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あなたはここにいる《前》6
しおりを挟む久しぶりに、恐ろしく嫌な夢を見た。
上半分は黒く下半分は白く、天と地の境界線はほの白く発光している。足の下には分厚いガラスがあった。ガラスは大地のようにどこまでも広がり、強く踏んでも割れないと確信出来るほど厚く固い。ガラスの向こうというか下には闇が海のようにあるのが見えた。
あれが『無』か。無でも集まると暗闇を成すものらしい。いや、光を失っているから暗いのか。ガラスは透明のはずだが、あまりの厚さのため乳白色を帯びていた。
こちらが『有』であちらが『無』なら、中間にあるこのガラスは『死』か。俺があちらに行くと『無』になるのなら、この壁は死という他はない。しかし死の壁は厚く、間違っても無に落ちていくことはなさそうだった。
視界の端に自分以外の人間の形があるのを発見した。誰かが横たわっている。慎重に近付くと、長い髪と小さな体をした俺のよく知る彼女だった。ガーゼみたいに粗末な布を何枚も重ねて作ったような変わった服で身を包んでいる。
しかしその体はガラスに沈みつつあった。水に似ているが水より粘性のあるものが衣服や髪の隙間にじわじわ入り込んでいく。俺は手をのばして体を揺さぶり、名前を呼んだ。
そうしているあいだも液体のガラスがゆっくりと彼女をのみ込んでいく。すくい上げようと胴の下に手を差し入れようとしたが、やわらかく彼女の体を包んでいるはずのガラスは俺の手を何としても拒んだ。
一刻の猶予もない。とにかく体を引き上げなければ。しかしガラスに指は入っていかず、そうしているあいだも異様な力で静かに沈み続ける。大声で名前を呼んでも反応しない。その表情は安らかで、眠っているようだった。
やがて顔から胴からすっかり浸かり、両手首の先だけがこちらに出ている格好になった。その手をつかみ必死に引き寄せるが、冷たい手は俺の手からすべるように逃れ、ガラスの中へと消えていった。
厚い層を時間をかけてゆっくりと通り抜けていく。
このままだと突き抜けた先にある『無』へ落ちてしまう。
不意に昔彼女が言っていたことを思い出した。
『わたし、鉄哉がいつか死んだら、そのあと鉄哉のこと忘れて生きるから。新しい人生を目いっぱい楽しむから』
「ああ、そう?」
『嫌?』
「いいよ、もちろん。俺が死んだあとのほうが長いしな」
『だからもし逆になったら、鉄哉もそうしてね』
「逆はないだろ」
『もしって言ってるでしょ。もしもの話だよ。だからもしそうなったら、鉄哉も同じようにしてね』
「はいはい。でも俺は先に死んでも化けて出て、一生つきまとうけどね」
『わたしはつきまとわないよ。だいたい死んでるのに、一生っておかしくない?』
「おかしくないだろ、幽霊の人生もあるだろうよ。エミちゃんの目ざわりにならないようにひっそりつきまとうよ」
『わたし、鉄哉のこと全部忘れるから、鉄哉もわたしのことちゃんと忘れて』
「そっちが俺より先に死んだらね」
『去年もこんな話したの、覚えてる?』
「覚えてるよ」
『わたしが言ったことちゃんと覚えてたんだ。えらいじゃん』
彼女は笑っていたし、俺もその話を笑って聞いていた。自分が先に死ぬことはあっても、彼女が先に死ぬことはあり得なかったからだ。だからその言葉は自分は自分で好きにやりたいという意志表明か、いつか俺が死んでも平気だとそれとなく伝えているのだろうと勝手に解釈していた。
そうじゃなかった。
その言葉は、全部俺のためのものだった。
何もかも俺のためだった。
この日がいつか来ると知っていたのだ。知っていて、でも言えなかったから、ああいう形で言葉を残すしかなかった。
それを今になって知るのか。
どんな気持ちで残りの時間を過ごしていたのだろう。
俺は喉から血が出るほど叫び、ガラスを叩いた。目の前が赤く濁ったのは、拳から出ている血のせいだった。血の溜まりを叩いて何度も吠えたが、やがて姿は見えなくなった。
死よりも深い無の海へ、二度と手の届かないところへ今度こそ行ってしまった。
もう二度と形を取ることはなく、もう二度と誰とも何とも縁を結ぶことはない。無の中に溶け込み、量としては存在しても、その分子が再び結び合わされることは永遠にない。魂は砕かれて消滅する。
それが無ということだ。
無の棺へ入れたのは俺だ。
彼女にこの道を選ばせた自分が憎かった。
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