上 下
72 / 85

あなたはここにいる《前》5

しおりを挟む

 鞍橋から新幹線で戻り、地元の駅に着いた。移動中ずっとビールを飲んでいたので、酔ったやら疲れたやら眠いやらで手足が重い。――いつからか時間があると飲酒する習慣がついてしまい、自分でもよくないなと思いつつも飲んでしまう。決してうまいとか楽しいとか思っているわけじゃないのが余計悪い。
 などと反省しつつ駅の売店でまたビールを買ってしまった。もうここまで飲んだら多少控えたって意味はないだろう。荷物片手に歩きながら飲むとこぼれるし、さすがに日のあるうちにこれでは人生終わった感がすごいので、近くの公園で休憩を兼ねて飲むことにした。今年もいったい何本の缶を開けることやら。
 広い公園ではないが、凧揚げに励むチビ二人がいた。見るからに不格好な手作り凧だ。ヒモが短いので間違っても電線に引っ掛かることはない。一人が凧を持ち、一人が紐を引っぱって一緒に走り回っている。何度も挑戦していたが、形が悪いので手を離したとたん凧は失速して回転しながら地面に激突した。
 二人とも幼稚園かそのぐらいの年頃か。一人は男で、一人は女だった。空は灰色に沈み、凍えるような風が吹いているが、遊びに夢中で寒さなんて気にならないのだろう。やがて二人は凧をあきらめ、ブランコへ走っていって歓声を上げながら競って漕ぎだした。不意に過去の記憶が激しい痛みのように俺の脳裏に甦ってきた。


 あのブランコを漕ぎながら、甘いものがいいと言ってたっけ。
 きれいな缶に入ってるのがいいと言ってたっけ。
 俺に背中を押されながら、楽しそうにしていた。
 背中を押すたび、長い髪が手に触れて揺れた。

 一年に一度くらい、ひどい涙の発作に襲われる。若干元気を取り戻していたのだろう。少し回復したと思ったら、泣くことでその気力を使い果たしてしまう。
 久しぶりに体が震えるほど泣いた。自分の人生の光のすべてが、過去にあったような気がしてならなかった。
 俺はもう前を向けなくなっているのかもしれない。あと何年この辛抱が続くのか。あと何十年耐えていればこの人生は終わるのだろう。
 あの頃のことを思い出すといつも心が沈む。この十四年、何度もこの辛さを味わった。記憶の断片はガラスのような鋭さを持っていて、俺にとっては玄隈で見る不吉で不快な映像より強烈に自分を傷つけるものだった。
 砂を踏む音がしたので顔を上げると、さっきの子供らが心配そうに俺に近寄ってきていた。大人が泣くところを初めて見たという目だ。すみやかに泣きやみ、「ほら、もう泣きやんだ。大人だからな」と言って飲酒を再開すると、安心したように遊びの中へ戻っていった。
 この街に住み続けているのも気持ちが沈む原因かもしれない。何せあちこちに地雷のように思い出がひそんでいる、地雷を踏んでも爆発させないように自分を抑圧し続けるのはわりにしんどかった。
 遠い街に引っ越して気分を一新するのがベストかもしれない。でも父が今の状態ではそれも出来ないだろう。何にしてもしばらくは我慢する必要があった。



 当時の俺を最も打ちのめしたのは、彼女が消えたことを察知出来なかったことだ。彼女が手綱を切ろうとしたときはわかったのに、失踪したときは微塵も異変を感じなかった。
 何度も電話したが、出ないのは腹を立てているせいだと思っていた。そのときはもうすでにいなくなっていたのだろう。両親も気がついてなかった。そんな事実はないのに、自分たちは毎日電話なり何なりで接触していた気になっていたのだ。
 失踪を知って頭の中でこの世の隅々まで探索したが、どこにもいなかった。完全に気配がなかった。痕跡すらなかった。近しい者のことはわからないとはいえ、いくらなんでも生きているかどうかぐらい感知出来る。居所どころか生死もわからないなんて初めてだった。
 わからないということはどうしようも出来ないということだ。初めて事態が手の施しようのない段階に入っているのだと実感し、衝撃でその場に崩れ落ちた。



 中に住んで物を整頓し床や壁を清掃し、たえず空気をかき回してくれる存在を失ったせいで、彼女の家はみるみる劣化し、通行人にケガを負わせる危険が出てきたので家主が取り壊した。ずっと更地だったが去年隣の空き地と合わせて新しい家が建った。もう昔の面影はどこにもない。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

婚約をなかったことにしてみたら…

宵闇 月
恋愛
忘れ物を取りに音楽室に行くと婚約者とその義妹が睦み合ってました。 この婚約をなかったことにしてみましょう。 ※ 更新はかなりゆっくりです。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

処理中です...