミコノスの冷静な口だった。
「なぜもっと早く話してくれなかった」
 多くの経験を積んだ果て、物事を峻鋭な眼で見捕える男は、固い言で問う。
「貴方と同盟を結ぶ時、貴方は我々に全ての経緯を語ると仰った。なぜこれほどに重要な、マナーハンの王子の件を伝えてくれなかった」
 アーサフは答えない。強張った表情だけをさらす。
「我らを全面的に信用してくれると貴方は仰ったはずだ。あれは虚言だったのですか」
 答えない。が、僅かに首を振り、否を示す。
「あの王子こそがマナーハンのリートム併合の実行者だというのに。最も重要なこの点を隠された利用を知りたい。貴方はその理由を語るべきです。でないと我々の貴方への信頼が動揺します
なぜ、あの王子の存在を隠された?」
「……」
 峻厳の眼が射抜く。正当な論だ。自分は全てを語らなければならない。だが。
 だが、モリットの件だけは、全てを自分独りで対処しなければならない。これだけは駄目だ。これだけは自分が、自らの手で全てを始末し、自分の手で全てを解決しないとだめだ。
 揺れる光の中に、聖リートの姿が映っている。目の前はで、顔立ちの印象が似通った父娘が自分を鋭く見ている。自分を信頼しているゆえの鋭さで。だから。
「モリットに対しては、私は感情に、確執がある」
真実を言わねば。
「あの男と共に過ごした時間は短かった。が、私はあの男に行動も感情も、根本から翻弄されてしまった。その挙句にどん底まで蹴落とされた。その屈辱は、これからの生涯にも片時も忘れることが出来ないだろう」
「――」
「あの男との決着は、私の尊厳にかかわる。だから自分一人で最終の決着を付けなければならないと考えて来た。そう心に誓ってきた。他者の援助を受けることは本意に反する。だから貴方に報告することも避けてきた」
「――」
「幼稚な矜持だとは思っている。計画の成就には、何より現実を見て行動すべきとは分かっているのに。だが、譲れない。済まない」
「幼稚ね」
 冷淡にリアが告げた。
 静まり切った室内では、冷えた空気が僅かに動いていた。確かにその通りだと、アーサフは思った。だが、ミコノスは、
「それでは仕方が無い」
 意外にも、あっさりとアーサフの感情を受け入れた。
「我々にはどうしようにも出来ない。貴方のあの王子への感情は、己で決着を付けて下さい」
 それで終わった。
 それだけだった。ミコノスにとっては、アーサフの感情の葛藤などどうでもいいのだろう。重要なのは、現実だ。自分達の計画にとって重要な立場にあるマナーハンの王子の身柄を確保出来なかったという事実だ。過去は取り戻せないのだからもう追求をしても意味はない。
 意味は、現実は、来るべき四日後だ。
「あの王子の動向を見張る必要がありますね。行方を探すべく広場と王城付近を偵察している者に、この王子の風体を告げて捜査をさせましょう」
 ミコノスが状況に対する簡素で最善の指示を出し、それで終わった。ようやく狭い室内の空気から緊張は解け、局面は一つ進んだ。その時だった。
「失礼いたします。ミコノス卿。アーサフ王」
 扉を開けて室内に入ってきたのは、ミコノスの配下の若い兵士だった。皆がそちらを見た。
「どうだ。連絡はついたか」
「いえ。やはり駄目でした」
「もう深夜だぞ。マクラリ卿はまだ自邸に戻っていないのか」
「はい。昼間からずっと館の門前で見張っていましたが、帰宅はありませんでした。やはり一昨日に登城して以降、ずっとそちらに宿泊しているようです」
「では王城の方は」
「そちらへも何度か向かいましたが、どうしても城門より中に入ることが出来ません。忍び込むことは勿論、きちんと取り次いだ上で入城しようとしても、門前払いです。とにかく城の警備の厳重ぶりに驚かされます」
「どうやら待っているだけでは埒が開かないようだな。卿と接見するべく積極的な策を立てた方がよさそうだ」
 アーサフは、無言のまま聞いている。
 モリットがまた、動き出している。
 ――揺れ動く聖リートの像を見やる。自分の体の奥底に緊張が生じているのに、気づく。
 モリットがまた動いている。だから自分達もそれを見越して動く。それだけの現実だ。炎の光に揺れ動く聖リートの姿を見続けている。モリットが動いている。その現実に勝手に体が、思考が、警戒を帯びだしている。
「怯えているの?」
 例によってリアの物言いは冷たい。だが、
「計画を進めていくのなら、障害に会うのも普通よ。あと、緊張を覚えるのも」
「分かっている」
 こちらを見下している訳ではないと、それどころかこちらを案じているとも伝わる。動じない合理的な言葉使いで。
「ありがとう。リア」
 不安は霧のようにまとわりつく。聖者が何かを伝えたがっているかのように見える。何か、何とも、嫌な予感がする。
 ガタリと小さな音を立てて、再び部屋の扉が開いた。
 守番の老僧が、身をかがめて入室してきた。彼は、小さな書簡を差し出しながら、ぶっきらぼうに言った。
「今、これを預かりました。アーサフという名前の方に手渡せと言われました」
 はっとアーサフは椅子から立ち上がった。
「誰が持ってきた!」
「小柄な小僧でしたよ。黒い髪色と焦げ茶の目色で、灰色の外套の」
 予感が現実になった!
 指先が一気に冷えていくのがわかる。素早い五歩で老僧に近づき奪うように書簡を受け取ると、夢中で目を通す。
「何なの? 誰からよ。何が書かれているの?」
 アーサフは書面から目を上げない。薄明りの中、その顔色が僅かに変わっていくのを、リアが捕える。
「たった今、私達には全てを話すと言ったばかりでしょう? 答えなさいよっ」
 それでもアーサフが答えるには、呼吸七回の時間を要する。
「――。モリットからだ」
「あのガキはここを知ってるのっ」
「教会法第十三条七項」
「何のこと?」
とリアが言うのと同時、アーサフは走るようにして部屋から飛び出した。

「後に出来ないの? 一刻も早くここを出ないとっ」
「出来ない、直ぐに確認しないと」
「書簡を届けに来たのはマナーハンの王子なんでしょう? 貴方の居場所がばれているのよ。襲撃されたらどうするのよ、何でここからすぐに脱出しないのっ」
「すぐ終わる。大事な事なんだ。今すぐ確認しないと」
「何のことなの? 暗号なの?“教会法第十三条七項”」
「私も知らない、だからすぐに確認をっ」
 その瞬間、バタンと大きな音を立ててアーサフは教会堂の礼拝室の扉を押し開けた。
「書庫は? 教会法の法典があるだろう? どこだ?」
 走って二人に付き従って来た守番の老僧は、ハアハアと荒い息を吐いている。彼はアーサフの強い眼に押され、急いで埃が溜った祭壇の脇を抜けた。後ろの宝具室の扉に駆け寄ると、腰に下げた鍵束から一つの鍵を取り出して大きな錠前を開けようとする。そのいかにも手間取っている間にも、リアが繰り返した。
「その教会法の内容を、本当に貴方は知らないの?」
「全く知らない。だがモリットがただ一言・教会法第十三条七項とのみ書き送ってきたんだ。何か飛んでもないことを企んでいる」
「何かを企んでいるなら、なぜそれを貴方に知らせてくるのよ。変じゃない? 第一、貴方の居場所を突き止めているのに、なんで即座に兵を送ってこないのよ?」
 アーサフが振り向いた。真剣な眼が、真っ向からリアを見抜いた。
「そういう奴だ。モリットは」
「どういう意味?」
「奴がその気なら、私はもう何度も殺されている」
 ガシャリと音を立てて、宝具室の鍵は外された。開きましたと守番が言うより前に、二人は中へ踏み入った。
「法典――あそこだ」
 狭い空間の右隅にある書見台に飛びつき、その上に乗せられている埃まみれの黒い書物に手を伸ばす。
「第十三条七項、第十三条七項――、十三条!」
 薄肌色の羊皮紙の頁の上、小さな手稿の文字を追うのがまだるこい。
「五項……六項……あった! 七項、あった!」
 ――。そして、無言になった。
 アーサフは、強張った顔で黙った。
「何が書いてあるの?」
と言いながらリアは横に立ち、読み上げた。
「七項――。
 至高なる神の御前で宣誓された婚姻は永久不滅なるものである。これを遵守せず離婚・再婚・重婚をする者は、至高なる神に対する冒瀆者である。
 また既婚でありながら姦淫を犯す者は、いかなる理由にもかかわらず至高なる神に対する著しい冒瀆者である。この冒瀆者は、石打刑により死を持って罰せられるものである」
 声が、狭い室内に低く響いた。
「貴方が生きている以上、あの二人が婚姻を結んだら、貴方の妻は重婚に当たるということに? そして貴方の親友も、既婚者と結んだ姦淫者にもなるの?
 でもあの二人は、貴方が生きているとは知らないはずよね」
「――」
「マナーハンの王子は何をしたいの? 二人に貴方の生存を知らせて、婚姻を止める気なの? それとも貴方に対して、決して公に出てくるなと牽制しているの?
 何を狙っているの?」
「――。解らない」
 言った。
 あとは、深い静寂となった。
 リアの持つ燭台の火が、僅かに揺れている。冷えた緩い風が、僅かに足元を流れている。
 アーサフは、無言だった。
 今は、今だけはもう、己の混乱を隠せなかった。揺れる光の中、眉が歪み、強張った表情をさらしてしまった。己がまたも追い詰められた様を、完全に晒してしまっていた。
 彼にとって、長い夜となった。

・             ・             ・

「奥方様」
という侍女の小声で、イドルは目を覚ました。
 帳を下した寝台の上だった。つい先ほど、ようやく寝入ったというのに、彼女は身を起こした。
「お休みのところを申し訳ありません。こちらに赴任されているマナーハンの顧問の方がら申し付けられました。先ほど、マナーハン本国から使者が到着され、こんな時間なのに貴方様と接見したいとのことです。何やら火急の、重要な報告があるとかで」
「火急……」
 イドルの体にも心にも、低い警戒が走る。
 すでにこの数か月の出来事により、自ら考えて判断する術を会得してしまっていた。今は即座に対応すべきだと感じとった。彼女は、掛布の上のガウンに手を伸ばした。
「何が起こったの?」
「はい。こんな時間だというのに。でも、顧問の方も使者も、どうしても今すぐにでないとと、強硬に仰って。でもこんな時間ですよ」
「こんな時間だからこそ相当に重要な件なんでしょう? 解ったわ。こちらに呼んで」
「それが……、信じられないのですが、奥方様の方に来て頂きたいと」
「向こうがそう言ったの?」
「ええ。しかもそれが、きちんと御身支度を整えて来て欲しいとの事です。……こんな時間にですよ。一体どういう事なんでしょう?」
「……」
 これは、何か事態が大きく動き出している。イドルは察する。ガウンを掴む指に力がこもる。
「解りました。すぐに着替えないと。他の侍女達も読んで。
それで、私にどこに来いって言うの? 地階の客間? それとも王の執務室の方?」
「それが……」
 何度も繰り返された“それが”のうち、今度こそに最も困惑が込められた。
「それが、城内の、礼拝室へと……」
イドルは驚いた。自分の全身に、緊張を意識した。

 リートム王城の城内は、寝静まっている。空気が冷えている。
 ランタンの光と共に、イドルは足早に進む。
「一体何が起こっているんでしょう?」
「まさか夜が更けてからコノ王から使者が到着したなんて、そんなことがあるのかしら」
「こんな時間に奥様を呼び出すって、つまり朝まで待てないという事ですよね? どういう用事なの?」
 付き従う侍女達が口々勝手に喋り続ける。だが、華やかな装束のイドルだけは無言だ。彼女だけが固く引き締めた表情の中、己の成すことだけを考えている。
「いくら何でも非常識が過ぎますよね、奥方様」
 答えなかった。ろくに耳にも入らなかった。今、己の成すこと――今は冷静さを保つことだけを意識におく。
 彼女たちは一団となり、階段を二階分下る。下りた後、左へ曲がって北の通廊を目指す。通廊の一番奥、城の北東の角に、目指す礼拝室はある。
 到着した時、正面にある扉の、その葡萄樹の木彫り装飾が松明の灯に揺れながら浮かび上がって見えた。その扉を、イドルは自ら押し開けた。
 真昼のように明るい光が目を貫いた。
 一瞬眩んでしまった視界が戻るには、ゆっくりのゆっくりの時間が必要だった。それをイドルは無言で待った。ゆっくりとゆっくりと戻って来る視界を、見つめながら待った。
 溢れる程に多数の燭台だ。それが眩い光で室内を覆っている。
 そして、数人の男達がいる。マナーハンから派遣されたコノ王の顧問。数人の聖職者達。それに、誰? 見知らぬ男が一人? もしかしてこの人が密使?
「あぁ、マナーハンのイドル妃様!」
 一人だけ女がいた。いきなり飛び出してきて、今にも泣き出しそうな大仰な顔で抱きついてきた。
「おめでとうございます! イドル妃様!」
 知っている。ディエジ卿の母親のカディアだ。この城に登城して以来、何度も何度もしつこい程に自分の部屋にやってきては、大喜びの声で息子のことを喋り続けてきた婦人だ。
「ショーティアの奥方。なぜここに?」
「王妃様、突然の、何と言う喜ばしい夜になったんでしょう! 今夜この場に立ち会えることを私は神に感謝していますわ、言葉にできない程喜んでいますわ!」
「何の事ですか」
「あら、まだ聞いてらっしゃらないんですか? 嫌だわ。驚いた」
 その言葉の続きを素早く妨げたのは、長らく城に赴任しているマナーハン人の顧問官だった。
「イドル王妃様。このような夜が更けてからの時間にお呼びだてにつきまして、心よりお詫び申し上げます。今宵のこのような非常識かつ無礼な態を取らざる得なくなった事にかんしましては、私も心底より不本意――」
「前置きは良いから。何が起きたの? その後ろにいる男が父上からの密使? 父上は何を指示してきたの?」
 今度は使者が――旅装の若い兵士が前に出てきた。あっさりとした一例の後、あっさりと言い切った。
「コノ王より火急の、最重要の伝達です。
 イドル妃におかれては、今夜の内にショーティアのディエジ殿の婚姻の宣誓を挙行するようにと」
 途端、王妃付きの侍女たちが一斉に大騒ぎをした。
「何を仰っているんですか! 結婚式の日取りはまだ先です。婚約の披露の式典ですら四日先と決まっていたでは無いですか!」
「こんな真夜中にっ、急にっ、非常識です。あり得ません!」
「御支度はどうするのです? 無理ですよ!」
 大騒ぎの声が止まない。カディアがそれを上回る大声で騒ぐ。
「ええ、そうよ。私も驚いたの。まさかこんな急に、真夜中に婚姻の誓いをあげるなんて信じられなかったわ。でもね――」
「そうです。仮にもマナーハン王家の姫に、こんな非常識でぞんざいな婚礼の宣誓をさせるなど信じられません」
「でも、コノ王が急がせたのには、きちんと理由があった上よ。その言葉を聞いて、私も納得をしたわ。だから皆さんも必ず納得するはずよ。だって新郎と新婦の幸せを願ってのことだもの」
「それはどういう意味ですか、ショーティアの奥様」
 それはね、と、高揚したまま続けようとしたカディアを、顧問官がはっきりと声賭けをして制した。
イドルは無言だった。彼女は動揺することなく黙っていた。この事態に隠れているものを探すべく、逆に冷静になっていた。
「四日後の婚約の披露の式典は中止にするということ?」
 彼女は、静かにたずねた。
「いいえ。そちらも予定通りに挙行します。婚約ではなく結婚の披露の為の式典として。そしてもちろん午後にはそのまま、大聖堂にて盛大に挙式をいたします。
 ただし。婚姻の宣誓については、今宵の内に済ませて欲しいとの事です」
「どうして?」
「今夜が新月で、しかも聖アリューシャの日だからです」
 ご存知でしょうが、どちらも古くより婚姻を祝福し守護をする、吉日の象徴です。それ故です」
「それを、父上が言ったの?」
「はい」
 イドルの顔が僅かに、皮肉気に笑んだ。
 自分の記憶の中にある父親――、大柄な身体を王座に預け、微動だにせず、常に固い顔で何かを考え続け、でもその考えを決して人に漏らさない姿だった。文句の付けようが無い完璧な国王であった。絶対の、冷徹の王であった。
 その父が、こんなことを言いだすだろうか。こんなに抒情的で、いかにも娘を思いやったかのようなことを。
「コノ王陛下は本当に貴方様の幸せを願ってらっしゃるのよ。貴方様が不幸に遭われたことに心を痛め、今度こそ幸せな王妃となり、今度こそリートムに平安が訪れて両国が固く結ばれことを願ってらっしゃるのよ」
 カディアの大声が続く。イドルは一層に難しい顔になる。
 彼女の疑念を見抜いたのだろうか。使者が続けた。
「コノ王御自身も元々は、聖アリューシャの御加護それに新月と婚礼という古い言い伝えについては気に留めていなかったようです。それが最近たまたま、どこぞの易術師と話す機会があり、聖者の縁起と祝福について教授を受けられたようです。急に貴方様の御運を気にされ出して、このようなご意見となったようです」
「……。あの父上のお考えとは、思えない」
「コノ王は、これまでに貴方様がたどられた命運について、大変な御自責を覚えていらっしゃいます。もし貴方様をリートムへ嫁がせることながければ、バリマック族の捕囚となるなどという大変な命運をたどらせる事も無かったと。良かれと思ってリートムの女宗主へと後押ししたのも、かえって貴方様に御心労を強いる羽目となってしまったと」
「……」
「何よりも、御結婚をされて間もないというのに夫と死別するなどという過酷な命運だけは、たどらせたくなかったと。だからこそ、今回の婚礼こそは、出来うる限りの天の祝福を授かりたいとのお気持ちだそうです」
「……」
 イドルの表情がこごまった。
 判断に困っていた。この信じようも無い展開を、受け入れて良いのだろうか。
“コノ王の命令だから――”。
 イリュードの面白がった顔が過る。その通り。父の決定が全てだった。その為に最愛の夫と巡り合い、夫を奪われ、夫が愛していた王国も奪われ、果てに不規則な形で王国は自分の物となった。
 そしてその王国は今また、騒乱の危機を帯びている。父親の謀略へ反発している。それなのに今、その父親を信じて、その指示に従って良いのだろうか。
 父親は――マナーハン王国のコノ王。
 国王だから、使命は王国の利益。それは、神の名の許の正道だ。そのとおり、コノ王は常に、王国の利益の為に動き続けてきた。
 そう。それならば。自分は?
 自分は、マナーハンの王女。
 そして、リートムの王妃。女宗主。
 ならば、自分がすべき事は?
 今、まさにこの瞬間にすべき事は? 何?
 唐突に、冷やりとした風が室内を吹き抜けた。
 一斉に燭台の光が揺れる。一瞬ゆらいだ視界が戻っていた時、後方の開けられた扉の許、二人目の伴侶が立っていた。
「ディエジ!」
 無言で立つディエジに誰よりも先にかけ寄ったのは、母親だった。
「貴方も聞いてる? 急な話ね、貴方が王になる瞬間よ、ねぇ、聞いてる?」
「聞いてる」
 高揚する母親とは対照的だった。ディエジは張り詰めた硬い顔のまま、進み出てくる。その場にマナーハン宮廷の関係者、司祭、そしてイドルがいるのを確認する。
「何でこんなに急な話になるんだ? それにマクラリ卿はどこにいる?」
「その点について、まさに今、イドル妃に御説明をしていました」
「城内にいるはずなのに、なぜ俺はマクラリに会えなくなっているんだ。どうして邪魔をする、だれか説明しろ」
「そちらには私どもは関知しておりません。リートム宮廷の方々にお尋ねください。
 我々は今、御二人の婚姻の宣誓の為に集まっております。このように唐突かつ性急になったのは、コノ王陛下が愛される姫君の為にと縁起を担がれた結果です。深い愛情の結果です」
「深い愛情とはね。あの冷徹そのもののコノ王が」
「冷徹そのもののコノ王だからこその、愛情です。貴方様がご存じないだけです」
 皮肉返しで、使者の言葉は終わった。代わり、顧問官が続ける。
「ショーティアのディエジ殿。今宵、教会法に則り、イドル様との婚姻の宣誓をなさることに支障はありますか?」
「ある訳無いわ、そうよね、ディエジ。早く婚姻を固めて」
 ディエジの顔は固い。
 今の状況に納得がいかない。なにかがおかしい。マクラリが登城しているはずなのに、なぜか会えない。誰かが邪魔しているのか? それにこの唐突な展開。この場にいる多数のマナーハン人。なぜ?
 嫌な予感を覚える。だが、それを気にしていては前へ進めないことも判っている。だから、
(予感など糞くらえ、俺はリートムを手にしなければならない!)
 ディエジは、自分を見つめ続けている眼の方へとすすんだ。トビ色の眼のイドルの真ん前まで進み、真っ向から見据えた。
「貴方は良いのか?」
「構わないわ」
「本当に?」
「本当に」
「……」
 なぜだ? あんなに怒っていたのに、なぜだ?
 ディエジが無意識に唾を飲んだ。喉が僅かに動いてしまった。
(糞くらえっ)
 間違いなく自分は今、緊張している。そしておそらく緊張を見抜かれている。このトビ色の眼に。
 すでに奥では、二人の助祭が木彫りのある祭壇を整えている。その上に聖典を、さらに象牙色の羊皮紙、それに黒い羽根筆を並べている。
 香炉に香が焚かれ始めた。マナーハンから届けられた高価な香が、乾いた匂いで室内を清めてゆく。祭壇の後方で腰かけていた老司祭が、ようやく腰を上げた。疲れた態で祭壇の許に立ち、聖典に右手を当てた。
 室内にいる者が順に、その前に進み出てゆく時が来た。聖別を受けてゆく。
 着実に進んでゆく。リートムは、イドルとディエジは、次の段階へと進んでゆく。長らくのリートムの混乱を収拾するべく、最終の段階へと進んでゆく。
「本当に、俺との結婚に納得しているのか?」
 最後の瞬間、ディエジはもう一度、イドルを見た。
「それが貴方の本心なのか?」
「本心よ」
「――」
「私はマナーハンの王女よ。マナーハンに良いと思われることをするわ。それだけじゃない。さらに私はアーサフ様の妻だから」
「――」
「妻だから。だからアーサフ様が命懸けで守ろうとしたリートムは、私が引き継ぐの。他人には譲りたくない。それだけ」
「――」
 彼女は全く自分と同じことを考えている訳だ、神よ、
「渡さないから」
「――」
「私がリートムを護るの。貴方の勝手にはさせない。その為なら、マナーハンの父上の力だって利用する。でも父上の好きにもさせない。リートムは貴方の物でも父上の物でもなく、私とアーサフ様のものよ」
 ディエジを真っ直ぐと見ていた。
 同じことを考えている。アーサフの事を。アーサフの国の事を。
 さあ。どうなるのだろう。自分と彼女は。
「マナーハンのイドル。ショーティアのディエジ」
 司祭の呼びかけに従い、両者は顔を上げた。
 無言のまま揃って祭壇へと進み出る。身を屈めて神への信仰を示し、まずは司祭から聖別を受ける。そして、
「立ち上がり、聖典に右手を差し出しなさい」
 その通り、同時に聖典の黒い革表紙に触れる。
「至高の存在である神およびその聖典の許、教会法に則りこの男女を神の定められた夫婦として結び付ける。神が両者に祝福を賜りますように」
 司祭は、聖典の上の両者の手をとり、重ね合わせたのであった。
これに続き、二人は祭壇の上の羊皮紙、すなわち婚姻の契約書に名を綴った。まずはリートムの王妃イドル、そしてショーティアのガルドフ家のディエジの順番で。
 二人の婚姻は、呼吸数十回の時間の中で成立した。
 ガルドフ王城の、小狭い礼拝室の中であった。月と星の無い、厚く雲の垂れた夜の中であった。

・           ・          ・

 月の無い夜の中、アーサフは静かに呼吸をしていた
 この夜、モリットから手紙を受け取った後、彼は速やかにカニサ聖堂を出た。そのまま街の大聖堂である聖リート教会前の広場まで移動をした。
 ここにはすでに、多くの人々が野宿をしていた。賑わいを見せる商取引の為にやってきた行商人……、近づいてきた祝典見物を目当てにやって来た者……、
 そして、何人かの巡礼達もいた。帰れる保証のない聖地への旅立ちの最後の夜を送るべく、巡礼の守護者・聖リートの聖堂の前で過ごす信仰者だった。これらの様々な人々が寝転ぶ狭間に、アーサフもまた身を横たえていた。眠れぬ夜を過ごしていた。
 見上げる視界には、何も無い空が広がっている。
 たった一本だけ灯された松明の光の中、大聖堂の正面の壁の輪郭が浮かび上がっていた。その壁に彫られた、素朴な聖者の像が映し出していた。聖地への困難な旅へと向かおうとする若者に、守護聖人・リートが巡礼の杖を手渡す姿、その姿を、音のしない静けさの中でアーサフは見ていた。
 その時にガルドフ城内で何が起こっていたのかを、アーサフは知らない。今は、唐突のモリットとの遭遇という事態に、その対処に思考を奪われている。今夜は眠れないだろうという自覚をしている。
思考と感情の中、どれ程に打ち消そうとしてと、様々な姿が心象となり、とめどなく浮かび上がり、そして消えてゆく。
 時間を遡り、浮かんでは、消えてゆく。
 ――リアの冷えた眼――凄まじい飢餓感とカビの臭い――霧の中の彷徨――死ぬカジョウ・泣くイドル・完膚なきまで敗北感――そして、モリット。
 真正面から会うだろう。モリットに。おそらく四日後には。
 そしてイドルに、ディエジに会うのだろう。四日後に。確実に。
 四日後に、皆が再会するのだろうか。
 その時に何が起こるのだろうか。自分の行うことは、正当なのだろうか。自分の行ってきたことは、神の前に評価を得るのだろうか。
 四日後に、全ては判るのだろうか。
 四日後に、全てが決するのだろうか。
 ……聖リートは穏やかな眼で、巡礼を見守っている。宿願成就のため、魂の浄化のため、困難極まる過酷な旅路を行く巡礼者を、無言の慈悲で見つめている。
 月の無い、夜のしじまの中だった。
 時間は終わりなく進んでいた。
 アーサフは、終わりのない記憶の心象を見続けていた。


【最終章へ続く】
        
 
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